第二章 「俺だったら」という刃
1
森下葵が翔太のチームに移ってから、三週間が過ぎた。その間、僕が彼女と言葉を交わしたのは、数えるほどしかない。同じフロアで働いているのだから、顔は毎日見ている。朝、すれ違えば挨拶もする。けれども、それ以上の会話はほとんどなかった。
移って間もない頃、葵は僕に言った。
「佐伯さんってすごいですね。判断が速いんです。私がどうしようって考えている間に、もう次のことを決めていて……」
その声には、素直な感心があった。
「大変じゃない?」
「大変です。でも、勉強になります」
そう言って、彼女は少し笑った。僕は安心した。少なくとも、今のところはうまくいっているらしい。
翔太にも尋ねてみた。
「森下さん、どう?」
「ああ、真面目だな」
「それだけ?」
「資料のチェックは丁寧だし、細かいところによく気づく。助かってるよ」
翔太はそう言ってから、少し首を傾げた。
「ただ、ちょっと慎重すぎるな」
「そうかな」
「何か一つ決めるにも、いちいち確認に来るんだよ。自分で判断していいって言ってるんだけどな」
「まだ慣れてないからだろ」
「まあな。でも、いつまでもそれじゃ困るだろ」
僕はそれ以上何も言わなかった。翔太の言うことにも、一理はある。現場で問題が起きれば、限られた時間の中で判断しなければならない。すべてを上司に確認している余裕はない。ただ、葵には葵のペースがある。それを翔太がちゃんと受け入れてくれればいいのだが……。
2
最初の変化に気づいたのは、月曜日の朝だった。僕が出社すると、翔太のチームの席で、葵が電話をしていた。
「はい……はい。申し訳ありません。確認して、折り返します」
受話器を置くと、葵は手元のメモに何かを書き込んだ。その横に翔太が立っていた。
「で、何だって?」
「北陸第二センターからで、システムの動作について、確認したいことがあるそうです」
先ほどメモを取っていたわりには、葵の手元ノートの文字は少し硬かった。
「何を?」
「えっと……積込完了ボタンを押したあとの挙動が、旧システムと違っているらしくて……」
「違うって、どういうふうに?」
「それが、現場の方もおっしゃるには、『完了』を押した瞬間に画面が勝手に次の配送確定画面に切り替わってしまい、さっきまで入力していた備考の修正や、積み残しの取り消しをすることができなくなっちゃう、と……」
葵は焦ったように、自分のメモの端を指で押さえた。
翔太は小さくため息をついた。
「森下さぁ、フツー、新システムに切り替われば処理のステップが変わるくらいあるだろ。どこがどう引っかかってるのか、具体的な操作手順を確認しないと開発にエスカレーションできないじゃん」
「はい……」
「もう一回電話して。現場がどのタイミングでボタンを押してて、何を取り消そうとしたときにエラーになるのか、最低限そこまで聞き出さないと」
「はい、わかりました」
葵は受話器を取った。その手が、少し震えているように見えた。
僕は自分の席に向かった。翔太の指摘は、間違っていない。問い合わせを受けたときには、問題の状況を正確に聞き取る必要がある。ただ、あんなふうに言われたら、次の電話ではかえって緊張してしまうのではないか。
昼休み、給湯室で葵と一緒になった。
「どう、慣れた?」
僕が尋ねると、葵は紙コップにお茶を注ぎながら答えた。
「少しずつです」
「大変そうだね」
「はい。でも……」葵は少し考えた。
「さっきの電話、二回目はちゃんと聞けました」
「そう」
「最初から聞いておけばよかったんですよね」
そう言って、小さく笑った。僕は何と答えればよいのかわからなかった。
3
翔太のチームには、三年目の社員である高橋という男がいた。僕は以前から彼を知っていた。入社したばかりの頃の高橋は、ずいぶん頼りない印象だった。電話を取るのを嫌がり、顧客への説明を先輩に任せてしまう。会議でもほとんど発言しなかった。ところが、今では翔太の右腕として、いくつもの拠点の導入準備を取りまとめている。
ある日の夕方、僕は高橋とエレベーターで一緒になった。
「最近、忙しそうだね」
「ええ。でも、面白いですよ」
「以前とはずいぶん変わったようだね」
高橋は笑った。
「佐伯さんのおかげです」
「翔太の?」
「はい。最初の頃、僕、電話一本かけるのも嫌だったんですよ」
「ああっ、そういえばそうだったね」
「佐伯さん、絶対に代わってくれなかったんです。『お前が担当なんだから、お前が話せ』って」
いかにも翔太らしい。
「厳しかっただろ」
「厳しかったです。めちゃくちゃ」
高橋は笑いながら続けた。
「でも、電話する前には必ず練習に付き合ってくれたんです。相手に何を聞かれそうか、どう答えればいいか。失敗したときも、先方には佐伯さんが謝ってくれて」
「へえ」
「一回、大きなミスをしたことがあって。僕、もう担当を外されると思ったんです。でも、佐伯さんは『次はどうすれば防げる?』って聞いただけでした」
エレベーターが一階に着いた。高橋は扉が開いても、少し話を続けた。
「僕、佐伯さんにしっかり鍛えてもらったから今の自分があると思ってます」
その顔には、誇らしさがあった。僕は頷いた。翔太のやり方が、誰にとっても間違っているわけではない。それどころか、彼の指導を必要としている人間もいる。それはわかっているつもりだった。けれども、高橋の話を聞いて、僕は改めてそのことを考えた。
4
葵の仕事ぶりが変わり始めたのは、それから間もなくだった。まず、残業が増えた。
僕が帰る時間になっても、彼女は席に残っていることが多くなった。翔太のチームはもともと忙しい。けれども、葵の場合は、単純に仕事量が多いというだけではないように見えた。
一つの資料を何度も確認し、メールを書いては消し、また書き直す。以前なら一時間で終わっていたような仕事に、二時間も三時間もかけている。
ある日、僕は思い切って声をかけた。
「森下さん、まだ帰らないの?」
「はい。もう少しだけやっていきます」
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
彼女は慌てて画面を閉じようとした。僕はその手元に目をやった。配送拠点ごとの登録データを整理しているらしい。
「何か問題でもあった?」
「いえ……ちょっと、数字が合わなくて」
「どこの?」
「北陸と東北の、一部のセンターです」
葵は画面を指した。
「積込完了の時刻と、トラックの出発時刻なんですけど……」
僕は画面を覗き込んだ。数字が並んでいる。ある拠点では、積込完了の登録が、出発時刻よりかなり早く行われている。別の拠点では、完了登録の後に配送対象の変更や取り消しが繰り返されていた。
「これが?」
「いえ、まだよくわからないんです。ただ、拠点によって、ちょっと違うような気がして……」
「翔太には聞いた?」
「はい」
「何て?」
「拠点ごとの運用の違いじゃないかって。今は導入準備を優先しようって言われました」
僕は頷いた。確かに、古い拠点と新しい拠点では設備も違う。登録時刻に多少のばらつきがあるのは、不思議ではない。
「もう少し調べてみる?」
「はい。でも、こればかりやってるわけにもいかなくて」
葵は小さく笑った。
「ほかの仕事が、全然終わらないんです」
僕は時計を見た。午後八時を過ぎていた。
「今日はもう帰った方がいいよ」
「はい」
そう答えながら、葵は再び画面に向かった。僕はそれ以上、何も言えなかった。
5
翌週の水曜日、会議室から翔太の声が聞こえてきた。
「だから、何でそこで止まるんだよ」
扉は少し開いていた。僕は通りかかった足を止めた。
「判断できなかったので……」
葵の声だった。
「判断できないなら、聞けばいいだろ」
「はい」
「聞くのが遅いんだよ。締め切り過ぎてから相談されても、こっちだってどうしようもないじゃん」
「すみません」
「謝ってほしいんじゃないんだよ。次からどうするかって話をしてるの」
僕は扉を見た。中には翔太と葵の二人がいるらしい。入ろうかと思った。しかし、やめた。僕が口を挟めば、翔太の立場を悪くするかもしれない。何より、今は翔太が葵の上司なのだ。
「森下、お前さ、もっと自信持てよ」
翔太の声が少し柔らかくなった。
「間違ったっていいんだよ。俺が責任取るんだから」
「はい」
「だったら、まず自分でやってみろよ。フツー、それくらいできるだろ」
返事は聞こえなかった。僕はその場を離れた。翔太は葵を励ましているつもりなのだろう。実際、彼の言葉には、葵の可能性を信じる気持ちがある。けれども、その言葉を受け取る側にとっては、どうなのだろう。僕には、よくわからなかった。
6
金曜日の夜、翔太と二人で飲みに行った。会社の近くにある、小さな居酒屋だった。学生時代から、僕たちは時々こうして飲む。仕事の話もするが、くだらない話も多い。その日は、しばらく昔のラグビー部の話をしていた。
「お前、あの頃から朝早かったよな」
僕が言うと、翔太は笑った。
「朝練やってたからな」
「よく続いたよ」
「そりゃ、俺も試合に出たかったしな」
翔太はビールを一口飲んだ。
「最初、俺も全然ダメだったんだよ。俺、体だけはでかかったけど、下手くそでさ」
「そうなの?」
「ああ。先輩に言われたんだ。お前、練習してるつもりになってるだけだろって」
翔太は笑った。
「悔しかったねえ。だから、朝練始めたんだよ。誰よりも早く行って、走って、パスの練習して」
「それでレギュラーになったんだ」
「まあな」
翔太は少し得意そうに頷いた。
「結局、やるかやらないかなんだよ。才能なんて、そんなに大した差じゃないって」
僕はグラスを置いた。
「でも、みんなが同じようにできるわけじゃないだろ」
「どういうこと?」
「そりゃぁ人によって環境だって違うし……」
「環境?」
「例えば、朝早く家を出られない事情がある人だっているだろ」
翔太は少し考えた。
「まあ、そりゃいるだろうけど」
「お前はどうしてたの?」
「何が?」
「朝練のとき」
「ああ、親父が送ってくれてた。学校まで車で二十分くらいだったから」
「毎日?」
「ほぼ毎日、母ちゃんも朝飯と弁当作ってくれてたしなっ、あれはありがたかったよ」
翔太は何でもないことのように言った。
僕は頷いた。翔太が努力したことは間違いない。その努力を支えてくれた家族がいたことも、彼はきちんと理解している。ただ、それが誰にでもある環境ではないということまでは、あまり考えていないのかもしれない。
「で、森下さんはどう?」
僕は話題を変えた。翔太は少し顔をしかめた。
「うーん、ちょっと……なかなか難しいな」
「そうか……」
「真面目なんだよ。すげえ真面目。それはまあ、良いところでもあるんだけど……でも、考えすぎるんだよなぁ……」
僕は思わず笑った。
「それ、昔から僕にも言ってたよね」
「お前は今でもそうだろ」
翔太も笑った。しかし、すぐに真顔になった。
「森下はさ、もっとできると思うんだよ」
「うん」
「資料を見ればキチンと状況を理解する、頭はいいし、細かいところにも気づく。ただ、自分で決めることを怖がってる」
僕は黙って聞いた。
「だから、ちょっと背中押してやれば、変われると思うんだよな」
「でも、押しすぎると、かえって動けなくなることもあるんじゃないか」
翔太は僕を見た。
「お前、森下のこと、できないと思ってる?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「だったら、信じてやろうぜ」
翔太は笑った。
「本人だって変わりたいって言ってるんだからさ」
僕は返す言葉を失った。翔太の言葉は、正論のように聞こえた。けれども、どこか引っかかるものがあった。
7
葵が初めて大きなミスをしたのは、それから二週間ほど後だった。北陸地区の導入準備資料に、古い設定情報が混じっていた。実際のシステムには反映される前だったため、重大な障害には至らなかったが、先方への説明資料を作り直す必要が生じた。
翔太は葵を会議室に呼んだ。僕がそのことを知ったのは、夕方になってからだった。翔太が僕の席に来た。
「陸、ちょっといい?」
「何?」
「森下のことでさ」
僕は顔を上げた。
「どうした?」
「最近、ちょっとおかしいんだよな」
「おかしい?」
「前なら絶対にしないようなミスが増えてる。確認漏れとか、資料の取り違えとか」
僕は黙った。
「注意すると、余計に固くなるんだよ。で、またミスする」
「そうなんだ」
「どうしたらいいと思う?」
翔太は本気で困っているようだった。僕は少し考えた。
「しばらく、仕事の量を減らしてみたら?」
「量の問題かなあ」
「余裕がないと、誰だってミスするだろ」
「でも、いつまでも軽い仕事ばっかりじゃ、本人のためにならないんじゃないか?」
「それはそうだけど」
翔太はため息をついた。
「難しいな」
その言葉が、少し意外だった。翔太は普段、あまり弱音を吐かない。何でも自分で解決できると思っているような男だ。そんな翔太が、どうしたらいいかわからないと言っている。
「本人と、ゆっくり話してみたら?」
僕が言うと、翔太は頷いた。
「そうだな」
それから、少し笑った。
「お前なら、こういうとき上手くやるんだろうな」
僕は首を振った。
「そんなことないよ」
実際、僕にはそんな自信はなかった。
8
翌週、葵が会社を休んだ。月曜日、火曜日、そして水曜日……。三日続けて欠勤した。最初は体調不良という連絡だけだった。木曜日の朝、大滝から僕に連絡があった。
「長谷川、少し時間を取れるか」
部長室に行くと、翔太もいた。大滝は僕たちを座らせた。
「森下のことなんだが、実は本人と話をした」
翔太は黙っていた。
「しばらく休養が必要らしい。本人からも、今のチームで仕事を続けるのは難しいという話があった」
僕は胸が痛んだ。やはり、無理をしていたのだ。
「それで、復帰後は長谷川のチームに戻すことにしたい」
「わかりました」
僕はすぐに答えた。翔太は何も言わなかった。大滝は彼を見た。
「佐伯、お前にはいろいろ思うところもあるだろうが」
「……はい」
「本人の希望もある。今回はそういう判断にする」
翔太は頷いた。しばらく沈黙が続いた。やがて、翔太が口を開いた。
「部長、一つだけいいですか」
「何だ」
「森下は、自分で変わりたいって言ったんです。俺は、その気持ちに応えようとしたつもりです」
「それはわかっている」
「だったら、俺の指導が間違ってたってことになるんですか」
大滝は少し考えた。
「お前が悪い人間だとは思っていない。むしろ、部下を育てようという気持ちは評価している」
翔太は黙っていた。
「ただ、本人が体調を崩して、仕事を続けられなくなった。俺はその結果を無視するわけにはいかないんだ」
「……はい」
「お前のやり方で伸びた人間がいることも知っている。でも、森下には合わなかった。それだけのことかもしれん」
翔太は俯いた。僕は彼の横顔を見た。怒っているようにも、落ち込んでいるようにも見えた。何か言おうかと思ったが、言葉が見つからなかった。
9
部長室を出た後、翔太はしばらく廊下に立っていた。
「陸」
「うん」
「俺、そんなにひどいことしたかな」
僕は答えに迷った。翔太は続けた。
「怒鳴ったわけじゃない。無理な仕事を押しつけたつもりもない。できると思ったから、やらせたんだよ」
「わかってる」
「高橋だって、最初は全然ダメだった。でも、できるようになっただろ」
「そうだね」
「何が違ったんだろうな……」
僕は黙っていた。翔太は僕を見た。
「お前、最初からこうなると思ってた?」
僕は少し考えた。
「ん……心配はしてた」
「だったら、何で止めなかったんだよ」
その言葉は、予想していなかった。
「そりゃっ、本人が希望したし、新しい環境で力を伸ばすこともあるし……」
「そうか……」
翔太は小さく頷いた。それから、苦笑した。
「俺も、本人が希望したからって、引き受けたんだけどな」
僕たちはしばらく黙っていた。廊下の向こうで、誰かが笑っている声がした。いつもの会社の、いつもの午前中だった。
ただ、僕たち二人の間には、何か答えの出ないものが残っていた。
10
葵が復帰したのは、それから一か月後だった。以前より少し痩せたように見えた。 僕は彼女を自分のチームに迎えた。
「おかえり」
そう言うと、葵は小さく頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて思ってないよ。無理しなくていいからね」
「はい」
僕は彼女に、比較的負担の少ないデータ整理の仕事を任せた。慣れた作業から始めればいい。少しずつ調子を取り戻せばいい。そう思った。葵は以前と同じように、丁寧に仕事をした。資料に間違いはなく、報告も正確だった。ただ、何かが違っていた。以前は、仕事を終えると小さく微笑むことがあった。でも今は、ほとんど笑わない。僕が「助かったよ」と言っても、彼女は静かに頭を下げるだけだった。
ある日の夕方、葵が僕の席に来た。
「長谷川さん」
「どうした?」
「この前の、北陸のデータなんですけど」
「ああ、あれね」
「もう少し調べてもいいですか」
僕は少し驚いた。翔太のチームにいた頃、彼女が気にしていたデータだった。
「まだ気になってるの?」
「はい」
「でも、今は無理しなくていいんだよ」
葵は黙った。
「体調が戻ってからでも遅くないし、ほかの人に任せてもいいんだから」
「……はい」
葵は小さく頷いた。そして、何か言いかけた。僕は待った。しかし、彼女は結局、何も言わなかった。
「わかりました」
そう言って、席に戻っていった。僕はその後ろ姿を見送った。彼女を守らなければならない。今度こそ、無理をさせてはいけない。そう思った。
その日の帰り際、僕はふと、翔太の言葉を思い出した。
「お前、森下のこと、できないと思ってる?」
僕は首を振った。そんなことはない。ただ、彼女には無理をさせたくないだけだ。 そう自分に言い聞かせた。それなのに、なぜか胸の奥に、小さな棘のようなものが残っていた。




