第一章 - 犬猿の邂逅(A-5)
あっ、と。
申し訳なさからそう口にしかけたけれど、なんとか噤む。
「もともと、地元からこっちに出てきた理由もそんな感じなんだ。親父が知らん間に借金抱えててさ。それが発覚したタイミングで、お袋が婚前財産? っていうの抱えて離婚してくれたんだけど……それも、今のマンションを借りたりとか、引っ越しとかで消えてさ。俺がこうしてソフトテニスのコーチやってるのも実益があるからなんだ。空き時間にテニスの練習できるし、バイト代はそこそこいい。第三高校にはテニス部がないけど、公立校だからなんとか俺の稼ぎで通える。でも――それだけじゃ満足できない。俺は大学に行きたい」
「……知ってる? プロって、中卒とか、高卒で業界入りするのがほとんどなのよ」
それは、あたしが抱いた2つ目の疑問。
ちいさな頃からテニスとともに生きている人にとって、進学という選択肢はそもそも存在しない。もちろん、大学を卒業してプロ入りする選手だって一定数存在するけれど、テニスに触れる時間が多いのは、圧倒的に前者だ。
「ほら……そのとき俺はソフトテニスやってて、軟式にはプロがいなかったからさ。高校に入ってテニス続ける以外の考えがなかったんだよ。正直、親が離婚するまで、俺はずっとソフトテニス続けていくんだろうなー、って漠然と考えてたくらいだ」
それに、と申渡は続ける。
「ちっちゃい頃からテニス漬けの人間はさ、それを支える環境があってはじめて生まれるもんだと思うんだ。スクール通ったり、トレーナー雇ったり、同じ境遇の練習相手が居たり……テニスするために必要なすべてを揃えられる状態。俺はそれを持ってない。――でも、大学に行けば、少なくとも『環境』は手に入る。で、テニス続けて、最終的にはプロを目指す。まあ、お袋を安心させるために進学したいって気持ちも、少しだけ持ってるんだけどな」
その境遇を耳にした時、あたしの胸を襲ったのは悔悟の念だった。
万人に、当たり前のように与えられている――と思っていたもの。
けれど、それを持たざる者の存在を、あたしは失念していたのだ。
「正直――遅すぎると思う。だいたい、プロになりたいなら、どうしてソフトテニスを続けていたのよ。もっと早く転向していれば、あの、その…………っ」
先ほどの試合が脳内にぶり返してきて、しどろもどろになる。負けた悔しさと、相手が抱えていたバックボーンの大きさに板挟みになって、舌がもつれてしまう。
そんなあたしの言葉を察したのか、男の子は軽い口調で。
「いやー、ぶっちゃけるとな。プロになる気なんてなかった。漠然と続けていきたいなーって思ってただけで。普通に社会人しながら、休日は大会に参加したり。そんな感じでさ」
「…………それは、逆にプロに失礼だと思う」
あの人たちは、私生活のすべてを捧げて競技人生を送っているんだから。
「ああ。それは否定しない。でも、地元を離れたときに思ったんだ――」
申渡は目を閉じて、胸に手を当てて……穏やかな声で、こう言った。
「――テニスを失いかけて、はじめて気づいた。本当にこのスポーツが好きなんだって」
そうか――この男は、あたしとおんなじなんだ。
テニスを続ける道が断たれて、はじめて自分がどれだけテニスにのめり込んでいたか、テニスを愛していたかに気づいたんだ。
あたしだってそうだ。部活を追われて、自主的に退部することになって、それでもなお本能が執着を制しきれず、気づけばテニスコートに足が向いていた。
「生きるためには金がいる。社会が決めた不可侵の掟だ。でも、それをテニスが解消してくれるなら……俺はずっと、そこに寄り添っていたい。テニスで大学に入る。試合で金を貰う。原点はみんな同じなんだ――俺は、テニスを続けて生きたい」
あたしは。
狗上優姫は――どうするべきだろう。
こいつと組むメリットなんて、どこにも無いと思っていた。
しかし知ってしまった。
申渡悠希という人間が、どんな想いで硬式へと転向し。
どんな信念を抱えて、大会に挑もうとしているのかを。
もしも。
もしもの話だ。
彼とペアを組んで、彼の生きる力に触れたならば。
あたしの生き辛さは、少しでも軽くなるだろうか?
狗上優姫という人間も、少しは変われるだろうか?
【第一章:犬猿の邂逅<完>】




