不安を包み込む手
左久夜をソファに下ろし、居間から出て行った宗右真は、すぐに戻って来た。
「とりあえず、これ、着とけ」
と、浴衣を差し出す。少々くたびれた藍染めの浴衣。何度も目にした覚えがあるもの。
「それ、ソウちゃんの、だよね?」
「洗濯してもらってある」
「そうじゃなくて……その、これ、あたしが、着るんだよね?」
左久夜は、口をもごもごとさせる。
「あのな、うちに女物の寝間着があるわけねぇだろ。ぶつぶつ言ってねぇで、さっさと風呂に入れ」
「え?」
「だから、風呂だ。風、呂!」
宗右真がドアを指差す。
「じゃなくて!」
家に帰って来てから、まだ五分も経ってない。そんな時間で風呂に入れるわけがない。だが、一つだけ可能な方法がある。
「ソウちゃん、術、使ったでしょ? こんなことに使っちゃ駄目だよ」
「アー、ハイハイ。分かったから、さっさと行け。手ぬぐいは、棚にあるのを適当に使え。使ったあとは、かごの中。制服は衣紋かけにつるしとけ。あと、湯船につかって、ちゃんと体を温めろ」
宗右真に追いたてられ、左久夜は風呂場に向かった。
脱衣所で制服を脱ぐが、何だか落ち着かない。それは湯船に入っても変わらなかった。洗い場に並んだ石鹸、洗髪粉、湯桶に湯船……
宗右真も入ってるんだと思うと、全然、くつろげなくて、ものの数分で出てしまった。
風呂から出た左久夜は、浴衣のすそを引きずらないように持ちながら、再び居間に戻る。
「おい、お前、ちゃんと温もったのか?」
宗右真はちょっと不機嫌そうに左久夜を見た。テーブルの上には灰皿があって、煙が立ち昇っている。煙草を吸っていたようだ。
早過ぎるだろと、宗右真は時計に目をやる。
「すぐ、のぼせるんだもん」
左久夜は適当にごまかして、それよりと話を変える。
「ソウちゃん、煙草、吸うんだ」
「お前らの前じゃ、吸わねぇよ。体に悪いし」
「じゃあ、どうして吸うの?」
「酔い覚ましだ。頭がまともに働いてねぇから」
そう言いながらも、宗右真は煙草を揉み消して、ソファから立ち上がった。そして居間から出て行く。座ってろと言われたが、左久夜はそのあとをついて行った。
「ごめんね。突然、来ちゃって」
「お前が、突然じゃないことなんてあるのか?」
「えぇっと……」
左久夜が考えているうちに、宗右真は居間の隣にある台所へ入る。灯りはついていて、やかんが火にかけられていた。
「栄語の課題が分かんねぇだの、左希斗とケンカしただの、いつだって突然、うちに来るんだろうが」
話しながら、宗右真は食器棚から漆の盆を取って、左久夜に持たせた。次に別の棚から、茶色の紙袋を取り出し、盆に乗せる。
「晩飯、食ってねぇんなら、それでも食ってろ」
よくよく見てみれば、紙袋には森村屋の判子があった。帝都でも一、二を争う人気のパン屋だ。
続けて宗右真は、食器棚から湯呑みを取り出して、お茶をいれる。
「あんパンが、残ってたはず」
「ありがと……じゃなくて!」
「何だよ?」
宗右真が、湯呑みを左久夜に差し出した。左久夜はそれを盆に受け取り、「だから」と話を戻す。
「今日は、ちょっと、迷惑だったかなって。お風呂とか、ご飯とか」
宗右真にしてみれば、出張帰り。しかも作戦は予定よりも長引いて、そのうえ、林太郎主催の宴会にも付き合ったあと。
「ソウちゃんも、色々と、疲れてるのに」
「あのなぁ、俺だって、聖人君子じゃねぇんだ。邪魔ならとっくに追い返してる」
そう言うと、宗右真は台所を出て行った。左久夜もまたあとを追いかける。
宗右真はすたすたと歩いて行って、突然、くるっと振り向いた。
「で?」
こちらを見下ろす宗右真に、
「『で?』」
きょとんと、左久夜は繰り返した。
「どこまでついて来るんだ?」
「え?」
はっと気がつけば、宗右真の後ろは廊下のどん詰まり。そして彼の左手にあるのは、風呂場の扉だった。
「覗くつもりか」
宗右真は鼻で笑って、風呂場へ入って行く。
「どスケベ」
そう言い残し、ドアが閉まった。
「なっ……バカ‼」
左久夜はドアの向こうに叫んでから、居間に戻る。座卓に盆を置いて、ふかふかのソファにどすんと座った。
「ソウちゃんの裸なんて、興味ないし」
……のはずが。
ついさっき自分も入った、あの白い湯船が頭に浮かんできて。途端に、顔が熱くなる。パタパタと、手で顔をあおいで熱を冷ます。
その熱がようやく落ち着いたところで、左久夜はあんパンにかぶりついた。
(何もなくて、よかった)
そう思えたのは、一口目を食べている間だけだった。二口目を食べようとしたところで。
ぞわりと、胸の内で何かがうごめいた。
どこからともなく、不安がしみ出してくる。それはじわりじわりと広がって、左久夜の心を侵食していく。
今日は、何もなかった。でも……。あの夢は、明日、起こることなのかもしれない。
あんパンを握りしめたまま、不安でいっぱいになって。
「寝るなら、俺のベッド使え」
その声に、はっと顔を上げれば、宗右真がいた。
風呂から出たらしい。浴衣の肩には、手ぬぐいが引っかかっている。
かなりの間、ぼんやりしていたようだ。
「食わねぇんだな?」
「あ……うん。なんか、お腹いっぱい。ごちそ、」
全部言う前に、宗右真にあんパンを取り上げられていた。
「何かあったのか?」
「え?」
「俺が声をかけるまで、気がつかなかっただろ? どうした?」
宗右真は優しい声で言い、左久夜の前に膝をついた。
「一人で悩んだところで、ろくなことにはならねぇぞ。話してみろ」
ほらと促され、左久夜はゆっくりと口と開く。
「夢を見たの……討伐作戦で、ソウちゃんが死んじゃう夢」
「勝手に殺すな」
左久夜は「違う」と、首を振った。
宗右真が血を流して倒れている、あの姿が脳裏に焼きついて離れない。今でも心が締め付けられて、苦しくなる。
「父様も死んだの。夢を見て……父様が死んでしまう夢……そのすぐ後に、父様が死んだ」
「それで? 今度は俺が死ぬって?」
「だって……だって、」
ポロポロとあふれた涙を拭おうとしたところで。その手を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。左久夜はすとんと、宗右真の腕の中に収まる。
「ナギさんのことは、ただの偶然だろ?」
「そうかもしれないけど……」
「今度は俺の夢を見て、ナギさんと同じことになるんじゃないかと、不安になった」
宗右真の胸に顔をうずめて泣きながら、左久夜はうなずく。
「……今日の出張は、父様の時と同じ、南部だって言うし。夜になっても全然、帰ってこないし。もしかしたらって思うと怖くて、すごく不安になって」
宗右真は「そうか」だけつぶやいて、それっきり何も言わなくなった。




