第18話 霊獣兵器と化した姉を討伐役の精霊術師がこっそり見逃してくれた後の顛末
クレーターズリムに戻った二人を待っていたのは、万歳三唱が唱えられるわけでもなんでもない、拍子抜けするほどいつも通りの町だった。
ただ、事情を詳しく知るものは役場に勤めている一部のものしか知らないはずだが、通りすがりの人間たちは老若男女問わず、こちらをちらと見ては
「ああ、何かが終わったんだな」
という安堵の表情を見せ、一人ならば通り過ぎ、複数人で歩いていればこそこそと何やらうわさ話に興じる。
それを『する』のではなくて『される』対象になっていることが、どうにもアルフにはむずがゆかった。
役場の離れ、修理の入った工房の壁は、真新しい木材の色だけが不格好に浮いていた。
師匠は帰ってきた二人の顔を見るなり、
「おう、帰ったか」
とだけ言って、それきり何も聞かなかった。聞かないことが、この人なりの気遣いなのだとアルフにも分かっていた。
ただ、その夜の夕食には、普段は決して出てこない上等な肉が並んでいた。本当に普段と変わらず、自分たちが町を出ていた時に町に起きた話をつらつらと語る師匠の横で、アルフもまた何も言わずに箸を進めた。
町長には、討伐に失敗した旨だけを短く伝えた。
町長は目に見えて青ざめたが、イゾルデが、あの個体はこの地方から離れ、町への危険はないだろうと言い添えると、ようやく胸を撫で下ろしていた。
「そ、それはそれはよかった、この上なき報告にこの私、喜びを隠そうと思ってもスキップしようとするこの両の足を抑えることがとんとできませんで、やると決めた誓いは必ず果たすその姿、近所の嘘つきメリアばあさんにも爪の垢を煎じて飲ませていただきたいくらい――」
「町長。それと、坑道の立ち入り禁止も、もう解いていただいて構いません」
イゾルデが長広舌を遮ってそう告げると、町長の足踏みがぴたりと止まった。
「それは……つまり、炭鉱を、再開してもよろしいと?」
「ええ。原因となっていたものは、もうあそこにはありませんから」
町長がその意味を飲み込むまでに、たっぷり数秒かかった。それから彼は、これまで聞いたこともないような素っ頓狂な声を上げると、上着の裾を翻して役場の方へ駆け出していった。長広舌の続きはとうとう最後まで語られなかった。
その日の夕方には、もう町中にその話が広まっていた。半年近く止まっていた町の心臓が、ようやくまた動き出す。夜の通りには、久しぶりに酒場の賑わう声が響いていた。
嘘ではない。ただ、すべてを言っていないだけだ。
あの山で見たものをそのまま言葉にして誰かに渡すことは、アルフにはどうしてもできなかった。喜びに沸く町の声を遠くに聞きながら、罪悪感がないと言えば嘘になる。だが、それでいいのだと、自分に言い聞かせた。
その夜、イゾルデは工房の隅の机に向かって、報告書を書き始めた。羽根ペンの走る音が規則正しく響き、かと思えば時折その音が途切れ、長い沈黙が落ちる。
師匠からもらってきた茶を差し入れて、アルフは彼女のこの行動が終わるまで付き合おうと横に座ってじっとしていた。壁掛け時計の針は、酒場も往々にして店じまいを始めそうな時間を指し示している。
「手、止まってますよ」
「ああ。嘘というのは、案外、書くのに骨が折れるものだね」
口から出る時は一瞬なんだけど、と余計な一言を付け加えつつイゾルデは答えた。声にはいつもの飄々とした調子が戻っていたが、机に置かれた紙の束は、既に何枚も書き損じられている。
「……どうしても無理そうなら代わりに書くっスよ、代筆とか何とか言って」
「気持ちだけ受け取っておくよ。これは、私が書かなければ意味がない」
元から受諾されるとは思えなかった冗談だったが、真剣にそう言うと、イゾルデは再びペンを取った。
その背中を見ながら、アルフは差し入れた茶の入ったカップをちらりと一瞥した。すっかり冷めてしまった茶は、少しも減っていない。
この人は今、自分がこれまで積み上げてきたものを、一枚の紙の上で自ら壊そうとしている。誰に強いられたわけでもなく、ただ自分の意志で。
枯渇地帯の村から連れ出され、才能を認められ、精霊術師として生きてきたこの十数年を支えていたのが、王都からの信頼だったはずだ。
それを、自らを無能とする嘘と、それよりももっと大きな、しかし一行すらない嘘で手放そうとしている。
「……あの、イゾルデさん」
「なんだい」
「本当にいいんスか? 後になって、その……後悔とか」
しばらくの沈黙の後、イゾルデはようやく振り返った。その顔には精神的な疲労が濃く出ていたが、それでも表情そのものは穏やかだった。
「後悔なら、書かなかった場合の方がずっと大きいさ」
その一言に、アルフはもう何も言えなくなった。
やがて羽根ペンの音が止み、イゾルデは深く息を吐いた。
「……できた」
差し出された報告書を、アルフは読まなかった。読む必要がなかった。そこに何が書かれていないのかを二人とも分かっていたのだから。
翌朝、報告書は王都行きの便に託された。
◆◇◆
返事が届いたのは、それから十日ほど後のことだった。
それまでの十日間、二人は表向きは何事もない日々を過ごした。アルフは工房の修理を手伝い、町の機材を直し、イゾルデにはもはやするべき仕事もなく、工房に出てちょっかいをかけたり、来客用のスペースで本を読んで過ごしたり、そして、夕方には食卓を囲んで他愛もない話をする。
どのような処分が下るのか。最悪の場合、イゾルデは精霊術師の資格そのものを失うかもしれない。それを口に出す者はいなかったが、その可能性は常に二人の頭の片隅に居座り続けていた。
届いた書状は、例の格式張った封蝋ではなく、簡素な紙に包まれた、私信に近い体裁のものだった。宛名の字を見た瞬間、イゾルデの表情がわずかに強張ったのを、アルフは見逃さなかった。
「……先生からだ」
飛びつくようにして書状を受け取り、だが封を切る手つきは、これまでのどんな書状を開く時よりも慎重だった。
二人で並んで覗き込んだその紙には、驚くほど短い文が並んでいた。
『報告書は受理した。
処分については、減俸および当面の辺境勤務とする。王都と電信による即時の連絡が取れる都市へ戻り、赴任地の決定を待て。
異論は認められない。
なお、貴下の術の精度等に関する記述は、私の知る貴下の技量と一致しない。
だが、報告書という題で送られてきたからにはそういうものなのだろう。
いずれ、また会った時に、思い出話でも聞かせてもらうことを楽しみにしている。
追伸――次の任地は不定だが、北の寒地に行かないとも限らない。身体には留意せよ』
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……これって」
「参ったね、多分こっちが何かをごまかしたことはもうバレてる」
イゾルデは書状の文を確かめるように指でなぞり、ばつの悪そうな笑いを浮かべた。
「合理主義の塊みたいな人でね。任務に感情を挟むなと、散々叩き込まれた。 ……その人が、こんな書き方をするとは思わなかった」
その声には、驚きと、それを上回る柔らかい感情が滲んでいた。
「怒られなかったんスね」
「怒られたさ。減俸プラス辺境行きだ。それでも――本当にあの報告書を基に処分を下すならこんな回りくどい書き方はしない。技量と一致しない、だなんて……あの人は私が意図的に霊獣を見逃したと感づいてる」
「……なのに、そこを追及しないんスか」
「追及すれば正式な査問になる。そうなれば私だけの問題では済まないし、あの子のことも掘り返される」
イゾルデはそう言って、書状を丁寧に折りたたんだ。指先が、その紙の端をなぞるように動いている。
「わざと、追及しない道を選んでくれたんだ。……見逃されたんだよ、私も」
その夜、工房の外の階段に並んで腰掛けながら、イゾルデが切り出した。
「アルフ君、一つ提案があるんだが。辺境勤務と言われたがね、任地の指定はまだない。それに、討伐に失敗した個体の追跡と経過観察は、担当者である私の責務だ」
「……つまり?」
「つまり、私はしばらく、行方の分からない霊獣を追って各地を回らなければならない。名目上はね」
イゾルデは夜空を見上げたまま、そう続けた。
「君も、探すんだろう。お姉さんを」
「……バレてましたか」
わざとすっとぼけた風をよそおって返事をすると、イゾルデは目を寄せてため息をついた。
「バレるというか……分かるに決まっているだろう、私にあれだけの啖呵をきるほど想っていたお姉さんを、私に任せて探しません、なんて万が一言おうものなら私にも考えがあるところだ」
「それはおっかないっすね……もちろん、俺だって姉貴を探しに行きます、町を出ようと思ってて」
「なら、都合がいい。一人で回るより、二人の方が効率がいい。それに、君は霊獣の構造についてはそこらの研究者より詳しくなってしまったからね。現地協力者としてはこれ以上の適材はいないと思っている」
その言い方は相変わらず理屈っぽく、素っ気なかった。
「王都の偉い人がわざわざ、こんな煤臭い技師見習いを連れ回す理由がそんなんでいいんスか?」
悪戯まがいに聞き返してみると、イゾルデはしばらく黙っていたが、やがて肩を揺らして笑った。
「そうだね。本当は理屈抜きに君にもついてきてほしいんだ。単純に君をまたお姉さんに会わせてあげたい。それが半分」
「半分?」
「そう、もう半分は――私も、答えが知りたい。あの子が何を望んでいるのか。私が見逃した判断が、正しかったのかどうか。それを確かめないまま、他所で任務をこなす気にはなれないんだよ」
その横顔は、月明かりの下で静かに澄んでいた。
「それに、これは私の勝手な理屈だけどね」
イゾルデは膝を抱え直しながら、独り言のように続けた。
「私も、あの子も、自分の意志とは無関係に、この枯渇地帯という土地から引き剥がされた。……私はもう戻れない場所を持ってしまったが、あの子には、まだ戻れる可能性が残っているかもしれない」
その言葉に、アルフは何と返せばいいのか分からなかった。ただ、この人がなぜここまで自分に付き合ってくれるのか、その理由の一端に、ようやく触れられた気がした。
「……よろしくお願いします、イゾルデさん」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
アルフは、差し出された手を、迷いなく握り返した。あの日、駅のホームで初めて握った時とは違う、確かな体温がそこにあった。
◆◇◆
旅立ちの朝は、よく晴れていた。
「本当に行っちまうのか」
師匠は仕上げたばかりの工具箱を、アルフの手に押し付けながらそう言った。中には、この工房で使い込まれた工具が、丁寧に選り分けられて収まっている。
「……はい。すみません、勝手ばっかりで」
「謝るんじゃねぇよ、辛気臭え」
師匠は乱暴に鼻を鳴らすと、それきり黙り込んだ。しばらくして、思い出したように付け加える。
「……戻ってきたくなったら、いつでも戻ってこい。お前が座ってた椅子は、当分空けとくからな」
「はい。……工房、これから忙しくなるんじゃないっスか。炭鉱が動き出すってことは、直すもんも山ほど出てくるでしょうし」
「そりゃあな。おかげさんで、当分は食いっぱぐれずに済みそうだ」
師匠は肩をすくめてみせたが、その口ぶりに嫌味の色はなかった。
半年ぶりに動き出す炭鉱には、修理待ちの機材が山のように眠っている。人手が要る。それが分かっていながら、それでも師匠は引き止めない。
その言葉に、アルフは深く頭を下げた。サイズの合わないキャスケットが前のめりに下がり、目元を隠した。それ以上何か言えば、また涙が出そうだった。
工房の戸口で振り返ると、師匠はもういつもの作業台に向かっていた。こちらを見送りもせず、黙々と手を動かしている。だが、その手が普段より随分と雑になっていることに、アルフは気づかないふりをした。
駅のホームには、来た時と同じ黒く煌びやかな外套を身にまとったイゾルデの姿と、あと町長の姿もあった。相変わらずの長広舌で見送りの言葉を並べ立てていたが、最後に「達者でな、アルフ君」とだけ、いつもの一割ほどの長さで言い直した。
その目は、少なくとも『信用のならない半人前』を見る目では、もうなかった。
思えば、この町の人間に見送られるという経験自体が、アルフには初めてのことだった。十年間、自分はこの町を出ることもなく、ずっと余所者のような顔をして生きてきた。それが今になって、こんなにも見送られている。
やがて、機関車が白い蒸気を吐きながら駅に滑り込んでくる。
あの日、この同じホームで、アルフはキャスケットを目深に被って、降りてくる余所者を遠くから睨みつけていた。あれから、まだ数か月も経っていない。それなのに、あの日の自分が、ずいぶん遠い誰かのように思えた。
「乗ろうか、アルフ君」
「……はい」
汽笛が鳴る。町の景色が、ゆっくりと後ろへ流れ始めた。
窓の外を、煤けた屋根が、坑口が、そして遠い山並みが、次々と過ぎ去っていく。
久しぶりに人の出入りする坑口の周りには、朝から作業員たちが集まっていた。汽車の窓からでは表情までは見えなかったが、その動きの活気だけは、遠目にもはっきりと伝わってくる。あの町は、もう自分がいなくても回っていく。
この町のどこかに、まだ姉の面影が残っている気がして、アルフは目を凝らした。だが、それも次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
姉がどこにいるのか、まだ人としての心が残っているのか、いつか元の姿に戻せるのか。それらは未だ、何一つ分かってはいないが、探すという答えだけはもう揺らがなかった。
あの日、瓦礫の下で指一本動かせなかった自分は、もういない。今の自分には、動かせる手と、進むべき道標がある。それだけで十分だった。
隣の席で、イゾルデが窓の外を眺めている。その手首では、新しく補充されたガラス管が、揺れるたびに小さな音を立てていた。
「イゾルデさん」
「なんだい」
「……なんでもないっス」
「ふふ、そうかい」
何を言おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。ただ、この人がここにいるという事実を、もう一度確かめたかっただけなのかもしれない。
列車はまだ見ぬ土地へと向かって走り続ける。
あの日から止まったままだった十年が、ようやく、動き出した気がした。




