第4話 ふたりの、帰りたくない夜 -1-
午後九時を少し回った頃。千尋はようやく仕事用のノートパソコンを閉じた。
会場設営の最終確認が思いのほか長引いたうえ、搬入経路について先方から追加の要望が入り、関係各所への連絡を済ませるだけで予定より一時間近く押してしまった。
最後のメールを送信してからもしばらく画面を見つめていたが、これ以上は明日の朝に回しても問題ないと判断し、千尋はようやく椅子の背もたれへ身体を預けた。
肩を大きく回すと、首筋から背中にかけて凝り固まっていた筋肉が鈍く軋み、長時間同じ姿勢でいたことを思い知らされる。
昼食を取ったのは午後一時を少し過ぎた頃で、それから口にしたものといえば、打ち合わせの合間に飲んだコーヒーくらいだった。
「あー、腹減った。今日こそ早く帰るつもりだったのになあ」
誰に聞かせるでもなく呟き、鞄からスマートフォンを取り出す。
画面には、高虎から届いたメッセージが表示されていた。
『買い物終わった。今から作る』
一時間ほど前のものだった。千尋は慌てて返信を打ち始める。
『ごめん、まだ会社!』
『先食ってていいからな』
ほどなくして既読がつき、短い返事が届いた。
『了解。待ってるから、気をつけて帰ってきて』
千尋は画面を見つめたまま、指を止めた。
待っている。何でもない言葉だった。
実際、夕食を一緒に食べる約束をしていたのだから、高虎がそう言うのは少しも不自然ではない。
それでも、仕事を終えた自分に向かって、誰かが帰りを待っていると伝えてくれることが、妙に胸に残った。
以前は、こうして帰宅時間を知らせる相手がいた。
仕事が長引けば連絡を入れ、夕食をどうするか相談し、相手が先に帰っている日は何か買って帰ろうかと尋ねる。二人で暮らしているのだから、そんなやり取りは当たり前のものだと思っていたし、千尋自身もそれを負担に感じたことはなかった。
けれど、いつの頃からか、送ったメッセージに返事が来ないことが増えた。
忙しいのだろうと思っていた。自分だって仕事中はスマートフォンを確認できないことがあるし、相手にも都合があるのだから、いちいち気にするようなことではない。
そう考えていた自分の知らないところで、相手は別の誰かと会っていた。
今となっては、終わった話である。
別れた直後はずいぶん落ち込んだし、腹も立った。自分の何がいけなかったのかと考えたこともあった。
だが、時間が経つにつれ、少なくとも浮気をするかどうかは相手が決めたことであって、自分一人が責任を背負う話ではないと思えるようになった。
それでも、誰かの帰りを待つことや、自分の帰りを待ってもらうことに、以前ほど無邪気ではいられなくなったのも事実だった。
千尋は小さく息を吐き、画面へ視線を戻した。
『腹減るだろ。ほんと先食ってていいぞ』
『俺もまだ平気』
『一緒に食べよ』
「なんだよ、もう」
すぐに帰って来る返事に、思わず口元が緩んだ。
高虎は、こういうことをあまり大げさに言わない。
こちらが遠慮すれば、無理に押しつけることはしないし、かといって自分の意思まで引っ込めてしまうわけでもない。
待ちたいから待つ、一緒に食べたいからそうするという、ごく自然な態度だった。
『じゃあ急いで帰る』
『オムライス楽しみにしてるな』
送信してから、千尋は資料を鞄へしまい、席を立った。
いつもなら、疲れた身体を引きずるようにして歩く帰り道。今夜は少しばかり、足取りが軽い。
◆
「ただいまー」
「おかえり、こぎさん」
玄関の扉を開けると、奥から低い声が返ってきた。
靴を脱いでいるあいだにリビングの扉が開き、高虎が顔を覗かせる。その胸元には見覚えのある、クリーム色の布がかかっている。
千尋は瞬きをしてから、思わず吹き出した。
「お前、それ俺のエプロン?」
「借りた。だめだった?」
「いやいいけど! ちっちゃいだろそれ」
高虎は自分の胸元を見下ろした。
千尋の身体に合わせたエプロンは、百八十八センチの高虎が身につけるには少々小さく、胸当ての上端が本来よりも低い位置に来ている。肩幅があるせいで首にかける紐も窮屈そうだし、腰紐はどうにか結べているものの、丈はずいぶん短かった。
「ん、ちょっと短い」
「ちょっとどころじゃねえだろ。俺のとお前の身長差、考えてなかったわ」
「別に使えるよ」
「そりゃ使えるだろうけどさ。今度お前用の買っとく?」
「いいの?」
「いいよ。しばらく使うだろうし」
千尋がそう答えると、高虎はすこし、目を細めた。
「ありがと。……あと卵焼くだけだから、先に手ぇ洗ってきて」
「お、もうそこまでできてんのか。悪いな、待たせちゃって」
「卵は帰ってきてから焼こうと思ってた。冷めるし」
千尋は高虎の横を通りかけて、足を止めた。
「え、俺が帰ってくるまで待っててくれたの?」
「うん。待っとった」
ごく自然に返された言葉に、千尋は首を傾げた。
「今、待っとったって言った?」
「言った?」
「言った言った」
「ああ。たまに出るんだよね」
高虎は特に気にした様子もなく答え、キッチンへ戻ろうとした。
「普段、あんまり出ないよな?」
「仕事だと気をつけてるから。家だとたまに出るかも」
「へえ。じゃあ今、結構くつろいでくれてんの?」
「うん。居心地いいよ」
千尋が笑いながら尋ねると、高虎は振り返り、少し考えてから頷いた。
あまりにも素直に言われたので、千尋はかえって照れくさくなった。
「そっか。ならよかった」
「こぎさんも、早く着替えておいで」
「はいはい。着替えて手ぇ洗ってきますよ」
千尋が笑いながら洗面所へ向かうと、高虎もキッチンへ戻った。
調理台にはすでに二人分のケチャップライスが用意され、使い終えた包丁やまな板も洗って片づけられている。コンロの横には卵を溶いたボウルが置かれ、あとは焼いて包むだけという状態だった。
高虎はフライパンを手に取り、火をつけた。
千尋が帰ってくるのを待っていたのは、別に大した理由があるわけではない。せっかく一緒に食べるのだから、できたてのほうがいいと思っただけだ。
けれど、帰宅した千尋が自分の姿を見つけ、当たり前のように「ただいま」と言ったとき、思っていた以上に嬉しかった。
誰かの帰りを待ち、その相手のために食事を作る。
そういう時間が、自分にとってこんなにも心地よいものだったとは、今まであまり考えたことがなかった。
◆
着替えを済ませてリビングへ戻った千尋は、ダイニングテーブルに並べられた皿を見て、思わず足を止めた。
「お、すごい! 綺麗にできてんじゃん」
白い皿の中央には、ケチャップライスを包んだ黄色い卵が、ふっくらとした形で載っていた。
表面にはほどよい艶があり、端まで綺麗に閉じられている。
千尋が自分で作ると、どうしても途中で卵が破れたり、ライスがはみ出したりするのだが、高虎の作ったものには、そうした崩れがほとんどなかった。
「高虎、オムライス得意?」
「結構作るよ」
「だよなあ。手際よかったもん。俺、包むの苦手なんだよ」
「フライパン大きすぎると、難しいのかも」
「なるほど。今度教えてもらお」
千尋が椅子へ腰を下ろすと、高虎は冷蔵庫からケチャップを取り出した。
「何か描く?」
「え、描いてくれんの?」
「うん」
「じゃあ、でっかいハート」
千尋は少し悩んだ後、にやりと笑って答えた。高虎がケチャップでハートを描く様子を、どうにも見てみたくなったのだ。
「ハート?」
「そう。せっかくだし、かわいいやつ頼む」
高虎は千尋の顔を一度見てから、何のためらいもなくケチャップの容器を傾けた。
黄色い卵の上へ赤い線が引かれ、ゆっくりと曲線を描いていく。容器を握る手は大きいが、力加減は繊細で、線の太さもほとんど変わらない。
やがて、綺麗なハートが完成した。
「おお、上手い。お前、こういうのも得意なの?」
「別に。描いただけ」
「いやいや、形めっちゃ綺麗じゃん。ありがとな」
千尋は嬉しそうに皿を眺め、それから高虎のオムライスへ視線を移した。
「なあ、お前のにも俺が描いていい?」




