第2話 こぎさんと、おとなりじゃない人 -1-
古木千尋が、のちに恋人となる瀬川高虎と初めて言葉を交わしたのは、仕事を終えて帰宅した、ある秋の夕方のことだった。
その日、千尋はいつもより少し早く仕事を切り上げることができたので、駅前のスーパーで夕飯の買い物を済ませ、午後六時を回った頃にマンションへ戻ってきた。片手には食材の入ったエコバッグ、もう片方の手には仕事用の鞄を提げており、肩に掛けていた薄手のジャケットが歩くたびにずり落ちそうになるのを、時折肘で押し戻しながらエントランスへ入る。
郵便受けには、広告のチラシが数枚と、封書が二通入っていた。
千尋はエコバッグを一度足元へ置き、郵便物を取り出して重ねると、不要なチラシだけを備え付けの回収箱へ入れようとしたのだが、指先で封筒を挟み直した拍子に、そのうちの一通がするりと抜け落ちた。
「あっ」
慌てて屈もうとしたところで、横から伸びてきた大きな手が、床に落ちた封筒を先に拾い上げた。
「……はい」
低く、少し気だるそうな声だった。
千尋が顔を上げると、そこには黒いブルゾンを着た、見上げるほど背の高い男が立っていた。
「あ、ありがと!」
差し出された封筒を受け取ると、男は小さく頷き、そのままエレベーターのほうへ歩き出そうとした。
千尋も足元のエコバッグを持ち上げ、慌ててそのあとを追う。
「お兄さんも、ここの人?」
「うん」
「そっか。俺も! あんまり会ったことないよな?」
「そうだね」
男はエレベーターの呼び出しボタンを押し、千尋が追いつくのを待つように、少しだけ身体を横へずらした。
その何気ない動きに、千尋はふと目を瞬かせた。
近くで見ると、想像していた以上に大きい。
肩幅も広いし、腕も長い。ゆったりした黒いブルゾンの下でも、身体の厚みがわかるほどで、隣に立つと、自分の頭が相手の肩より少し上に来る程度しかない。
「……でっか」
思わず漏れた声に、男がゆっくり視線を下ろした。
「え?」
「あ、いや。ごめん。お兄さん、めっちゃ背高いなと思って」
「……ああ」
「何センチ?」
「百八十八」
「でっか!!」
千尋が目を丸くすると、男の口元がほんのわずかに緩んだ。
「さっきも言ってた」
「だってでかいんだもん! 俺、百六十だぞ?」
「そうなんだ」
「今ちょっと下見ただろ」
「見たね」
「正直者かよ!」
千尋が笑うと、男も小さく、ふっと息を漏らした。
無愛想な顔をしているわりに、どうやら冗談が通じない相手ではないらしい。
やがてエレベーターが到着し、二人は並んで乗り込んだ。
千尋が自分の階のボタンを押すと、男はそのさらに上の階を押した。扉が閉まり、狭い箱の中に二人きりになると、先ほどまでそれほど気にならなかった身長差が、急にはっきりと意識される。
男は壁際に立っているだけなのに、肩の位置が高く、長い腕が身体の横へ自然に垂れているだけで、妙に存在感があった。
千尋は一度、隣の男を見上げた。
黒い前髪の下には、暗い琥珀色の大きな目があり、長い睫毛が目元に濃い影を落としている。顔立ちそのものは若々しく整っているのに、眉間には薄く皺が寄っていて、口元もほとんど動かない。
怖い顔だな、と思う。
けれど、先ほど笑ったときには、その印象が少しだけ変わった。
「……あのさ。さっき、ありがとな。郵便物」
「ああ。別に」
男はそう答え、それから少しだけ首を傾げた。
「……ふるきさん?」
「ん?」
千尋は一瞬、何のことかわからずに瞬きをした。
男の視線が、千尋の手にある封筒へ落ちる。
そこには、確かに『古木千尋』と印字されていた。
「ああ! 違う違う。こぎ!」
「……こぎ?」
「こー、ぎー!」
「こぎさん」
「そう、それ! よくできました!」
千尋が満足げに頷くと、男は少しだけ目を細めた。
「珍しいね」
「よく言われる! だいたいふるきって読まれるんだよな」
「そっか」
「お兄さんは?」
「……瀬川」
「瀬川くんね。よろしく!」
千尋が笑って片手を差し出すと、男は一瞬だけその手を見つめ、それからゆっくり握り返した。
大きな手だった。千尋の手をすっぽり包み込むほどの掌に、指の長さも厚みもずいぶん違う。
力を込められたわけでもないのに、触れた瞬間、その身体の大きさを改めて実感する。
「……よろしく、こぎさん」
瀬川はそう言って、小さく笑った。
ちょうどそのとき、エレベーターが千尋の階へ到着した。
「あ、俺ここ! じゃあな、瀬川くん!」
「……うん。また」
千尋は手を振って降り、閉じていく扉を見送った。
その時点では、もちろん恋などしていなかった。
ただ、ずいぶん大きな男だな、と思った。
そして、案外かわいい顔で笑うんだな、とも。
◆
それからというもの、千尋と瀬川は、マンションの中で顔を合わせると少しずつ言葉を交わすようになった。
最初は天気の話や、帰宅時間が重なったときの「お疲れさま」程度だった。
千尋はもともと人と話すことが好きだったし、瀬川も口数こそ少ないものの、話しかけられればきちんと応じる男だったので、会話が途切れて気まずくなるようなことはなかった。
ある日、仕事帰りにエントランスで会ったときには、千尋が抱えていた袋から、長いネギが飛び出しているのを見て、瀬川がぼそりと言った。
「……買い物?」
「そう。今日鍋にしようと思って。お前は?」
「仕事帰り」
「遅いなあ。もう九時だぞ」
「今日はちょっと長引いた」
瀬川はそう答えながら、千尋の手元へ視線を落とした。
袋の持ち手が指に食い込んでいるのを見ていたらしく、何も言わずに片手を差し出してくる。
「持つよ」
「え? いや、いいよ。そんな重くないし」
「重そうだけど」
「……まあ、ちょっとは重い」
「じゃ、貸して」
千尋が差し出した袋を、瀬川は片手で受け取った。
中には野菜のほか、肉や豆腐、調味料まで入っていたのだが、男はその重さを確かめるような素振りすら見せず、もう片方の手でエレベーターのボタンを押した。
「お前、力持ちだなあ」
「普通だよ」
「いやいや、俺それ結構重かったぞ?」
「……こぎさん、ちっちゃいから」
「おい」
千尋は即座に顔を上げた。
瀬川は前を向いたまま、何事もなかったようにエレベーターの到着を待っている。
「俺、百六十あるからな?」
「うん」
「ちっちゃくねえからな?」
「……うん」
「今笑っただろ」
「笑ってないよ」
「絶対笑った!!」
そう言って覗き込んだ横顔の、口元がわずかに緩んでいた。
千尋は呆れて息を吐き、それから自分も笑ってしまった。
この男は、どうやら見た目ほどおとなしくない。
もっとも、千尋がそれを嫌だと思うことはなかった。むしろ、初めのうちは何を考えているのかわからなかった相手が、少しずつ遠慮なく言葉を返してくるようになったことが、なんとなく嬉しかったのである。
それから何度か、二人は帰宅の時間が重なるたびに立ち話をした。
千尋が三十歳になったばかりだと話せば、瀬川は少し驚いた顔をしたし、瀬川が二十四歳だと知ったときには、今度は千尋のほうが目を丸くした。
「えっ、六つも下!?」
「そうだね」
「もっと上かと思ってた」
「……老けてる?」
「いやいや、顔は若いよ! でも落ち着いてるからさ」
高虎はその言葉に小さく頷き、千尋をしばらく見つめたあと、何気ない調子で言った。
「……こぎさん」
「ん?」
「高虎でいいよ」
「……え?」
「俺の下の名前。瀬川くんじゃなくて」
千尋は一度瞬きをし、それから、ぱっと笑った。
「おっ、いいの? じゃあ高虎! や、高虎くん?」
「……どっち?」
「んー、じゃあ高虎な!」
「うん。俺もそのほうがいい」
千尋は満足げに頷き、改めて目の前の男を見上げた。
高虎はその言葉に小さく頷き、千尋をしばらく見つめたあと、何気ない調子で言った。
「こぎさんは、若く見えるね」
「だろ!?」
千尋が即座に胸を張ると、高虎はとうとう声を漏らして笑った。
「……褒められるの、ほんとに好きなんだね」
「好きだよ。褒められて嫌なやついる?」
「あんまりいないかもね」
「だろ?」
千尋は満足げに頷き、そこでふと、高虎の顔を見上げた。
笑うと、目元の印象がずいぶん変わる。
普段は眉間の皺ばかりが目立つのに、こうして笑っていると、年相応の若さが顔に戻ってくるようだった。
「高虎、笑うとかわいいな」
「……え?」
「いや、いつも怖い顔してるからさ。笑ってたほうがいいぞ」
高虎は一度瞬きをして、それから視線を逸らした。
「……そう」
「うん。顔いいんだから、もったいないって」
「こぎさん、そういうこと普通に言うんだ」
「ん? 何が?」
「いや。別に」
それきり高虎は黙ってしまったが、千尋は特に気にしなかった。
ただ、エレベーターの扉が開いて別れるとき、高虎がいつもより少し長くこちらを見ていたことには気づいていた。




