Ⅳ 羊皮紙の墓標
第四章:羊皮紙の墓標
一
一三五六年、十二月。フェズの冬は、大西洋からの冷たい乾風が街の石畳を白く噛み、夜を厳かに冷え込ませていた。
宮廷の片隅にある書斎の机の上で、一振りの葦のペンが、カサ、カサ、と悲鳴のような音を立てて羊皮紙を這っていた。
イブン・ジュザイイは、もはや自分の指先の感覚を失いつつあった。
数ヶ月前、あのお喋りじじい──イブン・バットゥータがすべての旅の口述を終え、カディ(裁判官)としての安定した年金と贅沢な隠居生活を手に入れて去っていったあとも、ジュザイイの戦いは終わっていなかった。
じじいがナビーズ(ナツメヤシの酒)の香りを漂わせながら撒き散らしていった、三万マイル分の「嘘と記憶の濁流」。時系列はバグだらけで、日程は物理的に破綻し、地味な箇所は他人の紀行文からのコピペ(盗用)に満ちていた。
それを、スルタン(国王)の御前に献上するにふさわしい、最高峰の「宮廷文学」へと補正し、化粧を施し、調和させる激務。それは、わずか三十六歳の若き詩人の生命力を、内側から細胞レベルで削り尽くす文字の強制積立であった。
「……あと、数行だ」
ジュザイイは激しい咳を何度も突き上げ、白い息とともに、一滴の鮮血を机の上の羊皮紙の余白にこぼした。
当時、イスラーム世界を震撼させていた黒死病の第ニ波が、すでに彼の若い身体を蝕んでいた。あるいは、じじいの圧倒的な生命力のハッキング(精神の侵食)に脳の防壁が耐えきれず、過労によって心身が限界を迎えていたのかもしれなかった。
だが、眼鏡の奥のジュザイイの瞳だけは、異常なまでの狂気と知性の光を放っていた。
彼は手元に現存する、己の直筆の写本──のちに千年後の歴史家たちがパリ国立図書館で息を呑むことになる、世界で唯一の『大旅行記』の原典を見つめた。
そこには、じじいのお喋りに必死に食らいついたがゆえの文法の乱れや、じじいの嘘の穴を埋めるために自分が施したイブン・ジュバイルのコピペの跡が、まるで戦場の傷痕のように生々しく刻まれている。
これは、バットゥータの本ではない。
俺が、この命を墨汁に変えて築き上げた、不滅の「文字の城」なのだ。
二
コト……と、部屋の重い扉が開き、夜風とともに、贅沢な外套を羽織った老人が入ってきた。
隠居してすっかり丸々と太り、中性脂肪を蓄えたイブン・バットゥータじじいであった。手には、相変わらず琥珀色のナツメヤシの酒の瓶を下げている。
「おい、ジュザイイ。ついに完成したと聞いてな。俺の偉大なる三十年の旅路のすべてが、その羊皮紙の中に収まったか」
じじいはいつものように不敵に笑いながら近づいてきたが、ジュザイイの真っ白に血の気の引いた顔と、机の上の血痕を見た瞬間、その爛々とした目を大きく見開いた。
「ジュザイイ……お前、その身体は一体……」
ジュザイイは、葦のペンをインク壺に戻し、静かに最後のピリオドを打った。
黒いインクが羊皮紙に染み込み、バットゥータの三十年の漂流は、完全にジュザイイの文字の牢獄の中に閉じ込められた。
「おじいさん……遅いですよ。……すべて、書き終えました」
ジュザイイは微かに微笑み、背もたれに深く身体を預けた。
「あなたの語るブルガールの常闇も、モルディブの全裸の姫君も、北京の黄金の宮殿も……。すべて、私の最高級の修辞で、完璧な歴史へと昇華させておきました。スルタン様は大層お喜びになり、この本は永遠のパブリックドメイン(世界の財産)となるでしょう」
バットゥータはじじい特有の素早い手つきでナビーズの瓶を床に置くと、ジュザイイの細い肩を激しく揺さぶった。
「馬鹿者が! なぜここまで己を追い詰めた! 俺の話など、半分はただの盛り話だ! 行っていない旅の穴など、もっと適当に埋めればよかったのだ!」
「適当など……できるわけがないでしょう」
ジュザイイの口元から、再び一筋の血が流れた。
「私は、宮廷詩人イブン・ジュザイイです。……あなたのその、パンツ一丁から王に上り詰めるような、醜くも圧倒的な『人間の生の執念』。それを、この世で最も美しいアラビア語の調和の中に閉じ込めることだけが、私のアイデンティティー(誇り)だった。私は、あなたの旅の影に隠れる速記者ではない。……あなたという怪物をハッキングし、支配した、この本の『真の主』なのだから……」
ジュザイイの視界が、ジワジワと白夜の常闇(暗黒)へと沈んでいく。
彼の脳内システムは、今まさに、死という絶対的なシャットダウンを迎えようとしていた。
三
「ジュザイイ! しっかりしろ! ジュザイイ!!」
30年世界を旅してどんな嵐にも動じなかったバットゥータじじいが、まるで子供のように大粒の涙を流し、若い詩人の身体を抱きしめて泣き叫んでいた。じじいがどれほどお喋りであっても、命の灯火が消えゆく秀才を呼び戻す言葉は、どこにも存在しなかった。
ヒジュラ暦七五七年、十二月。
宮廷詩人イブン・ジュザイイは、自らが創り上げた不滅の『大旅行記』の完成を見届けたわずか九ヶ月後、三十六歳の若さで、静かにその短い生涯を閉じた。
のちにバットゥータは六十五歳まで生き長らえ、贅沢な裁判官として大往生を遂げるが、その晩年、彼が夜な夜なナビーズの杯を掲げて思い出すのは、東洋の黄金の宮殿ではなく、フェズの冷たい冬の夜、自分の嘘を必死に本物の歴史へと書き換えてくれた、あの可哀想な秀才の、葦のペンを握る手の白さであったという。
フェズの宮廷の窓の外には、砂漠の夜空に冷たく、しかし美しく澄み渡った満月が浮かんでいた。
じじいは死に、ジュザイイもまた老廃物として土へと還った。
だが、秀才がその命を削って羊皮紙に刻んだ墨痕だけは、六百年の時を超え、現代の人間たちの脳をも完璧にハッキングし、二人の終わらない夜の騙し合いを、今も鮮鮮と伝え続けているのである。
1356年、冬。
永遠に眠ることになる「自筆の写本」の最後の1行を書き終えたジュザイイは、葦のペンを置き、喀血して倒れる。
36歳の若さで命の灯火が消えゆく中、ジュザイイは、枕元でナビーズの杯を片手に涙を流すバットゥータじじいを見つめ、微かに微笑むのだ。
「おじいさん……あなたの嘘を文字の城に閉じ込めるために、私はすべての命を使い果たしましたよ。……ですが、これで私たちは、千年後の人間をも騙し続ける『不滅の共犯者』だ。




