第4話 崩れかけた結界
第4話 崩れかけた結界
二人は、しばらく道を歩いていた。
セレナは前を歩くクラリスの背中を見る。
いつもなら、こうではない。
自分の前には護衛がいる。
後ろにもいる。
側仕えも複数いる。
誰かが先に道を確認し、誰かが馬車を用意し、誰かが次の予定を知っている。
今は。
クラリスが一人。
そのクラリスが、荷物を二つ持って歩いている。
「クラリス」
「はい」
「重くありませんか?」
クラリスが振り返った。
「大丈夫です」
「本当ですか?」
「はい」
セレナは少し考えた。
先ほど、自分も持ってみた。
重かった。
すぐ返した。
だから少なくとも、
重いということだけは知っている。
「先ほどの鞄でも、私は重かったです」
「そうですね」
「クラリスは三つ持っています」
「はい」
「では、やはり重いのでは?」
クラリスは少しだけ笑った。
「少しは重いです」
「やはり」
セレナは納得した。
そして、また歩く。
しばらくすると、セレナは空を見上げた。
何かがおかしい。
「クラリス」
「はい」
「少し、止まってください」
クラリスが足を止める。
セレナは周囲を見る。
道。
草原。
遠くに森。
どれも、祖国でも見たことのある景色だった。
しかし。
何かが違う。
セレナは道端へ近づいた。
しゃがみ込み、草へ手を伸ばす。
葉を一枚つまむ。
色が悪い。
枯れているわけではない。
だが、生命力が弱い。
今度は地面へ手をついた。
「セレナ様?」
クラリスが尋ねる。
セレナは目を閉じた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
嫌な感覚がある。
「……瘴気があります」
「ここに?」
「はい」
セレナは立ち上がった。
もう一度、辺りを見る。
祖国でも、結界の外側へ近づけば瘴気はあった。
けれど。
ここは街道だ。
人が通っている。
それなのに、空気の中へ薄く瘴気が混じっている。
「結界がないのでしょうか」
クラリスが尋ねる。
セレナは首を横に振った。
「分かりません」
そして少し考える。
「ないというより……届いていないのでしょうか」
「届いていない?」
「はい」
セレナは遠くを見る。
御柱がどこにあるのかは分からない。
位置も知らない。
この国の結界がどのように作られているのかも知らない。
だから断定はできない。
ただ。
この土地が正常に守られていない。
それだけは分かった。
二人は再び歩き始めた。
進むほど、違和感は強くなった。
草の少ない土地。
放置された畑。
崩れかけた柵。
遠くに見える家にも、人の気配がない。
セレナは足を止めた。
「誰もいませんね」
「そうですね」
「畑があります」
「はい」
「家もあります」
「ございます」
「でも、人がいません」
クラリスも周囲を見る。
答えはない。
セレナは、しばらく家々を眺めていた。
人が住むために作った場所だ。
畑もある。
道もある。
それなのに捨てられている。
そのときだった。
遠くから声がした。
セレナが顔を上げる。
「……今、何か」
クラリスも足を止めた。
もう一度。
叫び声。
今度ははっきり聞こえた。
続いて、
獣とも人とも違う、不快な声。
クラリスの表情が変わった。
「セレナ様」
「はい」
「こちらへ」
クラリスがセレナの腕を取り、道の端へ寄せようとする。
だが。
また叫び声がする。
セレナは声の方を見る。
「誰かいます」
「セレナ様」
「襲われています」
「分かっています」
クラリスはセレナの腕を離さない。
「ですから、こちらへ」
セレナはクラリスを見る。
「助けなくては」
「護衛がおりません」
その言葉で、セレナは止まった。
そうだった。
いつもなら。
自分が負傷者のところへ向かえば、護衛が先へ出る。
周囲の安全を確保する。
魔物がいれば排除する。
そのあとで、自分が治療する。
今は誰もいない。
クラリスしかいない。
また悲鳴が聞こえた。
セレナは声の方を見る。
「……クラリス」
クラリスが目を閉じた。
ほんの一瞬。
そして息を吐く。
「止めても行かれるのでしょうね」
「はい」
即答だった。
クラリスは困ったようにセレナを見る。
「では、私から離れないでください」
「はい」
二人は声の方へ走った。
セレナは、ほとんど走った経験がない。
長い衣服ではない。
旅装に着替えている。
それでも、思うように足が動かない。
クラリスの方が先へ行く。
木々の間を抜ける。
そして。
見えた。
人がいる。
何人もの人が逃げている。
荷物が地面へ散らばっている。
倒れている者もいる。
その周囲を、魔物が動いていた。
セレナは息を呑む。
「怪我人が」
「セレナ様、待ってください!」
セレナは止まらなかった。
一人の男性が地面へ倒れている。
その近くには、動けずにいる人もいる。
セレナはそちらへ向かう。
魔物の一体が動いた。
セレナには、それが自分へ向かっているのか分からなかった。
ただ。
突然、クラリスが前へ出た。
「セレナ様!」
強く押される。
セレナの身体が横へよろめいた。
直後。
鈍い音がした。
「クラリス?」
振り向く。
クラリスが地面へ倒れた。
セレナの顔から血の気が引いた。
「クラリス!」
駆け寄る。
「クラリス、クラリス!」
傷がある。
血が出ている。
セレナは震える手を伸ばした。
「大丈夫です」
クラリスが言う。
「大丈夫ではありません!」
セレナの声が珍しく強くなる。
「血が出ています」
「これくらいなら」
「いけません」
セレナはクラリスの傷へ手を当てようとする。
そのとき。
すぐ近くから呻き声が聞こえた。
セレナが振り向く。
先ほど倒れていた男性。
さらに向こうにも負傷者がいる。
クラリスも、その視線に気づいた。
「セレナ様」
セレナは動かない。
クラリス。
避難民。
クラリス。
避難民。
どちらも怪我をしている。
「先に、あちらへ」
クラリスが言った。
「でも」
「私は待てます」
「傷が」
「セレナ様」
クラリスがセレナを見る。
「助けられる方から、お願いいたします」
セレナは唇を結んだ。
そして立ち上がった。
「必ず戻ります」
「はい」
「絶対に動かないでください」
「はい」
「本当に」
「分かっております」
セレナは負傷者のもとへ走った。
膝をつく。
傷を見る。
まだ息がある。
「聞こえますか?」
返事はない。
セレナは両手を重ねる。
祈る。
淡い光が生まれた。
男の身体を包む。
傷口から流れていた血が止まる。
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
周囲にいた人々が息を呑んだ。
だがセレナは気にしない。
次。
隣の負傷者へ。
祈る。
光。
次。
また一人。
その間にも、遠くで魔物の声がする。
誰かが石を投げて追い払おうとしている。
誰かが負傷者を引きずっている。
護衛はいない。
セレナには戦えない。
治すことしかできない。
だから。
治す。
「次の方を」
声を上げる。
「動ける方は、怪我をしている方をこちらへお願いします」
避難民の一人が慌てて頷いた。
「は、はい!」
負傷者が運ばれてくる。
セレナは祈る。
一人。
また一人。
光が何度も生まれる。
やがて呼吸が苦しくなってきた。
長い移動の疲労が残っている。
食事も十分ではない。
それでも。
目の前に怪我人がいる。
セレナは次の人へ手を伸ばす。
「聖女様……?」
誰かが呟いた。
セレナの手が一瞬止まる。
聖女。
昨日まで、自分はそうだった。
今は違うと言われた。
だが。
そんなことは今、どうでもよかった。
「痛むところを見せてください」
セレナは治療を続ける。
ようやく重傷者への治療が一段落した。
その瞬間。
セレナは立ち上がった。
足元が揺れる。
それでも。
「クラリス」
戻らなければ。
クラリスのところへ。
地面に座っているクラリスの横へ膝をつく。
「お待たせしました」
「待っておりません」
「嘘です」
セレナは傷を見る。
先ほどより血が広がっている。
顔色もよくない。
セレナの表情が曇った。
「ごめんなさい」
「なぜ謝られるのです?」
「私が行くと言ったから」
「私が勝手についてきたのです」
「でも」
「セレナ様」
クラリスが少し笑った。
「治療をお願いいたします」
セレナは黙った。
そして両手を傷へ当てる。
光が生まれる。
今までより少し弱い。
セレナは眉を寄せる。
もっと。
さらに祈る。
傷が少しずつ塞がる。
だが。
完全には戻らない。
セレナの額から汗が落ちた。
「セレナ様」
「まだです」
「もう十分です」
「まだ治っていません」
「歩けます」
「いけません」
さらに力を込めようとする。
視界が揺れた。
クラリスがセレナの手を掴む。
「セレナ様」
「まだ……」
「もう結構です」
「でも」
「他にも負傷者がいるのでしょう?」
セレナは振り向く。
いる。
軽傷の者も。
まだ治療を受けていない者も。
セレナは唇を噛んだ。
力が足りない。
治せるのに。
全部治せるはずなのに。
身体がついてこない。
「……分かりました」
セレナは立ち上がろうとする。
膝に力が入らない。
クラリスが支えようとする。
「クラリスは怪我をしています」
「セレナ様もです」
「私は怪我をしていません」
「疲れていらっしゃいます」
「まだできます」
「その言葉は信用できません」
セレナはクラリスを見る。
こんな時なのに。
少しだけ、いつものクラリスだった。
「では」
セレナは息を整える。
「あと少しだけ」
「……少しだけですよ」
「はい」
再び負傷者のところへ向かう。
祈る。
治す。
祈る。
治す。
次第に、光は弱くなっていった。
それでも。
消えない。
その光を、
遠くから見ている者たちがいた。
「殿下!」
馬上の兵士が声を上げる。
先頭を進んでいた男が振り向いた。
「どうした」
「光です」
兵士が指差す。
木々の向こう。
淡い光が一瞬、空へ漏れた。
消える。
また光る。
「治癒術でしょうか」
別の兵士が言う。
だが。
何度も。
何度も。
遠くからでも分かるほどの光。
部隊を率いていたレオン・グランツは、目を細めた。
「この先か」
「はい」
レオンはすぐに馬の向きを変える。
「急ぐぞ」
巡回部隊が光に向かって動いた。




