第8話 決定的な亀裂
昨日の一件から一晩明けても、工房の空気はどこかぎこちなかった。
アルフは朝一番で測定装置の記録を確認し、イゾルデはそれを黙って受け取って手帳に書き写す。
業務的なやり取りだけが淡々と交わされていた。気まずさを誤魔化すように、互いにいつもより丁寧な話しぶりになっているのが、かえって不自然だった。
師匠だけは、いつもと変わらない調子で二人の間を行き来していた。空気を読んでいないのか、あるいは気を遣ってあえてそうしているのか、アルフには判断がつかなかった。
「おい、湿気てるぞ二人とも。喧嘩でもしたのか」
「別に、そういうんじゃないっス」
アルフが素っ気なく返すと、師匠は「ふうん」とだけ言って、それ以上は踏み込んでこなかった。イゾルデもまた、何も言わずに手元の作業を続けている。
それでも師匠は、何かを察したのか、わざとらしいくらいの大声で世間話を始めた。町で新しく開いたパン屋の話、隣町の縁日の噂、腰を痛めた常連客の愚痴。誰も本気で聞いていないような内容を、それでも延々と喋り続ける。
空気を和らげようとしているのか、単に手持ち無沙汰なだけなのか、アルフにはやはり判断がつかなかった。
判断がつかないのだ。昨日から燻ぶる、自分のこのドロドロした気持ちをどこに落としどころをつければよいのかも。
昨夜、頭を冷やしてから工房に戻った時、イゾルデは何事もなかったかのように接してくれたが、それがかえってアルフの中の後ろめたさを煽った。謝るべきなのは分かっていたが、素直に言葉が出てこない。結局、一晩経った今もそのわだかまりは解消されないままだった。
布団の中で何度も謝罪の言葉を思い浮かべては、朝になるとその全てが陳腐に思えて口にできなかった。そんな堂々巡りを繰り返しているうちに、いつの間にか朝が来てしまった。
午前中は、いつも通り測定装置の記録と核の観測で終わった。数値は昨日と同じく、緩やかな、しかし確実な上昇を見せている。イゾルデはそれを黙々と手帳に書き写しながら、時折思案するような表情を浮かべていた。
昼になり、アルフは一足先に休息を取ろうと立ち上がる、こちらから声をかけるのは正直ためらわれたが、彼は意を決して声をかけた。
「イゾルデさんは、午後からどうするんスか」
「私は資料を整理する。君は、師匠の方の仕事があるんじゃないのかい」
「ああ、そういえば買い出し頼まれてたんスよね。忘れてたっス」
二人の間にはまだ、昨日の気まずさが薄く残っていた。それでも、業務としての協力関係は、変わらず続いている。
「……アルフ君、悪いが、昨日渡した資料、まだ君の部屋に置いているままだろう。今日中に目を通したいんだが、あとで取りに行ってもいいかい」
「いいっスよ、ベッド脇のサイドテーブルっス。散らかってるんで、他んとこは勝手に見ないでもらえると助かるっスけど」
軽い調子で答えたつもりだったが、その言葉は結果的に皮肉な予兆となっていた。
昼過ぎ、師匠に頼まれた買い出しから戻ると、工房の裏手にある自分の部屋の戸が、わずかに開いていた。嫌な予感を覚えながら覗き込むと、イゾルデがそこに立っている。彼女の視線の先には、壁際の作業机があった。普段は資料を渡す時くらいしか見せない場所。
そこには、十年かけて集めてきたものが、隠すことなく広げられたままになっていた。
霊獣の目撃情報を書き留めた古いノート。近隣の町から取り寄せた新聞の切り抜き。行商人に聞き込んだ噂話を殴り書きしたメモ。壁に貼られた地図には、あちこちに赤いピンが刺さっている。どれも、姉の手がかりを求めて、この十年間コツコツと積み上げてきたものだった。
几帳面な字で書かれた日付は、古いものは十年近く前まで遡り、新しいものはつい先週の日付のものまであった。ノートの余白には、有力とは言い難い噂にまで律儀に「要確認」と書き込みがしてある。一つの手がかりを追うために、何日も休みを費やしたのだろう跡が、随所に見て取れた。
机の隅には、色褪せた小さな肖像画も立てかけてあった。姉が得意げに機械いじりをしている姿を、当時のアルフが下手な絵心で描いたものだ。十年経った今見ても、拙い出来なのは変わらない。それでも、これだけは捨てられずに、ずっと手元に置いていた。
アルフはしばらく、その場に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白になる。何か言わなければと思うのに、なかなか言葉が出てこない。一番見られたくないものを、一番見られたくない相手に隠さずにいてしまった。
「……見たんスね」
声が、薄く伸びるように出た。その声に怒りは含まれていなかった。自分でも、何故落ち着いて話せているのか不思議に思った。
「すまない、資料を探していて、目に入ってしまった」
あるいは、嘘ではないのだろう。イゾルデが必要もなく家探しをする人間とは思いたくなかったし、壁に貼られた地図はそれなりに目立っていた。目線が吸い寄せられてもおかしくはなかったが。
イゾルデは振り返り、いつになく慎重な口調で言った。その目には、同情とも困惑ともつかない色が浮かんでいる。
「アルフ君……まさかとは思うがこれは、以前話してくれた君のお姉さんを」
「それ以上言わなくていいスよ」
アルフは机に歩み寄り、広げられたノートを乱暴に閉じた。思った以上に強い力が加わったのだろう、閉じられた本の周囲から埃が舞い上がった。
イゾルデはしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「ずっと、一人で探し続けていたのか」
「別に、隠してたわけじゃないっスよ。ただ、誰かに見せるようなもんでもないんで」
「……言いにくいことだが、聞いてくれるか」
アルフは無言だった。ただ、視線をイゾルデにむける。先を促しているのだ。この関係を打ち壊す決定的な一言が出るかもしれない、それでもだ。
イゾルデは机の上のノートに視線を落としたまま、しばらく言葉を選ぶように沈黙していた。
「十年前の事件だ。当時の状況を考えれば、正直、生存の可能性は限りなく低く見積もっていい。あるいは復讐だとしても、その時の霊獣は討伐されたと報告があるし、何より核が見つかっていない」
「……それ、この間言ってたことと矛盾してませんか。核が壊れても、実体化した精霊は残り続ける可能性があるって、あんたが言ったんスよ」
「あの時は、その…可能性を否定していたわけじゃなかった。ただ、ゼロに限りなく近い可能性の話と、現実的にどう時間を使うべきかという話は別だ、と言いたいんだ」
イゾルデの声は落ち着いていたが、その理屈っぽさが、かえってアルフの神経を逆撫でした。
「これだけの時間と労力を、可能性の低いことに注ぎ込み続けるのは……時に、前に進む妨げになる。私は、君にはちゃんと前を見て──」
「――やめてくれませんか」
アルフは机を掴む手に力を込め、遮るように言った。
「可能性が低いとか、前に進むとか、そういうの、あんたに言われたくないんスよ」
「アルフ君、私はその、君を心配して」
「心配してるなら、そんな言い方すんなよ」
イゾルデは何も言葉を発しなかったが、その苦々しい表情はアルフの言葉を認めたことと同じだった。だが、認めたところで、口にした言葉を撤回できるわけではない。彼女はなおも、諦めきれないというように言葉を継いだ。
「だが、事実は事実として伝えておきたかった。君が傷つかないように、というより……いつか、現実と向き合わなければならない時が来た時、少しでも衝撃が和らぐようにと」
「余計なお世話なんだよ。それに、いつか向き合う日ってなんなんだ? 姉貴が死んだって、あんたが勝手に決めるのか」
上っ面の敬語が見る見るうちにはがれていくのを、アルフはどこか遠くから見ているような心持ちだった。明らかに腹の底から怒りが湧いてきていることがわかるのに、それを自覚しつつ、感じられない。
「……すまない。言い方が悪かった」
イゾルデは目を伏せ、それでも言葉を止めなかった。
「ただ、これだけは言わせてくれ。この十年間の記録を見て、正直、胸を打たれた。それだけの執念で誰かを想い続けられることを、私は素直に尊敬する。だからこそ──」
「だからこそ、何だよ」
「だからこそ、これに全てを費やして、君自身の人生が擦り減っていくのを、黙って見ていられなかったんだ」
「――あんたに、何が分かんだよ」
声が震えていた。抑えようとしても、抑えが利かない。
「あんたは、家族が目の前で消える瞬間を見たことがあるのか? 十年間、ずっと家族が死んでいく夢を見て、目が覚めるたびに何も変わってないことに絶望するなんて経験はあんたにあるのか、あぁ?」
アルフはいつの間にか自分が絶叫していることを自覚した。それと同時に自分が抑え込んでいた――いや、見ないようにしていた怒りの感情と一体化していくのを感じる。家族の死を、姉の痛みを、自分の10年間を、この女は『意味のないことはやめて過去に捨て去れ』と愚弄するのか!?
「何が分かんだよ!? いや、わかんねぇだろうな、人のことを『資源』なんて言ってのけるようなあんたには!」
喉は痛み、目の前はどこか赤く濁っていた。もしかしたら急な叫びで喉がつぶれ、目の血管が切れているのかもしれない。構わなかった。目の前に怒りをぶちまけること以外には何もかもがどうでもよかった。
「あんたに俺の気持ちが分かってたまるか!!あんたは、自分のとこの精霊が持ってかれるのがイヤなことしか見てないんだろ!結局はこの町に住むやつらのことなんて数字以上の意味は無くて、父さんも、母さんも、姉貴も!あんたにとっては昔に書類の上で死んでたって以上のことはなかったんだろ!」
叫んでから――
どれくらい時間がたったのだろう。目の前のイゾルデは怒声をぶつけられて完全に固まっているように見えた。
言ってしまってから、アルフもまた自分の言葉の刃の鋭さに、少し怯んでいた。だが、止める気にはなれなかった。
心の中では、これはただの八つ当たりだと分かっていた。イゾルデが悪意で言ったわけではないことも、彼女なりに自分を案じてくれていることも、頭では理解していた。それでも、口から出る言葉を止められなかった……むしろ、止めたくなかったのだろうか。誰かに、この十年分の苛立ちをぶつけたくて仕方なかったのかもしれない。
「…だから、簡単に『前に進め』とか、人の人生が『擦り減る』とか――言わないでくれよ」
技師の仕事にひたむきに打ち込んでいるのも、姉の手がかりを探し続けているのも、根っこは同じだった。何かに縋っていないと、立っていられなかったのだ。それを、他人に一言二言で片付けられるのが、たまらなく惨めに感じられた。
イゾルデは何か言い返そうと口を開きかけたが、言葉は出てこないようだった。何度か唇を動かしかけては閉じ、結局、意味のある音にはならなかった。
その様子は、いつもの飄々とした彼女からは想像もつかないものだった。何かを言おうとして、その何かに自分自身が阻まれているような、そんな苦しげな表情。
その沈黙が、何よりもアルフの言葉を肯定しているように感じられた。
「……そうか」
長い沈黙の後、イゾルデはそれだけ言った。声には、これまで聞いたことのないような、疲れと諦めの色が滲んでいた。
「すまなかった。出過ぎたことを言った」
それ以上は何も言わず、イゾルデは資料を手に取ると、静かに部屋を出て行った。閉じられた戸の向こうから、遠ざかっていく足音が聞こえる。その足音は、いつもの軽やかな調子とは違い、どこか重かった。
部屋に一人残されたアルフは、しばらく机の上のノートを見つめていた。怒りはまだくすぶっていたが、同時に、言い過ぎたという後悔も、じわじわと胸に広がり始めていた。
なぜあんな言い方をしてしまったのか、自分でもうまく説明がつかない。イゾルデの言葉に間違いがあったわけではない。むしろ、正しかったからこそ、腹が立ったのかもしれない。誰よりも自分自身が、可能性の低さを一番よく分かっていたから。
それに、イゾルデの言葉は、思いのほか胸に刺さっていた。この十年、誰かにそんな風に――尊敬する、などと言われたことは、一度もなかった気がする。
町の人々にとって、自分の行動は「いつまでも過去に囚われている哀れな若者」にしか見えていなかっただろうし、アルフ自身、そう思われていることを分かっていた。それだけに、イゾルデの言葉は、素直に受け取るには複雑すぎた。
だが、謝る気にはなれなかった。今はまだ。
開け放たれたままの戸から、夕暮れ前の乾いた風が吹き込んでくる。壁に貼られた地図の端が、その風にぱたぱたと揺れていた。赤いピンの一つ一つが、まるで嘲笑うように、アルフを見つめ返しているような気がした。
工房の方から、師匠の呼ぶ声が聞こえてきたが、アルフはしばらくその場から動けずにいた。
やがて、少しだけ前へ進み、地図に刺さった一番古い赤いピンに指先で触れる。十年前、最初に手がかりを求めて印をつけた場所だった。あの頃はまだ、すぐに見つかるはずだと本気で信じていた。今となっては、その無邪気さが、どこか遠い誰かのことのように思える。
窓の外はすっかり茜色に染まり、工房の煙突からは夕餉の支度を告げる煙が立ち上っていた。いつもと変わらない、平凡な夕暮れだった。それなのに、この時を境に、アルフの中では何かが区切られてしまったような気がしてならなかった。




