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第三章 優しさという名の物差し

1

 森下葵が僕のチームに戻ってきてから、一か月が過ぎた。仕事ぶりは以前と変わらなかった。むしろ、以前より丁寧になったと言ってもいい。提出する資料にはほとんど間違いがなく、依頼した仕事は必ず期限までに仕上げてくる。数字の食い違いにもよく気づくし、わからないことがあれば、きちんと確認する。

 ただ、一つだけ気になることがあった。何を頼んでも、葵は「はい」と答えるのだ。

 以前から口数の多い方ではなかったが、それでも時には「こうした方がいいでしょうか」とか、「少し気になるところがあるんですけど」と言ってくることがあった。 今は、それがほとんどない。

「森下さん、これお願いできる?」

「はい」

「急がなくていいからね」

「はい」

「何か困ったことがあったら、遠慮なく言って」

「はい」

 会話はいつも、それで終わった。僕は彼女の負担にならないよう、できるだけ仕事を選んで渡していた。納期に余裕があるもの、作業手順が明確なもの、途中で急な判断を求められないもの……。以前、翔太のチームで苦労したのだから、しばらくは安心して働ける環境が必要だろう。そう思っていた。


 ところが、ある日の午後、葵が担当していた資料を確認していると、見覚えのないページが挟まっていた。

 各物流センターのデータ登録状況を比較した一覧表だった。拠点名、登録時刻、変更回数、取消件数。その横に、小さな文字で注釈が書き込まれている。

『北陸第二・東北第三・信越第一の三拠点で、積込完了後の変更処理が多い』

 僕は葵を呼んだ。

「森下さん、これ、何?」

 葵は資料を見て、少し表情を硬くした。

「すみません。前に調べていたデータを、少しだけ整理してみました」

「そうなんだ」

「本来の作業とは別なんですけど、気になっていたので」

 僕は一覧表に目を落とした。確かに、三つの拠点だけ数値の傾向が違う。

「よく調べたね」

「いえ……」

「でも、今はそこまで頑張らなくていいよ」

 葵は顔を上げた。

「え?」

「まだ復帰して間もないんだし、まずは今の仕事に慣れることを優先しよう。こういう調査は、余裕ができてからでいいから」

「……はい」

 葵は小さく頷いた。その顔に浮かんだものが、失望だったのか、安堵だったのか、僕にはわからなかった。僕は資料を返した。

「せっかく調べてくれたのに、ごめんね」

「いえ。大丈夫です」

 葵はそう言って、席に戻っていった。僕はしばらく、その後ろ姿を見ていた。何となく気になったが、仕事は山ほど残っていた。僕はパソコンに向き直った。


2

 その週の金曜日、取引先との定例会議があった。全国物流システムの導入は、予定よりやや遅れていた。大きな障害が発生しているわけではない。ただ、古い拠点ほど現場の作業手順が統一されておらず、新しいシステムへの切り替えに時間がかかっていた。

 先方の担当課長は、進捗表を見ながら言った。

「北陸地区の現場から、少し不満が出ていましてね」

「どのようなことでしょうか」

 僕が尋ねると、課長は手元のメモを見た。

「端末の位置が悪いとか、登録の手順が面倒だとか。まあ、現場には現場の言い分があるんでしょうけど」

 翔太が口を開いた。

「端末の配置については、事前に確認しています。操作手順も研修で説明済みです」

「ええ。それは承知しています、ただ、積込完了の登録は、実際の積み込みが終わってから行っていただかないと困ります。そこは統一してもらわないと……」

 課長は困ったように笑った。

「現場にも、もう一度伝えておきます」

 僕は二人のやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。端末の位置。登録の手順。葵が調べていたデータと、何か関係があるのだろうか。

 しかし、会議ではほかにも確認すべき事項が多かった。僕はその疑問を、ひとまず頭の隅に置いた。会議後、翔太と廊下で一緒になった。

「北陸、まだ苦労してるみたいだね」

「ああ。古いセンターは設備が違うからな」

「端末の位置、変えられないのかな」

「簡単にはいかないよ。電源も通信配線もあるし、工事するなら先方の予算も必要だし」

「そうか」

「それに、北陸の導入をこれ以上遅らせるわけにもいかないんだよ。もう何度か予定を延ばしてるからな」

「でも、現場から不満が出てるんだろ」

「不満はどこだって出るさ。全部解消してから導入するなんて、現実には無理だよ」

 翔太はそう言ってから、僕を見た。

「お前の方で、設備改修の話、先方にできそう?」

「できなくはないけど、今から追加予算を取るのは難しいと思う」

「だろうな」翔太は小さく息を吐いた。

「まあ、現場にはもう一回、手順を徹底してもらうわ」

僕は頷いた。


3

 月曜日の朝、葵が僕の席に来た。

「あの、長谷川さん」

「どうした?」

「少し、お話ししたいことがあるんですけど」

 僕は時計を見た。午前十時を少し過ぎたところだった。

「今でもいい?」

「はい」

 僕たちは小さな打ち合わせスペースに移動した。葵は椅子に座ると、しばらく黙っていた。

「何かあった?」

 僕が尋ねると、葵はゆっくり顔を上げた。

「今の仕事のことなんです」

「うん」

「復帰して、だいぶ状態も良くなってきました。それで……もう少し、違う仕事もやってみたいんです」

 僕は少し驚いた。

「違う仕事?」

「はい。会議に出たり、現場の人と話したり……そういうことも」

 僕は考えた。葵が翔太のチームで苦労したのは、まさにそういう仕事だった。今は、ようやく落ち着いて働けるようになったところだ。

「焦らなくていいんだよ」

 僕は言った。

「森下さんは、今の仕事を十分にやってくれてるし……」

「はい」

「得意なことを生かすのも、大事なことだから」

 葵は黙った。

「無理して苦手なことをやる必要はないと思うよ」

 そう言ったとき、葵が少し顔を上げた。

「長谷川さん」

「うん?」

「私、苦手なことを、ずっと苦手なままにしておきたくないんです」

 僕は言葉に詰まった。

「それはわかるけど……」

「佐伯さんのチームに行ったときも、そう思っていました」

「うん」

「でも、できませんでした」葵は膝の上で手を握った。「電話も、会議も、判断することも。最初は少しずつできるようになっている気がしたんです。でも、だんだん、何をしても間違っているような気がしてきて……」

 僕は黙って聞いていた。

「佐伯さんに何か言われる前から、頭の中で声が聞こえるんです。フツー、これくらいできるだろって」

 葵は小さく笑った。

「そうすると、余計にできなくなって」

 僕は胸が痛んだ。

「つらかったね」

 葵は頷いた。

「はい。つらかったです」

 しばらく沈黙が続いた。

 僕は言った。

「だから、今は無理しなくていいんだよ」

 葵は顔を上げた。その目に、何か強いものが浮かんだ。

「でも、私……」

 言いかけて、口を閉じた。僕は待った。葵は一度、深く息を吸った。

「長谷川さんは、最初から私には無理だと思っていたんですよね?」

 僕は驚いた。

「え?」

「佐伯さんのチームに行くって言ったとき、心配してくれましたよね?」

「それは、もちろん」

「心配してくださったのは、嬉しかったです。でも、それって……私には難しいと思ったから、ですよね」

「いや、そういうわけじゃ……」

 僕は言葉を探した。葵は静かに続けた。

「佐伯さんは、私ならできると思っていたんです。長谷川さんは、私にはできないと思っていた」

せっかく心配してやったのに……翔太のほうがよかったとでも言うのか。そんな考えが一瞬頭をよぎった。自分でも意外だった。僕は何も言えなかった。

「どちらも、私に聞いたわけじゃないですよね」

いったい、どうすればよかったというんだ?そう思ったが、その言葉は、思っていたよりも深く胸に刺さった。


4

 葵は俯いていた。怒っているようには見えなかった。むしろ、自分が言ってしまったことを後悔しているようにも見えた。

「すみません」葵が言った。「こんなこと、言うつもりじゃなかったんです」

「いや……」僕は首を振った。「言いたいことは、なんとなくわかるよ」

 そう答えたものの、本当にわかっているのか、自信はなかった。

「でもね、森下さん」

「はい」

「僕だって、君に仕事を任せたくないわけじゃないんだ。ただ、また無理をして、体調を崩すようなことになったら……」

「はい。それは、わかっています」葵はすぐに答えた。

「長谷川さんが心配してくださっていることは、本当にありがたいと思っています」

「だったら……」僕はそこで言葉を止めた。だったら、何だというのだろう。

 心配しているのだから、僕の判断に従ってほしいということか。

「私も、またあんなふうになるのは怖いです」葵が言った。「正直、今でも、会議で何か聞かれると緊張します。電話だって、できれば誰かに代わってほしいと思うことがあります」

「うん」

「でも、このまま、ずっとそういう仕事を避けていたら、たぶん、もっと怖くなる気がするんです」

 僕は黙っていた。

「だから、少しずつでも、やってみたいんです」

「気持ちはわかるけど……」また同じ言葉が出た。

 葵は僕を見た。

「長谷川さんは、どうしたらいいと思いますか」

 思いがけない質問だった。

「僕?……やっぱり、無理のない範囲で、少しずつ慣れていくことかな」

「そうですよね」葵は頷いた。「私も、そう思います」

「でも、その『無理のない範囲』って、誰が決めるんでしょうか」

 僕は答えに詰まった。

「……それは……一緒に考えるべきなんだろうね」

 葵は小さく頷いた。「はい」

 しばらく沈黙が続いた。

「それで、森下さんは、具体的に何をやってみたいの?」

 僕が尋ねると、葵は少し表情を明るくした。

「前に調べていた、北陸のデータなんですけど」

「ああ、あれね」

「もう少し調べてみたいんです。それから、できれば、現場の方にも話を聞いてみたくて」

 僕は思わず眉を寄せた。現場への聞き取りは、資料を整理するのとは違う。相手の都合もあるし、予想外の質問をされることもある。翔太のチームで苦労した仕事に、また自分から飛び込もうとしている。

「それは、ちょっと……」

 葵の表情が曇った。僕は慌てて言い直した。

「いや、ダメだと言ってるわけじゃないよ。ただ、いきなり現場の人と話すのは大変だろうから」

「はい」

「まずは、データをもう少し整理してみようか。その結果を見て、必要なら聞き取りも考えよう」

 葵は少し考えてから頷いた。

「わかりました」

 その返事に、僕はほっとした。これなら無理はないだろう。面談を終え、葵が部屋を出ていった後、僕はしばらく椅子に座っていた。

 結局、何がいけなかったのだろう。本人の希望を聞くことが大切なのはわかる。しかし、希望する仕事を何でも任せればいいというものではない。

ただ、葵が最後に見せた、あの少し曇った表情が気になった。彼女は何に納得し、何を諦めたのだろう。僕はそれを、聞かなかった。


5

その日の午後、僕は葵が作成した一覧表を改めて見直した。北陸第二、東北第三、信越第一。三つの拠点では、積込完了の登録後に、配送対象の変更や取り消しが多く発生していた。さらに、登録時刻が実際のトラックの出発よりかなり早い。僕は葵を呼んだ。

「森下さん、ちょっといい?」

「はい」

「このデータなんだけど、どういうことだと思う?」

 葵は資料を覗き込んだ。

「まだ、はっきりとはわからないんですけど……積み込みが終わる前に、完了の登録をしているんじゃないかと思って」

「えぇっ?それは手順違反だよね」

「はい」

「だったら、現場に手順を守ってもらえば……」

 そこまで言って、僕は口を閉じた。葵は何も言わず、僕の次の言葉を待っていた。

「……そう簡単な話じゃないのかな」

 葵は少し考えた。

「ルールを知らないわけじゃないと思うんです、研修も受けているはずですし、手順書も配られています。それなのに、同じようなことが何度も起きているので……」

「うん」

「ルール通りにできない理由が、何かあるんじゃないでしょうか」

 僕は資料に目を落とした。先週の会議を思い出した。端末の位置が悪い、登録の手順が面倒だ……現場から、そんな声が出ているという話だった。

 確かに、葵の言うとおりかもしれない。しかし、それを確かめるには、現場の人に話を聞く必要がある。僕は午前中の面談を思い出した。葵は、その仕事をやりたいと言っていた。僕は、いきなり現場の人と話すのは大変だろうと考え、まずデータを整理するように伝えた。今、目の前には、その整理されたデータがある。

「午前中、現場の人に話を聞きたいって言ってたよね」

「はい」

「このことを確かめたかったの?」

 葵は頷いた。

「それもあります。ほかにも、聞いてみたいことがあって」

「例えば?」

「端末がどこに置いてあるのかとか、誰が登録しているのかとか。あと、忙しい時間帯には、どういう順番で作業しているのかとか……」

 葵は手元のメモを開いた。そこには、聞いてみたいことが箇条書きにされていた。僕は少し驚いた。

「もう、質問を考えてたんだ」

「はい。でも、まだ整理できていないところもあって」

 葵は少し恥ずかしそうに笑った。何を確かめたいのか、葵は自分なりに考えていたのだ。ただ、だからといって、……。葵はまだ、仕事に復帰して間もないのだ。僕は少し考えた。

「森下さん、現場への聞き取り、どういうふうに進めたい?」

 葵は顔を上げた。

「え?」

「質問はもう考えてるんだよね。だったら、どういう形で聞くのがいいか、一緒に考えよう」

 葵は少し戸惑ったようだった。

「……私が、決めていいんですか?」

「全部を一人で決めなくてもいいよ。僕も相談に乗るし、必要なら手伝う。ただ、森下さんがどうしたいのか、まず聞かせてほしい」

 葵はしばらく考えていた。

「最初は、長谷川さんにも同席していただきたいです」

「うん」

「私が質問して、途中でわからなくなったら、助けていただけると……」

「わかった」

「それから、聞き取りの前に、質問の順番を確認しておきたいです」

「いいね。そうしよう」

 葵は小さく頷いた。

「ありがとうございます」

 僕は彼女のメモをもう一度見た。午前中、彼女はすでにこれだけのことを考えていたのだ。僕がそれを知ったのは、今になってからだった。

「森下さん」

「はい」

「さっきの面談で、もう少し詳しく聞けばよかったね」

 葵は少し驚いたように僕を見た。

「いえ……」

「この質問、よく整理できてると思うよ」

 葵はメモに目を落とした。

「ありがとうございます」そして、少し笑った。

 僕はその笑顔を見て、ほっとした。ただ、まだ一つ、気になることがあった。

「ところで、森下さん」

「はい」

「もし、途中で負担が大きいと感じたら、どうしようか」

 葵は少し考えた。「……そのときは、また相談させてもらえますか」

「うん。そうしてほしい」

「でも、私から言い出せないこともあるかもしれません」

 僕は頷いた。

「じゃあ、途中で一度、僕からも確認するようにしようか」

「はい。それなら、安心です」


6

 数日後、僕は翔太と昼食を取った。社員食堂は混んでいた。僕たちは窓際の席に座り、定食を食べながら仕事の話をした。

「森下、どう?」

 翔太が尋ねた。

「うん、少しずつ落ち着いてきたよ」

「そうか」翔太は味噌汁を飲んだ。

「よかったな」僕は少し迷ってから言った。「この前、森下さんと話したんだ」

「うん」

「僕も、いろいろ間違ってたみたいだ」

 翔太は箸を止めた。「何が?」

「無理をさせないようにしてたんだけど、本人はもっと仕事をしたかったらしい」

 翔太は少し笑った。「だろ?」

 僕は苦笑した。

「そう言うと思った」

「いや、だって、あいつは変わりたいって言ってたんだから」

「うん。でも、だからって、何でもやらせればいいわけじゃないだろ」

 翔太は少し考えてからため息をついた。

「高橋はうまくいったんだけどなぁ……うーん、難しいよ」

僕は黙って頷いた。

「森下だってできると思ったんだよ、もちろん今でも……けど……」

「でも、また同じようにやったら……」

「そうだなぁ、駄目なのかもしれないよなぁ」

「僕も、正直なところまだよくわからないんだ」

翔太は小さく笑った。「珍しいな。お前がわかんねえって言うの」

「そうかな」

 翔太は笑った。でもいつもの翔太の笑い方ではなかった。


7

 その週の木曜日、葵と一緒に北陸第二センターの担当者へオンラインで聞き取りを行った。事前に質問項目を整理し、僕が最初の挨拶と説明を担当した。その後、葵が質問を始めた。

「あの、積込完了の登録について、少し教えていただきたいんですが」

 声は小さかった。画面越しでも、緊張していることがわかった。

「はい、何でしょう」

 先方の担当者は、五十代くらいの男性だった。

「登録する端末は、積み込みをする場所から、どのくらい離れていますか」

「端末?ああ、事務所の中にありますよ」

「積み込みをしている場所からは?」

「結構離れてますね。歩いて三、四分くらいかな」

 葵は頷いた。

「積み込みが終わってから、毎回そこまで戻って登録するんですか」

 担当者は少し笑った。

「いや、それじゃ間に合わないこともあるんですよ」

「間に合わない?」

「トラックが次々に出る時間帯は忙しいですからね。いちいち事務所まで戻ってたら、出発が遅れちゃう」

 僕は思わず口を開きかけた。それでは、手順違反ではないか。しかし、葵が先に尋ねた。

「では、普段はどうされているんですか」

「先に登録しておくこともあります。あとで変更があれば、修正するんです」


 葵は手元の資料を見た。

「その変更というのは、荷物の積み残しがあった場合などですか」

「そうですね。あと、急に配送先が変わることもありますし」

 僕は画面を見つめた。葵が見つけたデータの不整合。その理由が、少しずつ見えてきた。担当者は続けた。

「昔から、そうやってるんですよ。前のシステムでは、それで問題なかったんで」

 僕は尋ねた。

「新しいシステムでは、積込完了の登録が後続の配送処理にも使われるんです。ですから、実際の積み込みが終わってから登録していただく必要があるんですが……」

「もちろんそれは承知しています。それは研修で聞きましたよ」担当者は少し困ったような顔をした。「でも、現場は現場で、そう簡単には変えられないんですよ」

 僕は黙った。その言葉には、反論しにくいものがあった。会議が終わった後、葵は大きく息を吐いた。

「緊張しました」

「うん。よく頑張ったね」

 僕が言うと、葵は小さく笑った。

「途中、何を聞こうとしてたのか、わからなくなりそうでした」

「そうだった?」

「はい。でも、質問を紙に書いておいてよかったです」

「そうだね」僕は頷いた。

 葵は途中何度か言葉に詰まったが、それでも必要なことは聞き出せた。僕が一人で聞いていたら、もっと早く会話を進められたかもしれない。しかし、葵が尋ねたからこそ、相手が自然に話してくれたこともあったように思う。少なくとも、僕はそう感じた。


8

 その日の午後、聞き取りの結果を整理すると、いくつかの拠点に共通する問題が見えてきた。古いセンターでは、積込場所と端末が離れている。作業員が端末まで戻る時間を節約するため、積み込みが終わる前に完了登録をすることがある。

 旧システムでは、完了登録後の変更も比較的容易だった。しかし、新システムでは、完了登録をもとに配送情報が確定し、後続の処理が進む。そのため、実際の作業とデータが食い違うと、問題が大きくなる可能性がある。

 僕は翔太に連絡した。

「北陸第二の件、ちょっと気になることがわかった」

「何?」

「積み込みが終わる前に、完了登録してるらしい」

 翔太はすぐに答えた。「それはダメだろ?」

「うん。でも、そうするにはそれなりの理由があるみたいなんだ」

 僕は端末の位置や作業動線の問題を説明した。翔太は黙って聞いていた。

「なるほどな」

 しばらくして、彼は言った。「こんどもう一回、現場に行って見てみるわ」

「お願いできる?」

「ああ。数字だけ見ててもわかんねえことがあるしな」

 僕は少し意外だった。翔太の現場を見ようという言葉が、以前とは少し違って聞こえた。

「森下が気づいたの?」翔太が尋ねた。

「そうだよ」

「そうか」

 短い沈黙があった。

「……やっぱり、あいつ、よく見てるな」

 僕は頷いた。「うん」

 翔太は少し笑った。「俺、そういうところは最初から評価してたんだけどな」

「知ってるよ」僕は答えた。本当に、そうだったのだと思う。


電話を切ってしばらくすると、翔太が僕たちの席にやってきた。

「森下、北陸第二のデータ、もう少し詳しく見せてくれないか」

 葵は顔を上げた。翔太の顔を見ると、一瞬、手元の資料に目を落とした。

「……はい」

「いや、今すぐじゃなくていい。まとまってからで」

「はい。わかりました」

 葵は頷いたが、資料を揃える手つきが少しぎこちなかった。

 翔太は何か言いかけて、やめた。

「じゃ、よろしくな」

 翔太が立ち去った後も、葵はしばらく資料に目を落としていた。


9

 その日の帰り、僕は葵と駅まで一緒になった。秋の風が少し冷たかった。駅前の街路樹は、まだ色づき始めたばかりだった。

「今日は、ありがとうございました」葵が言った。

「こちらこそ。助かったよ」

「いえ、私、まだ全然うまくできなくて」

「そんなことないよ。必要なことはちゃんと聞けてたし」

 葵は少し笑った。「でも、途中で何回も詰まっちゃいました」

「うん」僕は頷いた。「それはそうだったね」

 葵は驚いたように僕を見た。僕は続けた。

「でも、詰まったからって、失敗したわけじゃないだろ」

 葵はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。駅の改札が見えてきた。葵は少し歩く速度を落とした。葵はためらいながら口を開いた。

「長谷川さん」

「うん?」

「実は今日、途中で何度も、もう代わってもらおうかなって思ったんです」

「そうだったの?」

「はい。でも、最後まで自分で聞いてみたくて」

「うん」

「現場の方、最初はちょっと怖そうだったんですけど、話してみたら、いろいろ教えてくださって」

「そうだね」

「私、ああいう話を聞くの、好きなのかもしれません」

 葵は自分でも意外そうに言った。

「何となく、そう思ってたよ」

「本当ですか?」

「うん。森下さん、数字を見てるときも、その向こうで何が起きてるのか、いつも気にしてるから」

 葵は少し笑った。

「怖かったけど、聞いてよかったです」

 僕は頷いた。葵は少し先を歩き、改札の手前で振り返った。

「長谷川さん、今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

「次は、もう少しうまく聞けるようにしたいです」

「うん。僕も楽しみにしてるよ」

 葵は笑って、改札へ向かった。僕はその後ろ姿を見送った。


10

 その夜、帰宅してから、僕は久しぶりに本棚の奥にある一冊の小説を取り出した。

 『グレート・ギャツビー』。学生時代に買った文庫本だった。表紙は少し色褪せ、ページの端が黄ばんでいる。僕は冒頭を開いた。父親が息子に語る、あの言葉。

 もしお前が他人を批判したくなったときには、その人が自分と同じ条件で生きてきたわけではない、ということを思い出せ。

僕は葵のことを、どこまで知っていたのだろう。僕は、彼女の事情を考えていたつもりだったが、その多くは、僕が想像した事情だったのではないか。僕は本を閉じた。

 そのとき、スマートフォンが震えた。翔太からのメッセージだった。

『北陸第二、来週もう一回行ってくる。森下がまとめた資料、送ってくれ』

『了解。本人から説明してもらおうか』

すぐに返事が来た。『おう、それがいいな』

 僕はスマートフォンを置いた。明日、葵に相談してみよう。そう思った。


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