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【BL】こぎさんはおしりがかわいい  作者: 彩羽やよい


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11/14

ふたりの、帰りたくない夜 -3-

 翌日の夕方、高虎は借りていた布団を畳み、持ち込んでいた荷物をまとめた。

 洗面所に置いていた歯ブラシを取り、クローゼットの端へ掛けさせてもらっていた上着を鞄へしまう。千尋が用意してくれたタオルは洗濯して返し、使わせてもらった棚の中も綺麗に拭いた。


 一週間ほどの滞在だった。荷物の量だけを見れば、最初に来たときと大して変わらない。

 それなのに部屋の中に残る気配は、少し違っていた。

 高虎は最後にリビングを見渡した。テーブルの端には、千尋が仕事で使う資料が積まれている。

 ソファには、いつも千尋が使っているクッション。キッチンの棚には、二人で食べようと買ってきた菓子がまだ少し残っていた。


 どれも、千尋の生活の一部だ。その中へ自分が入り込み、朝起きて、仕事へ行き、帰ってきて、夕飯を食べた。

 たった、一週間だったというのに。

 明日からその時間がなくなるのだと思うと、どうにも落ち着かなかった。


「高虎、準備できた?」


 廊下の向こうから、千尋の声がした。


「うん。もう終わった」


 鞄を持って玄関へ向かうと、千尋が靴箱の前で待っていた。


「忘れ物ない?」

「確認した。大丈夫」

「ならよし。いやあ、一週間あっという間だったな」

「そうだね」


 高虎は、千尋の顔を見つめた。

 いつも明るく、よく笑う。少し大げさなくらい喜び、何かあるとすぐに声をかけてくれる。

 自分が帰ると「おかえり」と言い、仕事で疲れていると「お疲れ」と笑ってくれる。


 その一つ一つが、好きだった。

 高虎は鞄の持ち手を握り直し、口を開いた。


「こぎさん」

「ん?」

「俺、帰ってもまた遊びに来ていい?」

「当たり前だろ。同じマンションなんだし」

「毎日でも?」


 千尋は目を丸くした。


「毎日? お前、そんなに俺んち気に入ったの?」

「ちがうよ。部屋じゃなくて、こぎさんがおるから来たい」


 首を振って返す高虎に、千尋の笑顔が固まる。

 高虎はその顔を見つめたまま、言葉を続けた。


「一緒に飯食うのも、話すのも好きだった。帰ってきて、こぎさんがおるのが嬉しかった」

「高虎?」

「俺、こぎさんが好き」


 千尋は思わず、息を止めた。高虎の声はいつもと変わらず低く、落ち着いている。

 それでもまっすぐこちらを見る目だけは、少しも逸らさない。


「恋愛のほうでだよ。ちゃんと言っとこうと思って」


 高虎はそこまで言うと、少しだけ口元を緩めた。千尋はしばらく、何も言えないままで固まっていた。

 好き。恋愛のほうで。

 その意味はわかる。わかるのに、すぐには信じられなかった。


「……俺? 俺のこと?」

「そう」

「お前、六つも年下だぞ?」

「知っとる。たった六つやん」

「いや、そうだけどさ」


 千尋は困ったように笑った。胸の奥が落ち着かない。

 嬉しい気持ちは、間違いなかった。けれど、嬉しいと思った瞬間に、別の感情が追いかけてくる。

 また誰かを好きになって、同じように傷つくかもしれない。今度こそ大丈夫だと思っても、そうとは限らない。

 千尋は唇を結び、視線を落とした。


「俺さ、前の恋人と、あんまりいい別れ方してなくて。浮気、されてさ」


 高虎は、黙って聞いていた。

 千尋はいつものように笑おうとしたが、思ったほど上手く笑えなかった。


「まあ、俺にも何か足りなかったのかもしんないけど。ちょっと、そういうの怖いとこあるんだよな」


 高虎は、すぐには答えなかった。玄関の外から、遠くでエレベーターが動く音が聞こえる。

 しばらくして、高虎は静かに口を開いた。


「そっか」

「ごめん。急にこんな話して」

「謝んなくていいよ」


 高虎は鞄を床へ置き、千尋のほうへ少しだけ身体を向け直した。


「俺、一緒におると楽しいし、帰ってきたくなるし。こぎさんが笑ってると、俺も嬉しい」


 高虎はそこで少し、言葉を探した。普段なら、思ったことをこんなに長く話すことはあまりない。

 それでも今は、きちんと伝えたかった。


「前の人のこと、全部わかるわけじゃないけど」

「うん」

「俺は、こぎさんと付き合いたい」


 千尋の胸が、ぎゅっと縮んだように痛んだ。喉の奥がやけに熱くなってくる。

 高虎はまっすぐに、千尋を見ていた。


「俺と付き合って」


 千尋は何度か、瞬きをした。

 自分が好きになっていいのか。また誰かと暮らしたいと思っていいのか。

 そんなことを、いつの間にか考えるようになっていた。


 目の前の男は、千尋が何かを決める前に、自分の気持ちをきちんと差し出してくれている。

 好きだと。恋人になりたいと。他の誰でもなく、千尋がいいと言ってくれる。

 千尋は大きく息を吸い、少し笑った。今度はうまく笑えた。


「俺もさ、お前といるの、すっげえ楽しかった。帰ってほしくないなって、思ってた」

「そっか」

「うん。俺も好きだよ、高虎」


 高虎はしばらく黙っていたが、ゆっくりと笑った。

 いつもの、片方の口角だけが上がるような笑い方ではなかった。目元まで柔らかく緩み、嬉しさを隠しきれないような、少し幼い顔で。


「やった」


 千尋は思わず吹き出した。


「お前、そんな喜ぶ? すげーかわいい顔してる」

「そりゃ嬉しいに決まっとるやん。好きな人に好きって言ってもらえたんだから」

「お、お前」


 千尋は頬を掻いた。

 顔が熱い。さっきまで普通に喋っていた相手なのに、急に何を言われても照れくさくなってしまう。


「じゃあ、よろしくな」

「ん。よろしく、こぎさん」


 高虎は千尋が差し出した手を見下ろし、大きな手で包むように握った。

 千尋が手を引こうとすると、高虎はほんの少しだけ指に力を込めた。


「高虎? どした」

「もうちょっと手、繋いでたい」

「お前、意外と甘えん坊だな」

「そうかもね」


 高虎があまりにあっさり認めるので、千尋はますます照れくさくなり、視線を逸らした。握られた手が温かい。

 高虎の手は大きく、指も長い。自分の手がすっぽり収まってしまうことに、千尋は今さら気づいた。

 これまで何度も隣に立ち、同じ食卓を囲み、狭いキッチンで肩を並べていた相手だ。

 なのに、恋人になった途端、その距離がまるで違って感じられる。


「こぎさん」

「ん?」

「キスしていい?」


 高虎はそう言うなり、少し身を屈めた。千尋は目を丸くし、高虎を見つめたままで固まった。


「……は?」

「キスしていい、って聞いた」

「いや、聞こえたけど」

「だめ?」

「だ、だめじゃねえけど」

「じゃあ、いいってことだ」

「お前、結構ぐいぐい来るな!」

「好きだからね」


 微笑んで真っ直ぐに見つめてくる高虎の視線を受け止め、千尋は言葉に詰まった。

 ずるい。こんなに真正面から言われたら、断れるわけがないではないか。

 いや、そもそも断りたいわけではないのだ。ただ、心の準備が追いつかないだけで。


「わかった、……していい」


 千尋は目を逸らし、小さく答える。高虎は一度、千尋の顔を確かめるように見つめると、ゆっくりとさらに身を屈めた。

 身長差を埋めるために、高虎は腰を折り、千尋は少し、顎を上げた。


 近づいてくる顔を見ていると、心臓がうるさくなる。高虎の睫毛は思っていたより長く、軽く伏せられた瞼の下に薄い影を落としていた。

 いつも少し気だるげに見える目元が、今は驚くほど真剣で、千尋は思わず握っていた手に力を込めた。


 高虎のもう片方の手が、千尋の頬へ触れた。大きな掌だった。指先は少し硬く、仕事で使い込まれた手の感触がする。それが妙に安心できて、千尋は目を閉じた。


 ほんの短いキスだった。柔らかく、温かく、驚くほど静かな接触。

 それなのに、高虎がゆっくり顔を離しても、千尋はすぐには目を開けられなかった。

 握っていた手を離すタイミングもわからず、ただ、さっきまで唇が触れていた場所に意識が残っている。


「こぎさん」

「なに」

「かわいいね」

「うるせぇ!」


 千尋が慌てて顔を上げたそのとき。高虎が、舌先で自分の下唇をゆっくりと舐めた。

 何でもない、ほんの一瞬の仕草。ケーキを食べていた夜にも見た、あの癖だった。


 けれど、今は話が違うではないか。

 ついさっきまで自分の唇に触れていたそこを、高虎が何気なく舐めている。

 それに気づいた途端、千尋の顔へ一気に熱が集まった。


「おまえそれ、やめろ!」

「何を?」

「唇。ぺろってすんの」

「ああ」


 高虎は少し考え、それから千尋の顔を覗き込んだ。


「なんで?」

「なんでって」


 千尋は文句を言おうと口を開き、閉じた。

 説明できるわけがない。キスしたばかりの相手に唇を舐められると、なんだかものすごく落ち着かないのだなどと。

 しかも相手は、その理由をまるで理解していない顔でこちらを見つめている。


「なんか、だめなんだよ」

「だめなんだ? そっか」


 高虎は素直に頷き、それから、少し口元を緩める。やけに悪戯っぽい笑みだった。


「じゃあ、もう一回キスしとく?」

「意味わからん、なんでそうなるんだよ」


 千尋が声を上げると、高虎は笑った。

 大きな身体を少し屈めたまま、千尋の手を握っている。その顔があまりにも嬉しそうだったので、千尋はそれ以上怒ることができなかった。


「もう一回だけだからな」

「うん」

「……俺からしてやるからな」

「うん。して」


 高虎は目を細めて、言われたとおりに待っている。千尋はその胸元の服を掴み、少しだけ引き寄せた。

 今度は、自分から。唇が触れる直前、高虎が嬉しそうに笑ったのがわかった。

 千尋もつられて笑ってしまい、二度目のキスは、最初より少しだけ不格好になった。


◆


「で、高虎」

「ん?」

「お前、部屋戻んの?」


 二度目のキスを終え、ようやく少し落ち着いた頃、千尋は玄関に置かれた鞄へ視線を落とした。

 高虎も鞄を見つめながら答える。


「戻るよ」

「……そっか」

「でも、また来ていい? 毎日」


 高虎が千尋の手を握り直し、妙に真剣な表情になったので、千尋は吹き出した。


「お前、ほんっと俺んち好きだな」

「ちがうよ。こぎさんが好きなんだって」

「そういうことさらっと言うなよ」


 千尋は羞恥で熱くなった頬を隠すように顔を逸らし、握られた手を少しだけ持ち上げた。


「……いいよ、毎日来ても。つきあってんだし」

「ありがと、嬉しい」


 玄関の外では、誰かが廊下を歩く足音がしていた。

 いつもと変わらない、マンションの夕方。それでも二人にとっては、少しだけ特別な日になった。

 高虎はようやく鞄を持ち上げ、玄関の外へ出た。千尋は扉の内側から、その大きな背中を見送る。


「高虎、また明日な」


 千尋は思わず、ぽつりと零すように名を呼ぶ。高虎は聞き逃さずに振り返り、ふっと笑った。


「うん。また明日、こぎさん」


 扉が閉まっても、千尋はしばらくその場に立っていた。

 数分が経ったあとで座り込み、両手で顔を覆う。


「ああ、もう……」


 顔が熱く、心臓がうるさい。何だこれ。

 混乱した頭のままで、千尋は玄関の扉を見つめた。


 ついさっきまで、ここに高虎がいた。

 好きだと言われた。付き合ってほしいと言われた。

 キスまでされた。しかも二回。


「手ぇ早いんだよ、あいつ……!」


 一方その頃。数階上の自室へ戻った高虎は、鞄を床へ置き、しばらく玄関に立っていた。

 修理の終わった部屋は綺麗で、乾燥した床にはもう水の気配もない。

 ようやく帰ってきた、自分の部屋だ。

 けれど、最初に考えたのは、明日また千尋に会えるということだった。

 高虎はスマートフォンを取り出した。


『こぎさん』


 少し考えてから、続けて打つ。


『明日、何食べたい?』


 返信はすぐに返って来た。


『お前もう明日の飯の話?』

『なんでもいい』

『一緒に食おうぜ』


 高虎は画面を見つめ、目を細めてゆっくりと笑った。


『うん』

『楽しみ』


 送信して、スマートフォンをしまい、高虎はようやく靴を脱いだ。

 今日から、古木千尋が自分の恋人になってくれた。そう考えるだけで、いつもはぎゅっと結んでいる口元が緩んでしまう。

 どうやら瀬川高虎は、好きなものに対して遠慮するということを、あまり知らないらしい。

 その事実を千尋が身をもって知ることになるのは、もう少しだけ先の話である。

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