第13話 再会
時が止まったような静寂の中、菫色の瞳だけが、じっとアルフを見つめていた。
その目は、獣のものとは思えないほど、人間らしい戸惑いを湛えていた。まるで、目の前にいる相手が誰なのか、必死に思い出そうとしているかのように。
瓦礫の下からは、まだイゾルデの荒い息遣いが聞こえていた。だが、彼女もまた、この異様な均衡を破ることを躊躇っている。誰も動かない。動けない。
工房全体が、その一点に向けて息を潜めているようだった。
「姉ちゃん……」
声にならない呟きが漏れる。彼女の瞳が、それに応えるようにかすかに揺れ――
次の瞬間、獣の全身が、まるで自らの意志に逆らうように激しく痙攣した。半ば形を成しかけていた顔の輪郭が歪み、瞳が強く閉じられる。頭部の肉塊全体が、苦悶するようにのたうった。
それは、まるで内側で二つの力がせめぎ合っているかのようだった。何かを――目の前の少年を――傷つけまいとする意志と、獲物を捉えようとする本能とが、激しく渦を巻いて争っている。
もし、あの瞳の主が本当に姉なのだとしたら。姉は今、あの獣の内側で、必死に自分を、そして獣自身の衝動を、押し留めようとしているのではないか。
そう考えると、目の前で繰り広げられている光景が、ただの怪物の苦悶ではなく、姉の、人としての儚い抵抗のように見えてくる。
アルフは眼前の光景を前にとても動くことはできなかった。このままでは暴れる霊獣の巻き添えになるかもしれないとしても、それでも姉の形をとるその肉塊から目を離すことができない。
しかし、その拮抗もやがては敗れることとなった。不意に獣は大きく身を捩ると、崩れた棚の傍らに転がったままの密閉容器へと視線を戻した。
苦悶に歪んでいたはずのその動きが、急に迷いのないものに変わる。八本の脚の一本が、核の入ったその容器を鷲掴みにした。
「――っ、待て!」
イゾルデが瓦礫の下から叫んだが、獣の行動を止める術はもはや誰も持たない。獣は容器を抱えたまま、崩れた壁の穴へと向き直る。
「くっ……」
瓦礫の下からイゾルデが息を呑む声が聞こえる。だが、獣はもうこちらを見ていなかった。
核を抱えたまま、その強大な力を持つはずの体躯が、まるで逃げるように闇の中へと駆け出していく。八本の脚が地を蹴る音が、目撃者たちの悲鳴をそこいらで響かせながら、みるみる遠ざかっていった。
全てが終わった。深夜の静けさというものを、眠りに着いた人々の平穏を無視して音の大きさだけで判断するというならば、それは静けさが戻ってきたといってもよかった。
崩れた壁の穴から、夜風が吹き込んできた。土埃と煙の匂いが混じった、それは生々しさの残る静寂だった。
改めて見渡すと、工房の被害は思った以上に大きかった。作業台は真っ二つに折れ、棚という棚が薙ぎ倒され、師匠が長年かけて集めた工具の数々が瓦礫の中に散らばっている。
壁の穴からは、白み始めた空の色がわずかに覗いていた。
そして、先ほどまでそこにあったはずの、核を収めた密閉容器の姿はどこにもなかった。
「……行った、のか」
アルフはその場に膝から崩れ落ちた。全身から力が抜け、指先すら動かせない。安堵よりも先に、奪われたものの重さがじわじわと胸にのしかかってきた。
「…そうだ、イゾルデさん!」
我に返り、瓦礫の下に駆け寄る。イゾルデにのしかかる木材やら瓦礫をどかすと、彼女はようやく顔をしかめながら這い出してきた。肩口の布が裂け、赤黒い血が滲んでいる。手首にも、割れたガラス管の破片で切れたらしい傷が幾筋も走っていた。
「大丈夫だ……見た目ほど、酷くはない」
「大丈夫なわけないだろ、こんなに血が……!」
彼女の気丈な声には、その裏を読むまでもなく明らかな痛みの色が滲んでいる。
「お、おい、二人とも……!」
崩れた作業台の陰から、師匠が転がるように出てきた。全身埃まみれだったが、奇跡的に目立った怪我はないようだった。
「師匠、無事っスか!?」
「ああ、なんとかな……それより、お前ら……」
師匠は二人の姿を交互に見て、言葉を失ったように立ち尽くした。いつもなら軽口の一つも飛ばすところだが、今夜ばかりは、その口から何も出てこなかった。
しばらくして、師匠はのろのろと動き出すと、奥の物置から古い救急箱を引っ張り出してきた。手が震えているのか、蓋を開けるのにも時間がかかっている。
「……師匠がこんなに慌ててるとこ、初めて見たっス」
「うるせぇ。慌てもするだろうが、こんな……こんなもん、見せられちゃな」
師匠はぶっきらぼうにそう言うと、救急箱をアルフの前に置いた。その手つきには、いつもの憎まれ口とは裏腹な、不器用な優しさが滲んでいた。
三人は、崩れた工房の残骸の中に、しばらく黙って座り込んでいた。誰も、何かを言い出せる状態ではなかった。壊れた壁から差し込む月明かりだけが、静かに三人を照らしていた。
「……このままじゃあ、見栄えが悪くてしょうがねぇわな。アルフ、霊獣狩りさんの応急処置はお前に頼む」
そのうち、師匠は崩れた壁の穴に何枚か板を立てかけ、せめて夜風が直接吹き込まないようにと応急の目張りを始めた。誰に言われたわけでもないのに、黙々と体を動かし続けるその背中は、いつもより一回り小さく見えた。
アルフも救急箱から包帯代わりの布を取り出すと、イゾルデの肩の傷に巻いていった。手が震えて、うまく結べない。
「……下手だな、少年」
苦痛のにじむ、呻くような声。からかうような声だったが、その奥に隠しきれない疲労が滲んでいた。
「うるさいなぁ、じっとしててくださいよ」
アルフも軽口で返しはするが、本音としてはイゾルデに黙っていてほしくはなかった。
消毒液が傷口に染みるたび、イゾルデはわずかに息を詰めた。それでも痛みを訴える声一つ上げない。その我慢強さが、かえってアルフの胸を締め付ける。
手首の切り傷にも布を巻きながら、アルフは割れて散らばったガラス管の破片に目をやった。イゾルデの武器であり、命綱でもあるはずのそれが、無残に砕けている。
「これ、また揃えられるんスか」
「まだ、数本は残っている。それに王都に発注すれば問題はない……時間はかかるが」
その口調には、いつもの淡々とした調子が戻りつつあった。
だが、傷の手当てを続けながら、アルフはさっき見た瞳の色を、頭の中で何度も反芻していた。あれは間違いなく姉の目だった。だが、それと同時に、あの獣が最後の瞬間に見せた、引き裂かれるような苦悶の表情も、忘れられなかった。
「……あんな風に狙われる気持ちは、久しぶりだったよ」
包帯を巻き終えた頃、イゾルデがぽつりと呟いた。
「え?」
「いや……なんでもない」
イゾルデは慌てたように首を振ったが、その一瞬だけ見せた表情は、いつもの飄々とした余裕とは程遠い、遠い記憶を覗き込むようなものだった。
アルフはどのような意味かをたずねようとして――
「今は、聞かないでくれると助かる」
その声には、拒絶ではなく、懇願に近い響きがあった。アルフはそれ以上、追及しなかった。今夜はもう、互いにこれ以上何かを抱え込む余裕がなかった。
それでも、その一言は、アルフの中に小さな棘のように残った。霊獣狩りとして各地を渡り歩く中で、あのように精霊に敵意を向けられることなど何度もあったと思うが……。
考えかけて、アルフは頭を振った。今はまだ、その答えを探るべき時ではない。それどころではない。
師匠が黙って毛布を二人に押し付け、また崩れた工房の片付けに戻っていく。その背中を見送りながら、アルフはイゾルデの隣に座り直した。
「……姉貴、まだ、どこかにいるんスかね」
「さあね」
「助けられるんスかね、俺に」
イゾルデはすぐには答えなかった。しばらくの沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。
「分からない。だが、今夜のことで一つだけ、はっきりしたことがある」
「……なんスか」
「あの霊獣の中には、まだ意志がある。君を傷つけまいとする、確かな意志が」
その言葉に、アルフは目を閉じた。安堵と、そして底知れない恐怖が、同時に胸を満たしていく。
「なあ、イゾルデさん。もし、あの中の姉貴が、本当に俺のことを覚えてて、傷つけたくないと思ってくれてるなら……いつか、話しかければ応えてくれたりするんスかね」
「……可能性がゼロだとは、私にも言い切れない」
イゾルデはそう答えながら、割れたガラス管の破片を一つ拾い上げ、月明かりに透かして見つめた。
「……それって、良いことなんスよね、低くても可能性があるなら」
「どうだろうね。何とも言い難いよ、正直なところ。希望があるのか――」
イゾルデは言葉を切ったが、アルフもその先に何を言おうとしたのか何となく想像はつく。
その答えのなさが、かえってアルフの胸に重くのしかかった。だが同時に、あの瞬間確かに見た瞳の揺らぎは、幻でも願望でもなかったという確信もあった。
「……核、持ってかれちまいましたね」
アルフがぽつりと漏らすと、イゾルデの表情がわずかに険しくなった。
「ああ。厄介なことになった。あれは王都にとっても貴重な研究材料だ……それに、やつがあの核を何に使おうとしているのかは分からないが、ろくでもないことになる可能性はよほど高い」
「でも、あいつがどっか遠くに逃げちまったら…あいつ、すげぇ速くて」
「そんなことはないさ」
イゾルデは割れたガラス管を握りしめ、静かに、しかしはっきりとそう言った。
「核を持ったまま逃げたからといって、そう遠くに行ったとは思えない。私があの個体なら、私なら遠くまでは逃げずにさっさと何がしかに核を使ってしまうだろうね。仮に逃げた痕跡があれば、どこに行こうとしているのかおおよその予測もできる。追う手がかりが、完全に無くなったわけじゃない」
その言葉に、アルフはわずかに顔を上げ、ほう、とか細く息を吐いた。絶望の中にも、まだわずかながら糸が見えている。そのことが、今は何よりの支えだった。
崩れた工房の隙間から、白み始めた空が覗いていた。長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
毛布にくるまったまま、アルフは隣に座るイゾルデの横顔をそっと窺った。傷の痛みのせいか、それとも別の何かのせいか、その表情はいつになく疲れ切って見えた。それでも、まだこうして隣にいてくれることが、今のアルフには何よりも心強かった。
「イゾルデさん」
「何だい」
「……今夜は、ありがとうございました。守ってくれて」
柄にもなく、素直にそんな言葉が出た。イゾルデは一瞬驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「礼を言うのはまだ早い。それに……」
イゾルデは一瞬言いよどみ、それからはにかんで答えた。
「君も私を守ってくれたじゃないか。今夜のところはお互い様だろう」
その笑みには、いつもの飄々とした軽さと、十分な睡眠を取れていないことによる疲労とが、同時に滲んでいた。
遠くで、夜明けを告げる鳥の声が聞こえ始めていた。崩れた工房の残骸の中、アルフとイゾルデはそれぞれの傷を抱えたまま、静かに朝を待っていた。
◆◇◆
霊獣は、その巨躯に見合わぬ速さで、夜の町を駆け抜けていった。
核を抱えたまま、むき出しの地面に深い爪痕を刻みながら、脇目も振らず闇の奥へと向かっていく。物陰に隠れる人々の悲鳴も、崩れた塀も、まるで意に介さない。
その進路は、当初この工房に忍び寄ってきた時の隠密さとは、あまりにかけ離れていた。追う者があるならば、これほど分かりやすい足跡もないだろう。まるで、追跡を恐れていないかのように――あるいは、どこかでそれを望んでいるかのように、獣は荒々しい痕跡を辺り一面に残しながら走り続けた。
本能に従うならば、まず消し去るべきは、その足跡だったはずだ。だが、獣の歩みに迷いはなかった。
遠ざかっていくその巨体の中で、何かが、まだ燻るように残っていた。




