こぎさんと、おとなりじゃない人 -3-
「適当に座ってて。荷物はそっち置いていいよ」
千尋はキッチンへ向かいながら声をかけ、冷蔵庫を開けた。
「何食いたい? あ、そんな大したもんは作れないけど」
「……何でも」
「一番困るやつ!」
「じゃあ、こぎさんが食べるやつでいい」
「俺?」
「うん。一緒に食べるんでしょ?」
千尋は冷蔵庫の扉を開けたまま、少しだけ振り返った。
高虎はソファの横に立ち、スポーツバッグを床へ置いたところだった。
大きな身体が、いつもより少し遠慮がちに見える。
「そりゃ、一緒に食うけど」
「じゃ、それで」
「お前、案外図々しいな?」
冗談めかして言うと、高虎は眉を上げた。
「……だめ?」
「だめじゃねえよ」
千尋は笑って、冷蔵庫から卵と野菜を取り出した。
「よし、じゃあ今日あんま材料ないし、チャーハンな。嫌いなもんある?」
「ないよ」
「お、いい子だな!」
フライパンを火にかけ、冷凍しておいたご飯を電子レンジへ入れる。千尋が慣れた手つきで野菜を刻み始めると、高虎はしばらくその様子を見ていたが、やがて静かにキッチンの近くまで歩いてきた。
「何か手伝う?」
「ん?」
「俺だけ座ってるのも、なんか」
千尋は包丁を動かす手を止め、横に立つ高虎を見上げた。
キッチンに二人で並ぶと、身長差がますます際立つ。千尋の目線は高虎の肩より少し下にあり、顔を見ようとすると自然に顎が上がった。
「じゃあ、皿出してくれる?」
「うん」
「そこの棚。上から二段目」
高虎は指示された棚を開き、二枚の皿を取り出した。
千尋なら少し背伸びをする高さだったが、高虎は腕を伸ばすだけで簡単に届いてしまう。
「便利だな、お前。背ぇ高いの」
「……こぎさんも、便利そうだけど」
「何が!?」
「低いとこ、見やすそう」
「お前なあ」
高虎は笑った。
千尋は包丁を置き、腰に手を当てて睨み上げたが、目の前の男が楽しそうにしているのを見ると、それ以上怒る気にもなれなかった。
結局、二人で笑いながら夕食の支度を済ませた。
チャーハンを盛りつけ、冷蔵庫に残っていたスープを温め直し、ダイニングテーブルへ運ぶ。高虎は食器を並べるのも、使い終えた調理器具を片づけるのも手際がよく、千尋が何かを頼めば、すぐに動いてくれた。
普段は一人で使っているキッチンに、もう一人分の足音がある。
それが妙に新鮮だった。
「いただきます」
「はい、どーぞ!」
高虎は大きな手でスプーンを持ち、チャーハンを一口食べた。
千尋は向かいの椅子へ腰を下ろし、自分の皿へ手を伸ばしかけたところで、ふと顔を上げた。
「……どう?」
「ん?」
「うまい?」
高虎は、きちんと口の中のものを飲み込んでから頷いた。
「うまいよ」
「ほんと?」
「うん。すごく」
「よっしゃ!」
千尋は満足げに笑い、ようやく自分も食べ始めた。
高虎はそんな千尋を見て、少しだけ目を細めた。
「……こぎさんって、褒めると、すごい嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいだろ。自分が作ったもん、うまいって言われたら。お前だって、仕事頑張ったら褒められたいだろ?」
「まあ、そうだね」
「だろ? 俺もそう!」
千尋はそう言って、笑った。
高虎はしばらくその顔を見つめ、それからもう一口、チャーハンを食べた。
「じゃあ、もう一回言っとくね」
「ん?」
「すごくうまい。ありがと」
千尋は一瞬だけ目を丸くし、みるみるうちに嬉しそうな顔になった。
「……おう!」
高虎はその表情を見て、口元を緩めた。
何かを褒めれば、こんなにも素直に喜ぶ。
気遣いを受け取ることに妙な遠慮がなく、かといって、してもらうばかりで済ませようともしない。自分が嬉しいと思ったことを隠さず、相手にも同じように返そうとする。
そういうところが、この男にはあるらしい。
高虎は、目の前で楽しそうに食事を続ける千尋を眺めながら思う。
なんとなく、もう少し話してみたいと。
◆
食事を終え、二人で食器を洗い終わる頃には、時計の針は十一時を回っていた。
千尋は客用の布団を押し入れから取り出し、リビングに隣接した部屋へ運ぼうとしたが、その大きさに少し手間取っていると、高虎が横からひょいと持ち上げた。
「これ、どこ?」
「あ、そっちの部屋。……お前ほんと力あるな」
「普通だって」
「いや普通じゃねえよ! 自覚ないタイプなのな」
高虎は布団を運び込み、千尋の指示に従って床へ広げた。
シーツを掛ける作業は二人で行ったが、高虎の身体が大きいせいか、狭い部屋で向かい合って布団を整えていると、妙に距離が近くなる。
千尋がシーツの端を引っ張ろうとして前屈みになると、高虎が反対側から同じように手を伸ばし、二人の頭が危うくぶつかりかけた。
「うおっ」
「……あ、ごめん」
「いや、俺こそ!」
千尋が慌てて身体を起こすと、高虎も少し後ろへ下がった。
そのまま二人で顔を見合わせ、なんとなく笑ってしまう。
「なんか、変な感じだな」
「何が?」
「いや、うちに誰か泊まるの、久しぶりだからさ」
千尋はシーツの皺を伸ばしながら、何気なくそう言った。
以前は、こうして誰かと一緒に夕飯を食べることも、同じ部屋で寝る準備をすることも、珍しいことではなかった。
仕事を終えて帰ってくれば、先に誰かがいる日もあったし、反対に自分が夕飯を用意して待っている日もあった。
ただ、その生活はもう終わっている。
相手が自分以外の誰かとも同じような時間を過ごしていたと知ったとき、腹が立つより先に、ずいぶん馬鹿なことをしていたのだと思った。
自分だけが、二人で暮らしているつもりだったのかもしれないと。
千尋はシーツの端を布団の下へ押し込み、少し乱れた角を整えた。
「……こぎさん?」
「ん?」
顔を上げると、高虎がこちらを見ていた。
「……大丈夫?」
「え?」
「なんか、急に静かになったから」
千尋は瞬きをして目を逸らし、笑顔を作る。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事」
「……そっか」
高虎はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、千尋が整え終えた布団の端を軽く引き、ずれていたシーツを直してから、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがと。布団まで」
「いいって! あ、風呂も使っていいからな。タオル出しとく。明日、仕事?」
「うん。朝から」
「じゃあ早く寝なきゃな」
そう言って立ち上がり、高虎の横を通り抜けようとしたとき、千尋の頭上から、声が降ってきた。
「……こぎさん」
「ん?」
「今日、ほんとにありがとう。すごく助かった」
振り返ると、高虎がこちらを見下ろしていた。
いつもと変わらない、少し不機嫌そうにも見える顔だった。
けれど、暗い琥珀色の目はまっすぐ千尋へ向けられていて、その声には、冗談めかしたところが少しもなかった。
千尋はその顔を見上げ、少しだけ目を細め、いつものように笑った。
「おう。困ったときはお互いさまだろ」
「……うん」
小さく頷く高虎に笑みを返し、千尋は廊下へ出て、浴室のほうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、高虎は静かに息を吐いた。
突然部屋が水浸しになり、仕事で疲れて帰ってきたところへ、さらに面倒なことが重なった。
今日は散々な一日だった。
それなのに、今は不思議と気分が悪くない。
隣の部屋からは、千尋がタオルを探しているらしい物音が聞こえてくる。
「たかとらー! バスタオル、これでいいー?」
「……うん」
「見てねえだろお前!!」
高虎は思わず笑った。
そうして、少しだけ声を張った。
「何でもいいよ。ありがと、こぎさん」
「おう! あ、でもお前でっかいから足りないかもしれねえな。二枚いる?」
「一枚でいいよ」
「ほんとかあ?」
「大丈夫だって」
廊下の向こうで、千尋が笑った。
高虎は、まだ新しいシーツの敷かれた布団へ視線を落とし、それからもう一度、開いた扉の向こうを見た。
ほんの数日前までは、顔を合わせれば立ち話をする程度の相手だった。
それが今夜は、同じ部屋で夕飯を食べ、寝る場所まで用意してもらっている。
不思議なものだと思う。明日の朝もあの賑やかな声が聞こえてくるのかと思うと、少し楽しみですらあった。
瀬川高虎は、このときまだ、古木千尋のことを恋愛対象として意識してはいなかった。
ただ、もう少し一緒にいてみたいと思ったのだ。
なお、この時点では、まだ千尋の尻について特別な感想を持っていなかった。
少なくとも、本人はそう主張している。




