第3話:たかとら、ケーキを買ってくる -1-
瀬川高虎という男は、どうやら朝に強いらしい。千尋がそれを知ったのは、突然始まった居候生活の、二日目の朝のことだった。
昨夜は、上階からの水漏れによって自室を使えなくなった高虎をひとまず泊めることにして、客用の布団を引っ張り出したり、風呂や洗面所の使い方を教えたり、互いの出勤時間を確認したりしているうちに、普段よりずいぶん遅い時間になってしまった。
慣れない出来事が続いたせいか、千尋は自分でも思っていた以上に疲れていたらしく、目覚ましを止めた記憶もないまま、いつもより三十分ほど長く眠ってしまった。
枕元の時計を確認した瞬間、千尋は布団の中で勢いよく上体を起こした。
「うわ、やっべ。寝坊した」
遅刻するような時間ではないものの、普段ならとっくに朝食を済ませ、身支度を始めている頃である。しかも今日は自分一人ではなく、昨夜から泊まっている六つ年下の男もいるのだから、朝食くらいは用意してやろうと思っていたのに、すっかり予定が狂ってしまった。
千尋は寝癖のついた栗色の髪を手櫛で押さえ、スウェットの裾を引っ張りながら寝室を出た。
廊下へ出たところで、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
焼いたパンと、ベーコンの脂が熱せられる匂い。それに混じって、かすかにコーヒーの香りも漂っている。
「ん?」
寝ぼけた頭で一瞬考え、それからリビングの扉を開けると、キッチンには見慣れない大きな背中があった。
昨夜は黒いブルゾンを着ていた男が、今朝は薄いグレーのTシャツに黒いスウェットパンツという格好で、コンロの前に立っている。
千尋が一人で使うには十分な広さのキッチンが、今朝は妙に窮屈そうに見えた。
高虎はフライパンを持つ右手を傾けて、卵の焼け具合を確かめていたが、千尋が近づく足音に気づくと、肩越しに振り返った。
「おはよ、こぎさん」
「おはよ。って、お前、何してんの?」
「朝飯」
「それは見ればわかるんだけどさ」
思わず笑いながら隣へ回り込むと、フライパンには目玉焼きが二つ並び、その脇にはすでに焼き上がったベーコンが皿へ取り分けられていた。トースターの中では食パンが二枚、ちょうどよい焼き色になりつつある。
「え、作ってくれてんの?」
「うん。ごめん、冷蔵庫勝手に開けた」
「それは全然いいけど。なんだよ、起こしてくれりゃよかったのに」
「まだ時間あったし。寝てたから」
高虎はそれだけ言って火を弱め、フライ返しを卵の下へ滑り込ませた。手首の動きに無駄がなく、大きな手に握られた調理器具がずいぶん小さく見えるわりに、半熟の黄身を崩さないよう皿へ移す作業は丁寧だった。
千尋はその手元を感心しながら眺めていたが、ふと、昨夜自分が朝食を作るつもりだったことを思い出した。
「なんか申し訳ないな。朝飯作ってもらっちゃって」
「昨日、晩飯作ってくれたじゃん」
「そりゃそうだけど。お客さんなんだから、もうちょっと遠慮なく寝てていいんだぞ?」
「こぎさんも寝てたし」
「俺は寝坊したんですぅ」
千尋がわざと拗ねたような声を出すと、高虎は皿を持ち上げたまま、ほんの少し口元を緩めた。
「卵、半熟でよかった?」
「うん、好き。ありがとな」
「ならよかった」
短いやり取りのあと、高虎は二人分の皿をダイニングテーブルへ運び始めた。千尋もようやく自分の役割を見つけ、食器棚からマグカップを取り出してコーヒーを用意する。
高虎が背後を通るときには、千尋が半歩だけシンク側へ身体を寄せる。逆に千尋が冷蔵庫を開けようとすると、高虎は手にした皿を少し高く持ち上げ、扉が開くための場所を空けた。
昨夜初めて同じ屋根の下で眠ったばかりの相手だというのに、互いの動きをいちいち確認しなくても、不思議と作業が滞らない。
「高虎って、自炊すんだな」
「するよ。一人暮らし長いし」
「へえ。仕事忙しそうなのに、偉いな」
「毎日は無理だけどね。遅い日は買って帰る」
「あー、わかる。俺も現場が長引いた日はもう何もしたくねえもん。コンビニ寄って、帰って、風呂入って寝るだけ!」
「そういう日あるよね」
「あるある。帰ってから包丁握る気力なんか残ってねえの」
千尋はコーヒーを注ぎながら、自分の仕事の繁忙期について少し話した。
イベントや展示会の制作進行という仕事は、準備段階こそデスクワークが多いものの、開催直前になれば現場を駆け回ることも珍しくなく、撤収作業が夜遅くまで続くこともある。
高虎は椅子に腰を下ろし、千尋の話を聞きながら、トーストの皿を少し手前へ寄せた。
「設営も見るんだ?」
「見る見る。進行管理だからな。自分で重いもん運ぶこともあるし」
「腰、気をつけなよ」
「お、現場の人っぽいこと言うじゃん」
「実際、腰やる人多いから」
「だよなあ。俺も気をつけよ!」
そんな話をしながら向かい合って朝食を食べ始めると、千尋は早速、目玉焼きの黄身に箸を入れた。
薄い膜が破れ、とろりとした黄身が白身の上へ流れ出す。端はほどよく焼けているのに、中心は柔らかく、千尋が普段自分で焼くものよりも、ずいぶん綺麗に仕上がっていた。
「ん、うま。高虎、卵焼くの上手いな」
「そう?」
「うん。俺、こういう半熟好きなんだよ。自分でやるとたまに火ぃ通しすぎちゃってさ」
千尋が素直に感心すると、高虎は少しだけ目を細め、自分のトーストへ手を伸ばした。
褒められたことを大げさに喜ぶわけではないし、かといって照れ隠しに否定することもない。千尋の言葉をそのまま受け取り、何でもないことのように朝食を続ける。
その落ち着いた振る舞いが、妙に印象に残った。
昨日まで、一人で食べるのが当たり前だった朝食。
テレビをつけ、ニュースを流しながら適当にパンをかじり、コーヒーを飲んで出勤する。
そんな代わり映えのしない朝に、今日は向かい側の椅子を大きな男が占領していて、目玉焼きの焼き方なんてものを教えてくれている。
千尋はマグカップを持ち上げ、向かいに座る高虎をちらりと見た。
「なんか、変な感じするな」
「何が?」
「いや、うちに誰かいるの。朝から一緒に飯食ってんの、久しぶりだなと思って」
何気なく口にしてから、千尋は少し、言葉を選び直したくなった。
以前は、こうして誰かと食卓を囲むこともあった。けれど、その相手との関係はもう終わっているし、今さら思い出して感傷に浸るつもりもない。
ただ、一人暮らしに戻ってからというもの、誰かが自分のために朝食を用意してくれることなど、すっかりなくなっていたのだ。
高虎は千尋の顔を一度見てから、テーブルの上へ視線を戻した。
「俺も久しぶり」
「そっか。お前も一人暮らしだもんな」
「うん」
「じゃあ、しばらく賑やかになるな」
「こぎさんがいるしね」
「おい、俺がうるさいみたいに言うな!」
「言ってない」
高虎はそう答えながら、今度こそはっきり笑った。
千尋もつられて笑い、残っていたトーストを口へ運ぶ。
まだ互いのことなどほとんど知らないが、少なくとも、朝から誰かと他愛のない話をするのは悪くなかった。
◆
その日の昼過ぎ、高虎のもとへ管理会社から連絡が入った。
漏水の原因となった接続部分の修理は進められるものの、床材の下まで水が入り込んでいるという。乾燥状態の確認や必要な部分の交換を含め、部屋を元どおり使えるようになるまでには、まだ日数がかかるらしい。
高虎は仕事の休憩時間に電話を受け、修理の予定や立ち入りの段取りを確認したあと、作業服のポケットからスマートフォンを取り出した。
連絡先を交換したばかりの千尋へ、短いメッセージを送る。
『部屋、しばらく使えないみたい』
返信は、思ったよりも早かった。
『まじか、大変だなあ』
『今日も泊まってく?』
高虎は画面に並んだ文字を見下ろし、少し考えた。
昨日は突然の出来事だったし、千尋の申し出に甘える以外、すぐに思いつく方法もなかった。けれど、復旧まで数日以上かかるとなれば話は別である。
千尋は気前よく泊まっていけと言ってくれたが、他人が一人増えるだけで生活はずいぶん変わる。自分は身体も大きいし、食事も風呂も洗濯も、何もかも一人分余計に必要になるのだから、いつまでも好意に甘えていていいものかとは思う。
『ホテル取ろうと思ってる』
そう送ると、数秒もしないうちに着信があった。
高虎は休憩場所から少し離れ、周囲の作業音が届きにくい通路へ移動してから、電話に出た。
「もしもし」
『高虎、ホテルって何。うち泊まってけばいいじゃん』
挨拶もそこそこに本題へ入ってきた千尋の声は、電話越しでも普段と変わらず明るかった。
「長くなりそうだから。ずっと世話になるわけにもいかないし」
『ああ、そういうこと?』
「うん」
『別にいいけどなあ。俺、一人だし』
千尋はあっさり答えたあと、少し間を置いて続けた。
『もちろん、お前がホテルのほうが気楽なら無理にとは言わないけどさ。昨日も言っただろ、部屋直るまで使っていいって』
「でも、迷惑かけるでしょ」
『そりゃ多少は生活変わるだろうけど、俺が嫌だったらちゃんと言うよ。お前だって、知らないやつの家で何日も過ごすのは気ぃ遣うだろ?』
高虎は壁へ軽く背中を預け、電話の向こうから聞こえる声に耳を傾けた。
千尋は一方的に泊まっていけと言っているわけではなかった。高虎が遠慮していることも、逆に居心地の悪さを感じる可能性があることも理解したうえで、それでも構わないと伝えてくれている。
その気遣いが、ありがたかった。
「こぎさんは平気なの?」
『俺? うん。昨日一緒に飯食って、今朝も普通に過ごせたし。少なくとも、お前と暮らすのが嫌だとは思わなかったな』
「そっか」
『むしろ朝飯作ってもらっちゃったし。あれ、助かったんだぞ』
高虎は、思わず口元を緩めた。
「卵焼いただけだけど」
『その卵がうまかったんだって。あ、でも、ずっとお客さん扱いはしないからな。泊まるなら家事も分担してもらうし、食費とかも相談しようぜ』
「うん。それなら助かる」
『よし、決まり。とりあえず修理終わるまでうちにいな』
「ありがと、こぎさん」
『いいって。俺のほうが年上なんだから、こういうときくらい頼っとけ』
得意げな口調に、高虎は小さく笑った。
「六つだけどね」
『六つも、だろ。六年あったら小学生が卒業しちゃうんだぞ』
「俺が小学校入ったとき、こぎさん卒業してるもんね」
『そういうこと。人生の先輩として敬いたまえ』
「うん」
返事をした高虎が笑っていると、電話の向こうでも千尋が楽しそうに笑った。
その後、千尋は今夜の夕食について尋ね、高虎が仕事を終える時間を確認してから、またあとで連絡すると言って通話を切った。
スマートフォンをポケットへしまい、高虎は作業場へ戻るために、壁から背中を離した。
自分の部屋は水浸しになっているし、修理がいつ終わるのかも、まだはっきりしない。生活の予定が狂ったことに変わりはなかったが、少なくとも今夜の寝床を心配する必要はなくなった。
それに、帰る場所には、昨日知り合ったばかりの賑やかな男がいる。
高虎はそのことを思い浮かべ、午後の作業へ戻った。




