第7話 異変と亀裂と
核の外殻に残っていた微量の精霊反応を、この一週間、二人は毎朝欠かさず記録し続けていた。
この一週間で、二人の日課はすっかり決まった型ができていた。朝は工房で測定装置の記録を確認し、昼過ぎからは核の内部構造に関するノート(イゾルデの私物だ)を二人で読み解き、夕方にはその日の記録を手帳にまとめる。
それなりに落ち着いた日々だった。安穏といってもよかった。
しかし、安穏とした日々というのは細い峰に片足で立ち続ける時に似て、永遠に続くことはありえない。そして、それが崩れる時は往々にして悪い方に物事は転がっていくものだ。
「イゾルデさん、これ……」
霊獣との決戦からすでに十日ほどが過ぎた頃である。アルフはここ数日の測定記録を指でなぞりながら、眉をひそめた。
「気づくだろうね」
工房の奥からやってきたイゾルデが、アルフの手元を覗き込んだ。彼女がここ数日見せていた余裕に満ちた表情がわずかに曇っている。
最初の数日はほとんど横ばいだった数値の推移が、ここ二、三日で目に見えて右肩上がりに増えてきている。核の精霊濃度が、安定どころか上昇を始めたのだ。
「とても信じられないな、私は核までぶち抜くつもりの勢いでトドメを刺したというのに、機能を停止するどころか、微弱ながら周囲の精霊を吸い続けている。しかも、その吸収速度が加速していると来たものだから…」
イゾルデは紙テープを手に取り、目を細めて自分たちが記録した数字を指でなぞった。
単純に時間が経てば経つほど速くなる、というわけではなかった。明らかに、数値の跳ね上がるポイントが見える。
「これまでの伸びより、昨日から今日にかけての伸びの方が、明らかに急になってます。何か加速するきっかけがあったんじゃないスか」
「鋭いね。実は私も、そこが気になっていたんだが…」
イゾルデは手帳を捲り、日付を確認する。
「昨日、何か特別なことをした記憶は……正直、これといって心当たりがないんだ。あの日に横着して工房でサンドイッチを食べたのが原因だというのならもうこちらとしてはお手上げだ」
二人は顔を突き合わせ、記憶を遡って確認したが、これといった原因は見当たらない。理由の分からない現象というのは、それだけで不気味だった。
「俺にはよくわからないっスけど…状況が、また悪化してるってことスか」
「悪化か、可能性は…いや、ごまかすものではないな。状況は悪い」
イゾルデの顔がゆがむ。苛立たしげに机をトントンと叩いて、後を続けた。
「もしもこの核がこのまま活性を強め続けたら――最悪、またあの時のような凶暴な霊獣が顕現することにもなりかねない」
アルフの脳裏に、坑道奥で見た巨大な霊獣のシルエットがチラつく。あの時はイゾルデが守ってくれなかったなら、奴の吐き出した火炎で自分は焼き尽くされ、既に命はなかっただろう。そんな怪物がまた現れるというのだ。
しかも、今度は町のど真ん中に。
背中に冷汗が噴き出すのを感じる。アルフが声を出すには、ぐらつく身体をなんとか倒れないようにする自制が必要だった。
「そうなったら、町は……」
「町どころじゃないよ。この規模の吸収が続けば、いずれ王都にまで影響が出る」
「……本当にそこまで、って感じもするんスけど。このちっちゃい金属の欠片一つで、そんな大事になるもんスか」
「侮らない方がいい。この手のものは、閾値を超えた瞬間に一気に加速する性質がある。今の数字が横ばいに見えるほどに明日には様相が変わっているかもしれない」
イゾルデは測定記録を書き込んだ紙きれを机に置き、こめかみを軽く押さえた。
「この街は枯渇地帯だ。精霊を吸収しようにもない袖は振れまい。ならば答えは自ずと決まる──この核は恐らく、遠く豊穣地帯からも、細く長く精霊を吸い上げている。最初の顕現も、そうして起きたのかもしれない」
「豊穣地帯からって…こっから王都までは列車で一週間は離れてるんスよ!?そんな遠くからなんて」
「戦争以前の精霊技術は今では再現もできないような技術の塊さ、何が起こっても不思議ではない」
イゾルデの横顔は橙色のガス灯に照らされてなお白く見えた。当初は想定もしていなかった重しが自らにのしかかった時には、親方もこんな顔をしていたかもしれない、とアルフは呆然と考えた。
「正直、こんなに早く事態が進むとは想定していなかった。もう少しデータを集めてから対処したかったんだが……このペースだと、悠長なことは言っていられないかもしれないな」
イゾルデの声は、淡々としていた。まるで在庫管理の帳簿でも読み上げているかのような、平板な口調。
「あちらの精霊にも限りはある。あまり悠長に構えていると向こうの精霊資源まで巻き添えで目減りするし、霊獣が顕現すればこの町だけじゃない、周囲の町も含めて人的資源にもまた被害が出る。早いところ手を打たないと」
「……資源?」
アルフの口から、思わず言葉がこぼれた。
その言葉があまりにもひび割れていたのにイゾルデは気づいていたのだろうか、こちらを見ずに言葉をつづけた。
「ん? ああ、言葉が悪かったかな。精霊の総量には限りがあるという意味で」
「そうやって、数字の話にして片付けるんスか」
自分でも驚くほど低い声が出た。イゾルデが怪訝そうに顔を上げる。
「アルフ君?」
「あんたにとっては、精霊も、霊獣も、人間だって全部数字なんスよね。消費速度がどうとか、資源がどうとか。……人間たちだって、結局はその中に入ってる話なんスか」
言ってしまってから、アルフは自分の声が震えていることに気づいた。抑えようとしても抑えきれない。イゾルデの表情が、はっきりと強張った。
「そういうつもりで言ったんじゃない」
イゾルデは慌てたように言葉を継いだ。
「ただ、我々はこの手の話をするとき、つい、こう…実務的な言葉を選んでしまう癖があるんだ。感情を挟むと、判断を誤ることがあるから……そう教えられていて」
その言葉には、単なる言い訳以上の、何か個人的な重みが滲んでいるようにアルフには聞こえた。だが今は、その重みを推し量る余裕もない。
喉の奥に、もっと激しい言葉がせり上がってくるのを感じた。10年前のこと。父のこと、母のこと、姉のこと。全部まとめて叩きつけてやりたい衝動が、腹の底で渦を巻く。
だが、アルフはそれを飲み込んだ。怒りを封じ込めるようにキャスケットのつばを指で押さえつける。
今それを言葉にしてしまえば、もう後戻りできない気がした。
「……そっスか」
絞り出すように、それだけ言う。
「アルフ君?」
「わかってるっスよ、そんくらい。あんたに悪気なんてないってことくらい」
わかっている。わかっているのに、苛立ちは収まらなかった。
「でも、姉貴は数字じゃないんスよ。あんたにとっちゃ報告書の中の一件かもしれないけど、俺にとっては……」
そこまで言って、アルフは言葉を飲み込んだ。これ以上続ければ、取り返しのつかないことを口走ってしまう気がした。
「アルフ君、聞いてくれ。私だって、そんなつもりで──」
「わかってるって言ってるじゃないっスか」
アルフは苛立ちを隠せないまま、イゾルデの言葉を遮った。
「あんたが悪いわけじゃない。頭ではそう分かってる。分かってるのに、今は、その分かってる自分に一番腹が立つんスよ」
自分でも、何を言っているのか分からなくなってきていた。ただ、これ以上この場にいたら、もっとひどいことを言ってしまいそうな予感だけがあった。
「……ちょっと、頭冷やしてくる」
「アルフ君、待って――」
イゾルデが伸ばしかけた手を、アルフは振り切るようにして工房を飛び出した。
外に出ると、夕暮れ間近の乾いた風が頬を打った。アルフは足早に、当てもなく通りを歩き出す。わかっている。イゾルデは悪意をもって言ったわけじゃない。むしろ、真剣に町のこと、豊穣地帯のことを考えているからこそ、あんな言い方になったのだろう。頭では、痛いほどわかっていた。
それでも。
姉の名も知らないくせに、姉が確かにそこにいたことも知らないくせに、まるで在庫の増減みたいに語られるのが、全くもって耐えられなかった。
あの一言を聞いた瞬間、頭の中で全てが繋がってしまったのだ。資源、供給、消費速度――そういう言葉の連なりの中に、姉の存在までもが紛れ込んでいくような感覚。
アルフは足を止め、乾いた空を見上げた。紅色に染まり始めた雲が、やけに遠く感じられた。
(マジかよ……何やってんだ、俺は)
自分でも、どうしてあそこまで感情的になったのか、うまく説明がつかない。ただ、一度堰を切った何かは、簡単には元に戻せそうになかった。
工房の方角を振り返る気にはまだなれず、アルフはそのまま歩き続けた。通りすがりの店先から漏れる灯りが、一つ、また一つと灯り始めている。いつもなら何とも思わない、見慣れた日常のはずなのに、今はその景色すら腹立たしいほど自分の神経を逆なでした。
気づけば、足は坑道のある方角へと向いていた。町の外れ、規制線の張られたあの場所。今もあの奥で、霧散した霊獣の残滓が漂っているのだろうか。
アルフは途中で足を止め、かぶりを振った。今、あそこへ一人で行ったところで、何ができるわけでもない。それはただの当てつけである。これ以上惨めになりたくはなかった。
結局、坑道への道を逸れ、代わりに町外れの小さな丘に登った。
いつの間にか太陽は沈み、街の明かりがアルフの目に染みた。
ここからなら、駅の方角も、町役場と工房のある通りも、一望できる。子供の頃、姉とよくここに来ていたことを思い出す。
姉なら、あの場にいたら何と言うだろうか。気にするなと鷹揚に流す?ふざけるなと殴りかかる?
わからなかった。
考えても、答えは出なかった。10年も経てば、記憶の中の声すら、少しずつ輪郭を失っていく。恐怖だけが残り、その中の姉が少しずつ自分の記憶からすり減っていく、それが何よりも悲しかった。




