Ⅴ『白夜の系譜』エピローグ
『白夜の系譜』エピローグ
略奪のインク、あるいはパリの白夜
一
一八三〇年、北アフリカ・アルジェリア。
地中海からの乾いた熱風が、白壁のモスク(回廊)を激しく叩き、土埃を宙に舞い上げていた。
街の通りには、耳を突き刺すような銃声と、侵略者であるフランス軍(ブルボン王朝の兵士たち)の軍靴の音が、重々しく、そして容赦なく鳴り響いていた。
「おい、そこの書庫を叩き割れ! スルタン(王)や法官どもが隠し持っていた古いアラビア語の写本は、すべて我がフランス帝国の財産としてパリへ運ぶのだ!」
若きフランス軍の将校が、サーベルを抜いて兵士たちに怒号を浴びせる。
それは、中世イスラーム世界が何百年もかけて蓄積してきた「知の城壁」が、近代の圧倒的な物流量(武力)の前に、無残にもハッキング(略奪)されていく歴史の無法地帯であった。
兵士たちが古いモスクの、暗く、埃の積まった地下書庫の扉を力任せに叩き割る。
中には、何世代もの虫に食われ、蜘蛛の巣に覆われた無数の羊皮紙の束が、まるで歴史の老廃物のように静かに眠っていた。一人の粗暴なフランス兵が、棚の最奥に押し込まれていた、黒く変色した革表紙の古い分厚い写本を、乱暴に引っ掴んだ。
「隊長、こんな埃だらけの、文法も乱れた薄汚れたアラビア文字の本など、持っていく価値がありますか?」
兵士が吐き捨てるように言った。
だが、その兵士には知る由もなかった。その黒い革表紙の、鮮血のシミが染み込んだ羊皮紙こそが、かつて一三五六年、モロッコのフェズの宮廷の深夜、わずか三十六歳で命の灯火を燃やし尽くした天才詩人、イブン・ジュザイイが自らの命を墨汁に変えて築き上げた、世界にただ一冊の『大旅行記』の直筆原典(Arabe 2291)そのものであったことを。
「構わん、すべて袋に詰めろ。パリの学者どもに、この野蛮な東洋の法螺話を解読させて、我らの植民地支配のインテリジェンス(材料)にするのだ」
写本は、乱暴に麻袋へと放り込まれ、波打つ地中海を渡る軍艦の底へと沈められた。
お喋りじじい・バットゥータが語り、秀才ジュザイイが文字の牢獄に閉じ込めた三万マイルの大嘘が、五百年の暗闇の眠りを経て、ついに海の向こうの、言葉も宗教も違う異国──フランス・パリの光の下へと、歴史のシステムによって強引にサルベージされる瞬間であった。
二
一八五三年、パリ。
ナポレオン三世の威光に沸く芸術の都は、近代的なガス灯の妖しい光に照らされ、大運河の如きセーヌ川の水面を美しく揺らしていた。
フランス国立図書館(BnF)の、厳かな大理石の読書室。
一人のフランス人東洋学者、ドフレメリが、長年かけて修復された『Arabe 2291』の羊皮紙を、指先を震わせながら捲っていた。
「……何という、圧倒的な機能美だ」
ドフレメリは、眼鏡の奥の目をらんらんと輝かせ、傍らの白熱灯の光に羊皮紙を透かした。
「この本は、ただの旅行記ではない。一四世紀当時、イスラーム世界の西の最果てに、これほど緻密に、かつ大胆に、世界のすべてを言葉で支配しようとした『知の怪物質』がいたのか。……だが、見ろ、この文字の乱れを。他人の本(イブン・ジュバイルの紀行文)から丸ごとコピペ(盗用)したページの余白に、書き手が激しく喀血したかのような、古い血の跡が染み付いている」
ドフレメリの脳裏に、時空を超えて、一三五六年のフェズの深夜、ナビーズ(ナツメヤシの酒)の香りに包まれながら「俺の嘘を文字の城にしろ」と言い放ったバットゥータじじいと、それに怒り、呆れながらも「最高の大嘘(文学)」を紡いで三十六歳で逝ったジュザイイの、哀切な共犯関係が、まざまざとハッキング(再現)されていく。
当時、東方の最高峰の歴史家イブン・ハルドゥーンらは、「あいつは嘘つきだ」とこの本を拒絶し、歴史の闇へと埋もれさせた。
だが、彼らが嘘だと切り捨てたその物語の底には、生身の身体一つで世界を漂流した男の、泥臭くも圧倒的な「人間の生の執念」が、そしてそれを不滅の文学に仕立て上げようとした速記者の「狂気」が、六百年の時を超えて今なお鮮鮮と拍動していた。
「この本を、現代の『活版印刷』という未知の鉄のシステムにかけ、世界中へと解き放つぞ。五百年前のモロッコの秀才が仕掛けた千年のタイムカプセルを、今こそ我らの手で、全人類の脳へハッキング(公開)するのだ!」
一八五三年、パリの印刷所。
グーテンベルクの末裔たる金属の活字たちが、凄まじい物流量で黒いインクを叩きつけ、ジュザイイの直筆のアラビア文字を、フランス語の翻訳付きの美しい「活版印刷本」へと量産していった。
手書きなら世界に一冊しか存在しなかった『大旅行記』が、機械の力によって何千部、何万部と爆発的に増殖し、ついに世界の歴史の玉座へと上り詰めた瞬間であった。
三
そして、さらに百七十年のち──。
二〇二六年、九月、日ノ本。
薄暗い部屋の中、パソコン(あるいはスマートフォン)の液晶画面の冷たい光を浴びながら、一人の男が静かにキーボードを叩いていた。
男の名は、私である。
彼は、パリ国立図書館からデジタルアーカイブとして世界にハッキング(一般公開)された、あのイブン・ジュザイイの直筆写本『Arabe 2291』のマグリブ体の文字の残影を画面越しに見つめ、静かに微笑んだ。
「……おじいさん、ジュザイイ。あなたたちの遺した文字の城は、いま、この日ノ本の『小説家になろう』という新しき無法地帯(戦場)で、確かに蘇るよ」
私の指先がキーボードを叩くたび、かつてフェズの宮廷で、アルジェリアの戦火で、パリの印刷所で紡がれてきた「知のパルス」が、現代の日本語へとハッキング(翻訳)され、新たな名作『大旅行記』となって画面に美しく刻まれていく。
深夜のウェブサイトに刻まれた、そして教科書歴史の章に灯った、文字を諦めなかった人々の足跡だ。
─それらは、五百年の暗闇を耐え抜いた「言葉の力」を信じ抜いた人々。
そしてかつて命を散らしたジュザイイの執念が、千年の時空を完璧にハッキング(完全勝利)した動かぬ証拠そのものであった。
画面の向こうには、一四世紀のフェズと同じ、美しい三日月が夜空に静かに浮かび、世界を騙し続けたじじいと秀才たちの、終わらない言葉の航海は、続くのであった。
完
コーヒー前夜:バットゥータじじいが見た「謎の赤い実」
1. 一四世紀、イエメンの山奥での「ハッキング」
バットゥータは旅の途中、コーヒーの原産地であるエチオピアの対岸、アラビア半島の南端にあるイエメンを訪れています。
当時、イエメンの山奥(モカの港の周辺など)では、イスラーム神秘主義の修道僧(修道士)たちが、夜を徹してアッラー(神)に祈りを捧げるための「眠気覚まし(エナジードリンク)」として、野生のコーヒーの木の実(バン、ブン)をすり潰して水に溶かしたり、葉をお茶のように煮じて密かに飲んでいました。
2. じじいが目撃した「神秘のクスリ」
バットゥータはじじい特有のなめらかな嗅覚で、イエメンの修道僧たちが夜な夜な怪しげな「茶色の苦い液体」を啜りながら、眠ることもなく目をギラギラと輝かせて狂乱の祈り(ズィクル)を捧げている異様な光景を目撃したとされています。
当時、お酒と同様に、脳内システムを強制的に覚醒させるその液体は、一般社会からは「悪魔の飲み物」か「怪しげな秘薬」として、カディ(裁判官)であるじじいの『正義のバリア』に引っかかる、無法地帯のハッキングアイテムだったのです。
3. バットゥータの死後、一五世紀にコーヒーが「強制起動」した
じじいがモロッコでジュザイイと共に羊皮紙を完成させた一三五六年の、約百年後──。
一五世紀になると、イエメンの学者たちの手によって、ついに「コーヒー豆を火で焙煎して飲む」という現代のブラックコーヒーのシステムが正式に確立されます。
これがカイロやダマスクス、そしてオスマン帝国の首都イスタンブールへと爆発的な物流量で広がり、のちにヨーロッパ中をハッキングして、現代の「カフェ(コーヒーハウス)の文化」を誕生させる、歴史の巨大な火薬(原動力)となった。
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世界観に併せての『大旅行記』
フェズの宮廷の深夜。バットゥータじじいは、空になったナビーズ(酒)の杯を見つめ、不敵に笑いながら懐から「黒く焦げた、香ばしい一粒の豆」を取り出す。
「ジュザイイ。俺はイエメンの山奥で、夜通し眠らずに神と踊る、狂った修道僧どもを見た。彼らが啜っていたのは、真っ黒に焙煎された、悪魔の泥水だ。あれを一口飲めば、脳のシステムが千倍に跳ね上がり、三日三晩眠らずに文字を書き続けられるという」
ジュザイイは、その黒い豆を葦のペンの先で突っつき、呆れたように吐き捨てる。
「おじいさん……。またそうやって、他人の知らない異国の秘薬の話を『盛る』。酒の次は、その黒い泥水ですか。そんな不浄の豆、我がモロッコのスルタン様が口にされるはずがないでしょう」
「ガハハ! ならばお前が飲め、ジュザイイ。お前のその、今にも過労でシャットダウンしそうな若い脳を、その悪魔の豆の力でハッキング(覚醒)させてやるわ!」
ジュザイイが苦笑しながら、その黒い豆をすり潰し、小さな土鍋の湯に投じる──。部屋に満ちていくのは、五百年後の世界を完璧にジャックすることになる、あの圧倒的なコーヒーの、豊潤で深いアロマ(残影)であった。




