第二章 - 犬猿の宣誓(B-5)
「まさか、あんたまでコートについてくるなんて……」
あたしは嬉しそうな顔で隣を歩く真尋を見上げ、大きく息をつく。
最近、溜息をついてばかりな気がする。
1回ごとに幸せが逃げるなんて迷信があるけれど、だとすれば今ごろあたしは絶望のどん底だと思う。
「それは仕方ないだろう。用事があるんだよ」
「なによ用事って。あたしのストーキング?」
「ちが……ッ! なんてこと言うんだぁ……」
ほころんだ表情から一転、沈んだ顔を見せる真尋。あたしはその姿を見て口元を緩めた。
「あんた、なにも変わってないわね。身体は大きいのに気は小さいまま。少し安心したわ」
「……たった数ヶ月で人間性は変わらないと思う」
「そうかもね」
人間性は変わらない。
変わるのはいつだって、自らを取り巻く環境のほう。
「優姫。きみがテニス部を辞めた理由、私はまだ聞いてないぞ?」
「……いろいろあったのよ」
宙を見上げて思案に没頭する。
居場所を失った――部活を辞めたのは、あたし自身の信念を貫き通すことが適わないと知ったから。
孤高であろうと思っていた。
けれどそれは適わなかった。
「……教えてくれないか?」
「聞かないほうがいいと思うわ。あまり面白い話じゃないし」
「それでも、知りたい」
「余計なことをしないと誓うなら、話して聞かせるわよ」
いつになく強引な真尋。そういえば退部した直後、どういった経路でそれを知ったのか、この女は鬼のようにメッセージを送ってきてたっけ。スマホが通知で熱くなるくらいに。
さすがに答えないといけないか。
「簡潔に言うと、嫌がらせを受けたわけ」
「……いじめに遭ったのか?」
「……………………」
沈黙は肯定であると知りながらも、無言にならずにはいられなかった。
あの行為がいじめであると認識しないようにしていたから。
「……もともと予兆はあったのよ。表面化していなかっただけで。顧問も厳しかったし、結果を出しているあたしは目をかけられていたから……でも、その顧問が定年退職して、繰り上がりで副顧問がそのまま上についてから、部の情勢が変わったのよね」
前任の顧問は、毅然とした態度を持ち、けっして不正を見過ごさなかった。
対して新しい顧問は新卒2年目の若手教師。
生徒への接し方に不慣れなところもあったけれど……それ以上に。
「ほら、うちの学校、知ってるでしょう? 親が資産家だったり、有力者の娘だったり。そんな生徒たちが問題を起こしたとしても……教師としては対応しづらいわよね」
「だから、いじめに見て見ぬふりをすると……?」
そこまでおぞましいものではなかったと思う。
せいぜいユニフォームを汚されたり、悪くても部室に閉じ込められたり、その程度。
でも、ラケットを隠されたとき――気持ちがプツッと切れてしまった。
テニスはボールを打つ競技だ。
一度サーブが放たれれば、そこから触れることはできない。
いわばラケットはあたしたちの手足なのだ。
だからこそ愛着が湧くし、各々のプレースタイルに合った最適な一本を求める。
選手という立場に身を置いていれば、その重みが必ずわかるはず。
それをないがしろにするような人間は、選手としての矜持が欠落している。
だからあたしは自ら部を退いた。
誇りを持たない人間はノイズになるから。
そこまで聞かせたところで――隣に並び歩いていた影が、フッと視界から消える。
「許せない……!」
振り返ると……真尋は歩道に直立し、握りしめた拳を震わせていた。
先ほどまでの彼女とはまったく異なる、ドス黒い感情を覗かせる。
真尋は感情が高ぶるとこうなるのだ。
試合中、極限に集中したときや、礼を失した相手に挑発されたりしたときなんかは特にそう。
鬼のような。
「だから言わなかったのよ。あんたそういうの嫌いでしょ」
俯く真尋に、あたしは努めて明るい口調で語りかける。
「退部するときに、さっきあんたに話したこと全部ぶちまけたから気は済んでるのよ。あいつらの悔しそうな顔とか、顧問の痛々しい表情とか、思い出したら胸がスッとするわ」
本当はもっと強い猛毒を吐いて部を去ったのだけれど、それはまあいいでしょう。
「優姫。きみが望むなら、うちに転校して女子テニス部に入るという手も――」
「……それはむり」
「どうして?」
「……あんたのとこ、進学校だし」
「えっ!? 優姫、勉強できないのか? テニスはあんなにクレバーなのに!?」
「……………」
うるさいわね、こいつ……。
「……数学にストロークの入射角の問題が出なかったり、国語にラリー中の心理描写の問題が出なかったり、高校教育はあたしにとって優しくないのよ……」
「なんてこった、思ったより重症だった……」
「自分でも理解してるわよ……」
私生活をないがしろにしてテニスに打ち込むのは許すから、お願いだから聖峰女学院に入ってくれ――と半泣きで頼み込んできた父親の顔が脳裏に一瞬ちらついた。
「とりあえず高校は出てくれ、って親に言われているから、どこかのテニスクラブに入って、卒業後にコーチをしながら協会にプロ登録しようかなって。うちには内部進学制度があるし、女子大生しながらテニスを続けてもいいかもしれない。そんな感じで、この先のことはそれなりに考えているし、テニスを辞めるつもりもないから、過ぎた心配は無用よ」
「大学に入るのってゴールじゃなくてスタートだからね? どっちにしろ勉強しないと……」
「進学校の生徒みたいなこと言わないでくれる?」
「進学校の生徒だよ! さっき優姫が自分で言ってたじゃないか!」
「……くくっ! あんたと話してると飽きないわね。ちょっと救われるわ」
「からかうなよぉ」
わたわたと手を振る真尋からは、先ほどの黒い感情は窺えない。
どうやら話題の転換に成功したらしい。
面倒なことにならなくてよかった……と内心ホッとしたところで、目的地であるスポーツセンターに到着する。
「で? あんたの用事ってなによ」
「ああ、スポーツセンターで真澄と待ち合わせしてるんだよ」
「――そう、なんだ」
端的な会話で意図は伝わった。
真尋の所用にあたしの存在は不要だ。
というか――関わりたくない。
嫌な想像が具現化してしまいそうだったから。
「……あれ、おかしいな。中で合流するって話だったのに」
スポーツセンターの談話室を覗き込みながら、真尋が首を傾げる。
申渡の言によれば、今ごろ壁打ち場で打ち込みをしているはずだ。
硬球に慣れておかなきゃ、とかなんとか言ってたし。
そそくさとエントランスを後にしようとしたところで――。
「おい狗上、遅えじゃねーか。そんなに時間かかるなんて聞いてねえぞ」
背後からよく通る声を受け、振り返ったところで。
あたしは硬直した。
どうして、鬼頭真澄が申渡と一緒に居るのよ……ッ!?




