こぎさんと、おとなりじゃない人 -2-
千尋が高虎を初めて自宅へ招いたのは、それからしばらく経った、冷たい雨の降る夜だった。
仕事を終えて帰宅した千尋は、マンションのエントランスへ入ったところで、管理会社の担当者らしき男と話している高虎を見つけた。
高虎は普段の黒い私服姿だったが、足元には大きなスポーツバッグが置かれており、片手には何やら書類の入った封筒を持っている。
いつも以上に眉間の皺が深い。
千尋はその様子を横目に見ながら通り過ぎようとしたが、ふと聞こえてきた言葉に足を止めた。
「……今夜は、ちょっと難しいですね」
「そうですか」
「明日、業者のほうで改めて確認させていただきますが、床下まで水が回っている可能性がありますので、乾燥と復旧に少し時間がかかると思います」
水、床下。……復旧?
「……高虎?」
千尋が思わず振り返って声をかけると、高虎が顔を上げた。
「あ、こぎさん」
「どうした? なんかあった?」
「……水漏れ」
「えっ」
思わず足元を見た千尋に、高虎は苦笑に近い表情を浮かべた。
「俺の部屋。帰ってきたら床が濡れてて」
「ええ!? 大丈夫なの、それ!」
「……あんまり大丈夫じゃないかも」
管理会社の担当者が、事情を説明してくれた。
高虎の部屋では給水設備の接続部分に不具合が起き、留守中に漏れた水が床材の下まで入り込んでしまったらしい。
元栓はすでに閉められているものの、設備の修理だけでなく、濡れた床の乾燥や一部の復旧工事が必要になる見込みで、少なくとも今夜は室内で生活しないほうがよいとのことだった。
幸い、千尋の部屋がある階には影響がなく、漏水の被害も高虎の部屋とその周辺に限られているという。
担当者が今後の連絡について説明を終え、頭を下げて立ち去ると、高虎は手元の封筒をスポーツバッグへしまい、深く息を吐いた。
「……まいったな」
「うわあ……、災難だったなあ」
「うん」
「で、今日どうすんの?」
「ホテル、探す」
「今から?」
「……うん」
千尋が壁に掛けられた時計を見上げると、午後九時を少し過ぎたところだった。
外ではまだ雨が降っている。ガラス扉の向こうを通る車のライトが、濡れた路面へ白く伸び、風が吹くたびに街路樹の枝が大きく揺れていた。
高虎はスマートフォンを取り出して何かを検索し始めたが、画面を見つめる顔には、普段よりもいくらか疲れが滲んでいる。
仕事を終えて帰ってきたところで、自分の部屋が水浸しになっているのを見つけたのだ。
慣れた寝床で休むこともできず、これから宿泊先を探さなければならないとなれば、気が滅入るのも当然だろう。
千尋はしばらくその横顔を眺め、それから、特に深く考えることもなく口を開いた。
「じゃあ、うち来る?」
高虎の指が止まった。
「え?」
「いや、だから。うち。泊まってけば? どうせ一人暮らしだし、客用の布団もあるし。今からホテル探すの大変だろ?」
「……いや、でも悪いでしょ、それは」
「何が?」
千尋が首を傾げると、高虎は少し困ったように眉を寄せた。
「まだ、そんなに親しくないし」
「えっ、そう?」
千尋は目を丸くした。
高虎はその反応に、今度こそはっきりと困惑した顔をする。
「……そうじゃない?」
「いや、俺は結構仲良くなったつもりだったんだけど」
「ああ」
「違った?」
千尋が少しだけ眉を下げると、高虎は慌てたように首を横へ振った。
「違わない。俺も、そう思ってる」
「じゃあいいじゃん!」
「……いいの?」
「いいよ。困ってんだろ?」
千尋はそう言って笑い、それから高虎の足元に置かれたスポーツバッグへ視線を落とした。
「それ、今日使うもん?」
「着替えとか、必要なものだけ持ってきた」
「じゃあ、とりあえずそれ持って上がろ。飯は?」
「……まだ」
「よし。なんか作るわ」
そこまで言ってから、千尋はふと高虎の顔を見上げた。
大きな琥珀色の目が、こちらをじっと見つめている。
あまりにも真剣な顔をしているものだから、千尋は少しおかしくなった。
「……何?」
「いや」
「遠慮してんの?」
「してる」
「正直でよろしい」
千尋は笑って、高虎の腕を軽く叩いた。
「いいって。俺がいいって言ってんだから。な?」
高虎はしばらく黙っていたが、スマートフォンの画面を消し、ゆっくりと頭を下げた。
「……じゃあ、お世話になります」
「おう!」
千尋は満足げに頷いた。
このときは、まだ知らなかったのである。
ほんの数日、長くても修繕が終わるまでのつもりで招き入れたこの男が、のちに自分の恋人となり、あまつさえ、部屋が直っても帰らなくなることなど。
◆
「お邪魔します」
「はいはい、どうぞー」
玄関の扉を開けると、千尋は先に室内へ入り、壁のスイッチで廊下の照明をつけた。
暖かな色の光が床へ広がり、外の雨に冷やされていた身体へ、室内の乾いた空気がふわりと触れる。
高虎は玄関のたたきに立ったまま、少しだけ視線を巡らせた。
綺麗に揃えられた靴。壁際に置かれた小さな観葉植物。玄関から続く廊下には余計なものが出ておらず、奥のリビングからは、ほのかに柔らかな香りが漂ってくる。
千尋はそんな高虎の様子を気にすることもなく、靴箱から来客用のスリッパを取り出した。
「これ使って。あ、サイズ大丈夫かな」
床に並べてから、高虎の足元を見て、千尋は眉を寄せた。
「お前、足もでっかいな」
「まあ、そうだね」
「入る?」
高虎が片足を入れてみると、踵が少しはみ出した。
千尋はそれを見て、しばらく真顔になった。
「……こぎさん?」
「……でっか」
「また言ってる」
「だって!!」
高虎が小さく笑ったので、千尋もつられて笑ってしまった。
「まあいいや。とりあえずそれで我慢して。明日なんか買ってくるから」
「いや、そこまでしなくていいよ」
「俺が気になるの!」
千尋はそう言い切り、さっさとリビングへ歩いていった。
高虎はその背中を見送り、少し遅れて靴を脱いだ。
部屋へ足を踏み入れると、そこには千尋という男の暮らしが、思っていた以上にはっきりと表れていた。
淡い色のソファには柔らかなクッションがいくつか並び、ローテーブルの上には読みかけの雑誌が一冊置かれている。窓際には大小の観葉植物が並び、棚には本や小さな雑貨が、雑然としすぎない程度に飾られていた。
生活感のある、居心地のよさそうな部屋だった。




