ふたりの、帰りたくない夜 -3-
翌日の夕方、高虎は借りていた布団を畳み、持ち込んでいた荷物をまとめた。
洗面所に置いていた歯ブラシを取り、クローゼットの端へ掛けさせてもらっていた上着を鞄へしまう。千尋が用意してくれたタオルは洗濯して返し、使わせてもらった棚の中も綺麗に拭いた。
一週間ほどの滞在だった。荷物の量だけを見れば、最初に来たときと大して変わらない。
それなのに部屋の中に残る気配は、少し違っていた。
高虎は最後にリビングを見渡した。テーブルの端には、千尋が仕事で使う資料が積まれている。
ソファには、いつも千尋が使っているクッション。キッチンの棚には、二人で食べようと買ってきた菓子がまだ少し残っていた。
どれも、千尋の生活の一部だ。その中へ自分が入り込み、朝起きて、仕事へ行き、帰ってきて、夕飯を食べた。
たった、一週間だったというのに。
明日からその時間がなくなるのだと思うと、どうにも落ち着かなかった。
「高虎、準備できた?」
廊下の向こうから、千尋の声がした。
「うん。もう終わった」
鞄を持って玄関へ向かうと、千尋が靴箱の前で待っていた。
「忘れ物ない?」
「確認した。大丈夫」
「ならよし。いやあ、一週間あっという間だったな」
「そうだね」
高虎は、千尋の顔を見つめた。
いつも明るく、よく笑う。少し大げさなくらい喜び、何かあるとすぐに声をかけてくれる。
自分が帰ると「おかえり」と言い、仕事で疲れていると「お疲れ」と笑ってくれる。
その一つ一つが、好きだった。
高虎は鞄の持ち手を握り直し、口を開いた。
「こぎさん」
「ん?」
「俺、帰ってもまた遊びに来ていい?」
「当たり前だろ。同じマンションなんだし」
「毎日でも?」
千尋は目を丸くした。
「毎日? お前、そんなに俺んち気に入ったの?」
「ちがうよ。部屋じゃなくて、こぎさんがおるから来たい」
首を振って返す高虎に、千尋の笑顔が固まる。
高虎はその顔を見つめたまま、言葉を続けた。
「一緒に飯食うのも、話すのも好きだった。帰ってきて、こぎさんがおるのが嬉しかった」
「高虎?」
「俺、こぎさんが好き」
千尋は思わず、息を止めた。高虎の声はいつもと変わらず低く、落ち着いている。
それでもまっすぐこちらを見る目だけは、少しも逸らさない。
「恋愛のほうでだよ。ちゃんと言っとこうと思って」
高虎はそこまで言うと、少しだけ口元を緩めた。千尋はしばらく、何も言えないままで固まっていた。
好き。恋愛のほうで。
その意味はわかる。わかるのに、すぐには信じられなかった。
「……俺? 俺のこと?」
「そう」
「お前、六つも年下だぞ?」
「知っとる。たった六つやん」
「いや、そうだけどさ」
千尋は困ったように笑った。胸の奥が落ち着かない。
嬉しい気持ちは、間違いなかった。けれど、嬉しいと思った瞬間に、別の感情が追いかけてくる。
また誰かを好きになって、同じように傷つくかもしれない。今度こそ大丈夫だと思っても、そうとは限らない。
千尋は唇を結び、視線を落とした。
「俺さ、前の恋人と、あんまりいい別れ方してなくて。浮気、されてさ」
高虎は、黙って聞いていた。
千尋はいつものように笑おうとしたが、思ったほど上手く笑えなかった。
「まあ、俺にも何か足りなかったのかもしんないけど。ちょっと、そういうの怖いとこあるんだよな」
高虎は、すぐには答えなかった。玄関の外から、遠くでエレベーターが動く音が聞こえる。
しばらくして、高虎は静かに口を開いた。
「そっか」
「ごめん。急にこんな話して」
「謝んなくていいよ」
高虎は鞄を床へ置き、千尋のほうへ少しだけ身体を向け直した。
「俺、一緒におると楽しいし、帰ってきたくなるし。こぎさんが笑ってると、俺も嬉しい」
高虎はそこで少し、言葉を探した。普段なら、思ったことをこんなに長く話すことはあまりない。
それでも今は、きちんと伝えたかった。
「前の人のこと、全部わかるわけじゃないけど」
「うん」
「俺は、こぎさんと付き合いたい」
千尋の胸が、ぎゅっと縮んだように痛んだ。喉の奥がやけに熱くなってくる。
高虎はまっすぐに、千尋を見ていた。
「俺と付き合って」
千尋は何度か、瞬きをした。
自分が好きになっていいのか。また誰かと暮らしたいと思っていいのか。
そんなことを、いつの間にか考えるようになっていた。
目の前の男は、千尋が何かを決める前に、自分の気持ちをきちんと差し出してくれている。
好きだと。恋人になりたいと。他の誰でもなく、千尋がいいと言ってくれる。
千尋は大きく息を吸い、少し笑った。今度はうまく笑えた。
「俺もさ、お前といるの、すっげえ楽しかった。帰ってほしくないなって、思ってた」
「そっか」
「うん。俺も好きだよ、高虎」
高虎はしばらく黙っていたが、ゆっくりと笑った。
いつもの、片方の口角だけが上がるような笑い方ではなかった。目元まで柔らかく緩み、嬉しさを隠しきれないような、少し幼い顔で。
「やった」
千尋は思わず吹き出した。
「お前、そんな喜ぶ? すげーかわいい顔してる」
「そりゃ嬉しいに決まっとるやん。好きな人に好きって言ってもらえたんだから」
「お、お前」
千尋は頬を掻いた。
顔が熱い。さっきまで普通に喋っていた相手なのに、急に何を言われても照れくさくなってしまう。
「じゃあ、よろしくな」
「ん。よろしく、こぎさん」
高虎は千尋が差し出した手を見下ろし、大きな手で包むように握った。
千尋が手を引こうとすると、高虎はほんの少しだけ指に力を込めた。
「高虎? どした」
「もうちょっと手、繋いでたい」
「お前、意外と甘えん坊だな」
「そうかもね」
高虎があまりにあっさり認めるので、千尋はますます照れくさくなり、視線を逸らした。握られた手が温かい。
高虎の手は大きく、指も長い。自分の手がすっぽり収まってしまうことに、千尋は今さら気づいた。
これまで何度も隣に立ち、同じ食卓を囲み、狭いキッチンで肩を並べていた相手だ。
なのに、恋人になった途端、その距離がまるで違って感じられる。
「こぎさん」
「ん?」
「キスしていい?」
高虎はそう言うなり、少し身を屈めた。千尋は目を丸くし、高虎を見つめたままで固まった。
「……は?」
「キスしていい、って聞いた」
「いや、聞こえたけど」
「だめ?」
「だ、だめじゃねえけど」
「じゃあ、いいってことだ」
「お前、結構ぐいぐい来るな!」
「好きだからね」
微笑んで真っ直ぐに見つめてくる高虎の視線を受け止め、千尋は言葉に詰まった。
ずるい。こんなに真正面から言われたら、断れるわけがないではないか。
いや、そもそも断りたいわけではないのだ。ただ、心の準備が追いつかないだけで。
「わかった、……していい」
千尋は目を逸らし、小さく答える。高虎は一度、千尋の顔を確かめるように見つめると、ゆっくりとさらに身を屈めた。
身長差を埋めるために、高虎は腰を折り、千尋は少し、顎を上げた。
近づいてくる顔を見ていると、心臓がうるさくなる。高虎の睫毛は思っていたより長く、軽く伏せられた瞼の下に薄い影を落としていた。
いつも少し気だるげに見える目元が、今は驚くほど真剣で、千尋は思わず握っていた手に力を込めた。
高虎のもう片方の手が、千尋の頬へ触れた。大きな掌だった。指先は少し硬く、仕事で使い込まれた手の感触がする。それが妙に安心できて、千尋は目を閉じた。
ほんの短いキスだった。柔らかく、温かく、驚くほど静かな接触。
それなのに、高虎がゆっくり顔を離しても、千尋はすぐには目を開けられなかった。
握っていた手を離すタイミングもわからず、ただ、さっきまで唇が触れていた場所に意識が残っている。
「こぎさん」
「なに」
「かわいいね」
「うるせぇ!」
千尋が慌てて顔を上げたそのとき。高虎が、舌先で自分の下唇をゆっくりと舐めた。
何でもない、ほんの一瞬の仕草。ケーキを食べていた夜にも見た、あの癖だった。
けれど、今は話が違うではないか。
ついさっきまで自分の唇に触れていたそこを、高虎が何気なく舐めている。
それに気づいた途端、千尋の顔へ一気に熱が集まった。
「おまえそれ、やめろ!」
「何を?」
「唇。ぺろってすんの」
「ああ」
高虎は少し考え、それから千尋の顔を覗き込んだ。
「なんで?」
「なんでって」
千尋は文句を言おうと口を開き、閉じた。
説明できるわけがない。キスしたばかりの相手に唇を舐められると、なんだかものすごく落ち着かないのだなどと。
しかも相手は、その理由をまるで理解していない顔でこちらを見つめている。
「なんか、だめなんだよ」
「だめなんだ? そっか」
高虎は素直に頷き、それから、少し口元を緩める。やけに悪戯っぽい笑みだった。
「じゃあ、もう一回キスしとく?」
「意味わからん、なんでそうなるんだよ」
千尋が声を上げると、高虎は笑った。
大きな身体を少し屈めたまま、千尋の手を握っている。その顔があまりにも嬉しそうだったので、千尋はそれ以上怒ることができなかった。
「もう一回だけだからな」
「うん」
「……俺からしてやるからな」
「うん。して」
高虎は目を細めて、言われたとおりに待っている。千尋はその胸元の服を掴み、少しだけ引き寄せた。
今度は、自分から。唇が触れる直前、高虎が嬉しそうに笑ったのがわかった。
千尋もつられて笑ってしまい、二度目のキスは、最初より少しだけ不格好になった。
◆
「で、高虎」
「ん?」
「お前、部屋戻んの?」
二度目のキスを終え、ようやく少し落ち着いた頃、千尋は玄関に置かれた鞄へ視線を落とした。
高虎も鞄を見つめながら答える。
「戻るよ」
「……そっか」
「でも、また来ていい? 毎日」
高虎が千尋の手を握り直し、妙に真剣な表情になったので、千尋は吹き出した。
「お前、ほんっと俺んち好きだな」
「ちがうよ。こぎさんが好きなんだって」
「そういうことさらっと言うなよ」
千尋は羞恥で熱くなった頬を隠すように顔を逸らし、握られた手を少しだけ持ち上げた。
「……いいよ、毎日来ても。つきあってんだし」
「ありがと、嬉しい」
玄関の外では、誰かが廊下を歩く足音がしていた。
いつもと変わらない、マンションの夕方。それでも二人にとっては、少しだけ特別な日になった。
高虎はようやく鞄を持ち上げ、玄関の外へ出た。千尋は扉の内側から、その大きな背中を見送る。
「高虎、また明日な」
千尋は思わず、ぽつりと零すように名を呼ぶ。高虎は聞き逃さずに振り返り、ふっと笑った。
「うん。また明日、こぎさん」
扉が閉まっても、千尋はしばらくその場に立っていた。
数分が経ったあとで座り込み、両手で顔を覆う。
「ああ、もう……」
顔が熱く、心臓がうるさい。何だこれ。
混乱した頭のままで、千尋は玄関の扉を見つめた。
ついさっきまで、ここに高虎がいた。
好きだと言われた。付き合ってほしいと言われた。
キスまでされた。しかも二回。
「手ぇ早いんだよ、あいつ……!」
一方その頃。数階上の自室へ戻った高虎は、鞄を床へ置き、しばらく玄関に立っていた。
修理の終わった部屋は綺麗で、乾燥した床にはもう水の気配もない。
ようやく帰ってきた、自分の部屋だ。
けれど、最初に考えたのは、明日また千尋に会えるということだった。
高虎はスマートフォンを取り出した。
『こぎさん』
少し考えてから、続けて打つ。
『明日、何食べたい?』
返信はすぐに返って来た。
『お前もう明日の飯の話?』
『なんでもいい』
『一緒に食おうぜ』
高虎は画面を見つめ、目を細めてゆっくりと笑った。
『うん』
『楽しみ』
送信して、スマートフォンをしまい、高虎はようやく靴を脱いだ。
今日から、古木千尋が自分の恋人になってくれた。そう考えるだけで、いつもはぎゅっと結んでいる口元が緩んでしまう。
どうやら瀬川高虎は、好きなものに対して遠慮するということを、あまり知らないらしい。
その事実を千尋が身をもって知ることになるのは、もう少しだけ先の話である。




