たかとら、ケーキを買ってくる -2-
午後七時を少し回った頃。仕事を終えた高虎は、駅前の商店街を歩いていた。
日が落ちるのが早くなった通りには、飲食店や惣菜屋の明かりが並び、夕食の買い物を済ませた人々が足早に行き交っている。高虎は黒いブルゾンのポケットへ片手を入れ、もう片方の手でスマートフォンを確かめた。
千尋からは、夕食を作っておくという連絡が来ていた。
今朝は自分が朝食を用意したとはいえ、昨日も今日も世話になりっぱなしなのだから、何か持って帰りたい。
そう考えていたところで、通りの角にある小さな洋菓子店が目に入った。
淡いクリーム色の壁に、白い木枠の扉。窓辺には小さな花の飾りが吊るされ、店先の黒板には、季節限定のケーキが手描きの文字で紹介されている。
高虎は足を止め、ガラス越しに店内を覗いた。
ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。
甘いものは昔から好きだった。仕事帰りに気に入った店へ寄って買うこともあれば、休日にコーヒーを淹れ、買っておいた焼き菓子を食べながら過ごすこともある。
見た目のかわいらしい店に一人で入ることについても、特に抵抗はない。食べたいものがあれば買うし、気に入ったものがあれば持ち帰る。それだけのことである。
高虎は扉を開け、店内へ入った。
「いらっしゃいませ」
店員に軽く会釈し、ショーケースの前へ進む。
いちごのショートケーキ、モンブラン、艶のあるガトーショコラ、季節の果物を使ったタルト。どれも丁寧に飾りつけられていて、照明を受けた果物の表面が瑞々しく光っていた。
高虎は端から順番に眺め、まず自分の食べたいものを選んだ。
ガトーショコラは外せない。ショートケーキも、ここのものはクリームが美味そうだ。
それから、千尋の顔を思い浮かべる。
今朝、半熟の目玉焼きを食べながら、ずいぶん嬉しそうにしていた。甘いものが好きかどうかまでは聞いていなかったが、食べなければ自分が食べればいいし、もし好きなら一緒に食べられる。
「お決まりですか?」
「ショートケーキ二つと、ガトーショコラ一つ」
「ありがとうございます」
「あと、フルーツタルトもください」
店員がケーキを箱へ詰めているあいだ、高虎はレジ横に並んだ焼き菓子へ視線を向けた。
透明な袋に入った丸いクッキーが数枚、淡い色のリボンで結ばれている。袋の口には小さな花の形をしたタグがついていて、素朴な焼き色と控えめな包装が、店の雰囲気によく合っていた。
高虎は、それを一つ手に取った。かわいいな、と思ったのだ。
それに、クッキーなら明日でも食べられる。
「これもお願いします」
「かしこまりました、ご自宅用ですか?」
「はい」
店員が用意した箱を受け取り、高虎は中身が傾かないよう手提げ袋を持ち直した。
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
スマートフォンを取り出し、千尋へメッセージを送る。
『今から帰る』
返信はすぐに届いた。
『おう、気をつけてな』
『今日カレー!』
続けて送られてきたのは、スプーンを持ったなにやら丸い動物が、カレーを前にして嬉しそうにしているスタンプだった。
高虎は画面を見下ろし、口元を緩めた。
『楽しみ』
そう返してから、スマートフォンをポケットへしまう。
箱の中のケーキが崩れないよう歩幅を少し調整しながら、高虎はマンションへ向かった。
◆
「ただいま」
「おかえり。お疲れさん」
玄関の扉を開けると、奥から千尋の声が返ってきた。
靴を脱いでいるあいだにリビングの扉が開き、クリーム色のエプロンをつけた千尋が顔を覗かせる。栗色の髪は朝よりも少し乱れていて、袖を肘のあたりまで捲り上げた格好から、帰宅してすぐ夕食の支度に取りかかったことが窺えた。
「飯、もうちょっとでできるぞ。手ぇ洗ってきな」
「うん。ありがと」
「あとちょっとだけ煮詰めたら、……ん?」
千尋の視線が、高虎の右手へ落ちた。
白い箱の入った手提げ袋には、見覚えのある洋菓子店のロゴが印刷されている。
「高虎、それ何?」
「ケーキ。帰りに買ってきた」
「え、あそこの店?」
「駅のとこ?」
「そうそう。角にある、ちっちゃい店。俺、あそこ好きなんだよ」
千尋は思わず玄関まで出てきて、高虎の手元を覗き込んだ。
高虎は袋を少し持ち上げ、千尋が見やすいように向きを変える。
「こぎさん、甘いもの食べる?」
「食べる食べる、大好き! え、これ俺も食っていいやつ?」
「もちろん。そのつもりで買ってきた」
「やった! ありがと」
千尋は嬉しそうに笑い、それから改めて高虎の顔を見上げた。
長身に、黒いブルゾン。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、眉間に寄りがちな皺のせいで、黙っていると少し近寄りがたい印象を与える。
そんな男が、かわいらしい洋菓子店の袋を提げて帰ってきたのだから、千尋としては少々意外だった。
「お前、甘いもん好きなんだ?」
「好きだよ。結構食べる」
「へえ。なんか意外」
「そう?」
「うん。もっとこう、肉とかラーメンとか、そういうのばっか食ってそう」
「肉もラーメンも好きだけど」
「だよな。いや、なんかいいな。甘党仲間じゃん」
千尋が笑うと、高虎もわずかに口元を緩めた。
「こぎさんも好きでよかった」
「大歓迎!」
「四つ買った」
「ほんとに?」
「うん」
あまりにも都合のよい返答に、千尋は一瞬目を丸くしてから、声を上げて笑った。
「お前も二つ食うの?」
「食べるつもり」
「よし。じゃあ飯食ったらケーキな」
千尋は袋を受け取り、箱が傾かないよう両手で抱えた。
「ありがとな、高虎。ほんと、気ぃ遣わなくていいのに」
「俺も食べたかったし。世話になってるから」
「そっか。じゃあ遠慮なくいただきます」
千尋はそう言って、冷蔵庫へ向かった。
高虎はその後ろ姿を見送りながら、靴を揃えて立ち上がる。
何かを買って帰って、これほど素直に喜ばれたのは久しぶりだった。
それも、買ってきた自分のほうが少し嬉しくなるくらいに。
◆
千尋の作ったカレーは、思っていた以上に良く仕上がっていた。
大きめに切られたじゃがいもと人参は煮崩れず、玉ねぎはほとんど形がなくなるまで煮込まれていて、スプーンを入れると柔らかい牛肉がほろりと崩れる。
高虎が一口食べて「うまい」と言うと、千尋は満足そうに笑い、隠し味に少しだけ醤油を入れていることや、時間のある日は玉ねぎをじっくり炒めることなどを教えてくれた。
高虎が辛口を好むと知ると、千尋は少し考えてから、次に作るときは辛さを調整してみようかと言った。
まだ次があると決まったわけでもないのに、ごく自然にそういう話になる。
食事を終える頃には、二人とも皿に残ったカレーを綺麗に食べきっていた。
「ごちそうさま。うまかった」
「お粗末さまでした。いっぱい食ってくれると作り甲斐あるな」
「おかわりもらったしね」
「いや、気持ちいい食いっぷりだった! 作った側としては嬉しい」
千尋が食器を重ねようとすると、高虎が手を伸ばし、自分の皿を先に持ち上げた。
「洗うよ」
「ん、じゃあお願いしようかな。俺、ケーキ出すわ」
「うん」
千尋は冷蔵庫へ向かい、高虎は二人分の食器をシンクへ運んだ。
背後から水の流れる音を聞きながらケーキの箱を開けた千尋は、中を覗き込み、思わず頬を緩めた。
いちごのショートケーキが二つに、フルーツタルトとガトーショコラが一つずつ。
どれも綺麗な形を保っていて、箱の内側には崩れたクリームひとつついていない。
「高虎、これ綺麗に持って帰ってきたな!」
「傾けないようにしたから」
「仕事帰りにこの箱持って歩いてたんだろ。なんか想像するとかわいい」
言ってから、千尋は自分の言葉が少々おかしかったことに気づいた。
目の前の男は、どちらかといえばかわいいというより、格好いい部類の顔立ちをしている。大柄な身体も、低めの声も、決してかわいらしいという印象ではない。
けれど、ケーキを大切に持って帰ってきたという事実には、どこか微笑ましいものがあった。
高虎は洗い終えた皿を水切りかごへ立てかけ、千尋を振り返った。
「崩れたら嫌じゃん」
「まあ、そりゃそうなんだけどさ」
「こぎさん、どれ食べる?」
「んー、迷うなあ」
千尋は箱を覗き込み、フルーツタルトとガトーショコラを交互に見た。
季節の果物がたっぷり盛られたタルトも美味そうだし、濃厚そうなチョコレートの艶も捨てがたい。
「お前、どれ食いたい?」
「ガトーショコラは食べたい」
「じゃあ俺、タルトにしようかな」
「いいよ」
「よし、決まり」
千尋は食器棚からケーキ皿を二枚取り出し、それぞれのケーキを移した。
高虎が洗い物を終えて戻ってくる頃には、フォークと飲み物も揃っていた。
向かい合って腰を下ろし、千尋はタルトの先端へフォークを差し込む。
艶のある果物を、下に隠れた生クリームと一緒に口へ運ぶと、濃厚な甘さのあとから酸味がふわりと広がった。
「んん、うま……!」
思わず声が漏れた。
千尋は口の中のものをゆっくり飲み込み、フォークを持ったまま高虎を見た。
「これ、めちゃくちゃうまい。高虎も食べてみ」
「うん。あとでちょうだい」
「もちろん。そっちも一口くれよ」
「いいよ」
高虎は自分のガトーショコラを一口食べ、しっとりとした生地の食感を確かめるように、ゆっくり咀嚼した。
チョコレートの風味が濃く、甘さのあとにほろ苦さが残る。思っていたとおりの味だった。
「こっちもうまい」
「だろうなあ。見た目からして絶対うまいやつだもん」
千尋が身を乗り出すと、高虎は自分の皿をテーブルの中央へ寄せた。
千尋はガトーショコラの端を小さく切り取り、口へ運ぶ。濃厚なチョコレートの味に目を細め、しばらく味わってから、納得したように頷いた。
「うん。こっちもいいな。甘いけど重すぎないし」
「ショートも楽しみ」
「わかる! あそこの生クリーム、美味いんだよ」
「食べたことある?」
「あるある。たまに買って帰るんだ。俺、一人であの店入るとちょっとそわそわするんだけどさ」
「なんで?」
「店がかわいすぎるんだよ。なんかこう、ちょっと落ち着かなくて」
高虎はフォークを持つ手を止め、千尋の顔を見た。
「そういうの気にするんだ」
「気にするっていうか、多少はな。お前は平気?」
「全然」
「だろうなあ」
「ケーキ買いに行ってるだけだし」
「うん。お前はそういう感じする」
千尋は笑いながら、自分のタルトを高虎のほうへ押し出した。
「ほら、こっちも食ってみ」
「ありがと」
甘さの中にフルーツの香りが広がり、口の中に滑らかな余韻が残る。ガトーショコラとはまた違った美味さに、高虎は小さく頷いた。
「これもうまいね」
「だろ。俺、次あの店行ったらまた買おうかな」
「俺もまた行きたい」
「じゃあ今度、一緒に行く?」
「いいよ」
あまりにも自然に返されて、千尋は一瞬だけ目を瞬かせた。
自分から誘っておいて妙な話だが、まだ出会って二日目の相手と、次の休日にでもケーキ屋へ行こうかという話をしているのは、なかなか不思議な状況だった。
もっとも、高虎のほうは特に気にしていないらしく、残っていたガトーショコラを口へ運んでいる。
そのとき、高虎が、下唇を舌先で軽く湿らせた。
クリームがついていたわけではない。食べ終えたあと、何かを考えるように視線を落とし、ごく自然に唇を舐めたのである。
千尋はフォークを持ったまま、何となくその仕草を目で追った。




