ふたりの、帰りたくない夜 -2-
「いいよ」
「何がいい?」
「任せる」
「よし。じゃあ、ちょっと待ってろ」
千尋はケチャップを受け取り、真剣な顔で高虎の皿へ向き直った。
高虎という名前なのだから、虎を描いてやろう。そう考えたまではよかった。
しかし、いざ黄色い卵を目の前にすると、虎という動物の顔が、思いのほか複雑であることに気づく。
丸い輪郭を描き、三角の耳を二つつける。目と鼻を描き、左右に髭を伸ばしたところで、千尋は手を止めた。
何かが違う。虎というより、猫である。
せめて縞模様を入れようとしたものの、額に三本線を引いたところで、今度は妙に間の抜けた顔になってしまった。
「……よし、できた」
千尋がケチャップを置くと、高虎は皿を覗き込んだ。
「猫?」
「虎だよ。お前の名前、虎入ってるだろ」
「ああ、そういうこと」
高虎はしばらく皿を眺め、それから肩を揺らして笑った。
「かわいいね」
「だろ? ちょっと猫っぽくなったけど、虎だからな」
「うん。猫っぽい虎」
「そこは虎って言い切れよ!」
千尋が苦笑すると、高虎はまだ少し笑いながら椅子へ腰を下ろした。
向かい合って座った二人の前には、大きなハートと、どう見ても猫にしか見えない虎が描かれたオムライスが並んでいる。
千尋は自分の皿を眺め、満足そうにスプーンを手に取った。
「いただきます」
「いただきます」
卵へスプーンを入れると、柔らかな表面がすっと割れ、内側の半熟部分がケチャップライスへ絡んだ。
口に運んだ瞬間、バターの香りと卵のまろやかさが広がり、そのあとから鶏肉と玉ねぎの旨味、ケチャップのほどよい酸味が追いかけてくる。
千尋は思わず目を細めた。
「ん、うま。これ、ほんとにうまい」
「よかった」
「卵もいい感じだし。高虎、料理上手いよな」
「こぎさんのカレーもうまかったよ」
「お、ありがと。じゃあ今度また作ってやろっかなー」
「食べたい」
高虎はあっさり頷き、自分のオムライスへスプーンを入れた。
千尋はその様子を眺めながら、もう一口食べる。
温かい。仕事で疲れた身体に、できたての夕食が染み渡っていく。
普段なら帰宅してから食事を作る気力もなく、適当に買ってきた惣菜を温めるだけで済ませてしまうような夜だった。
それが今日は、家へ帰ると高虎がいて、自分のために食事を作ってくれている。
そして目の前で、猫のような虎の顔を少しずつ崩しながら、黙々と食事をしている。その光景が妙におかしくて、千尋は小さく笑った。
「高虎」
「ん?」
「ありがとな。今日、ほんと助かった」
「うん。お疲れさま、こぎさん」
高虎はそう言って、千尋の顔を見た。
仕事を終えたばかりの千尋は、朝よりも少し疲れた顔をしていた。目元にはわずかに眠気が滲んでいるし、肩も普段より落ちている。
それでも、美味いものを食べれば嬉しそうに笑い、何か話しかければ必ずこちらを見てくれる。
高虎はその表情を眺め、またこうして夕食を作ってやりたいなどと、ぼんやりと感じていた。
千尋もまた、似たようなことを考えていた。明日も、明後日も、仕事を終えて帰ってきたときに、こんなふうに誰かがいてくれたらいいと。
その考えが浮かんだことに、千尋は少し驚いた。
高虎は居候である。部屋の修理が終われば、自分の部屋へ戻る。
当たり前のことなのに、今ではその日が来ることを、少しばかり残念に思っている自分がいる。
千尋はスプーンを持ち直し、目の前のオムライスをもう一口食べた。
◆
それから数日、二人の生活は思いのほか穏やかに続いた。
千尋が早く帰った日は夕食を作り、高虎の帰りが早い日は高虎がキッチンに立った。どちらも遅くなる日は惣菜を買って帰り、テーブルへ並べて一緒に食べる。
休日には洗濯物を干す場所を譲り合い、テレビのチャンネルを巡ってくだらない言い争いをし、コンビニで買ってきた新作の菓子を半分ずつ分けた。
千尋は高虎が思っていた以上によく食べることを知り、高虎は千尋が仕事の話になると途端に口調を引き締めることを知った。
大きな身体に似合わず、高虎は小さくてかわいらしい雑貨を見つけると案外嬉しそうに眺める。
千尋は柔らかな雰囲気に反して、必要な判断をするときには驚くほどきっぱりしていた。
知れば知るほど、最初の印象とは違うところが見えてくる。それが、二人には楽しかった。
そして、居候生活が始まってから一週間ほど経った日の午後。高虎のもとへ、管理会社から連絡が入った。
室内の乾燥と床材の補修が完了し、必要な確認も済んだため、翌日から通常どおり部屋を使えるという。
高虎は連絡を終え、しばらくスマートフォンを見つめていた。
ようやく自分の部屋へ戻れる。間違いなく、喜ばしいことだった。
水漏れの被害を受けた家具や床材のことも気になっていたし、何より、自分の生活を他人の厚意に頼り続けるわけにはいかない。
けれど、今夜千尋へそのことを報告しなければならないと思うと、胸の奥には別の感情が残った。
自分の部屋へ戻れば、もう千尋と毎日顔を合わせることはなくなる。仕事を終えて帰宅しても、玄関の向こうから「おかえり」と声が返ってくることはない。
夕食を一緒に食べることも、くだらない話をしながらテレビを見ることも。今までのように当たり前にはできなくなる。
高虎はスマートフォンをポケットへしまい、仕事へ戻った。
今夜、ちゃんと話そう。そう決めて。
◆
「え、直ったの?」
夕食のあと、高虎が修理完了の話を切り出すと、千尋は顔を明るくした。
「よかったじゃん!」
「うん。明日から使えるって」
「そっかそっか。じゃあ、ようやく自分の部屋に戻れるんだな」
千尋は心からそう言った。
高虎の部屋が使えないままでは困るだろうし、仕事の道具や私物も、すべてこちらへ持ってこられるわけではない。自分の生活を取り戻せるのは、いいことに決まっている。
ただ、そう思う一方で、胸の奥に小さな寂しさが生まれたことも否定できなかった。
「一週間かあ。なんだかんだ、あっという間だったな」
「そうだね」
「お前、ほんと手ぇかかんなかったわ。むしろ俺のほうが飯作ってもらったりしてたし」
「こぎさんも作ってくれとったやん」
「まあな。そこは年上の意地ってやつですよ」
千尋は得意げに笑い、空になった皿を重ねた。高虎も立ち上がり、食器をシンクへ運ぶ。
いつもと変わらない夕食の片づけだった。けれど、明日にはこの生活が終わる。
そのことを意識すると、普段なら何でもなく交わしていた言葉が、少しだけ違って聞こえた。
「高虎、荷物まとめるの手伝おっか?」
「大丈夫。そんなにないし」
「そっか。じゃあ、忘れ物だけ気をつけろよ」
「うん」
千尋は笑って頷き、高虎も口元を緩めたが、二人ともどこか、考え込むような表情をしていた。
その夜、二人はいつもどおりテレビを見て、コーヒーを飲み、明日の仕事について少し話した。
会話が途切れても、気まずくはなかった。ただどちらも、明日からこの時間がなくなることが、頭から離れずにいた。




