第14話 工房の後始末、あるいは過去を想うイゾルデ
工房の片付けが一段落した頃には、すでに日が高く昇っていた。
師匠は町の建材屋に壁の修理を頼みに出かけており、工房にはアルフとイゾルデの二人だけが残されていた。崩れた壁の穴からは、昨夜の惨状が嘘のような、穏やかな昼の光が差し込んでいる。
イゾルデは肩の傷のせいで大きな動作ができず、代わりにアルフが資料の整理を任されていた。散らばった書類を拾い集め、破れた紙を仕分けていく作業は、単調だが、昨夜の出来事から気を紛らわせるにはちょうどよかった。
「こっちの束は、王都への報告用でしたっけ」
「ああ、その辺の上にまとめておいてくれ。核が奪われた件も、追って詳しく書き添える必要がある」
その辺、というのも至言ではあった。今の工房には棚だとか机だとか、名称で表せそうな場所はおおよそ残ってはいなかった。
イゾルデは壁にもたれたまま指示を出す。声にはまだ疲労の色が濃かったが、口調はいつもの調子を取り戻しつつあった。
「報告書を書き直すのは厄介そうスね」
「厄介どころじゃないよ。貴重な研究材料をみすみす奪われたんだ。担当者としての私の評価にも、多少なりとも響くだろうね……あぁ、なんということだろうか」
彼女はコートを翻して大仰に嘆く――肩の傷をかばった動作のせいで余計に仰々しく見えた――が、その口調にこちらをからかうときのような声音は見られなかった。少なくとも厄介であることに間違いはないのだろう。
「そんな暢気な感じに言ってられる場合なんスか?」
「暢気なわけじゃない。ただ、今更慌てたところで、もう状況は変わらないからね」
軽口の応酬をしながらも、アルフは黙々と手を動かし続けた。書類の山を右から左へ、丁寧に仕分けていく。単純作業は、思考を鈍らせるにはちょうどよかった。作業を続けるうちに、身体が半自動的に動くようになっていく。
やがてアルフは、紙の山から一冊の古びた薄い冊子を拾い上げる。表紙には、かすれた文字で『豊穣地帯移住者名簿・写』と書かれていた。
アルフは何気なくページを捲る。特別な意図があって読もうと思ったわけではなかった。内容を軽く確認し、イゾルデにどのように取り扱うべきかを聞くためのちょっとした作業。
そこには、ここのような枯渇地帯から移住した者の名前と出身地が、几帳面な字で列記されていた。
「イゾルデさん、これは?」
「それは……ええと、核に関する報告書に挟まっていた、この地域一帯の精霊術適性者・移住者の記録だ。後で報告書と一緒に焼き捨てておく必要があるな、さっきのとは別に置いておいてくれ」
「ふーん」
特に気に留めるつもりもなく目を滑らせていたその時、その中の一行に、目が留まった。
出身地の欄に記された地名は、聞き覚えのあるものだった。この炭鉱町から、そう遠くない場所にある、小さな精霊枯渇地帯の村。以前、行商人から聞いたことがある名前だった。
そして、その隣に書かれた名前は――イゾルデの名と、同じ響きを持っていた。
偶然だろうか。だが、名字だけでなく、記載された年齢や移住の時期を頭の中で計算すると、妙にしっくりと辻褄が合ってしまう。
「……イゾルデさん、これって」
「なんだい?他にここにあるものは大体王都からの…あっ」
冊子に視線を向けたまま聞くと、彼女の口から、間の抜けた声が漏れるのが聞こえた。
顔を上げると、イゾルデはもう、いつもの飄々とした表情を保てていなかった。
「……悪い奴だな、少年。人のものを勝手に盗み見するとは」
イゾルデは自らの不注意を棚に上げて苦笑する。言葉の内容とは裏腹に、観念したような、それでいてどこか安堵したような声だった。
「それ、あんたの……」
「ああ。私の、本当の出自だ」
イゾルデは深く息を吐くと、崩れた壁にもたれかかるように腰を下ろす。
「王都出身だと、はっきり言ったことはなかったはずだよ。君が勝手にそう思い込んでいただけで」
「……そう、かもしれないっスけど」
言われてみれば、確かにそうだった。イゾルデは一度も、自分の出自を明言したことはなかった。
ただ、王都から派遣されてきたという事実だけで、アルフは勝手に、彼女を豊穣地帯の生まれだと決めつけていた。
「私は、この町の近くにある村で生まれた。幼い頃に精霊術の適性を見出されて、豊穣地帯へ連れて行かれたんだ」
その声には、これまで聞いたことのないような、うつろな響きがあった。
「……連れて行かれた時のこと、覚えてるんスか」
「よく覚えているよ。まだ小さかった私を見て、王都から来た調査官が、まるで珍しい宝石でも見つけたかのような目をしていたのを。両親は複雑な顔をしていたけどね。誇らしさか、失うことへの寂しさがあったのか、それとも――安堵、かな?どれが正しいのかはわからない。もう何年も両親とは会っていないから」
「安堵、って……自分の子供を手放すのに、っスか」
「薄情だと思うかい? だが、あの村で生きていくよりは、豊穣地帯で精霊術師として生きる方が、よほど安全で豊かな人生だと、誰もが信じて疑わなかった。両親も、そう信じたんだと思う」
その口調には、両親を責める色はなかった。ただ、当時の自分と、その選択をした両親とを、少し離れた場所から見つめているような、褪めた諦観があった。
「私が生まれ育った村も、当時は霊獣の被害が増え始めていた地域でね。……実を言うと、私自身も一度だけ、危うく霊獣に取り込まれかけたことがある」
その告白を聞いて、アルフは思わずキャスケットのつばを大きく上げた。
「自然発生の霊獣に襲われて、逃げ遅れた。幸いその時、そばには私のことを王都から迎えに来た霊獣狩りがいたが……だがあの時のことは、今でも時々夢に見る。もし、あのままもう少し逃げ遅れていたら、今頃自分がどうなっていたか」
イゾルデは自嘲するように、小さく笑った。
「王都に連れて行かれてからは、故郷のことは、なるべく考えないようにしてきた。振り返ったところで何かが変わるわけじゃない。そう自分に言い聞かせて、精霊術の修練に打ち込んだ。……それが、正しかったのかどうかは、今でも分からないけどね」
アルフの脳裏に、二度目に坑道の前で話した時の記憶がよみがえる。
『何かを、必死に探し続けていた時期があった』。
彼女は精霊術の極め方でも探していたのだろうか、とその時は思った。――だがあるいは、心の奥底に沈み込んだ故郷を忘れる方法を探していたのかもしれない。
窓の外から、遠く町の喧騒が聞こえてくる。荷馬車の音、誰かの笑い声。昨夜の惨劇が嘘のような、これまでと変わらない町の日常だった。その音を背景に、イゾルデの独白は続く。
「才能を認められて、褒められて、周りからは羨ましがられて。傍から見れば、恵まれた人生に見えるんだろうね。それでも、夜、一人になると、時々分からなくなる。今の自分は、本当の自分なのか、それとも、王都という場所に都合よく作り替えられた誰かなのか」
その独白は、誰に向けたものでもないようだった。ただ、長年胸の奥に沈めてきた何かを、少しだけ空気に触れさせているような、そんな響きだった。
「…それは」
アルフは思わず声を挟んだ。彼女のその穏やかにも見える面持ちが、かえって胸に沈痛な思いを堆積させるように感じて、やりきれない気持ちがあふれる。
「正しいとか、間違ってるとか、そういうんじゃないと思うっス。その時を精一杯生きるために、そうするしかなかったんじゃないっスか」
その言葉に、イゾルデは一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、ふっと表情を緩める。
「……君は、時々、驚くほど的確なことを言うね」
「別に、大したこと言ってないっスよ」
「いいや、大したことだ。少なくとも、王都の連中は誰も、そんな風には言ってくれなかった」
イゾルデはそれ以上多くを語らなかったが、アルフにとっては、その沈黙は十分に重かった。
「昨夜、あの霊獣に狙われた時――正直、生きた心地がしなかったよ。あの化け物の気配が、幼い時の記憶と重なって、身体が竦んで動かなくなりかけた」
あの一言。『あんな風に狙われる気持ちは久しぶりだった』という、あの言葉の意味が、ようやくアルフの中で像を結んだ。
「公園で話していた時も、別に隠そうとしたつもりだったわけじゃないんだ。ただ、うまく言葉にする機会がなかった、というだけで」
イゾルデはそう言うと、まっすぐにアルフを見た。
「君の姉さんの話を聞いた時から、ずっと他人事だとは思えなかった。私が『取り込まれかけて』『連れて行かれた』側だったからこそ、『取り込まれた』側の痛みも、少しは分かるつもりでいる。……傲慢な物言いだけどね」
「そんなふうに言わなくてもいいスよ」
アルフは首を振った。相変わらずサイズの合わないキャスケットがまた視界を隠すが、お構いなしだ。
「むしろ、ちゃんと分かろうとしてくれてたってことっスよね。それを、ずっと黙って抱えてたんスか」
「話せば、君が私を哀れむんじゃないかと思ってね。そういうのは、あまり好きじゃないんだ」
「そんなことしないっスよ。……ただ、一人で抱えてたのが、勿体無いなって思うだけで」
その言葉に、イゾルデは少しの間無言を貫き、それから耐えきれないといわんばかりに小さく笑った。
「勿体無い、か。王都の連中からは出てこなさそうな言い方だ」
その笑い方は、これまでのどの表情とも違っていた。強がりでも、飄々とした余裕でもない、素のままの、少し照れくさそうな笑みだった。それを見られたことが、アルフにとっては、何よりの収穫のように感じられた。
二人の間に流れる空気は、これまでとは明らかに違った。互いの傷を、互いに知った上での静けさ。それは気まずさではなく、むしろどこか温かいものだった。
「……これから、どうするんスか。核を追うにしてもすぐにって訳には行かないスよ」
「ああ、その通りだ。今日のところは、王都に連絡だけ送って休むべきだな、お互いにね」
そう言いながらも、イゾルデの目には、これまでとは違う光が宿っているように、アルフには見えた。坑道の時のような、単なる任務に向き合う目とは明らかに異なる目。
もっと個人的な何かを賭けてこの件に向き合おうとしている光が、そこにはあるように思えた。
「イゾルデさん」
「何だい」
「……あんたも、その、大変だったんスね。今まで」
うまい言葉が見つからず、ありきたりな一言になってしまったことが、少し悔しかった。だが、イゾルデはそれを笑い飛ばすことなく、静かに頷いた。
「ああ。だが、君ほどではないよ。少なくとも私は、今もこうして両手両足が揃っている」
「そういう比べ方、しなくていいと思うっス。悪趣味だし」
「そうだね。悪い癖だ」
イゾルデは苦笑しながら、そっと肩の包帯に触れた。
その時、崩れた戸口から師匠が戻ってきた。建材屋との交渉に疲れたのか、いつもより足取りが重い。
「おう、二人とも大人しくしてたか。……って、なんだお前ら、その雰囲気は」
師匠は怪訝そうに二人を見比べたが、それ以上は詮索せず、肩をすくめただけだった。
「壁の修理は明日から入るそうだ。それまでは、隙間風と付き合うしかねぇな」
「ありがとうございます、師匠殿」
「殿はやめてくれや、むず痒い」
師匠はぼやきながら、崩れた壁際に道具を置き、その場にどっかりと腰を下ろした。
「にしても、本当に散々な夜だったな。俺の作業台も、棚も、全部が丸潰れだ」
「弁償は、王都に請求書を送っておきますので。安心してください」
「そりゃありがてぇが……お前ら、命があっただけ儲けもんだぞ。分かってんだろうな」
師匠の声には、いつもの軽口の中に実感がこもっていた。二人は顔を見合わせ、どちらともなく苦笑した。
いつものやり取りが戻ってきたことに、アルフは密かに安堵した。昨夜の惨劇も、今日明かされた秘密も、まだ何一つ解決してはいない。それでも、こうして軽口を叩き合える日常が続いていることが、今は何よりありがたかった。
窓の外では、いつも通りの町の営みが続いていた。昨夜あれほどの惨劇があったとは思えないほど、平凡な午後の光景。
崩れた工房の壁の隙間から、昼の光が柔らかく差し込んでいた。二人はしばらく、その光の中で、言葉少なに寄り添っていた。
解決すべき問題は山積みのままだったが、少なくとも今この瞬間、アルフは一人ではないという確かな実感を噛みしめていた。




