第一章 二人の「フツー」
1
「フツーさぁ、これくらい確認するだろ」
佐伯翔太の声が、フロアの奥から聞こえてきた。また始まった、と僕は思った。 顔を上げると、翔太が若い社員の机の横に立っていた。手には数枚の書類を持っている。
「ここ、数字が違ってる。それに、こっちの表と整合してない。提出する前に一回見直せば気づくだろ」
「すみません」
「謝るのはいいから、直して。今日中に頼むわ」
若い社員は小さく頭を下げ、翔太から書類を受け取った。翔太はそれ以上何も言わず、自分の席に戻っていった。
僕はもう一度、パソコンの画面に目を落とした。言っていることは間違っていない。数字が違っているのなら、直さなければならない。提出前に確認するのも当然のことだ。ただ、あの言い方はどうなのだろう。
フツー。
翔太はよくこの言葉を使う。
フツー、これくらいできるだろ。
フツー、そんなこと言われなくてもわかるだろ。
フツー、もっと考えてから行動するだろ。
彼にとっては、世の中の多くのことが、ずいぶん簡単にできるものらしい。もっとも、翔太自身がそういう人間なのだから、仕方のないところもある。
大学時代から、あいつは何でも器用にこなした。勉強も、スポーツも、人付き合いも。初対面の相手ともすぐに打ち解け、多少の無理難題なら笑って引き受けてしまう。
もちろん、努力もしている。いや、むしろ人一倍努力する人間だ。だからこそ、できない人間の気持ちが、少しわかりにくいのかもしれない。
「長谷川さん」
声をかけられて振り向くと、森下葵が立っていた。四月に入社したばかりの新人で、僕のチームに配属されている。
「昨日の集計表、修正しました」
「ああ、ありがとう」
受け取った資料を確認する。数字はきれいに揃っていた。表の体裁も整っている。
「うん、いいね。助かったよ」
「ありがとうございます」
葵は小さく頭を下げた。
「ただ、ここの数字、元データと少し違っていたので……」
「え?」
「元データの方が間違っているのかもしれません。念のため、別の資料と照合してみました」
葵が示した箇所を見る。確かに、元データの数字に不自然なところがあった。
「よく気づいたね」
「たまたまです」
「いや、こういうのは大事だよ。ありがとう」
葵はわずかに笑った。この子は、こういう仕事に向いている。細かい数字を扱う作業でも集中力が途切れず、他の人が見落とすような違和感にも気づく。
一方、人前で話すことは少しばかり苦手なようだ。会議で意見を求められると、言葉が出てくるまでに時間がかかる。急かされると、ますます黙り込んでしまう。
だから僕は、無理に発言を求めないようにしていた。得意なことを生かして働けばいい。誰もが翔太のように振る舞えるわけではないのだから。
2
翔太とは大学一年のときからの付き合いだ。同じゼミに入ったのがきっかけだった。当時から、あいつはよく目立つ男だった。
講義では遠慮なく質問し、教授と議論する。飲み会では率先して場を盛り上げる。誰かが困っていれば、当たり前のように手を差し伸べる。
僕はといえば、どちらかというと教室の隅で本を読んでいるような学生だった。 なぜそんな二人が親しくなったのか、今でもよくわからない。
ただ、翔太は僕のことを気に入っていたらしい。
「お前、考えすぎなんだよ」学生時代、何度そう言われたかわからない。
「で、お前は考えなさすぎなんだよ」僕がそう返すと、翔太は決まって笑った。
就職先まで同じになったのはまったくの偶然だった。僕たちは同じ会社に入社し、何度か部署を異動しながら、今ではそれぞれチームリーダーを務めている。
翔太は現場推進チーム、僕はプロジェクト管理・調整チーム。担当する仕事は違うが、大きな案件では協力することも多い。
翔太の行動力には、これまで何度も助けられてきた。顧客との交渉が行き詰まったとき、現場で問題が発生したとき、誰も引き受けたがらない仕事が残ったとき……。翔太はたいてい、率先して手を挙げる。
「俺が行ってくるわ、何とかしてくる」そう言って、本当に何とかしてしまう。僕には真似のできないことだ。僕だけではない、そのやり方が、誰にでも通用するとは思えなかった。
3
その日の午後、取引先との打ち合わせがあった。全国に物流センターを展開する東央ロジスティクス。僕たちの会社が配送管理システムの開発から全国の物流センターへの導入支援までを一括して請け負っている。約八十拠点の業務を統一する、社内でも有数の大型案件だった。
会議の終盤、先方の担当課長が一枚の資料を差し出した。
「それで、追加でお願いしたいことがありまして、こちらの資料にある通り……」
嫌な予感がした。資料には、新たな帳票の作成と、既存システムからのデータ移行に関する追加要件が記されていた。どちらも当初の契約には含まれていない。
「この程度でしたら、今の開発の中でなんとかご対応いただけるのではないかと」
課長は柔らかく笑った。
「もちろん、御社にもご負担はあると思うんですが、こちらも社内から強く要望されておりまして、ひとつ何卒」
僕は資料に目を通した。確かに、先方の事情は理解できる。新しいシステムを導入する以上、現場からさまざまな要望が出るのは当然だ。ここで無下に断れば、今後の関係にも影響するかもしれない。
「一度、社内で検討させてください」
僕がそう答えようとしたとき、隣に座っていた翔太が口を開いた。
「こちらは契約外の作業になります」
課長の表情がわずかに変わった。
「ええ、それはもちろん承知しているんですが……」
「対応するなら、追加費用と納期の見直しが必要となりますので、それを踏まえてご検討いただければ」
翔太は淡々と言った。僕は横目で彼を見た。もう少し柔らかい言い方もあるだろうに。
「そこを何とか、今回だけでも」課長は困ったように笑った。
翔太は首を振った。
「申し訳ありません。ただ、何にお困りなのかは詳しく聞かせてください。別の方法でなら対応できるかもしれません」
結局、その場で結論は出なかった。会議が終わり、先方を見送った後、僕は翔太に声をかけた。
「ちょっと厳しすぎなかったか?」
「何が?」
「追加要件の話。あそこまできっぱり断らなくても」
翔太は不思議そうな顔をした。
「でもあれは契約外だろ」
「それはそうだけど、先方にも事情があるし。今回だけなら、何とかできないかな」
翔太は首を振った。
「陸、お前の言う『今回だけ』って、次はどうすんだよ」
「次?」
「一回タダでやったら、次も頼まれるだろ。で、その次は?どこで線を引くんだよ」
僕は黙った。
「こういうのって、最初が肝心なんだよ。何でも引き受ける会社だと思われたら、後で困るのは現場の連中だぜ」
「でも、顧客との関係もあるだろ」
「あるよ。だから、何に困ってるのか聞こうって言ったんじゃねえか」
翔太は少し笑った。
「向こうの事情ばっかり考えて、うちの連中の事情はどうすんだよ。残業ばかりしていられないだろう」
その言葉には、反論しにくいものがあった。僕は、先方の担当課長が困っている姿を想像していた。しかし、追加作業を引き受けた場合に残業することになる社員たちの顔までは、具体的に思い浮かべていなかった。
「まあ、お前が調整してくれるのは助かるんだけどさ」
翔太は僕の肩を軽く叩いた。
「たまには断るのも仕事だぜ」
僕は苦笑した。こういうとき、翔太の言うことは妙に筋が通っている。
4
僕がまだ小学生だった頃、父がよく本を読んでくれた。外国の小説が好きな人だった。ある日、父は一冊の本を開き、こんなことを言った。
「陸、人のことを悪く言いたくなったときにはな、その人がお前と同じように恵まれた状況で生きてきたわけじゃないんだってことを思い出すんだぞ」
そのときは、何を言われているのかよくわからなかった。父は笑って、僕の頭を撫でた。
「まあ、大きくなったらわかるよ」
後になって、その言葉が『グレート・ギャツビー』という小説の冒頭に出てくるものだと知った。僕は大学生の頃、その言葉の意味を身をもって知ることになった。
同じゼミに、真面目で成績のいい友人がいた。ところが、二年生の後半から、彼は講義を休むようになった。最初は週に一度くらいだったが、やがてほとんど姿を見せなくなった。周囲では、彼が遊び歩いているらしいという噂が流れた。僕も、少し失望していた。あんなに真面目だったのに、どうしたのだろう。
ところが、ある日、彼が夜間の配送センターで働いていることを知った。父親が失業し、家計を支えるために働かなければならなくなったのだという。僕は自分を恥じた。彼が講義を休んでいる間、僕は何をしていただろう。
図書館で本を読み、友人と食事をし、時には講義をさぼって映画を観に行った。 それができる環境に、自分がいることさえ意識していなかった。以来、僕は人を簡単に判断しないように心がけてきた。もっとも、心がけることと、実際にできることは別なのだが……。
彼の事情を知った後、僕は必要以上に気を遣うようになった。飲み会に誘うのをためらい、食事に行けば、さりげなく多めに支払おうとした。しかし……。
ある日、彼に言われた。
「お前さ、俺がかわいそうだから付き合ってくれてるの?」
僕は言葉を失った。
「俺は金がないだけで、お前と同じ学生なんだけど」
そのときの彼の表情を、今でも覚えている。怒っているというより、寂しそうだった。僕は謝った。彼は笑って許してくれた。それでも、あの言葉は今も心のどこかに引っかかっている。
5
翌週の定例会議で、各拠点での新システムの導入準備状況が報告された。翔太がホワイトボードの前に立ち、進捗を説明している。
「関東地区は予定通り。関西地区も今のところ問題なし。北陸の二拠点だけ、少し遅れてるけど、来週には追いつく見込みです」
翔太の説明は簡潔で、わかりやすかった。余計な言葉がない。必要な情報を整理し、結論から話す。僕が時間をかけて考えるようなことを、彼はその場で判断してしまう。その能力には、素直に感心する。
「何かご質問はありますか?」
翔太が出席者を見回した。誰も手を挙げなかった。
「じゃあ、次に行きます」
そのとき、僕は葵がわずかに顔を上げたことに気づいた。何か言いたそうだったが、すぐに目を伏せた。僕は一瞬、声をかけようかと思った。森下さん、何かあるの?けれども、やめた。
大勢の前で突然指名されたら、葵は緊張してしまうだろう。後で個別に聞けばいい。そう思った。
会議はそのまま進み、予定より十分早く終わった。翔太は満足そうに資料を片づけていた。
「今日はスムーズだったな」
「そうだね」
「フツー、会議なんてこれくらいで終わるもんだよ」
僕は笑った。またフツーか……。
席に戻る途中、葵が僕のところへやってきた。
「あの、長谷川さん」
「うん?」
「さっきの会議なんですけど……」
「何か気になることがあった?」
葵は少しためらった。
「いえ……大したことじゃないかもしれません」
「そう?」
「はい。もう少し調べてからにします」
「わかった。何かわかったら教えて」
「はい」
葵は小さく頭を下げ、自分の席へ戻っていった。僕はその後ろ姿を見送りながら、少し気になった。しかし、無理に聞き出すことでもないだろう。本人が話したくなったら、話してくれるはずだ。そう考えて、僕は自分の仕事に戻った。
6
その日の夕方、大滝統括部長から呼び出された。部長室に入ると、大滝はパソコンの画面から顔を上げた。
「長谷川、ちょっと相談がある」
「はい」
「森下のことなんだが……」
僕は椅子に腰を下ろした。
「何かありましたか」
「森下から、他のチームの仕事も経験してみたいという希望が出ている」
僕は思わず聞き返した。
「本人から……ですか?」
「ああ、佐伯のチームでしばらく仕事をしてみたいそうだ」
意外だった。葵は今の仕事を丁寧にこなしている。大きな問題もない。少なくとも、僕はそう思っていた。
「理由は何でしょう」
「もっと現場に近い仕事を経験したいらしい。自分を鍛えたいとも言っていた」
僕は黙った。翔太のチーム?よりによって、あそこを希望するとは……。
「佐伯には話しましたか」
「話した。本人が希望するなら歓迎するそうだ。まずは三か月、経験させてみようと思う」
いかにも翔太らしい。大滝は僕の顔を見た。
「で、どう思う?」
僕は少し考えた。葵は人前で話すことが苦手だ。翔太のように次々と判断を求める上司のもとで、本当に力を発揮できるのか……。しかし、本人が望んでいるのなら……。
以前、僕は育児中の部下を、大きな仕事から外したことがあった。負担をかけまいと思ったのだ。ところが、本人から言われた。「私、担当から外してほしいなんて、一度も言ってません」
あのとき、僕は自分の配慮が相手の可能性を奪っていたことに気づいた。同じ失敗は繰り返したくない。
「本人の希望なら、尊重したいと思います」
僕は答えた。大滝は頷いた。
「そうか。じゃあこの話、進めよう」
部長室を出た後、僕はしばらく廊下に立っていた。本当にそれでよかったのだろうか。しかし、本人が望んでいることを、僕が止める理由はない。そう自分に言い聞かせた。
7
翌日、葵と面談した。
「佐伯さんのチームに行きたいんだって?」
「はい」
葵はまっすぐ僕を見た。いつもより、少し表情が硬かった。
「何か、今の仕事に不満がある?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
「だったら、どうして?」
葵はしばらく考えてから答えた。
「私、今のままで本当にいいのか、ずっと考えていたんです。このままだと、私……」
「今のままで?」
「はい」葵は膝の上で手を組んだ。
「私、みんなみたいに、すぐに意見を言ったり、判断したりするのが苦手なんです」
「まあそれは……、人それぞれだから」
「でも……」
葵は顔を上げた。
「社会人だったら、フツー、できなきゃいけないことなんじゃないかって」
僕は少し驚いた。葵の口から、翔太と同じ言葉が出てきたからだ。
「フツー、か」
「はい」
葵は少し笑った。
「昔から、よく言われてきたんです。フツーはそういう風には考えないよ、って」
「そうなの?」
葵は少し斜め下を見てから顔を上げた。
「高校の修学旅行の計画を立てているときなんですけど、自由行動の日に住宅街を歩いてみたいって言ったことがあって……」
「住宅街?」
「はい。観光地じゃなくて、そこに住んでる人が、どんな暮らしをしてるのか見てみたくて」
「面白そうじゃない?」
「そうですか?」葵は嬉しそうに笑った。
「でも、友達には笑われちゃいました。そんなところ行ってどうするのって」
「それで?」
「結局、みんなで有名なお寺に行きました」
「楽しくなかった?」
「楽しかったです」葵は頷いた。
「でも、帰ってから、住宅街の写真を探して見ちゃいました」
僕は思わず笑った。葵も笑った。
「変ですよね」
「いや、別に、いいんじゃない?それはそれで」
「……そうですか」
葵は膝の上で組んだ手に目を落とした。
「でも、ああいうとき、何て言えばよかったんでしょうね」
「そのまま、今話してくれたことを言えばよかったんじゃないかな」
「そうですよね」葵は小さく笑った。
「後からなら、いくらでも思いつくんです。でも、その場になると、何も言えなくなっちゃって」
「そういうことは、誰にでもあるよ」
「はい。でも、私の場合、いつもそうなんです」
僕は頷いた。
「でも、森下さんには森下さんの考えがあるんだから、無理に人に合わせなくてもいいんじゃないかな、と、僕は思うけど」
「ありがとうございます」
葵は微笑んだ。
「でも、私、自分の考えをちゃんと伝えられるようになりたいんです」
僕は彼女を見た。
「だから、佐伯さんのチームで、一度やってみたいんです」
僕は少し考えた。
「佐伯は、かなり厳しいよ」
「はい、それは……わかっています」
「あいつは判断が速いし、相手にも同じことを求めるところがある。森下さんが何か考えている間に、次の話に進んでしまうかもしれない」
「はい」
「今の仕事でも、少しずつ慣れていくことはできると思うけど」
葵はしばらく黙っていた。
「そうかもしれません」
そう言ってから、僕を見た。
「でも、長谷川さんは、私が考えている間、待ってくださいますよね」
「え?」
「会議でも、私がすぐに答えられないと、ほかの人に話を振ってくださるし」
「それは……」
「ありがたいと思っています」葵は慌てたように付け加えた。「本当に、そう思っているんです」
僕は頷いた。
「でも、いつまでも待ってもらってばかりじゃ、いけない気がして」
僕は返す言葉を探した。僕は葵が困らないようにしてきたつもりだった。彼女が人前で話すことを苦手としているのは、よく知っている。だから、無理に発言を求めないようにしていた。それが彼女にとって、そんなふうに感じられていたとは思わなかった。
「無理をする必要はないんだよ」僕は言った。
「はい」葵は頷いた。「でも、一度やってみたいんです」その目には、いつもの遠慮がちな表情とは違う、何かがあった。
僕はしばらく考えた。翔太のチームで、葵がうまくやっていけるだろうか。
正直なところ、難しいと思った。しかし、本人が望んでいることを、僕が止めていいのだろうか。
以前、育児中の部下を本人に相談せず、大きな仕事から外してしまったときのことを、僕はまだ覚えている。
「わかった」僕は頷いた。「応援するよ」
葵はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます」そして、深く頭を下げた。
面談が終わり、葵が部屋を出ていった後、僕はしばらく椅子に座っていた。窓の外では、夕方の光がビルの壁に反射していた。僕はいい判断をしたのだろうか。わからなかった。ただ、本人の意思を尊重したのだから、間違ってはいないはずだ。
そう思った。そのときは、まだ。




