第12話 襲来
工房の空気が変わったのは、深夜をとうに過ぎた頃だった。
寝台で浅い眠りについていたアルフは、突然響いた金属の軋む轟音に飛び起きた。階下から、師匠の怒鳴り声と、何かが激しく壊れる音が続けて聞こえてくる。
いつものキャスケットも被らぬまま、着の身着のままに階段を駆け下りる。踏み外しそうになる足を叱咤しながら、頭の芯はまだ半分眠りの中にあった。だが、工房に飛び込んだ瞬間、その眠気は一気に吹き飛ぶ。
工房の壁の一部が、食い破られたように崩れていた。砕けた木材と石材が散らばり、土埃が濛々と立ち込めている。泥とタールの混じったような不快な臭いが辺りに漂い、アルフの鼻腔を焼くように刺激した。
師匠の姿はどこにも見えない。近くの作業場に避難したのか、それとも――考えかけたところで、アルフの眼は正面の光景にくぎ付けになった。
土埃の向こうに、見覚えのある不吉な輪郭が蠢いている。
全体としては、それは馬や鹿のようなスリムな草食獣めいたシルエットをしていた。そこに、押し込めたかのように八本の脚が生え、それを腿の部分から先に辿っていくと、いかにも蹄でも生えていそうな逆関節を経由して、その先端はねじくれた人の指のようなものが複数本生えている。
十年前、あの日に脳裏に焼き付いたまま二度と忘れられずにいた、あの姿そのものに見えた。
姉を襲った霊獣の姿がそこにある。
だが、何かが違う。首から上、本来なら獣の頭部があるはずの場所に、ぼこりと盛り上がった肉塊がある。よく見ると、それは今まさに何かの形を取ろうとしているかのように蠢いていた。全身を覆う体毛はその部分だけ所々剥げ落ち、下から覗く皮膚は獣のものにしては奇妙に白く、人間の肌を思わせた。
背中の一部が、不自然に盛り上がっている。まるで、そこに何か、畳まれた翼のようなものでもあるかのように。時折その膨らみがびくりと震え、まだ完全には形を成していない何かが、内側でもがいているようだった。
「なんだ、あれ……?」
十年前に見たあの光景とは同じに見えて、その肉塊だけが決定的な違いだった。
明らかに、あの下で何かが育っている。
「アルフ君、大丈夫か!? 凄い音が聞こえたけど、一体何があったんだ!?」
ほどなく、玄関からイゾルデの声が聞こえた。取るものもとりあえずの勢いで宿から急行してきたのだろうか、大きく息を切らし、ガラス管が互いにぶつかる忙しない音がよく聞こえてくる。
イゾルデは工房に一目散に飛び込んでくると、目の前の光景を見て、大きく顔をひきつらせた。これまで見たこともないような彼女の表情を見て、アルフは暢気にも笑いだしそうなり、それを何とかこらえた。
そんな場合ではない、自分は冷静さを欠いている、とアルフの中の理性が主張する。
冷静さを欠いている?当然だろう、こんな非現実的な光景を見て冷静でいられるやつが何処にいる?
霊獣は、こちらのことを認識すらしていないように見えた。
工房の奥、鉛の内張りを施した密閉容器が置かれている棚に、獣の視線が――両の目どころか顔すら消失していたが、そいつが視線を向けているということが、そこにいる二人にはよくわかった――釘付けになっている。まるで、そこに何があるのか正確に理解しているかのような、直線的にピタリと動かない視線だった。
「”火龍の尾鞭”!」
イゾルデの対応は容赦がなかった。
吐き捨てるような詠唱から赤い閃光が放たれる。だが、獣はまるで初めから分かっていたかのように、その場からわずかに身をよじって回避した。閃光は虚しく壁を穿ち、ただでさえ崩壊に近い工房内部をさらに荒廃させた。
「馬鹿な……今の反応は……」
イゾルデの声に、明らかな動揺が滲んだ。これまで対峙してきた霊獣は、精霊術の軌道など読めるはずもない、ただ本能で暴れるだけの獣だった。だが今、目の前のそれは、まるで狙いを見切ったかのように動いている。
「イゾルデさん、もう一発!」
「くっ……言われなくても! ”風精の大太刀”!」
空気が凍り付くように冷え、不可視の斬撃が獣の首をはね飛ばす、避けようなどあるはずもない――はずだった。だが、それより一呼吸早く、霊獣は大きく後ろにステップを踏む。
鞭が空を切る音に似た、だがそれよりも格段に大きな音が響き渡る。それだけだった。霊獣狩りから二度も攻撃を仕掛けられておいて、その霊獣には傷の一つもついていない。
まるで、こちらの詠唱の呼吸そのものを読んでいるかのような回避だった。
獣は容器のある棚に向かって突進を始めた。イゾルデが追撃の詠唱を紡ごうとするが、それより早く、獣の巨体が棚を薙ぎ倒す。
イゾルデが静止の声を上げるが獣は止まらない。棚から転がり出た、核の入った箱に頭の部分を近づけて、不愉快そうに身体を震わせる。
考えるより先に、アルフは叫んでいた。頭で考えるよりも早く、十年間、喉の奥につっかえていた名前が、そのまま口を突いて出た。
「――エヴェリン!」
その瞬間、獣の動きがぴたりと止まった。
静寂。工房中に立ち込めていた土埃さえ、その一瞬だけ動きを止めたように感じられた。その中で、ひくひくと蠢いていた頭部の肉塊だけが、より強くのたうち、輪郭の一部に、うっすらと人間の顔のような曲線を浮かび上がらせる。
「な……」
アルフの声が掠れる。
見間違いであってほしかった。だが、肉塊の中心に浮かんだそれは、間違いなく、記憶の中の姉の顔の輪郭と重なっていた。十年間、夢の中でしか見られなかった顔。それが今、こんな形で、目の前に現れている。
「姉ちゃん……なのか。そこにいるのか!? 僕だ、アルフだよ!」
返事はなかった。ただ、アルフの感覚は、肉塊の中の何かが、こちらに向けて確かに意識を向けているような、そんな気配をとらえていた。
「アルフ君、離れて!」
イゾルデの叫びで我に返る。硬直はほんの数秒だったが、獣はすぐに体勢を立て直し、再びこちらへ向き直った。その動きは、先ほどよりも明らかに浮足立っていた。まるで、名前を呼ばれたことそのものに戸惑いを覚えているかのように。
「イゾルデさん!やつを攻撃するのは一回待ってくれ、あれは十年前に俺たちの町を襲ったやつだ――姉貴を襲ったやつだ!」
「なんだって…!?」
霊獣が、一体どこから声を発生させているのか、甲高い咆哮を上げた。声は何らかの獣のものだったが、その響きの奥に、何か言葉にならない人の叫びが混じっているような気がした。
アルフはイゾルデのそばに駆け寄って訴えを続けた。霊獣は、工房の奥に空いた穴から照らされる月光の下、何かに耐えるように頭部の肉塊をのたくらせている。
「あれ、あの頭のやつは姉貴かもしれないんス!顔が見えたんだ!助けを待っているかも――」
「落ち着け、少年!」
イゾルデがぴしゃりとアルフの顔を張り、混乱した彼を落ち着かせようと努める。
だが、混乱しているのはイゾルデも同様だった。確かに、アルフの言った通り、霊獣の頭部の肉塊には一瞬ではあるが人のような姿が浮かび上がっていた。
あのような異形の霊獣は見たことがない。アルフの言を信じるならば、あの霊獣は制御中枢として人間を取り込んでいる可能性がある。
「くそっ――わからない、分からないが、あの報告書に書いてあったことを鑑みるならば、制御中枢として人間を取り込んだ霊獣にはあのような変化が現れるのか…?」
その時、工房の奥から、くぐもった声が響く。
「お、おい……無事か、二人とも……!」
師匠の声だった。崩れた作業台の陰から、埃まみれの顔を覗かせている。無事だったことに、アルフは束の間安堵した。
イゾルデが声をかける。
「師匠殿、そこから動かないでください! すぐにどうにかします!」
「どうにかするって、あんた、あんな化け物相手に……」
師匠の声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。それでも、逃げずにこちらの様子を窺っているのは、彼なりの気概なのだろう。
しかし、そこで二人の気がそれたことを獣は見逃さなかった。
師匠が言い終える前に、霊獣の巨体が再び動いた。今度の狙いは、容器でも棚でもない。まっすぐに、イゾルデ自身に向けられている!
「イゾルデさん、危ない!」
そんなことは彼女も百も承知だっただろう。だが、叫んだ時にはもう、獣の八本の脚が、地面を蹴り抜いていた。
二人は咄嗟に横へ跳びかわしたが、狙われたイゾルデは完全にはかわしきれなかった。伸びてきた前脚の一本が、彼女の肩を掠める。布の裂ける音と共に、イゾルデの身体が弾き飛ばされ、崩れた木材の山に叩きつけられた。木材の山が崩れ、イゾルデが押しつぶされるのが見えた。
「ぐぅあっ!?」
「イゾルデさん!」
アルフは駆け寄ろうとしたが、その前に獣が立ちはだかる。獣の尻はこちらに、そして頭部の肉塊は――倒れたイゾルデの方に、まっすぐ向けられていた。
まるで、獲物を品定めするかのような、粘着質な視線。この場にいる人間の中で、精霊術を用いて自らの邪魔をしてきた者を分かっている。
「この…彼らには、手を……だすな……!」
崩れた木材の下から、イゾルデがもがくように声を絞り出す。だが、足が瓦礫に挟まれているのか、うまく動けずにいるようだった。
呻く顔の一部と手首だけがアルフの位置からは良く見えたが。手首のガラス管も大半が衝撃で割れていて、そのうちのいくつかが彼女の手首を傷つけたのだろうか、手甲の隙間を縫って血が流れ出ていた。
獣がゆっくりと、しかし確実に、イゾルデとの距離を詰めていく。
アルフの手にあるのは、いつも持ち歩いているスパナ一本だけだった。こんなものが、あの化け物にどれほど通用するというのか。
分かっていながら、アルフの足は既に動いていた。
「こっちだ、化け物野郎!」
叫びながら、崩れた木材の破片を思い切り投げつける。獣の巨体にかすかに当たり、それが一瞬だけ、こちらへ意識を逸らした。
その隙に、アルフは倒れた棚の陰へと視線を走らせる。イゾルデはまだ木材の下から抜け出せずにいた。せめて時間を稼がなければ。頭の中で、イゾルデを助けるために巡る冷静さと、姉を想う感情とがせめぎ合っていた。
わずかな隙。だが、それがどれだけの時間を稼げるのか、アルフには見当もつかなかった。獣がその頭部の肉塊をこちらに向け――
その肉塊には、閉じられた瞳のようなものが先ほどよりもはっきりと浮かび上がっていた。
その光景を目にした瞬間、アルフの背筋をこれまでにない冷たいものが駆け抜ける。
獣の頭部の肉塊が、大きく脈打つように膨らむ。浮かびかけていた人間の輪郭が、みるみるうちにはっきりとした形を取り始めていた。身体の曲線、頭の丸み、額、鼻筋、そして固く閉じられた瞼。
「アルフ君、逃げろ!君にかなう相手ではない――」
崩れた木材の下から、イゾルデの切迫した声が飛ぶ。だが、アルフの足は、もはやその場に根が生えたようだった。目の前で象られていく顔から、目が離せなかった。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がっていく。その下から現れようとしているものが何なのか、アルフは狂おしいほどに知りたくて、同時に、何よりも知りたくなかった。
瞼の隙間から覗いたのは、自らと同じ、菫色の瞳。
アルフは息を呑んだ。
それは、十年間、忘れたことのない色をしていた。




