第6話 亡くなった聖女
第6話 亡くなった聖女
馬車がゆっくりと動き始めた。
セレナは座席に身体を預けたまま、閉まりかけた扉へ顔を向けた。
「クラリスは?」
すぐそばにいた女性が答える。
「別の馬車で治療を受けています。命に別状はありません」
「そうですか……」
セレナは小さく息を吐いた。
魔物に襲われた避難民を助けようとして、クラリスは自分を庇って傷を負った。
治癒はした。
傷そのものは、もう大丈夫なはずだ。
それでも、姿が見えない。
セレナは窓から後ろを振り返った。
何台もの馬車と兵士たちが続いている。
どれにクラリスが乗っているのかは分からなかった。
「クラリスは、本当に大丈夫なのですね?」
「はい。王都に到着するまで、こちらで責任を持ってお預かりします」
「……お願いいたします」
セレナは膝の上で手を重ねた。
しばらくして、向かいに座っていたレオンが静かに言った。
「あなたも休んでください。かなり消耗しています」
「私は大丈夫です」
答えてから、セレナは自分の手を見る。
わずかに震えていた。
避難民を治療した。
クラリスも治療した。
続けて神聖力を使ったせいか、身体がひどく重い。
それでも眠る気にはなれなかった。
窓の外へ視線を移す。
道は続いている。
だが、その両側にある景色がおかしかった。
家がある。
畑もある。
井戸らしきものも見える。
それなのに、人がいない。
畑には雑草が伸び、柵は倒れ、屋根の一部が崩れた家もあった。
人が暮らしていた跡だけが残っている。
セレナは窓へ少し近づいた。
「この辺りには、もう人は住んでいないのですか」
レオンが外を見る。
「以前は、いくつもの村がありました」
「以前は?」
「今は、結界の外です」
セレナの目がわずかに細くなった。
街道脇の草木をよく見る。
葉の色が悪い。
枯れているものも多い。
遠くの林には、瘴気特有の薄い霞がかかっている。
地面には大きな獣とも違う足跡が残っていた。
魔物のものだ。
セレナは何も言わず、その景色を見続けた。
やがて馬車が小高い場所へ差しかかった。
そのときだった。
セレナが顔を上げる。
遠くに、一本の光が見えた。
いや。
一本ではない。
「御柱……」
思わず声が出た。
遠く離れた場所に三本。
それぞれから伸びる淡い光が結ばれ、巨大な三角形を作っている。
結界だ。
セレナの表情が変わった。
「三本しかないのですか?」
レオンが答える。
「今、残っているのはあの三本です」
セレナは御柱を見つめる。
三本あれば結界そのものは成立する。
だが――。
弱い。
あまりにも弱い。
遠くからでも分かるほど、御柱に満ちる神聖力が不足している。
結界の輪郭がかすかに揺らいでいた。
「……ずいぶん、力が落ちています」
レオンは何も答えなかった。
馬車は進む。
そして結界を越えた。
途端に景色が変わった。
人がいた。
畑があった。
道を行き交う荷車があり、兵士が立ち、家々から煙が上がっている。
だが、活気があるとは言い難い。
道の脇には簡素な小屋が並び、布を張っただけの住居まである。
多くの人々が狭い土地へ押し込められるように暮らしていた。
セレナは窓の外を見渡した。
「この方々は……」
「地方から逃れてきた者たちです」
レオンが答える。
「結界が縮むたびに、村や町を捨てて王都へ移ってきました」
セレナはもう一度、遠くを振り返った。
先ほど通ってきた無人の村。
放棄された畑。
そして今、目の前にいる大勢の人々。
ようやく意味がつながった。
「この国には……聖女はいないのですか?」
しばらく沈黙があった。
やがてレオンが言った。
「いました」
セレナが彼を見る。
「前の聖女が」
その言葉が過去形であることに、セレナは気づいた。
レオンは淡々と続けた。
「他国の工作によって、暗殺されました」
セレナの目が見開かれる。
「暗殺……」
「はい」
馬車の車輪が規則正しく音を立てる。
「聖女を失ってから、御柱を維持できる者はいなくなりました。新しい聖女も現れていません」
レオンは窓の向こうに見える三本の御柱へ目を向けた。
「結界は少しずつ縮みました」
村を捨てた。
町を捨てた。
農地を捨てた。
街道を捨てた。
そうして人々は、残された結界の内側へ逃げ続けた。
今では三本の御柱が作る三角形の内側。
王都と、その周囲にあるわずかな土地だけが残っている。
レオンは静かに言った。
「私たちは、聖女を失ったあとで、その存在の重さを思い知りました」
セレナは答えられなかった。
胸の奥に、奇妙な痛みが走った。
つい先ほどまでいた祖国では、
――お前は聖女ではない。
そう言われた。
御柱の前で祈っていただけ。
何もしていない。
聖女を偽り、王家と国民を欺いた。
そうして、自分は国から追い出された。
けれど、この国では。
聖女一人がいなくなったことで、村が消えた。
町が消えた。
人々が土地を捨てた。
セレナはもう一度、三本の御柱を見る。
弱い。
このままでは――。
そこまで考えて、強い眠気に襲われた。
視界が一瞬揺れる。
「……っ」
「大丈夫ですか?」
レオンの声が聞こえた。
「はい……」
反射的にそう答えたが、身体に力が入らない。
レオンはそれ以上問い詰めなかった。
「もうすぐ王宮です」
馬車が王都の中へ入っていく。
セレナは窓の外を見続けた。
人がいる。
子供もいる。
老人もいる。
市場もある。
それでも、この狭い場所の外には、捨てられた国土が広がっている。
やがて馬車が王宮へ到着した。
扉が開く。
降りようとして、セレナの身体がふらついた。
すぐに手が差し出される。
「まず休んでください」
レオンだった。
「ですが……」
セレナは周囲を見た。
「クラリスは、こちらへ来ていますか?」
「来ています」
「怪我は?」
「治療中です。事情も確認しています」
「事情を……」
「あなた方が何者なのか、こちらではまだ分かっていませんから」
それは当然だった。
国境近くに突然現れた二人の女性。
その一人は、見たこともないほど強い治癒術を使う。
確認しない方がおかしい。
それでもセレナは尋ねた。
「いつ会えますか?」
「終わり次第、会えるようにします」
「……分かりました」
案内された部屋へ入る。
見知らぬ部屋だった。
人が近くにいることには慣れている。
けれど。
クラリスがいない。
セレナは寝台へ横になる。
身体が沈み込むように重かった。
目を閉じても、先ほど見た景色が浮かんでくる。
捨てられた村。
荒れた畑。
三本しかない御柱。
そして。
――私たちは、聖女を失ったあとで、その存在の重さを思い知りました。
「クラリス……」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
もう一度目を開けようとしたが、できなかった。
疲労に抗えず、そのままセレナは眠りに落ちた。
夜。
王都を囲む三本の御柱が、暗闇の中で弱い光を放っていた。
かろうじて繋がれた三角形の結界。
その一本。
白い柱の表面に――
ぴしり、と。
小さな亀裂が走った。




