Ⅱ パンツ一丁の法官、あるいはモルディブの千夜-三万マイルの大嘘
第二章:パンツ一丁の法官、あるいはモルディブの千夜
一
「──おじいさん。私は確かに、あなたの放つ三万マイルの大嘘を美しく着飾らせるために、この葦のペンをスルタン様から賜りました」
夜の帳がさらに深く降りたフェズの宮廷。イブン・ジュザイイは、手元の羊皮紙を黒いアラビアインクで満たしながら、静かに、しかし冷徹な眼差しをバットゥータじじいへと向けた。
「ですがね、限度というものがあります。さきほどあなたがサラリと口にした一節……『インドの反乱軍に襲われ、下着一丁にひん剥かれて荒野に放り出された』。これは本当に史実なのですか? それとも、物語の起伏を出すために、またどこかの古い説話からコピペしてきたバグなのですか。そもそも『大旅行記』という国家の書物に、そんな無様な姿を記録するなど、正気の沙汰とは思えません」
「失礼なことを言うな、この若造が!」
イブン・バットゥータは、琥珀色に濁ったナツメヤシの酒を喉の奥へ一気に煽ると、白い髭をブルブルと震わせて机を強く叩いた。
「あれはな、俺の三十年の旅の中で、最も毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した、本物の絶体絶命の瞬間だ! コピペなどではない。俺の剥き出しの肉体に刻まれた、消えぬ傷痕の記憶よ! 衣服を失い、誇りを失い、それでも生き延びたという泥臭い真実こそが、旅の本質ではないか!」
じじいは杯を置くと、遠い東洋の海を思い起こすように、その爛々とした目を細めた。
それは、じじいがインド・トゥグルク朝の狂気の王から、中国(元朝)への全権外交使節に任命され、意気揚々とデリーを出発した直後のことであった。
王から与えられた、金銀財宝と数百人の奴隷、そして贅沢な衣服を積んだ大船団。しかし、旅路の途中で地元のヒンドゥー反乱軍の凄まじい奇襲に遭い、じじいのハッキングシステム(知略)が駆動する間もなく、すべての物流量(財産)を根こそぎ強奪されてしまったのだ。
「奴らは冷酷だったぞ、ジュザイイ。俺がデリーの高名な裁判官だと名乗っても、鼻で笑いながら、俺が着ていた最高級の絹の外套を剥ぎ取り、仕舞いには履いていたズボンまで力任せに引き裂きやがった。気がつけば、俺は燃え盛るインドの太陽の下、ただの薄汚れた『パンツ一丁(布切れ一枚)』の姿で、不毛の荒野のど真ん中に置き去りにされていたのだ」
ジュザイイは、じじいの情けない姿を想像し、思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「三十大陸を制覇した大旅行家が、パンツ一丁で立ち尽くす……。スルタン様がこれをお読みになれば、大爆笑なさるか、あるいはあまりの品格のなさに本を燃やされるかのどちらかですね。よくぞその姿から、今こうして贅沢な服を着てナビーズを飲めるまで這い上がれたものです」
「馬鹿を言うな、ここからが俺という人間の、真のシステム(本能)の覚醒だ!」
じじいはナビーズを自ら注ぎ足し、ニヤリと不敵に笑った。
二
「身ぐるみ剥がされた俺は、トボトボと歩いてなんとか港へ生還した。だがな、 tragedy (悲劇)は重なるものよ。俺を待っているはずの中国行きの外交船が、目の前で凄まじい大嵐に遭い、財宝も奴隷もすべてを飲み込んで海へと沈んでいったのだ。富も、名声も、衣服すらも失い、ただ命だけを拾った俺は、流れ着いた南の果ての楽園──モルディブ諸島の砂浜に、文字通り老廃物のように打ち上げられた」
バットゥータじじいは、酒の杯を傾けながら、その唇を妖しく湿らせた。
「モルディブ……そこは、男にとっては文字通りの天国であり、そして悪魔の無法地帯だった。島を治めるのは、ハディージャという名の高貴な女王。そして現地の女たちは、厳格なイスラームの戒律などどこ吹く風で、上着を一切纏わぬ『全裸に近い姿』で宮廷を堂々と歩き回るのだ。さらに、信じられんほど気前よく男たちに給仕し、求婚してくる。俺はそれを見た瞬間、デリーでのすべての疲れが一瞬で吹き飛び、脳内の満腹中枢がバグるほどの衝撃を受けた!」
「おじいさん、また話の色を『盛って』いませんか」ジュザイイが葦のペンの先を向け、鋭く突っ込む。「厳格な法学者であるあなたが、そんな不謹慎な光景を前にして、鼻の下を伸ばしていただけのはずがない」
「盛ってなどいない! 法律家としての俺の『正義のバリア』が火を吹いたのだ!」
じじいは身を乗り出した。
「俺はパンツ一丁から這い上がるため、現地の言葉を大急ぎでハッキング(習得)し、自分がデリーの最高法廷で数千人の事件を捌いてきた天才裁判官であることを、女王の側近たちに猛烈に売り込んだ。モルディブの連中は、イスラーム法の洗練されたシステムを知らぬ素朴な民ばかりだったからな。俺という『知識の塊』を前にして、彼らはひれ伏すしかなかったのだ」
じじいは、現地の法律の仕組みを独自の解釈で瞬時に書き換え、わずか数週間でモルディブの「最高裁判官」の座を強奪(下剋上)してみせた。
さらに、じじいの強欲さはそれだけに留まらなかった。彼は自らの権力を強固な要塞にするため、現地の有力者の娘たちを、同時に「四人」も娶り、島の利権と贅沢な暮らしをすべて手中に収めたのだ。
「どうだ、ジュザイイ。パンツ一丁で砂浜に転がっていたじじいが、一ヶ月後には、半裸の美女たちに囲まれながら、島のすべての法律と財産を支配する『影の王』に君臨したのだ。これほどスリリングで、合理的な大逆転劇が、他にあるか?」
三
ジュザイイは、じじいの怒涛のお喋りを羊皮紙に書き留めながら、背筋に冷たい戦慄を覚えていた。
この男は、確かに嘘つきで、見栄っ張りで、酒好きのろくでなしだ。だが、衣服すら失った極限状態から、ただ「自らの知性と、口八丁のハッキング能力」だけを武器にして、一国の最高権力者の座を掠め取るその圧倒的なリアリズム。それは、美しき調和の歌を詠んで裏切られた東国の武将たちには絶対に真似のできない、泥泥とした人間の「生の執念」そのものであった。
のちに、フランスのパリ国立図書館に現存することになる、ジュザイイが今まさに直筆で書いているこの一次資料(『大旅行記』第2巻)。そこに残されることになる、幾つかの時系列の矛盾や言葉の乱れ──それは、モルディブで四人の妻と権力を貪り尽くしたじじいの放つ、あまりにも濃厚な人間の業に、若いジュザイイの理性が圧倒され、脳内システムが激しくジャミング(電波妨害)を起こした生々しい傷痕であった。
「……分かりましたよ、おじいさん」
ジュザイイは苦笑し、筆の先を整えた。
「あなたのその『パンツ一丁からの下剋上』、私が宮廷の誰もが息を呑む、極上のスパイサスペンスの如き格調高き文体で、羊皮紙の上に不滅の城(文学)として築き上げて差し上げます。ですが、モルディブの女たちの描写は、スルタン様がお読みになっても不謹慎だと思われぬよう、少しだけ『綺麗な表現(修辞)』で化粧を施しておきますからね」
「フハハ! 好きにするが良い、ジュザイイ!」
バットゥータじじいは空になったナビーズの杯を高く掲げ、大満足の声を上げた。
「旅路は泥に塗れ、パンツ一丁の無様な姿であっても、お前が今書いたこの文字の力があれば、千年後の人間すらも、俺のこの大逆転の夜の中に永久に閉じ込めておくことができるのだからな!」
フェズの宮廷の夜空には、砂漠の冷たい満月が青白く輝き、二人のハッカーが繰り広げた、虚実皮膜の『大旅行記』の次なる偉大なる章を、静かに、そして美しく照らし出していた。




