たかとら、ケーキを買ってくる -3-
「あれ、高虎」
「ん?」
「お前、今唇ぺろってした?」
高虎は少し眉を寄せた。
「した?」
「うん。こう、ぺろって」
千尋が自分の唇を指差して説明すると、高虎は一度考え、それから首を傾げた。
「癖かも」
「自覚ないの?」
「ない。よくやる?」
「いや、俺も今初めて気づいたからわかんねえけど」
千尋は改めて高虎の口元を眺めた。
薄めの唇は、普段あまり大きく動かない。話すときも必要以上に表情を変えず、笑うと片側だけが少し持ち上がる。
先ほどの仕草は、そんな普段の落ち着いた顔立ちに対して、妙に無防備に見えた。
「へえ。なんか面白いな」
「何が?」
「いや、無意識の癖って自分じゃわかんないもんなんだなと思って。俺もなんかあるのかな」
「こぎさんは、喋るとき手が動く」
「え、そう?」
「うん。結構」
千尋は自分の手元を見た。
確かに、今もフォークを持っていないほうの手が、いつの間にかテーブルの上へ出ている。
「ほんとだ。俺、身振り手振り多い?」
「多いと思う」
「うわ、恥ずかし。気をつけよ」
「別にいいじゃん」
高虎はそう言って、タルトを千尋のほうへ戻した。
「わかりやすいし」
「何が?」
「何話してるか」
「そりゃ喋ってんだからわかるだろ」
「そうだけど」
高虎の口元が、わずかに緩む。
千尋はその顔を見て、何となくからかわれているような気がしたが、本人に悪気がある様子もないので、結局そのまま笑ってしまった。
無愛想に見えるわりに、この男は案外よく笑う。
ただし、声を上げたり大きく表情を変えたりすることは少なく、こちらが気づくかどうかという程度に、目元や口元が緩むだけだ。
それがわかってくると、最初に感じた近寄りがたさも、ずいぶん薄れてきたように思う。
◆
ケーキを食べ終え、空になった箱を片づけようとした千尋は、手提げ袋の底にもう一つ、小さな包みが残っていることに気づいた。
「あれ、まだ何か入ってる。高虎、これも買ったの?」
「うん。クッキー」
「かわいいな、これ。リボンついてる」
「そう。かわいかったから買った」
高虎は空になった皿を重ねながら、ごく当たり前のように答えた。
千尋は手元のクッキーを見下ろし、それから高虎の顔を見上げる。
「お前、かわいいもの好きなの?」
「好きだよ」
「へえ。そうなんだ」
「こぎさんも好きでしょ」
「好きだけど。よくわかったな」
「部屋に結構あるじゃん」
高虎が顎で示したのは、リビングの棚だった。
そこには小さな観葉植物や、動物をかたどった置物がいくつか並んでいる。どれも千尋が気に入って少しずつ集めたもので、部屋全体の雰囲気を損なわない程度に飾っていた。
「ああ、あれか。そうそう、かわいいだろ。あのちっちゃい動物のやつ、雑貨屋で見つけてさ」
「うん。いいね、あれ」
「だろ? ああいうの見つけると、つい買っちゃうんだよな」
「わかる」
あっさり同意され、千尋は少し驚いた。
高虎は自分の服装にはあまり飾り気がなく、黒やグレーを中心とした、ゆったりした服を好んで着ている。身につけている小物も実用的なものばかりで、かわいい雑貨を集めているようには見えなかった。
けれど考えてみれば、外見と好みが必ずしも一致するわけではないだろう。
「なんか、お前のことちょっとわかってきた気がする」
「そう?」
「うん。甘いもの好きで、かわいいもの好きで、料理もできる」
「普通じゃない?」
「いや、別に珍しいって意味じゃなくてさ。昨日会ったばっかりだから、まだ全然知らねえなと思って」
千尋はクッキーの袋を軽く持ち上げた。
「これ、明日食おうぜ。今日もうケーキ二つ食っちゃったし」
「うん。コーヒーと食べたい」
「じゃあ明日のおやつにしよ」
千尋は袋をキッチンの棚へ置き、リボンが潰れないよう、少し向きを整えた。
高虎はその様子を眺めてから、食器を持って立ち上がる。
千尋が何かを気に入るとき、その理由はわりと単純で、しかも本人はそれを隠そうとしない。
かわいいから好き。美味しいから嬉しい。気に入ったから、また食べたい。
それを聞いていると、自分が何かを選ぶときにも、あまり余計なことを考えなくて済むような気がした。
◆
食器を片づけたあと、二人はリビングへ移動した。
千尋はソファへ腰を下ろし、テレビのリモコンを手に取ったものの、特に見たい番組があるわけでもなく、結局そのままローテーブルへ置いた。
キッチンでは高虎がマグカップを洗い、水切りかごへ並べている。
「高虎、コーヒー飲む?」
「飲む」
「じゃあ俺淹れるわ」
千尋が立ち上がると、高虎は濡れた手をタオルで拭きながら振り返った。
「俺やるよ」
「いや、お前さっきからずっと片づけしてくれてんじゃん。座ってていいぞ」
「こぎさんも飯作ってくれたし」
「そうだけどさ。じゃあ、一緒にやる?」
「うん」
高虎は素直に頷き、千尋がキッチンへ入ってくるための場所を空けた。
千尋が湯を沸かし、高虎がマグカップとコーヒー豆を用意する。
同じ場所に立つと、やはり身長差が際立った。千尋が顔を上げなければ高虎の表情は見えず、逆に高虎が少し身を屈めなければ、千尋が手元で何をしているのかまではわからない。
それでも、朝と同じように、二人の作業は不思議と噛み合っていた。
「高虎、明日って何時くらいに帰ってくる?」
「七時くらいかな。現場次第だけど」
「そっか。俺、明日はちょっと遅くなるかも」
「仕事?」
「うん。展示会の現場確認入っててさ。たぶん八時か九時になると思う」
千尋は沸いた湯をポットへ移し、コーヒーを淹れる準備をしながら少し考えた。
「夕飯どうすっかな。何か作り置きしとこうか?」
「俺が作るよ」
「え、いいの?」
「こぎさん遅いんでしょ。俺のほうが早いし」
高虎はそう言って、マグカップを二つ並べた。
その振る舞いには、特別な気負いもなければ、相手に恩を売ろうという意図も感じられない。
千尋はしばらく高虎の横顔を見上げ、それから笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「うん。何食べたい?」
「え、リクエストしていいの?」
「作れるものなら」
「そうだなあ。……オムライスとか?」
「いいよ、作れる」
「やった。俺、オムライス好きなんだよなあ」
千尋が嬉しそうに言うと、高虎は小さく頷き、必要な材料を頭の中で確認するように視線を動かした。
「じゃあ帰りに、買い物してくるね」
「いやいや、そこまでしてもらうの悪いって。食材代は俺も出すからな」
「うん。あとで精算しよ」
高虎があっさり了承するので、千尋はその返答に、少しだけ感心した。
こういうとき、遠慮して全部自分で払おうとする人間もいれば、逆に相手の好意を当然のように受け取る人間もいる。
高虎はそのどちらでもなく、必要なことをきちんと相談しながら、無理のないところで折り合いをつけようとする。
六つも年下だというのに、案外しっかりしている。
「高虎ってさ、結構ちゃんとしてるよな」
「何が?」
「いや、家事とか、そういうの。俺、二十四のときこんなにちゃんとしてたかなあ」
「こぎさんもちゃんとしてるじゃん」
「そう?」
「うん。昨日も今日も飯作ってくれたし、部屋も綺麗だし」
「おお、褒められた。もっと言っていいぞ」
千尋が得意げに胸を張ると、高虎は一度その顔を見下ろし、口元を緩めた。
「優しいし」
予想していなかった言葉に、千尋は一瞬、動きを止めた。
「……お?」
「泊めてくれたし。助かってる」
高虎は淡々と続け、淹れ終わったコーヒーを千尋のほうへ差し出した。
千尋はマグカップを受け取りながら、何となく照れくさくなった。
自分から褒めろと言ったくせに、いざ真正面から礼を言われると、どう返していいのかわからなくなる。
「そ、そっか。まあ、困ったときはお互いさまだからな」
「うん」
「俺も朝飯作ってもらったし、ケーキまで買ってきてもらったし。十分助かってるよ」
千尋はそう言って、マグカップを両手で包んだ。
温かい陶器の感触が指先に伝わる。
高虎は隣で自分のコーヒーを一口飲み、それからふと、千尋の顔を見た。
「オムライス、卵ふわふわのやつがいい?」
「あー、どっちも好きだけど、昔ながらの包んであるやつも好きだな」
「じゃあ包むほうにする」
「ほんと? 楽しみにしてる」
「うん」
そのあとも二人は、明日の買い物や帰宅時間について話し合い、食材代や日用品の分担についても、少しずつ決めていった。
どちらか一方が無理をするのではなく、できるほうができることをする。
そういう暮らし方なら、案外うまくやっていけるのかもしれない。
千尋はコーヒーを飲みながら、そんなことを考えた。
◆
夜も更け、千尋が寝室へ引っ込む頃には、高虎も客用の布団を整え終えていた。
リビングの照明を落とす前、千尋は棚に置いたクッキーの袋へ目を向けた。
明日はあれを開けて、コーヒーと一緒に食べよう。
その前には、高虎が作るというオムライスも待っている。
考えてみれば、まだ出会って二日目だというのに、すでに明日の夕食や、そのあとのおやつの約束までしているのだから、なかなか面白い。
「高虎、電気消すぞ」
「うん」
「じゃ、おやすみ。明日も仕事頑張れよ」
「おやすみ、こぎさん」
高虎の低い声が返ってきたのを確かめ、千尋はリビングの照明を落とした。
廊下を歩きながら、ふと、今朝のことを思い出す。
寝坊して慌てて部屋を出たら、高虎がキッチンで目玉焼きを焼いていた。
それだけでも十分妙な出来事だったのに、夜にはその男がケーキを買って帰ってきて、明日はオムライスを作ると言っている。
昨日まで、一人で暮らしていた部屋である。
帰宅すれば誰もいないし、食事を作るのも片づけるのも自分一人。休日に何をするかも、何時に寝るかも、誰かに相談する必要はなかった。
そういう気楽さは嫌いではない。
けれど、誰かと一緒に暮らすというのも、思っていたほど窮屈なことではないのかもしれない。
少なくとも、高虎となら。
千尋は寝室の扉を閉め、ベッドへ腰を下ろした。
あの大きな男は、どうやら甘いものが好きで、かわいいものも好きらしい。
料理ができて、朝に強くて、口数は多くないけれど、こちらの話はちゃんと聞いてくれる。
それから、無意識に唇を舐める癖がある。
まだ知らないことのほうがずっと多いが、二日間でわかったことも、案外たくさんあった。
「……変なやつ」
千尋は小さく笑い、ベッドへ潜り込んだ。
悪い意味ではない。むしろ、なかなか面白いやつだと思っている。
一方その頃、高虎は客用の布団へ腰を下ろし、スマートフォンのメモを開いていた。
鶏肉、卵、牛乳。
明日の夕食に必要なものを書き込み、冷蔵庫の中身を思い返しながら、買い足すものがないか確認する。
千尋は、オムライスが好きだと言っていた。
ふわふわの卵も好きだけれど、昔ながらの包んだものも好きだと、少し嬉しそうに話していた。
ならば、明日は綺麗に包んでやりたい。
高虎は買い物のメモを保存し、スマートフォンを枕元へ置いた。
自分の部屋が使えなくなったことは、もちろん災難だった。修理の予定もまだ確定していないし、仕事の合間に管理会社と連絡を取る必要もある。
それでも、今日一日を振り返ってみれば、嫌なことばかりではなかった。
朝には一緒に飯を食べ、夜には買って帰ったケーキを喜んでもらえた。明日は、自分が夕飯を作る。
千尋が仕事を終えて帰ってくる頃には、できれば温かいオムライスを用意しておきたい。
高虎は布団へ横になり、明日の仕事の段取りを頭の中で確認してから、ゆっくり目を閉じた。
誰かの帰宅時間に合わせて夕食を作るのは、ずいぶん久しぶりのことだ。不思議と、面倒には思わなかった。




