第11話 最初の巡行
第11話 最初の巡行
王都を守る結界が、本来の輝きを取り戻してから数日が過ぎた。
街には、少しずつ活気が戻り始めている。
以前は日が暮れる前になると、王都の外壁近くまで魔物が姿を見せることもあったという。
今では、その気配も遠のいていた。
結界内の瘴気は薄れ、空気も澄んでいる。
王都の周辺に残っていた農地でも、作業を再開する者が増え始めていた。
人々は喜んでいる。
それでも。
セレナは、王宮の窓から結界の外を見つめていた。
淡く輝く光の壁。
その向こうには、広大な土地が残されている。
村がある。
農地がある。
街道がある。
さらに遠くには、放棄された町もある。
かつてはすべて、この国の領土だった。
今では、人が住むことのできない土地になっている。
「……やはり、御柱を増やす必要があります」
その日の午後。
王宮の会議室で、セレナはそう口にした。
大きな机の上には、王国の地図が広げられている。
そこには現在残っている三本の御柱と、王都を囲む結界の範囲が書き込まれていた。
会議に集まったのは、レオン王子だけではない。
軍の指揮官。
神殿の神官。
測量官。
地方行政を担当する文官。
街道や河川に詳しい官吏。
そしてセレナの側には、クラリスとヴィオラも控えている。
セレナは地図を見る。
現在使われている三本の御柱。
この三本が、今の王都を守る結界の基礎となっている。
御柱と御柱の間には、直線状の結界が張られる。
その線で囲まれた内側が、人の暮らせる土地になる。
そして。
外側へ新しい御柱を立てれば、結界の線もそこまで伸ばすことができる。
御柱が増えるごとに。
国土を少しずつ取り戻せる。
「記録を」
レオンが言った。
神官の一人が、古びた大きな地図を机の上へ広げる。
今使われている地図よりも、ずっと古い。
ところどころ色は褪せているものの、印ははっきりと残っていた。
セレナが目を見開く。
現在残っている三本だけではない。
その外側にも、いくつもの御柱が記されている。
「これは……」
「かつて使われていた御柱の記録です」
神官が答えた。
「建立された場所、補修された時期、巡回経路。すべてではありませんが、主要な御柱については記録が残っております」
「場所も分かるのですか?」
「はい」
神官は頷く。
「少なくとも、どの土地に御柱が存在していたかは特定できます」
セレナは、地図へ顔を近づけた。
失われた土地の中にも、いくつもの印がある。
「なら、全部立て直せば――」
「セレナ様」
すぐ横から声が飛んできた。
クラリスだった。
セレナが口を閉じる。
「……全部は、今すぐには無理ですね」
「はい」
クラリスが満足そうに頷く。
レオンもわずかに笑った。
「まずは三本です」
その言葉に、セレナは地図へ視線を戻した。
「三本……」
「今回の巡行で、新たに建立する御柱は三本までとします」
レオンはそう決めていた。
理由は単純だった。
新しい御柱を一本立てるために、どれだけセレナが消耗するのか。
まだ分からない。
さらに。
結界外は魔物が徘徊する危険地帯だ。
御柱を立てる場所まで、聖女だけを送り込めばいいわけではない。
道を確保する。
魔物を排除する。
神官を運ぶ。
物資を運ぶ。
御柱建立後には、その土地を管理する人間も必要になる。
一度にすべてを取り戻すことなどできない。
「問題は」
レオンが地図を見る。
「今回、どこを優先して取り戻すかです」
会議室の空気が変わった。
ここからは、聖女の力だけでは決められない。
国として。
何を必要としているのか。
それを考えなければならない。
「水源です」
最初に口を開いたのは、河川を担当する官吏だった。
地図上の一点を指す。
「この川の上流部を結界内へ戻せれば、王都周辺への水の供給が安定します」
現在も水は確保できている。
だが、人口が王都へ集中しているため余裕はない。
避難民が増えれば増えるほど、水の問題は深刻になる。
「この取水地が使えるようになれば、かなり楽になります」
「しかし」
別の文官が口を挟む。
「水だけでは食べていけません」
今度は、別の場所を指した。
「こちらには、かつて大規模な農地がございました」
王都の外側。
現在は瘴気に覆われている平野。
「土がどれほど傷んでいるかは調査が必要ですが、再び耕作できるのであれば、食料事情は大きく改善します」
軍の指揮官も頷く。
「食料を王都だけで賄い続けるのは難しい」
さらに。
もう一人の文官が、古い街道沿いにある印を指した。
「私は、この町を提案します」
「町?」
セレナが尋ねる。
「はい」
かつて地方の交易拠点だった町。
大都市ではない。
しかし複数の街道が交わり、周囲の村々から物資が集まる場所だった。
「町を取り戻せれば、王都の外に新しい拠点を作れます」
兵士の駐屯地。
物資の集積地。
避難民を戻すための中継地点。
今後さらに国土を取り戻す場合にも使える。
水源。
農地。
町。
三つの候補が出た。
セレナは地図を見つめる。
「では、その三か所に御柱を立てればいいのですか?」
測量官が首を横に振った。
「いいえ」
「違うのですか?」
「我々が確保したいのは、その土地です」
測量官は細い棒を手に取り、地図上の水源を指した。
「御柱そのものを、水源の真横へ置く必要はありません」
次に農地。
そして町。
「御柱は結界の境界を決める支点です」
測量官は、現在の御柱と御柱を棒でなぞった。
「御柱同士を直線で結び、その内側が結界範囲になります」
新しい御柱の候補地点を指す。
「ですから、一本目をここへ立てたとしても、この農地はまだ結界内には入りません」
セレナが地図を見る。
確かに。
一本だけ外へ出しても、取り戻したい土地すべてを囲めるわけではない。
「でも」
測量官は、二本目の候補地を指した。
「次にこちらへ御柱を立てれば、結界の境界線をさらに外側へ伸ばせます」
地図の上を、指が動く。
既存の御柱。
新しい御柱。
さらに次の御柱。
それらを直線で結んでいく。
「すると」
セレナが気づく。
「農地が中に入ります」
「はい」
測量官が頷いた。
「御柱の場所と、守りたい場所は同じでなくてよいのです」
さらに三本目まで加える。
新しい境界線が引かれる。
その内側に。
水源。
農地。
そして町。
三つとも入った。
「……なるほど」
セレナは、しばらく地図を見つめていた。
一つの御柱を立てれば、その周囲すべてが守られる。
そういうものではない。
御柱同士をつなぐ線。
その組み合わせによって、結界の形が変わる。
「では、この三本を立てれば」
「今回確保したい三か所は、すべて結界内に入ります」
測量官が答えた。
「ただし、問題があります」
「問題?」
「昔と今では、土地の状況が違います」
古い地図と現在の地図が並べられる。
かつて御柱があった場所。
位置は分かっている。
だが。
一本目の周囲では、旧街道が崩れている。
二本目の予定地近くには、森が広がっている。
三本目の周囲は、魔物が多い地域になっていた。
「御柱の位置は記録から特定できます」
測量官が言う。
「ですが、その場所へ今でも安全に辿り着けるかは別問題です」
軍の指揮官が腕を組む。
「まず現地確認が必要だな」
「はい」
「昔の道が残っているとも限らない」
「橋もいくつか落ちています」
文官が答える。
「迂回が必要になるでしょう」
セレナは、彼らの話を聞いていた。
御柱を立てる。
自分にとっては、ただそれだけのことだった。
祈ればいい。
神聖力を注げばいい。
そう思っていた。
けれど。
その場所まで行くために道が必要だ。
安全を確保する人が必要だ。
測量する人が必要だ。
御柱を立てた後、その土地へ戻る人々の生活まで考えなければならない。
「……私一人では、できませんね」
思わず口から出た。
会議室が静かになる。
セレナは少し気まずくなった。
「いえ、その……御柱を立てるだけなら、私が祈ればできます。でも」
地図を見る。
「どこを取り戻すべきなのかは、私には分かりません」
レオンが静かに答えた。
「それでいいのです」
セレナが顔を上げる。
「あなたには、あなたにしかできない仕事があります」
レオンは地図上の御柱を指した。
「御柱を立てられるのは、あなたです」
そして水源を指す。
「ですが、水について考える者がいる」
農地。
「食料について考える者がいる」
町。
「道や町について考える者がいる」
最後に。
地図全体を見る。
「国を取り戻すのは、一人の仕事ではありません」
セレナは黙って聞いていた。
祖国では。
聖女なのだから祈れ。
聖女なのだから治せ。
聖女なのだから御柱を守れ。
それだけだった。
できなければ叱責された。
できても、それが当然だった。
誰かと相談して仕事をした記憶など、ほとんどない。
「……はい」
小さく答える。
「お願いします」
会議の結果。
今回復旧する三本の御柱が正式に決定された。
一本目。
王都から旧街道を進んだ先。
かつて結界拡張の支点となっていた御柱。
二本目。
さらにその先。
農地を結界内へ取り込むために必要な御柱。
三本目。
水源と町までを、今回の結界範囲へ収めるための御柱。
三本を立てれば。
現在の王都を囲う結界は、大きく外へ広がる。
それで国すべてを取り戻せるわけではない。
ほんの一部だ。
それでも。
水が戻る。
農地が戻る。
町が戻る。
人が帰れる土地が増える。
「では、巡行隊を編成します」
軍の指揮官が言った。
そこから、さらに細かな準備が始まった。
先行部隊。
護衛兵。
神官。
測量官。
文官。
医師。
物資を運ぶ荷馬車。
負傷者を運ぶ馬車。
当然、セレナにはクラリスとヴィオラが同行する。
そして。
「私も行きます」
レオンが言った。
軍の指揮官が眉を寄せる。
「殿下」
「分かっています」
「危険です」
「分かっています」
「ならば王都でお待ちください」
「断ります」
即答だった。
セレナがレオンを見る。
「王子様まで行く必要は……」
「あります」
「でも」
「これは我が国の領土を取り戻すための巡行です」
レオンは静かに言った。
「あなた一人に危険な土地へ行かせて、私は王宮で報告だけ待つ。そんなことはできません」
セレナは言葉を失った。
「それに」
レオンが続ける。
「御柱を立てれば、その土地をどう使うのか判断する必要があります。私は、それを自分の目で見たい」
軍の指揮官はしばらく黙っていた。
やがて。
「……護衛を増やします」
「お願いします」
数日後。
巡行隊は王都を出発した。
大きな門が開く。
先頭を騎兵が進み。
その後ろに偵察隊。
馬車。
荷車。
神官たち。
さらに護衛兵が続く。
セレナは馬車の窓から外を見ていた。
王都の中は、もう見慣れた景色になりつつある。
人が歩いている。
商人が声を上げている。
子供が走っている。
その光景が。
結界の境界へ近づくにつれて、少しずつ消えていった。
そして。
淡い光の壁を、巡行隊が通り抜ける。
「……」
セレナは思わず息を止めた。
空気が変わった。
重い。
肌にまとわりつく。
瘴気。
王都では、ほとんど感じなくなっていたものだった。
護衛兵たちも一斉に警戒を強める。
剣へ手を置く者。
周囲の森を見る者。
先行隊との距離を確認する者。
セレナは窓の外を見る。
道は続いていた。
だが。
誰も使わなくなった街道は荒れている。
ところどころ石畳が崩れ。
草が生え。
倒木が道を塞いでいる場所もある。
遠くに。
壊れた家が見えた。
「あれは?」
セレナが尋ねる。
同乗している文官が答える。
「昔の村です」
「誰もいないのですか?」
「今は」
セレナは窓の外を見つめた。
屋根が崩れた家。
傾いた柵。
雑草に覆われた畑。
それでも。
人が暮らしていた形だけは残っている。
「村の人たちは?」
「王都へ避難した者もおります。別の土地へ移った者も」
「戻りたい人は?」
「おります」
文官は迷わず答えた。
「家が壊れていても、畑が荒れていても。帰れるのであれば帰りたいと」
セレナは黙った。
御柱を立てる。
その意味が。
少しずつ、自分の中で変わり始めていた。
祖国では。
御柱は守るものだった。
維持するものだった。
命令されたから祈るものだった。
でも。
ここでは違う。
一本立てれば。
国土が少し戻る。
その土地へ。
誰かが帰れるようになる。
巡行隊はさらに進む。
途中。
小型の魔物が現れた。
先行隊が排除した。
森の中に大型魔物の足跡が見つかった。
進路が変更された。
壊れた橋では、工兵が仮設の足場を作った。
そのたびに。
セレナは馬車の中で待った。
自分には何もできない。
そう思いかけて。
違う。
と気づく。
彼らには彼らの仕事がある。
自分には自分の仕事がある。
夕刻。
巡行隊が停止した。
「到着しました」
測量官の声。
セレナは馬車を降りる。
そこは、古い街道から少し離れた平地だった。
草は伸び。
地面には瘴気の影響で黒ずんでいる場所もある。
見たところ。
特別な場所には見えない。
「ここなのですか?」
「はい」
測量官は古い記録と現在の地図を見比べている。
「かつて、ここに御柱がありました」
周囲を調べていた兵士が声を上げた。
「こちらに石材があります!」
地面の一部を掘る。
崩れた石の土台が現れた。
神官が膝をつく。
手で土を払い。
古い紋様を確認する。
「間違いありません」
神官が言った。
「御柱の基壇です」
セレナは、その場所へ近づいた。
かつて。
ここに御柱が立っていた。
その御柱が失われ。
結界が縮み。
この土地も捨てられた。
「ここへ、もう一度」
セレナが呟く。
「はい」
神官が頷く。
「御柱をお立ていただきます」
セレナは基壇へ手を伸ばしかけた。
「セレナ様」
クラリスの声。
手が止まる。
「……はい」
「今日は祈りません」
「まだ少し明るいです」
「明るさの問題ではございません」
「でも、場所も分かりましたし」
「本日はここまでです」
言い切られた。
セレナがレオンを見る。
助けを求めたわけではない。
たぶん。
レオンは笑っていた。
「私もクラリスに賛成です」
「王子様まで……」
「明朝から始めましょう」
ヴィオラも周囲を見る。
「野営地を整え、夜間の魔物の動きも確認します。御柱建立中に何が起きても対応できるようにした方がいいでしょう」
三対一だった。
セレナは諦めた。
「……分かりました」
「よろしいです」
クラリスが微笑む。
兵士たちは野営の準備を始めた。
柵を作り。
火を起こし。
見張りを配置する。
神官たちは明日の儀式に必要なものを確認している。
測量官は、御柱の位置をもう一度測り直していた。
セレナは。
古い基壇の前に立ったまま。
遠くを見る。
この一本を立てても。
今回取り戻したい農地も。
水源も。
町も。
まだすべてが結界内へ入るわけではない。
それでも。
ここから始まる。
一本目。
その次に二本目。
そして三本目。
御柱を立てるたびに。
結界の線は、少しずつ外へ伸びていく。
失われた土地を。
一つずつ。
人の側へ取り戻していく。
「明日、祈ります」
セレナが言った。
隣に立っていたヴィオラが頷く。
「はい」
「必ず立てます」
「そのために」
後ろからレオンの声がした。
振り返る。
王子は、野営地を作る兵士たちを見ていた。
「今夜は我々が準備をします」
セレナも、その光景を見る。
自分のために。
いや。
明日立つ御柱のために。
多くの人間が動いている。
「……お願いします」
初めて。
セレナは、自分からそう言った。
夕日が沈んでいく。
失われた土地に。
小さな野営地の明かりが、一つずつ灯っていった。
明日。
ここに。
新しい御柱が立つ。
そして。
失われた国土を取り戻す最初の一歩が始まる。




