第17話 残響
張り詰めた沈黙の中、イゾルデの指先に集束した赤い光が、臨界に達したのか目を刺すような光量にまで跳ね上がった。
周囲の空気が唸りを上げ、離れた場所にいるアルフの肌にすら、その熱が伝わってくるようだった。木々の葉が光の圧に押されるようにざわめいている。
アルフは息を止めて、その光景を見守っていた。これが、姉との最後の対面になるかもしれない。そう思うと、叫び出したい衝動と何も言えない無力感とが、同時に胸を締め付けた。
「”火精の――」
詠唱の途中で、その声がわずかに震えた。獣もまた、迎え撃つように身構えている。翼を大きく広げ、隠されていた上半身が、月明かりの下に完全に晒された。
その顔が、アルフには一瞬、微笑んでいるように見えた。まるで、これから何が起きるのかを、全て受け入れているかのような、そんな静かな表情だった。
土の錐に縫い留められたままの身体は、逃げることも、抗うこともできない。それでも、恐怖の色は見えなかった。ただ、静かに、その瞬間を待っているようだった。
その時だった。晒された喉の奥から、震えるような、掠れた音が漏れ始めた。
「……アル……フ……」
声だった。低く、掠れてはいたが、紛れもなく人の声。しかも、忘れるはずのない、あの懐かしい響きを残していた。
アルフは全身が凍りつくのを感じた。詠唱はもう、止められる段階を過ぎていた。指先に集束した精霊は、既に解き放たれる寸前まで膨れ上がっている。
「姉ちゃん……!?」
「――断罪”!」
詠唱の完成と同時に、凄まじい熱量とともに太陽にも似た灼熱の光球が膨れ上がる。誰の目にも、それは獣の心臓部――人間の上半身めがけて放たれたように見えた。アルフは思わず目を閉じかけた。
だが、膨らんでいく方向が異なった。地上に生じた小さな太陽は、霊獣を消し飛ばす前に、不自然に空へ向けて、日が昇るように跳ね上がった。霊獣の意志とは無関係に弾かれたかのような、不自然な逸れ方だった。
轟音と熱波。獣の頭のすぐ横の岩壁が抉れて崩れ落ちる。爆風が獣の翼を大きく揺らし、体勢を崩させたが、その身には傷一つ残らなかった。土煙が辺りに立ち込め、しばらく視界を覆い隠す。
「イゾルデさん……!」
「……馬鹿な、こんなことが」
その声は掠れ、これまでのどんな一言よりも動揺を隠しきれずにいた。イゾルデは自分の右手を、信じられないものでも見るように見つめていた。
「狙いを外すつもりなんて……だが、あの声……確かに人の声だ。まさか本当に……?」
その手は、まだ小刻みに震えていた。渾身の一撃を、土壇場で自らの意志とは裏腹に逸らしてしまった衝撃が、まだ全身に残っているのだろう。彼女の膝が、崩れ落ちそうになるのを、アルフは横目で見た。
膝をついたイゾルデに駆け寄ろうとしたが、目の前の光景から目が離せず、足が動かなかった。
「――アルフ君、今すぐに逃げろ。もう奴を倒せるだけの力は私には残っていない。ここでせめて奴を食い止める。君は王都に救援を」
「待ってくれ、イゾルデさん」
イゾルデが悲壮な覚悟で霊獣を食い止めようとするが、アルフはそれを止めた。霊獣の様子が、明らかに先ほどまでとは異なっている。
アルフの全身に、ひょっとしたらという希望がゆったりと湧きあがってくる。その衝動に突き動かされるまま、アルフは霊獣に少しずつ近寄っていった。
獣は、しばらくその場に立ち尽くしていた。何が起きたのか、理解しかねているようだった。菫色の瞳が、イゾルデを、そしてアルフを、交互に見つめる。
攻撃されると分かっていて、それでも声を上げずにはいられなかった。だというのに、傷一つ負わされることなく、こうして立っている。
その事実に、獣自身が戸惑っているように見えた。喉の奥から漏れる音は、もはや咆哮ではなく、戸惑うような小さな呻きに変わっていた。
その戸惑いの表情は、これまでのどんな仕草よりも、生々しく人間的だった。
やがて、獣はゆっくりと後ずさりを始めた。攻撃してこない。逃げるように、少しずつ距離を取っていく。
「姉ちゃん……!」
アルフが一歩踏み出すと、獣の動きが止まった。
人間の上半身が、再び震えるように何かを紡ごうとしていた。喉の奥から絞り出すような、苦しげな音が漏れる。何度か言葉にならない呻きを繰り返した後、やがて、掠れた声が再び漏れ始める。
「ア、ル……フ」
先ほどの一言と同じ、あの懐かしい声音だった。十年間、夢の中でしか聞けなかった響き。高く、少し舌足らずな、いつも自分をからかう時のあの声。
アルフは声も出せずに、その場に立ち尽くした。頭では分かっていたつもりだった。だが、実際にその声を聞くという経験は、頭で理解することとはまるで違う衝撃を伴っていた。
十年間、何百回、何千回と、この声を思い出そうとしてきた。だが、記憶の中の声は、年月と共に少しずつ輪郭を失い、朧げになっていくばかりだった。
それが今、こんな形で、確かな実体を伴って耳に届いている。夢ではないと分かっていても、まだ現実感が追いつかなかった。
「姉ちゃん…姉ちゃんだよな……?聞こえてる? 僕だよ、アルフだ……!」
「……ごめ……ん、ね……」
途切れ途切れの言葉が、風に乗って辛うじて届く。それが謝罪の言葉なのか、完全に聞き取ることはできなかった。だが、その声に滲む悲哀の感情だけは、痛いほど伝わってきた。
「ごめんねって……謝ることなんて、何もないよ! 姉ちゃんは、何も悪くない……!」
アルフの叫びに、獣の瞳が、微かに揺れた気がした。翼の先が、小刻みに震えている。まるで、こちらの言葉を、必死に受け止めようとしているかのように。
「……さが……し…………」
最後にそう聞こえた言葉を最後に、獣は再び声を発することはなかった。
それは本当に姉の意識を保った言葉だったのか、それとも核が反射的に生み出した音の羅列に過ぎなかったのか、探してほしいのか、それとも、探すことをやめてほしいという意味なのか。
獣は最後にもう一度、こちらへ向かって小さく頭を垂れた。まるで、別れの挨拶のように。翼の隙間から覗く瞳が、最後にもう一度だけ、アルフの姿を焼き付けるように見つめる。
その瞳に浮かんでいたのは、恐怖でも、憎しみでもなかった。ただ、静かな、そして深い愛おしさのようなものだった。十年前、家を出る朝に見せていた、あの何気ない微笑みと、どこか重なるものがあった。
それから翼を大きく広げると、身を翻し、岩場の向こうの闇へと姿を消していった。翼の羽ばたきと疾駆する足音が、次第に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
虫の鳴き声も聞こえない、痛いほどの静寂が山中に戻る。
風だけが、音もなく二人の間を吹き抜けていく。焦げた木々の匂いと、まだ燻る土煙の気配が、この数分間に起きたことが夢ではなかったのだと、否応なく物語っていた。
アルフはその場に崩れ落ちた。膝から力が抜け、指先すら動かせない。
「……探して、って……そう、言ったんスかね、今」
「ああ。私にも、そう聞こえた」
「……ごめん、だって。俺のほうがずっと、姉貴に言いたかったんだよ。守れなくてごめんって。一人だけ残ってごめんって」
止めようとしても言葉が止められない。本当はもっと言いたいことがあったはずだった。安堵とも、喪失感ともつかない感情が、涙となって溢れ出した。嗚咽が、抑えようとしても止まらなかった。
「アルフ君、君のお姉さんが言おうとしていたのはそういうことじゃない。それに――君が残っていたからこそ、ここでお姉さんの声が引き出せたんだろう、君はここにいるべきだったんだ」
イゾルデはそう答えながら、静かにアルフの隣に膝をつく。その手が、そっとアルフの肩に置かれた。
しばらくの間、二人は言葉もなく、ただ夜風の音だけを聞いていた。
アルフの涙が止まるまでには少しの時間が必要だった。顔をぐしぐしと擦り、泣き跡を少しでも収めようとする。
それでも収まらないのは分かっていたので、アルフは話題を逸らすかのように、ふいとイゾルデに話題を振った。
「……イゾルデさん、その……この結果だと、討伐命令を破ったことになるんスよね」
言葉に出してから、しまった、となるのは何回目だっただろうか。配慮に欠けた物言いとなったことに後悔しつつ彼女の反応を見ると――
「ああ、そうなるね」
その声には、迷いも後悔もなく、ただ覚悟だけがあった。
「命令違反、職務不履行は、それだけで霊獣狩りにとって重い処分の対象だ。下手をすれば、資格の剥奪もあり得る」
イゾルデは膝についた土を払いながら、静かに立ち上がった。その表情には、迷いよりも、むしろ晴れ晴れとしたものが見えた。
「王都には、討伐に失敗した、と報告する。個体は発見したが、地形と私の実力不足により取り逃がした、とね」
「実力不足って……あんた、さっきの一撃、当てようと思えば当てられてたんじゃ……」
「そう、つまり嘘をつくのさ」
イゾルデはあっさりと言ってのけた。あっけにとられるアルフを尻目に、イゾルデは――いつぶりに見ただろうか――こちらをからかうような笑みを見せた。
「馬鹿正直に『人間の意識を持っているかもしれない、研究対象として捕えて解剖するのにピッタリの霊獣がいました』と報告するよりかは、無能な霊獣狩りの失態、で片付けてもらった方があの子への追及もまだ緩い。今回のことで私の評価が地に落ちるくらい大したことはないさ」
「そんな……あんたの今までの実績とか、それでいいんスか」
「いいのさ。実績なんてものは、また積み直せばいい。だが、今この瞬間の判断を間違えたら、それこそ取り返しがつかない」
その言葉の裏にある覚悟の重さを、アルフは今更ながらに噛みしめた。彼女は、自らの立場と、これまで積み上げてきたものを、迷いなく差し出そうとしている。彼女の両の眼には、強くまぶしい意志が見えた。
「それに」
イゾルデは、いつもの飄々とした調子を少しだけ取り戻して、付け加えた。
「私はもう、あの子を『研究対象』や『資源』としてじゃなく、ちゃんと一人の人間として見た。そう決めた以上、今更に王都の顔色を窺うつもりはないよ」
「……あんた、もしかして最初からそのつもりだったんスか。ここに来る前から」
「いいや、ついさっき、この目で見るまでは『ありえたらいいだろうな』というレベルの希望だったさ。だが、現に見てしまったからには――」
イゾルデは夜空を見上げたまま、静かに続けた。
「報告書に嘘を書くというのは、霊獣狩りとしては重い裏切りだ。だが、目の前で人を見捨てることの方が、私にはよほど重い罪に思える」
「……ありがとう、ございます」
「礼はまだ早い。この先、まだ何も終わっちゃいない」
イゾルデはそう言って、夜空を仰いだ。星々が、いつもと変わらず静かに瞬いている。
「あの子が言った通りだ。探すんだよ、これから。今度こそ、答えが見つかるまで」
その言葉に、アルフはまだかすかに残っていた涙を拭い、立ち上がった。
姉の言葉が残響のようにまた思い起こされる。
「『……さが……し…………』」
アルフの決心にはその一言で十分だった。そのとおりだ、探してやるとも。心の奥には、これまでとは違う灯が点っていた。
二人は、しばらくその場に佇んだまま、獣が消えていった闇の奥を見つめ続けていた。
姉が最後に見せた表情、そして途切れ途切れの言葉。それが本当に姉自身の意志だったのか、それとも核に刻まれた記憶の残滓が偶然形を成しただけなのか、答えを出すには性急に思える。だが、あの言葉が、アルフたちを徹底的に変えてしまったことは疑いようがなかった。
アルフは、握りしめていた拳をゆっくりと開いた。手のひらには、爪の跡がくっきりと残っていた。
「行こうか、アルフ君」
イゾルデが静かに手を差し出す。アルフはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
山を下る道は、来た時よりもずっと長く感じられた。それでも、二人の足取りに、迷いはなかった。月明かりに照らされた山道を、二人は一歩ずつ、確かめるように歩き出した。
途中、アルフは何度も、獣が――姉が消えていった方角を振り返った。その度に、イゾルデは何も言わず、ただ隣を歩き続けた。急かすことも、慰めることもせず、ただそこにいてくれる。
この先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。それでも、これからの答えだけは、はっきりと胸に刻まれていた。




