Ⅲ 元朝の黄金要塞、あるいは消えた大都のタイムライン
第三章:元朝の黄金要塞、あるいは消えた大都のタイムライン
一
一三五五年、秋。フェズの宮廷を包む夜気は、いよいよ冷徹な鋭さを増し、書斎の床に敷かれたペルシャ絨毯の色彩すらも凍てつかせるかのようであった。
カサ、カサ、と葦のペンが羊皮紙の肌を引っ掻く音が、部屋の静寂の中に規則正しく響いている。
イブン・ジュザイイの指先は、連日の激務によってすでに黒いアラビアインクが皮膚の皺の奥まで染み込み、洗っても落ちぬ「書き手の刻印」となっていた。
「おい、ジュザイイ。筆を休めるなよ。ここからが俺の旅の、もっとも華やかで、もっとも莫大な『黄金の章』なのだからな」
バットゥータじじいは、もはや手酌でナツメヤシの酒を杯に満たし、その赤黒く日焼けした顔を満足げに上気させていた。
「モルディブの楽園をあとにした俺は、荒れ狂うインド洋を越え、ついに世界の東の果て、大元ウルス──中国の泉州の港へと上り詰めたのだ。あそこは何もかもが常軌を逸していた。鶏の雛は我らの国のダチョウほどもあり、果物はどれもこれも蜜を凝縮したように甘い。そして俺は、南の港から大運河をまっすぐ北上し、ついに世界の覇王であるハーン(皇帝)が住まう都、大都の宮廷へと足を踏み入れたのだ!」
じじいは立ち上がり、まるで自分がハーンの前に跪く外交使節そのものであるかのように、豪奢な外套の裾を劇的に翻してみせた。
「大都の宮殿は、文字通りの黄金の要塞だったぞ、ジュザイイ。壁という壁には精緻な絹の刺繍が施され、ハーンの御前には、世界中から集められた数千人の奴隷と、目も眩むような金銀財宝が山と積まれていた。俺はその玉座の前で、スルタン様の御威光を堂々と語り、ハーンから直々に過分なる褒美を賜ったのだ。書け、ジュザイイ。この東洋の奇跡を、お前のその美しい言葉で羊皮紙の墓標(歴史)に刻みつけるのだ!」
じじいの声は、ナビーズの酔いも手伝って、激しく熱を帯びていた。
だが、机の前のジュザイイは、その熱病のような語りに一歩も引きずられることはなかった。彼の切れ長の瞳は、じじいの言葉の端々に隠された「致命的なバグ(矛盾)」を、冷徹に、そして正確に嗅ぎ取っていた。
二
ジュザイイは、葦のペンを静かにインク壺の縁に立てかけ、手元に広げた独自の「東洋の年表」を指先でトントンと叩いた。
「……おじいさん。あなた、本当に北京(大都)まで行ったのですか」
ジュザイイの声は、低く、冷たい水のように書斎に響いた。
「な、何だと?」じじいが白い髭をぴくりと揺らす。
「計算が合わないのですよ。あなたが中国の南の港に上り、そこから北の都へ向かったとされる当時、元の国はすでに各地で紅巾の乱(大反乱)が勃発し、大運河の物流量は完全に麻痺、国内の街道は一歩歩けば首が飛ぶほどの無法地帯だったはずです。一介の異国の法官が、そんな戦火の中を傷一つ負わずに縦断し、ハーンの謁見を受けるなど、アッラーの奇跡を以てしても不可能です」
ジュザイイは座を立ち、じじいの目の前まで歩み寄った。その手には、かつて別の旅行家たちが書き残した中国の地誌の写しが握られていた。
「さらに言えば、あなたの語る大都の宮廷の描写、建物の配置から衣服の色彩に至るまで、現地の案内人や、先に中国を訪れた商人たちの噂話のデータベースを、そのまま右から左へ書き写したかのように酷似している。おじいさん……あなた、本当は泉州か杭州の港町に滞在して、美味いものでも喰いながら、現地の酒場で聞いた話を『自分の体験』としてハッキング(偽装)したのでしょう」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
三十年世界を騙し、王たちを手玉に取ってきたバットゥータじじい。彼は、若き秀才の完璧な逆ハック(追及)を前にして、一瞬だけ言葉を失った。
だが、じじいはすぐに、ククッ、と喉の奥で不敵に笑い、自らの杯にナビーズを満たした。
「フハハ……。本当に、可愛げのない男だな、ジュザイイ。お前を筆記者に選んだのは、俺の人生で最大の誤算であり、同時に最大の幸運だったかもしれん」
じじいは悪びれる様子もなく、悪魔のような目を輝かせた。
「さよう、俺は大都の門までは届かなかった。南の港で、元の国が炎に包まれていくのを、ただ遠くから見つめていただけさ。だがな、ジュザイイ。俺が中国という巨大な大陸の地を踏み、その空気を吸ったのは紛れもない真実だ。そして、俺の耳に集まってきた大都の黄金の記憶は、あの国が誇る最高の輝きそのものだ。それを俺が『見た』と語って何が悪い?」
じじいはジュザイイの肩を強く掴み、その顔を覗き込んだ。
「スルタン様が、そして千年のちの人間が求めているのは、『バットゥータという老いぼれが、どこの宿場町で足止めを食らったか』という退屈な日誌ではない。この世界に、我らの想像を絶する巨大な『黄金の帝国(中国)』が存在するという、圧倒的な知のロジックだ。俺の嘘は、世界を正しく伝えるための『美しき方便』なのだ。ジュザイイ、お前の文才があれば、この嘘は本物の歴史になる。お前も、この壮大な知の城壁を、俺と共に築きたくはないか?」
三
ジュザイイは、じじいのギラギラとした剥き出しの執念を見つめ返した。
このじじいは、やはりとんでもない大嘘つきで、強欲なリアリストだ。他人の本や噂話を平然とコピペし、自らのアイデンティティーとして仕立て上げるその詐術。だが、その大嘘の根底には、世界のすべてを自分の言葉で支配し、文字の力で歴史そのものを書き換えようとする、狂おしいほどの生命の熱量が満ち満ちていた。
のちに、フランスのパリ国立図書館に『Arabe 2291』として現存することになる、ジュザイイの直筆の一次資料。そこに刻まれることになる、大都(北京)の曖昧な地理的バグや、先行文献からのコピペの傷痕──それらは、じじいの放つ圧倒的な嘘の濁流に、若きジュザイイの理性が激しくジャミング(電波妨害)を起こしながらも、「ならば、世界で最も美しい文学にしてやろう」と、二人がかりで歴史をハッキングした決戦の証拠そのものであった。
「……フッ、仕方のないおじいさんだ」
ジュザイイは諦めたように苦笑し、再び机の前に座って葦のペンを握り直した。
「分かりましたよ。あなたのその、大都へ行かなかった『架空の旅』、私がこの世のどの文学よりも絢爛豪華な宮廷文体で、羊皮紙の上に不滅の黄金郷として築き上げて差し上げます。後世の歴史家たちが、あなたの嘘を見破ろうと必死にタイムラインを計算して、頭を抱える姿が今から目に浮かびますよ」
「ガハハ! それでいい、ジュザイイ! 歴史家どもなど、俺たちの文字の牢獄の中で、一生迷子にさせておけば良いのだ!」
バットゥータじじいは満足げに杯を掲げ、ナツメヤシの酒を飲み干した。
深夜のフェズの宮廷の窓の外には、砂漠の冷たい風が吹き荒れ、二人のハッカーが繰り広げた、虚実皮膜の『大旅行記』の最も華やかなる大嘘の章を、静かに、そして美しく照らし出していた。




