第16話 接敵、あるいは姉の形を取る何か
山道を進むにつれ、空気は肌を刺すように冷たくなっていった。
木々の隙間から差し込む月光だけを頼りに、二人は無言で足を進めていた。会話をする余裕はもうどちらにもなく、ただ、足跡の続く先に何があるのか、その確信だけが二人の足を止めさせなかった。
山の中腹、開けた岩場に、それは佇んでいた。
足跡はここで途切れていた。まるで、最初からこの場所で待ち構えていたかのように。
二人は木々の合間から、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。夜風が木の葉を揺らす音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
アルフは息を呑んだ。目の前にいる霊獣は、もはや工房を襲ったあの姿とは、明らかに違っていた。
下半身は依然として獣の型を保っていたが、より筋肉質な見た目となっており、八本の脚が長く伸びていなければ猛牛とも見えたかもしれない。そして頭部にあったはずの肉塊は、完全に人の形を取っていた。馬の首の付け根から、女性の上半身が生えている。その背から折り重なるように広がった何対もの翼が、その姿を覆い隠すように包み込んでいた。
月光を浴びたその輪郭は、恐ろしいほど静謐だった。工房で暴れ回っていたあの姿とはまるで別物のように、今は落ち着き払って佇んでいる。まるで、あの核を取り込んだことで、ようやく本来あるべき形に近づいたかのようだった。
「あれが……」
言葉が続かなかった。翼の隙間から覗く肌の色、輪郭。紛れもなく、記憶の中の姉の姿だった。
十年という歳月を挟んだはずなのに、その姿は、あの日のままの若さで止まっていた。
「油断するな。以前よりも、明らかに完成された姿だ」
イゾルデが低く警告する。手甲のガラス管には、出発前に補充したばかりの新しい精霊が、じゃらりと重い音を立てて並んでいる。だが、その数は坑道奥での対決の時と比べると明らかに少ない。今日という日のために残ったものをかき集めてきたのだろうが、出だしからこちらの不利は否めなかった。
獣が、ゆっくりと頭をもたげた。菫色の瞳が、まっすぐにこちらを捉える。
その一瞬の静寂が、かえって二人の緊張を極限まで高めた。攻撃してくるのか、それとも去っていくのか、判断がつかない。
「……エヴェリン……!」
アルフとしては叫んだつもりだったが、口から出てきた姉の名は、獣のもとまで届くかどうかというところのかすれた声であった。
翼が開き、姉の姿をしたそれがあらわになった。
獣は、姉の姿をしたそれは、まるで昔こちらの不出来を叱ってきたときのような表情を見せ、大儀そうにこちらを一瞥する。
次の瞬間、獣の口が大きく開き、獣とも人ともつかない甲高い咆哮が山中に響き渡った。
「来る……!」
イゾルデの叫びとほぼ同時に、咆哮の余韻から、赤い火球がいくつも生まれ、こちらへ殺到した。
「隠れろ、アルフ君!」
「くっ……危ねぇ!」
狙い自体は些末なものではあった。二人は咄嗟に岩陰に転がり込み、火球は大した追尾も見せずに先ほど二人がいた場所を通り過ぎる。背後で爆風が木々を薙ぎ倒し、焼け焦げた匂いが辺りに立ち込めた。
「……詠唱なしでこれだけの威力か!」
イゾルデの声に、隠しきれない驚きがあった。獣は言葉を紡がない。だが、ただ吠えるだけで、精霊術に似た現象を引き起こしている。第二波が容赦なく二人の隠れる岩場に襲い掛かった。
「核が直接精霊を操っているんだろう。必要な精霊は恐らく自らの肉体から取り出しているんだ。詠唱を介していない分、狙いは粗いが……!」
その言葉通り、獣の攻撃は威力こそ恐ろしいものの、正確にこちらを狙ってはこなかった。それでも、避けきれない余波だけで、岩場のあちこちが抉れ、砕けていく。木の裂ける音、岩の砕ける音が絶え間なく響き、まるで戦場のような有り様だった。
獣が今度は前脚を大きく踏み鳴らすと、地面から鋭い氷の柱が何本も突き上がった。周囲の気温が一気に下がり、吐く息が白く染まる。
「アルフ君、右!」
言われるより早く、アルフは横に跳んだ。氷柱が頬をかすめ、薄く血が滲む。少しでも反応が遅れていれば、頬どころでは済まなかっただろう。
「火だけじゃねえのかよ! どうにかなんないんすか!?」
「核を取り込んだことで、扱える力の幅が広がったんだろう。あるいは、君のお姉さんの力の《《たまもの》》かもね」
イゾルデは冷静そうに分析しながらも、その額には既に汗が浮き始めている。
休む間もなく獣は次の攻撃に移った。振り上げた前脚が地を薙ぎ払うと、その軌跡に沿って、風の刃が幾筋も走る。木々がまとめて薙ぎ倒され、砕けた枝葉が辺りに舞い散った。
二人は逃げ回りながら、霊獣の動きに大して有効な攻撃はないかと隙を見計らう。だが、向こうはそのような魂胆はわかっていると言わんばかりに次々と多彩な攻撃で二人を寄せ付けない。
「姉ちゃん、聞いてくれ!」
必死で霊獣へ呼びかけるが、それは大した反応を見せることもない。
声をかけるたびに、ここに来るまでに抱いていた淡い希望を裏切られ続け、アルフの胸中に昏い思いが少しずつ蓄積されていく。
「くそ、聞いてくれない…! それにこれじゃあ、防戦一方じゃないっスか!」
「分かってる! だが、闇雲に飛び込めば、反撃を受けてこちらが無駄に傷を負うだけだ!」
イゾルデの声にも、余裕のなさが滲み始めていた。傷は浅いものばかりだったが、それが積み重なれば、やがて致命的な隙になる。
「”風龍の痛打”!」
お返しとばかりに放たれた風の鞭が、獣の脇腹を捉える。だが、たいした怯みも見せず、獣はすぐに体勢を立て直した。
「硬い……! 見かけのわりにずいぶんタフだね」
以前にも聞いたようなセリフをイゾルデがはく。
彼女が攻撃で注意をひく中で、アルフは瓦礫の陰から、獣の動きを観察していた。
技師としての目が、何か獣に有効な打撃を与えられる隙がないか――そうして見ているうちに、アルフの眼は何かの違和感をとらえていた。
こんな時でも、身体に染みついた観察の癖だけは抜けなかった。機械の不調を見抜く時と同じ要領で、アルフは獣の一挙一動を数値化するように追い続けていた。
何度も攻撃を捌くうちに、その癖はより明確に見えてきた――喉元がぷくりと膨らみ、次いで色の違う光が喉の奥で瞬く。火なら赤、風なら透明がかった白、氷ならば青みがかった光。繰り出す術の特性ごとに、僅かだが違いがあるようだった。
「イゾルデさん、あいつの喉を見てくれ! 奴の喉の膨らみが――」
それ以上の言葉は火球の爆発に遮られてイゾルデの耳に届いたかどうかはわからなかったが、それだけでも十分だとアルフは確信した。イゾルデの口が大物を捕ったと言わんばかりにニヤリと歪む。
「よく見ている、少年! ならば――」
次に喉が膨らみ、赤い光が瞬いた瞬間、イゾルデは先んじて横へ跳んだ。放たれた炎の塊が、寸前まで彼女がいた場所を焼き焦がす。
「術の手本を今から見せてやろう!」
イゾルデは体勢を立て直すと、手の先を相手に突き刺すように前に出し、叫ぶ。
「”火龍の燐火”!」
じいっ――と、虫が飛ぶような不快な音とともに、彼女の周辺に五つの火球が現れた。制御を誤れば爆発でもするのだろうか、彼女は大きく目を見開き、瞬き一つすらしていない。凄まじいプレッシャーがアルフの元にも届くように感じられるほどだった。
「飛べ!」
その叫びとともに、それぞれが複雑な軌跡を描きながら、火球が霊獣のもとへ殺到する。獣は膨らませかけていた喉を引っ込め、大きく飛び退って直撃をかわそうとしたが、それすらも読んでいたかのように火球は獣に追いすがる。
五つの火球は全てが獣に着弾し、その瞬間それぞれが膨れ上がり、爆発を起こした。
たまらずに霊獣が悲鳴を上げる。致命的な傷は見られないものの、着弾した地点に明らかに火傷のような傷がついているのが見えた。
「いいぞ、効いている…アルフ君、まずは奴を弱らせる! 協力してくれ!」
「了解っス!」
相手の攻撃の隙が読めたのも大きいのだろう、二人の役割は自然と分かれていった。
アルフが持ってきた工具を投げるやら、即席で作ったスリングで石をぶつけるやらして獣の注意を引き、隙を作る。イゾルデがその隙を逃さず、的確に精霊術を撃ち込む。
言葉を交わさずとも、互いの動きが読めるようになっていることに、アルフは奇妙な感慨を覚えた。数週間前までは互いのことを何も知らない他人同士だったはずなのに、積み重ねてきた時間が、今この瞬間、確かな連携となって形を成していた。
一進一退の攻防が、なおも続いた。だが、時間が経つにつれ、消耗の差は次第に開いていった。イゾルデのガラス管は残り僅かになり、アルフの息も上がりきっている。
対照的に、獣はわずかに疲弊の様子を見せているものの、精霊術で負った傷は気が付けば少しずつふさがっていた。
まるで、無尽蔵の力の泉から、絶えず補給を受けているかのようだった。核と制御中枢、二つがそろっていることの意味を、アルフは今更ながらに思い知らされていた。
「イゾルデさん、このままじゃジリ貧っス……!」
「だろうね。だが、このままでは決め手に欠ける。核そのものを狙いたいところだが、どこに埋まっているのかも分からない」
イゾルデの声には、もはや余裕がはげ落ちていた。額に浮いた汗が、月明かりに光っている。呼吸も、これまでよりずっと荒くなっていた。
獣が一際大きく咆哮を上げ、地面ごと震わせるような衝撃波を放った。二人は堪らず後方に吹き飛ばされ、それぞれ木の幹や岩に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「アルフ君、無事か!?」
「なん、とか……! でも、もう長くは保たないっス」
立ち上がる二人の膝は、既に笑い始めていた。それでも、ここで退くわけにはいかなかった。
その時、獣が大きく息を吸い込むのが見えた。これまでとは比較にならない、最大の予兆だった。喉全体が大きく脈打ち、複数の色の光が同時に瞬いている。
「来るぞ、大きいのが……!」
アルフの警告と同時に、獣の姿が一瞬、大きくぶれた。まるで、内側で何かがせめぎ合っているかのように。輪郭が滲み、人間の上半身の部分だけが、一瞬だけ苦しげに歪んだ。
「――エヴェリン!」
アルフは叫んでいた。理屈ではなく、ただ本能的に。喉が張り裂けそうなほどの声だった。
その瞬間、獣の動きが、ぴたりと止まった。振り上げかけていた前脚が、宙で止まる。後ろ脚だけで大きく身を持ち上げ、まるで人が両手を広げるような仕草を見せた。その表情は、苦悶とも、安堵ともつかない、複雑な色を湛えていた。
だが、それも一瞬だった。獣は苦悶するように頭を振ると、再びこちらに向き直る。
「反応した……! だが、止まってはくれない、か……」
イゾルデの声には、落胆と、それでも消えない何かが同居していた。
「”土精の縫針!”」
イゾルデが叫ぶと霊獣の足元から先端が鋭くとがった石の錐が何本も生えて、獣の身体に突き刺さった。身体をその場に縫い留められ、獣が大きなうめき声をあげる。
「イゾルデさん!?一体何を――」
「もう、これ以上は保たない。決着をつける」
その声は、これまでのどんな時よりも静かで、それでいて重たかった。イゾルデは残る全てのガラス管に手をかけ、これまでにない量の精霊を、一気に指先へと集束させ始めた。
赤い光が、彼女の周囲の空気ごと歪ませていく。指先から立ち上る熱が、離れた場所にいるアルフの肌にすら感じられるほどだった。空気が唸り、辺りの草木が焼け焦げる匂いを立て始める。
「イゾルデさん、それ……」
「私の持てる最大の一撃だ。これで決めなければ、もう次はない」
その言葉には、迷いを振り切ろうとする響きがあった。彼女の指先は、微かに震えていた。
「アルフ君、下がっていてくれ」
その声に、有無を言わせぬ響きがあった。
アルフは息を呑んで後ずさりながら、イゾルデの横顔を見つめた。獣もまた、その気配を察したのか、大きく身構えている。まるで、これから何が放たれるのか、正確に理解しているかのようだった。
張り詰めた空気の中、時間の流れさえ緩やかになったように感じられた。虫の音も、風の音さえも、この瞬間だけは聞こえなくなっていた。
月明かりの下、二つの意志が、今まさにぶつかり合おうとしていた。




