第3話 石炭と硫黄が匂う坑道内部にて
地面に転がった霊獣の亡骸は、見ている間にもその輪郭を失っていった。
ただ淡く発光する霧のようなものが傷口から立ち上り、朝もやに紛れて薄れていく。数十秒とかからず、そこにはバラバラに砕けた骨の欠片だけが残された。
アルフは、自分が息を止めていたことにいまさら気づいた。心臓が、まだ早鐘を打っている。目の前で起きたことが、あまりにあっけなかったせいで、逆に現実感が薄い。
「…消えた」
「還っただけさ。実体を保てるだけの濃度を失えば、精霊はまた大気に溶けていく。死んだわけじゃない、といえば聞こえはいいが──」
イゾルデは膝についた土を払いながら、亡骸のあった場所を一瞥した。
「──まあ、あの子にとってそれが救いかどうかは、私にはわからないけどね」
その物言いが妙に引っかかった。アルフは口を開きかけて、喉の奥で言葉を飲み込む。
(マジかよ、あの子なんて言い方、まるであのバケモンにヒトみたいな意思があったみたいじゃねーか。…あるのか?そんなこと)
言いかけて止めたのは、皮肉めいた反発心からではなかった。うまく言葉にできない何かが、胸の奥をざらりと撫でていく感覚があっただけだ。
「どうした、少年。顔が青くなったり赤くなったり忙しいね」
「……いえ、何でも」
誤魔化すように顔を背け、ようやくアルフは立ち上がる。
イゾルデはそれ以上の追及をやめ、代わりにアタッシュケースを瓦礫の上に置いて留め金を外した。中には見たこともないガラス細工の道具や、ずっしりと年季の入った革表紙の手帳が詰まっている。
「せっかくだから講義の続きといこうか。さっき言った通り、精霊が一箇所に凝集すると霊獣になる──だが、ただ集まるだけじゃ普通はダメなんだよ。核が要る」
「核?」
「肉体を保つための芯だよ。なんと例えればいいのか……」
イゾルデはこめかみをトントンと軽くたたきながら、後を続ける。
「普通の動物や人間も骨があるからこそ身体を保てるものだろう?彼らも同じさ、骨が要る。動物の死骸だったり、古い木の根だったり、ともかく普通は何かしらのかたちを持つものが芯となって霊獣は生まれるんだ」
イゾルデは手帳を取り出し、その一ページをアルフに向けて広げた。右上に大きく『霊獣発生の模式図』と題が書いてあった。
お世辞にも上手とは言えない独特なタッチであるが、獣の骨格らしき図と、それを覆うように渦を巻く模様が描き込まれているのが見て取れた。
「さっきの奴は、多分そこの瓦礫の下敷きになってた小動物か何かだろうね。生まれたてで核への定着も弱いから、姿も定まらない。コロコロ変わってね、君も見ただろう」
「見ました…あの、ちょっと関係のない話なんスけど」
「なんだい」
「さっきの…精霊術?この町、精霊が枯渇してるってさっき話したじゃないすか。でもあんな威力のが使えるなんて」
「…ほう?」
アルフがとつとつと話すだす。イゾルデは興味深そうに片眉を上げ、彼に話を促した。
「凄いは凄いんですけど…その、失礼かもしんないけどなんかおかしくないすか?燃料もろくにないのに機関車を動かしてやったぜ、みたいな…」
「そりゃそうさ、本来はおかしいんだもの」
イゾルデは笑いながらあっさりと答えた。あっけにとられるアルフを尻目にイゾルデは言葉を続けた。
「種明かしをするとね、王都から『燃料』を持ってきているのさ、こんな形でね」
そういって彼女は左手をのばして軽く手を振る。手首に巻かれたカラフルなガラス管の集まりがちゃりちゃりと音を立てて存在感を示した。
「向こうは『豊穣地帯』とも呼ばれるほど精霊の濃度が濃い。向こうからすればこれだけ持ってきても痛くもかゆくもないだろうが、この程度で精霊術には抜群な効能さ。ただ――」
とうとうと言葉を紡いでいたイゾルデの口がそこで一度閉じる。
「…ただ?」
アルフは先を促すように続ける。
もう一度イゾルデが口を開いたとき、さっきまでの飄々とした聴き心地は消えて、硬い調子にとってかわっていた。
「ここの精霊濃度の濃さに助けられた面も大きいんだ。この濃度はあまりにもおかしい。王都の外れ程度には濃いんだよ、既に枯渇しているはずのこの場所で──断定はできないが、原因の予想はつく。奥からだ」
「奥……坑道の?まさか、お目当ての霊獣から、ってことスか」
「可能性は高いね。さっきのはきっと、坑道奥の元気な子に惹かれて集まった精霊の吹き溜まりが、たまたま実体を持っただけの、言わばおこぼれだ」
イゾルデは手帳を閉じ、アタッシュケースに仕舞うと、目の前に口を開ける暗がりに向き直る。
「本命はこの先だよ。それではエスコートを頼もうかな、アルフレッド君──おっと、脅かしたつもりはないんだが、その顔はちょっと面白いな」
「その言い方は脅かしてんじゃねぇスか、思いっきり」
またにやけだしたイゾルデを尻目に、悪態をつきながらも、アルフは仕事道具の詰まったショルダーバッグを担ぎ直した。
膝の震えは正直に言えばまだ残っている。だが、坑口の奥に広がる闇を見つめていると、震えとは別の何かが、腹の底で疼き始めているのを感じた。
この闇の向こうにあるものが何であれ、もう行くしかないんだ…その感覚はいってみれば開き直りに近かったが、あの精霊術の爆発が恐怖の幾分かを一緒に吹き飛ばしてしまったらしい。
「……行きましょう。俺が案内するんで、離れないでくださいよ」
精一杯の虚勢でそう告げると、イゾルデは人を食ったような笑みを大きくする。
「頼もしいね、少年」
イゾルデがからかうようにいった。アルフは思わず眉を寄せる。
「あの、ここでいうのも何なんスけど…俺、少年って年でもないっス、もう少しで十八スよ」
「そうかい、でもわたしから見れば十分少年だよ、……おっと、それとももう所帯でも持っているのかい?それなら失礼」
「んな…そ、そんな人、まだいるわけないって」
思わず素を出して返すと、
「どっちにしろ、まだまだ少年だ」
イゾルデはとうとう声をあげて笑った。
二人分の足音が、崩れかけた坑口の闇に吸い込まれていく。
坑内に一歩踏み込むと、外の湿った朝の空気とは違う、重たい闇がまとわりついてきた。アルフは腰のベルトからカンテラを外し、火打石で灯を点す。橙色の光が壁を舐めるように広がったが、その光は非力で目の前にある暗闇をすべて払うことはできなかった。
「手慣れてるねぇ」
「機材の修理で何度も入ってるんで。……ここ、右です。左は行き止まりの旧坑道なんで」
アルフは迷いなく道を進む。壁に打ち込まれた支保工の木材は所々黒ずみ、傷つき、湿気を吸って膨らんでいた。天井から垂れる水滴が、カンテラの光を受けてぽつりぽつりと光った。
「この炭鉱、掘るのに蒸気機関の試験も兼ねてたんスよ。奥の方に、試作の掘削機がまだ放置されてるはずで──あ、そこ、足元気をつけてください。レールの継ぎ目が浮いてるんで」
「詳しいじゃないか、少年。技師見習いというより、もういっぱしの技師に見えるね」
「そ…そうスか?でもまだ全然っス。師匠には怒鳴られてばっかで」
不意に自分の能力を褒められ、アルフはぽっと浮かんできた気持ちをごまかすように答える。イゾルデはそれに気づいたのか気づかなかったのか、ふっと口の端を上げただけで道案内の先を促した。
しばらく無言で進むと、坑道の空気が変わった。湿気とは違う、肌を粟立たせるような冷たさが奥から流れてくる。カンテラの炎が不規則に揺れ、時折ぱちりと音を立てて弾けた。
「……なんか、おかしいな。寒くないスか?」
アルフが問いかけると、イゾルデは顔を引き締めた。
「ふぅん、君はそう感じるか」
「え、なんか俺、変なこと言いました?」
「あぁいや、おかしいってわけじゃないんだ。枯渇地帯から精霊がより濃い場所へ連れられてきた人は、そういう感覚を伴うことがある。慣れない空気に酔って、感じる温度に錯覚を起こすのさ。私は――」
聞きながら通路の角を曲がったところで、アルフの足が止まった。
ここまでの通路よりかはやや開けた場所だ、平時は資材置き場としてもつかわれていたスペース。
その場所から見えるところすべてに、カンテラの光が届く範囲の壁一面に、巨大な爪で抉ったような傷が幾筋も走っていた。入り口で見たものよりずっと深く、ずっと数が多い。まるで何かが、この壁を執拗に引っ掻き回ったかのようだった。
「……これ、マジかよ」
アルフが呻く。イゾルデは無言で傷跡に近づき、指先でそっとなぞった。その表情から、先ほどまでの人を食ったようなニヤニヤは影を潜めていた。
「アルフ君。念のため聞くけど、この先に試作機とやら以外に、金属製の大型設備は?」
「いや……無いはずっス。何で──」
「傷の間隔だ。さっきの霊獣と比較しても、爪の間隔が広すぎる。これを付けたものは、少なくとも……君の背丈の数倍はあるね」
闇の奥から、遠く低い音が響いた。獣の唸り声とも、金属が軋む音ともつかない、腹の底に直接響くような音だった。
「聞こえたな、アルフ君。ここから先は、私の後ろにいてくれ。──ここからは遊びじゃない」
(さっきまでは遊びだったのかよ)
ぱっと浮かんだ皮肉も口には出さず、アルフはおとなしくイゾルデに前を譲った。喉はからからに渇き、手にしたカンテラの重さが、いつもの倍にも感じられる。
二人は歩みを再開した。今度は先ほどまでより慎重に、足音を殺しながら。曲がりくねった坑道はやがて緩やかな下り坂になり、空気に混じる鉄錆びのような匂いが徐々に強くなっていく。
道標を過ぎた先で、坑道はふいに広い空間に出た。かつての試掘区画なのだろう、天井は高く、支保工の代わりに石造りのアーチが組まれている。カンテラの光ではとても全体を照らしきれない、洞窟のような広間だった。
その奥、暗闇の中に、何か大きなものの輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。動いてはいない。だが、その表面には規則的な間隔で淡い光が明滅していた。
「イゾルデさん、あれ……」
「見えている。動かないで」
イゾルデは囁くようにそう言うと、静かにアタッシュケースを地面に下ろした。二人はカンテラの光を絞りながら、じりじりと距離を詰める。
それは単なる獣ではなかった。
黒ずんだ金属の塊が暗闇の中、半ば岩盤に埋もれるように横たわっている。表面は複雑に入り組んだ管や歯車、溶け落ちた結晶のようなもので覆われ、所々が醜怪なまでに歪んでいた。
そこから、幼児が工作で適当に付け足したような乱雑さで四肢と頭が生えていた。
怪物の姿に、アルフは、子供の頃に読んだ小説の挿絵に出て来た亀型のドラゴンを思い起こさずにはいられなかった。
怪物の四肢はひび割れ、その隙間から明滅する赤黒い光が漏れ出している。
まるで、傷口から血が滲むように。




