暗黙のエスコリオス
ゴンドラに乗ると、彼女は先ほどと同じ体勢で、蹲りながら、倒れていた。
彼女の首にはロープで締められた痕が残っていた。
「お前、そんな痕 前からあったか?」
「それは、貴方だって同じではないですか。
そろそろ気づいたらどうです」
呆れているのか絶望しているのか。
どちらとも取れるような言葉と発音が俺の体を縛り上げる感覚に陥れる。
恐る恐る自分の首を触ると、どこかロープ一本分の凹んだ痕が残っていた。
「俺は死んでるのか……」
「死んでなんかないですよ。
もしここが死後の世界なら、貴方は自分の疑問に対して向き合わなくなって済むのですから」
「確かにそうだが……」
先ほどと比べ、随分と口調が強い。
「本を沢山読めばその分の人生を歩めるってよく聞きませんか?」
「あぁ……俺の読んだ書籍にも、そんな事が書かれていた気がする」
「この言説って不思議だと思いませんか」
「一体どこがなんだ」
「例えばこの世界が、その事柄を体現した世界だと仮定して、私達は夢を見ているにすぎないのか。
それとも、ただ私たちの態度と脳が優れているのか。
どちらなのでしょうか」
「俺は後者だと思うが……」
「読書は、誰かの人生を体験することではない。
そんなことを言う人間は、他人の不幸を安全な椅子の上で撫でて、自分の感受性が深くなったと勘違いしているだけだよ。
戦争小説を読んでも、貴方の腹は裂けない。
貧困文学を読んでも、貴方の胃は空にならない。
死にかけた人間の手記を読んでも、君の心臓は律儀に動き続けている。
恋愛小説を読んでも、君は本当に捨てられたわけではない。
人生が言葉に圧縮される時に取りこぼした、痛みの輪郭だけだ。
それを読んで、少し賢くなった気がしている。
なんて清潔な略奪だろう。
読書とは、他者の人生を生きることではない。
他者の人生が自分には絶対に生きられないという事実を、言語の死骸越しに確認すること。
ただ、その死骸にはまだ熱が残っている。
だから読者は勘違いする。
君はただ、火傷しない距離から、誰かの燃え残りを眺めていただけだというのに。
本を読めばその数だけ人生を体験できる、なんて言葉は傲慢だ。
本を読めばその数だけ、他者の人生を体験できないことを体験する。
本を読めばその数だけ、自分が一つの身体に閉じ込められていることを思い知らされる。
本を読めばその数だけ、理解という言葉がどれほど下品な所有欲だったかを知る。
読書は、到達不能性の確認でしかない。
他者の痛みを自分の教養に変換してしまう人間への、静かな告発」
「だから、俺達はゴンドラの中でしか、この世界を体験出来ないのか」
「そう読み取る事も出来ますね。
この世界に月が見えるのに夜がないのも同じ理由でしょうね」
「じゃあ、さっきの世界も詩も魚達も、このゴンドラに吊るされた死体と同じだって事か。
ただの演出でしか無いのか」
「貴方がそう見るのなら、それも正しくなってしまうだけの話ですよ」
俺の頭の中に入る知識は全て俺という言葉の輪郭を型取り、演出へと変わっていく。
この観覧車は俺になり損なった、場所なんだろう。
そして、ここに吊るされる死体。
それは、俺を認めなかった人間なのなら。
証明なんてできない。
絶対に認められはしない。
俺自身だって説明できない。
理由もなく、疑いもなく、ただ最初から知っていたみたいに。
ここに吊るされた人間。
それは、全て俺が殺したのだと。
だが、殺した記憶だけが綺麗に抜け落ちている。
すると彼女は、少しばかり体を起こし、話しかけてきた。
「なにか後悔してるんですか?」
「この観覧車の首を吊った人間……全て俺が殺したんだなって」
「あら、そうだったんですか」
「随分と軽いな」
「顔に貼られた詩は、全て貴方の本からの引用ばかりですよ。
その引用を、どんな目的があって、殺してまで送ったのか。
その方が気になってしまいます」
「そんな事を考えたって答えなんて見つからないだろ」
「だからこそ素晴らしいのではないですか」
彼女の顔には少しばかり笑顔が戻ってきていた
「貴方は自分の書いた本を燃やした事がありますか」
「その燃やすという行為に何か意味があるのならやるが、そんな事をしても変わらないだろ」
「確かにそうですね。
けれど、その行為にも無数の意味を与えられると思いませんかね」
「それも確かにそうだな」
「なぜ燃やしたのか、なぜ自分の本だったのか。
過去の自分を否定したかったのか、駄作だったから燃やしたのか。
など、考えたらキリがありません」
「それがこの場所にあるかと言いたいのか」
「火は何も語らない。
ただ黙って食べるだけだ。
木でも、手紙でも、記憶でも、祈りでも。
意味があるのは炎ではない。
けれど人間は奇妙だから、燃えていくものだけでは満足できない。
炎の揺れにまで、自分の心の形を見つけてしまう。
だから本当は、燃やされたものだけでなく、燃やしている人間の方にも意味は宿っているのかもしれない」
「それで、何が言いたいんだ」
「私は一度だけあるのです」
けれど、私はもう消えてしまった火の、白い灰の温度を忘れてしまったのです」
「それを読み取れって言うのか」
「出来るものならやってみてください。
貴方なら私を文明へ帰す事が出来るでしょう。
それが、貴方が望む事なのですから」
俺は読む事を躊躇した
どうしてか、彼女の言った「変わるしかない」という言説に俺は最初から懐疑的だったのかもしれない。
ただ、赤黒い光を薄く引き伸ばし、その光に神秘的に包まれる彼女とゴンドラの軋む音に乗せられていただけなのだろうか。
そして俺は先ほどついた手の傷を見る。
手のひらの痛みが綺麗な縁を描き、身体中を一周しながら同じ場所に痛みを戻していく。
そして思わず口にしてしまった。
「なぁ……」
「なんですか」
「俺の本は、自分の人生を疑えていたのだろうか」
「貴方はどう思うのですか」
「『人生を観察し、考え、語る者だけが、自らの人生を生きる。』
という言葉を聞いて腑に落ちた。
だから俺は自分の苦悩を書き綴った。
けれど、どうしてか俺は自分の人生を疑えなかったんだ」
「多分、それは世界も同じです。
誰しもが気付かないうちに生かされているにすぎない。
誰しもが、文明の中で神を見出す。
そこから脱却したと思い込んだものも、例外なく同じ。
火を消した人間が、今度は光そのものを信仰し始めるみたいに。
神なんて消えたりしないんですよ。
空から追い出された神は、今度は数字になったり、言葉になったり、愛になったりするだけです。
理屈で世界をほどいた人ほど、最後にはほどけた糸で、また世界を縫い直そうとするんですから」
「それはこの場所に居ても同じなのか」
「倫理が支配する魂においては、神は寄生虫のような存在になってしまう。
善くあるために神を必要とする人間は、神を抱いているようでいて、未来の自分を抱いているだけです。
真の信仰とは、神が正しさを保証するものではなく、自分自身を失う危険すら引き受けたくなるものになった瞬間に始まるのだから。
だから貴方の探す帰り道は、むしろ道そのものを見失わせる夜にしか見つけられないのではないでしょうか」
「じゃあ、どうすれば夜を見られるんだ。
この世界に夜は来ないんだろ」
「えぇ、絶対に来ないですよ」
「もう、二度と帰れないという事なのか」
「そもそも貴方は、ここにどうやって来たのですか」
「俺は目が覚めたら、ここに居たんだ」
「その前に、貴方は人を殺して、ここに吊るしてるではないですか」
「そうだったな」
「その時は、どうやってここまで来たのですか」
「分からない……全く思い出せないんだ」
「はぁ……」
彼女は小さく息を吐いた。
ため息というより、何かを諦めた時に身体から勝手に漏れる空気みたいだった。
彼女は窓の外を見たまま、こちらを見ようとしなかった。
「じゃあ全て教えてあげますよ。
そうすれば貴方は元の世界へ戻れるはずです。
そしてまた、自分の嫌いな死を宣告されて、毎日それに怯えるだけの日々を送るんです。
自分が感銘を受けた言葉で何をしたかったんですか。
本を書けば、苦しみから抜け出せる道具になるとでも思ったんですか。
目的もなく読書をして、それを並べて、自分を弁証するみたいに語って、それが価値になると思ったんですか。
それで貴方が正されると思ったんですか。
私がこの場所を変えてくれると期待してますけど、自分で変えようとは思わなかったんですか。
なぜ、期待もできない他者に期待してるんですか。
なぜ、いつまでも知の暴力でしか人を殴れないんですか」
彼女の声は大きくなかった。
怒鳴ってもいなかった。
なのに、一言ずつ喉の奥に沈んでいく感覚がした。
まるで誰かが身体の中へ冷たい針を何本も押し込んでくるみたいに。
気づけば立ち上がっていた。
自分がいつ立ったのか分からない。
視界が妙に狭くなっていた。
彼女の顔しか見えない。
いや、違う。
あの口だけだ。
言葉だけだ。
言葉だけが、耳の奥で何度も何度も増殖していた。
知の暴力。
知の暴力。
知の暴力。
次の瞬間、自分の手は彼女の首を掴んでいた。
細い。
異常なほど細い。
少し力を入れれば折れてしまいそうだった。
後ろの壁へ叩きつける。
鈍い音がした。
観覧車が大きく揺れる。
窓の外の景色が歪む。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
頭の中では誰かが言っている。
なのに指だけが止まらなかった。
彼女の身体が少し浮いた。
足先が床から離れている。
それでも彼女は暴れなかった。
抵抗しなかった。
苦しそうな顔もしなかった。
ただ、じっとこちらを見ていた。
その目だけが気持ち悪かった。
そうやって他の人も殺したんですか。
彼女は掠れもしない声で言った。
「それで何も思わないんでしょ。
無駄に知識を持った人間の末路なんて、所詮こんなものですよ。
何か自分で考えて言い返してみたらどうですか」
その瞬間だった。
手のひらが焼けるように痛んだ。
皮膚の下に釘を打ち込まれているみたいだった。
思わず手を離した。
数歩後ろへ下がる。
呼吸が乱れる。
恐る恐る彼女を見る。
彼女はそこに立っていた。
首に跡すらない。
咳ひとつしていない。
髪も乱れていない。
ただ立っていた。
まるで最初から何も起きていないみたいに。
俺は急に足の感覚がなくなった。
膝が床に落ちる。
そのまま崩れた。
鉄の床が冷たい。
吐き気がした。
怖かった。
彼女じゃない。
自分が。
自分が何より気持ち悪かった。
彼女は近づいてきた。
靴音が一歩ずつ響く。
逃げたかった。
なのに身体が動かない。
そして目の前でしゃがみ込み、静かに言った。
「もういいんです。
貴方はずっと、誰かに説明してもらいたかっただけなんですから」
俺は俯いたまま、小さく言った。
「もういい……
全部教えてくれ」
その瞬間、観覧車の外に吊るされていた死体が、一斉にこちらを向いた気がした。
「本当にいいのですか」
「くどいぞ。
早くしてくれ」
「では、お教えしましょう」
そう言うと、彼女は俺の本を静かに開いた。
ページを読むためではないらしかった。
視線は文字の上に落ちていたが、何かを確認しているようには見えなかった。
むしろ既に知っている内容を、どの順番で壊すか考えているようだった。
しばらくして彼女は顔を上げた。
「この世界を現実ではないと言いましたが、ここは現実には干渉する現実ではない場所なんです」
「どういう事だ?」
「ここは比喩を通して、物質と精神を調和させる世界です」
少女は少し考えた後、静かに続けた。
「ただし、その説明を始めるなら最初に訂正しなければならない事があります。
現実では精神という言葉が、あまりにも独立した何かとして扱われ過ぎています」
「違うのか」
「ええ。少なくとも現在の脳科学では、精神は脳の内部に存在する実体としては扱われません。
感情、自己、記憶、欲望、意志、そのようなものは固定された場所を持っていません。
むしろ脳は、入力された情報を継続的に予測し続ける巨大な誤差修正装置として理解されつつあります。
人間は外界を直接見ているわけではありません。
脳は感覚入力を受け取ってから世界を構成しているのではないんです。
先に世界を仮定しています。
そして、その仮定と入力との差分だけを修正しています。
予測誤差最小化と呼ばれるものです。
つまり人間は現実を認識しているのではなく、常に現実を先回りしている。
その結果として見えているものが世界です」
「なら俺が見てる世界も予測なのか」
「完全には違いますが完全には正しいです」
少女は僅かに視線を落とした。
「現実は存在しています。
ですが人間が経験している世界は、現実そのものではなく、脳が維持している仮説空間です。
そして精神という現象は、その仮説空間内部で発生している自己整合性の副産物に近い」
「副産物?」
「例えば身体の痛みがあります。
物質として見れば神経伝達です。
ですが、その神経活動をいくら並べても苦痛そのものは現れません。
逆に苦痛についてどれだけ語っても神経活動は現れません。
つまり物質と精神は互いに還元できない。
しかし両方とも存在しています。
現実はこの矛盾を放置しています」
少女はそこで少し黙った。
「ただ、この世界は違います。
その放置が許されません。
物質と精神の間にある翻訳不能性を維持したまま、両者を同時に存在させ続けなければならない。
だから比喩が中心になるんです」
「比喩ってそんなものなのか」
「現実では修辞法として扱われていますが、こちらでは認知機構として扱われます。
人間の脳は本来、全く異なる領域同士を強制的に接続する傾向があります。
視覚野、運動野、身体感覚、記憶系、情動系、それぞれは独立した処理をしています。
しかし人間はそれを別々の現象として経験しません。
統合して経験します。
これを結合問題と呼びます。
ですが現在でも、その統合がどのように発生しているか完全には説明されていません。
なぜ色と形と痛みと記憶が、一つの私として現れるのか分かっていません。
脳は統合しているというより、統合されているような錯覚を維持している可能性すらあります。
比喩は、この不完全な統合を利用します。
通常の言語は対象を定義します。
定義とは境界を固定することです。
しかし比喩は固定しません。
比喩は異なる予測モデル同士を重ねます。
身体感覚の予測と記憶の予測。
感情モデルと空間モデル。
物質的処理と意味的処理。
その瞬間、脳内部では通常なら接続しない階層同士が一時的に同期します。
こちら側では、その同期現象を世界の基礎原理にしています。
つまり精神と物質が一致しているのではありません。
一致した瞬間、完全に翻訳できない差異同士が、互いを侵食しながらも完全には回収されない状態になる。
現実では、人間は説明を理解だと思っています。
ですがこちらでは、説明とは予測誤差を減少させる操作に過ぎません。
説明は安定を与えます。
その代わり、未確定性を削ります。
詩は予測誤差を消さない。
脳が回収しきれない余剰を残し続ける。
こちらでは、それを意味と呼んでいます。
意味とは内容ではありません。
異なる体系が、互いを理解できないまま隣接している状態そのものなんです。
だから、知性に判断を控えるよう求めることは、知性の理解能力を損なうことになる。
理解は価値判断においてこそ頂点に達するのだから」
人間は世界を理解するのではなく、自分が耐えられる形へ世界を並び替えているだけなのかもしれない。
どれほど客観や論理を掲げたところで、最後には好悪や恐怖や憧憬のような、言葉になる前の何かへ回収されていく。
理解とは到達点ではなく、むしろ自分自身の限界が現れる場所なのだろう。
言葉とは、書き手が読者の魂に投げ込む小石のようなものなのかもしれない。それらが引き起こす同心円状の波の大きさは、池の大きさによって決まるのだろう。
昔の私は、その池を広げることだけが読書だと思っていた。
多くを知れば、多くを読めば、多くの言葉を内部へ蓄積すれば、人間はより遠くまで見えるようになるのだと思っていた。知らないことを知ること、理解できないものへ名前を与えること、世界を細かく分割して、その構造を少しずつ頭の中へ並べていくこと。それが豊かになることなのだと思っていた。
けれど、今思えば私は逆のことをしていたのかもしれない。
私は世界を見ていたのではなかった。
世界を見る前に、世界について書かれたものを見ていただけだった。
何かに触れる前から、それについて語られた言葉が既に内部に存在していた。だから私は理解した気になっていた。
いや、理解したかったのだろう。
理解とは優しい。
理解は対象を安定させる。
それは曖昧なものへ輪郭を与える。説明できないものを、説明可能なものへ変換する。漂っているものに重力を与え、落ち着く場所を作ってくれる。
だから私は読み続けた。
きっと本が好きだったのではない。
傷が好きだったわけでもない。
私は安心したかっただけなのだ。
ページをめくれば、どこかの誰かが先に言葉を見つけてくれている。私が理解できなかったものを整理し、苦痛へ形を与え、不安へ理由を与え、出口のない感覚に名前を与えてくれている。
私はそれを知識だと思っていた。
だが違った。
それは居場所を作っただけに過ぎなかった。
思えば、俺が好きだった本の多くは俺を壊さなかった。
ただ内部へ静かに積み重なっていっただけだった。
本当に恐ろしい本は別の場所にあった。
読み終わった後に感想が出てこないもの。
読んでいる最中に、自分の考えなのか、書かれている言葉なのか分からなくなるもの。
嫌悪しているのに閉じられないもの。
否定したいのに、どこかで理解してしまうもの。
ページを閉じた後、数日経っても何かが終わらないもの。
今なら少しだけ分かる。
読書とは、自分以外の人生を受け取ることではなかったのだ。
むしろ、自分が自分だと思っていたものに亀裂を入れることだった。
私はずっと、本を読んで世界を広げているつもりでいた。
だが実際には、閉じた部屋の中で壁紙を張り替えていただけだったのかもしれない。
本当に変わる時、人間は豊かになどならない。
何かを得る前に、先に何かを失う。
昔の自分は、本とは答えを増やすものだと思っていた。
今は違う。
本とは、自分が答えだと思っていたものを、静かに腐らせていくものなのだと思う。
ただ、まだ一つだけ拭えない疑問が、優しさが胸を締め付ける。
「なぁ、なんで、また俺に言葉を選んで話してくれるんだよ」
「どうしてでしょうね」
「さっき、お前の首を絞めて殺そうとしたんだぞ」
「それは、そういうふうに私が仕向けただけですから。
理想を持つ人間は皆、潜在的な殺人者なんですから。
人は言葉を教わる前に、他人の沈黙の仕方を覚える。
そして大人になった頃には、自分で選んだと思っていた仕草の中に、知らない誰かの過去が住んでいるものですよ」
「それでも、鯨に飲まれる想像は怖くても、俺に首を絞められるのが怖くないのは何が違うんだよ」
「それは、この世界だからですよ」
俺は彼女の言葉を理解するために考えたが、今の俺には理解できなかった。
彼女は説明をしたが、帰り道が見えなかった。
それは俺が、心の何処かで望んでいないからだろうか。
それとも別の意味があるのかはまだ分からない。
そもそも俺の本は孤独の苦悩。
死に対する恐怖。
仕事での苦痛を綴ったものだ。
ただ、それ自体に、他者を巻き込むのは、孤独という価値を無くす事なのだろう。
それを理解してもなお理解してほしいという感情は消えない。
ただ彼女は、「理解は価値判断においてこそ頂点に達する」と言った。
おそらくこれは、皮肉だろう。
ただ、彼女が意味もなくそのような皮肉を俺に向けるとは思えなかった。
観覧車から眺める宇宙樹は、遠くから眺めるだけでは、風景の変わらない一枚の絵のように見えた。
いつしか見つめるのも退屈になり反対側を見ると、荒野には荒廃した文明の跡が残っていた。
錆びた鉄骨は骨みたいに地面へ突き刺さっていて、崩れた建物の隙間から砂だけが静かに流れていた。
文明とは、個人または社会の無定形な拡大に対して課せられる、内外の抑圧の総体である。
つまり、広がり続けるものを止めるために、人間が人間に課した境界線のことだ。
ここから先へ行くな。
ここから先は危険だ。
文明とはたぶん、そういう巨大な柵なのだろう。
けれど文化は少し違う。
平凡な文章の中にも、まるで剣が柄まで突き刺さったかのように、私たちの心に深く突き刺さるフレーズに、私たちはすぐにつまずいてしまう。
文化とはたぶん、その傷跡なのだ。
人間が進めなかった場所へ向かって、せめて言葉だけを投げた痕跡。
だから私は時々思う。
読めてしまう言葉は、どの時代においても、文化にとって最大の敵として存在してしまう。
それは悪意によってではない。
人間の時間は有限なのに、世界は優しい言葉や賢そうな言葉や、誰かが既に言った言葉で溢れている。
すると人は、つまずかなくなる。
傷つかなくなる。
文化は失われる。
荒野に残った文明の骨も、最初から誰かを殺そうとして生まれたわけではない。
ただ守ろうとしただけだ。
けれど、守り続けた果てに、人は空を見ることを忘れることがある。
だから木は不思議だと思う。
風が来るたびに枝を折られ、冬が来るたびに葉を失い、それでも自分の周りに鉄の壁を作ろうとはしない。
傷口から入り込んだ冷たさや、鳥が運んできた見知らぬ種や、名前も知らない季節を、そのまま身体の奥へ通してしまう。
たぶん強いものとは、何も侵入させないものではない。
崩れる危険を知りながら、それでも世界のために扉を開いているものだ。
花崗岩が硬いのは、何も拒絶しなかった長い時間が、その沈黙を固めたからなのかもしれない。
そしてたぶん、荒野が本当に荒野になるのは、嵐が来た時ではない。
空が晴れた時だ。
遠くの黒い雲が消え、誰もが危険は去ったと思い始める。
砂の下で根は静かに腐っているのに、人は地面がまだ生きていると信じてしまう。
空から神が消えたことではない。
足元に潜り続けている影まで消えたと思い込むことだ。
怪物は扉を叩きながら来るわけじゃない。
むしろ、自分がもう怪物を必要としなくなったと安心した夜ほど、何も言わず隣に座っている。
すると、今まで感じていた死体の視線が、何処かへと消えていた。
彼女は、何処か驚きながらも、何処か安らかな笑顔になっていた。
不思議だった。
笑っているはずなのに、何故か泣きそうな顔にも見えた。
観覧車は静かに軋みながら、夜の空へと昇っていく。
その時だった。
ここは閉じられたゴンドラの中で風が吹いた。
けれど確かに、何かが頬を撫でていった。
それは冷たさではなく、もっと古いものだった。
忘れていた匂いみたいなものだった。
「お前には、なんでも分かるんだな」
「そうですね……
ここから、貴方は何処へ行けばいいか分かりますか」
「いいや、まだ分からない。
もう少し、考えてみるよ」
「そうですか。
では、私はそろそろ行きますね。
貴方はもう時代の代弁者ではなく、時間に囚われた天使なのですから」
「あぁ……ありがとうな」
「こちらこそです。
貴方と出会って、産まれてきて良かったって思えたので」
外から静かな風が入り込み、彼女の髪だけが微かに揺れた。
「私はこの場所が好きです。
この世界において何一つとして尊敬に値するものがない時、私たちは孤独の中で、新たな静かな忠誠心を自ら築き上げる。
それが貴方にとっては、この場所だったんだと私は思います。
人間は与えられた道を歩むのが下手なんです。
みんな、自分に与えられた役目をちゃんと知っているんです。
でも人間だけは違う。
歩くための足で立ち止まってしまうし、傷を塞ぐための記憶で、自分を何年も傷付け続ける。
終わるためにある命に、永遠なんて名前を書いてしまう。
お腹を満たすだけなら、こんなにも苦しむ必要はないはずなのに、人はパンを焼く時に星の形を探してしまう。
何処にも続いていない道なのに、誰かと一緒なら意味があると信じてしまう。
自然はとても正しくて残酷なんです。
けれど人間は、その正しさを何度も裏切ってしまった。
だから私は思うんです。
きっと、人間は世界を騙すことだけが上手だったんです。
そして世界は、その綺麗な嘘に負け続けているんです」
彼女は宇宙樹を見ながら、少し考えるように沈黙した。
一般に、対立は統合へ向かうと考えられている。
つまりテーゼが自己内部の矛盾によってアンチテーゼを生み、その否定運動が、より高次のシンテーゼによって回収されるという構造。
ここでは矛盾は破壊ではなく、生産的原理として扱われる。
否定は停止ではなく前進になり、断裂は連続性の内部へ編入される。
しかし問題は、その構造が暗黙のうちに世界全体へ目的論を侵入させている点にある。
矛盾は偶発的現象ではなくなる。
むしろ、既に予定された完成への媒介項になる。
世界は失敗しなくなる。
何故なら、あらゆる崩壊が次の段階への契機として再解釈されてしまうから。
ただ、生物の歴史を見る限り、現実はそこまで親切な構造を持っていない。
生物は数千年かけて世界を理解したのではない。
むしろ、世界の流動性を切断してきた。
現実それ自体は、本来、離散的対象の集合ではなく境界は曖昧で、変化は連続し、対象と対象の区別すら事後的な抽出に過ぎない。
しかし生命は、その流れを処理できない。
流動をそのまま受け取れば、生存に必要な予測可能性が失われるから。
そこで生命は反復を抽出する。
反復から規則性を取り出す。
規則性を因果へ変換する。
因果を安定した対象世界として固定する。
そう考えた瞬間だった。
ふと、手の甲に何かが触れた。
驚いて横を見ると、いつの間にか彼女が隣に座っていた。
何も言わない。
ただ、俺の手を静かに握っていた。
冷たいはずなのに、何故か妙に懐かしかった。
ただ繋がれた指先だけが、自分がまだ何処かに存在していることを教えていた。
そして彼女は、窓の外を見たまま呟いた。
「精神は奇妙です。
精神は外部世界だけではなく、自分自身の流動性にも耐えられない。
思考は連続していません。
欲望も記憶も感情も、自己同一性を保証していない。
それにもかかわらず精神は、自分自身の内部にも宇宙を建設する。
言葉によって。
因果によって。
自伝によって。
私はこういう人間である、という物語によって。
つまり精神とは、自己内部の流動に対する巨大な固定装置なんです」
彼女は静かに目を細めた。
「だから、おそらく最大の誤認は、世界に秩序が存在すると考えることじゃありません。
秩序そのものが、発見されたものだと思うことです。
本当は逆なんです。
私たちは崩壊し続けるものの上へ、繰り返し宇宙を投影している。
そして、その投影された影のことを現実と呼んでいるだけなのかもしれません」
観覧車はゆっくり回っていた。
右を見れば宇宙樹があり、左を見れば荒廃した世界があった。
最初は二つの世界が存在しているのだと思った。
でも本当は私が回っていただけにすぎなかった。
世界は最初から、一枚の景色しか持っていなかったのだ。
頂上に差し掛かると彼女は俺の手の甲に載せていた手を離す。
そして扉の方へ歩みを進めながら口ずさんだ。
「もう、ここからの世界は、貴方と貴方の本の対話ではない。
貴方は神を信じるのをやめ、貴方の書いた本は自分が神であることを信じるのをやめたのだから
神が死んだと言う者は多い。
けれど本当に死んだのなら、人間はどうしてあれほど必死に祈り続けるのだろう。
真の無神論とは、本来何も書かれていない白紙のようなものだ。だが多くの人間は、その白紙の上に見えないインクで文章を書いている。
神はいないと言いながら、理性に祈り、幸福に祈り、自由に祈り、自分自身にさえ祈っている。
ニーチェは神の死によって生まれた空白に、超人という慰めを与えた。
だが別の者たちは、人間そのものを神殿に変え、人間の中に神性を見出そうとした。
けれど、人間とはそんな高尚なものでもない。
人間は獣性を捨てて進化したわけじゃない。
本能を並べ替え、優先順位を付け、自分で自分に秩序を押し付けただけだ。
そしてその秩序を文明と呼び、自分を人間と呼んだ。
だから真実が相対的なのではない。
相対化されているのは、いつだって真実ではなく、それを覗き込んだ人間の方なんだから」
彼女はそう言いながら、ゆっくりとゴンドラの扉を開いた。
夜風が静かに流れ込み、彼女の灰色の髪を微かに揺らす。
その髪は、決して鮮やかな色ではなかった。
まるで何処か遠い空の灰を集めて作ったみたいに、淡く色褪せていた。
けれど、不思議なくらい綺麗だった。
何より、その横顔が息を呑むほど整っていた。
世界の終わりだけを見続けてきた人間みたいな、静かな顔立ちだった。
彼女はこちらへ振り返る。
「ねぇ、こっちにきて」
そう言って、小さく手を招いた。
その仕草はあまりにも自然で、俺は何も考えないまま彼女の方へ歩みを進めていた。
「ほら、見てください、この世界を!
ガラス越しに見える世界とは、少しばかり違って見えるでしょ」
先ほどとは違い、世界に存在する美しさは動いているかのように見えた。
荒野を吹き抜ける砂嵐は山を削り、谷を埋め、世界をどこまでも平らにしていた。
その平らな世界で誰も他者の頂を見上げることはなくなり、誰も届かぬ星に手を伸ばさなくなるような気がした。
かつて人々は、遠くの灯火を羨み、その光へ辿り着こうとして物語を生んだ。
届かないものがあったからこそ、想像力は翼を持つことができた。
すべてが均された荒野では、羨望も憧憬も行き場を失う。
争いのない静寂は平和ではなく、誰も旅に出なくなった世界の沈黙に近い。
地平線だけが無限に続くこの荒野で、想像力は鳥のように空へ飛び立つこともできず、乾いた風に喉を塞がれながら、誰にも気づかれないまま息を引き取っていく。
世界を読み終えた瞬間だった。
空間の継ぎ目に亀裂が走る。
糸の太陽の奥で幾何学的な光が反転し、輪郭がノイズのように崩れ始めた。
文明の影が液体めいて地平線から溢れ出してくる。
「なんだこれは!?」
「貴方は世界を読み終えてしまったのですね」
「どうしてだ。
どうして読んだだけで、世界はこんな有様になってしまったんだ」
「この世界は貴方にとって、読み終えられる程度のものだっただけだよ。
貴方が悪いわけでもない。
でも、この世界が悪いわけでも決してない。
その境界について語れるのは、本当の神様くらいでしょうし」
先程までの情景とは、一体何だったのだろう。
今ではもう思い出せない。
見ていたはずの景色が、音もなく崩れ落ちていく。
まるで夢の方が先に目を覚まし、現実だけが取り残されているようだった。
すると彼女は、一歩だけ前へ足を踏み出した。
ゴンドラの外へ。
「危ないぞ」
思わず叫ぶ。
だが、その声は届かなかった。
いや、聞こえなくなったわけじゃない。
俺の声も。
彼女の声も。
世界から言葉だけが抜け落ちていた。
彼女は何かを伝えようとしていた。
確かに口は動いている。
その表情も。
その仕草も。
けれど言葉だけが聞こえない。
まるで二つの冬に挟まれた夏の虫の声みたいに。
存在しているのに、どうしても届かない。
俺はただ立ち尽くしていた。
世界のどうしようもなさの前で。
何一つ救えない自分の無力さの前で。
気付けば涙が流れていた。
すると彼女は少し困ったように笑った。
そして手を伸ばし、
俺の涙を拭った。
まるで最初から、そうするつもりだったみたいに。
その笑顔を見た瞬間、
何故だか余計に泣きそうになった。
彼女は胸元から一枚の紙を取り出す。
そこには何かが書かれていた。
彼女はそれを俺の手に握らせる。
そして──
次の瞬間だった。
彼女は振り返ることもなく、ゴンドラの外へ駆け出した。
叫んだはずだった。
だが最後まで言葉にはならなかった。
黒く染まっていた世界が弾ける。
夕焼けが戻る。
空が戻る。
光が戻る。
観覧車が戻る。
まるで何事もなかったかのように。
気付けばゴンドラは頂上で止まっていた。
俺は慌てて身を乗り出した。
下を見る。
何処を見る。
何度見る。
だが彼女の姿はなかった。
最初から存在しなかったみたいに。
最初から誰もいなかったみたいに。
ただ、それでも。
何故だろう。
彼女が何処へ行ったのかだけは、
分かるような気がした。
ゴンドラの中を見回す。
俺が書いた本は消えていた。
残っているのは一枚の紙だけだった。
俺は震える指でそれを開く。
そこには、こう書かれていた。
タイトル【荒れた砂の上に残る痕跡を追い求めて】
『今になって思えば、あの旅に目的など無かったのだと思う。
右足を前に出せば自信が湧き、その右足を軸に左足を前に出せば、未来はきっと素晴らしいものになると思っていた。
いや、そう信じ込まされる場所を歩いていたに過ぎないのかもしれない。
それを世界は進歩と言ったらしい。
私のような存在から見れば、それは時間が人間に従属しているという幻想にしか見えなかったから。
未来を讃える者が居た。
私はその者の耳元で囁いた。
「なぜ自らを欺くのですか?貴方が信じる者は重要な問いに一つも答えていないと言うのに。
あらゆる形而上学的次元を否定し、自らを単なる信仰の対象とみなしていますが、そうした存在として抹殺されようとすると、悲鳴を上げるのをお忘れなのですか?」
そう言い放つと、その者は私に石を投げてきた。
額から血が流れると、その者は自らが勝者であるかのように遥か彼方に聳え立つ時計台を見上げながら、下水管から流れる汚染された概念や語彙を飲み続けていた。
私はただ、
私はただ、まだ存在しないものに鎖をつけられる、振り回される姿が可哀想だと思い、鎖を外そうとしただけなのに何故なのだろうか。
200年前なら、未来を信じることは全く愚かなことではなかった。しかし今日、私たちが昨日の輝かしい未来そのものなのだから、誰が今の予言を信じられるだろうか?
過去を讃える者が居た。
私はその者の耳元で囁いた。
「なぜ自らを欺くのですか? 貴方が信じる者は既に沈黙していると言うのに。
貴方は失われた時代に知恵を見出し、死者たちの足跡を神聖なものとして崇めていますが、その足跡が何処へ向かっていたのかを本当に知っているのですか。
あらゆる偶然を伝統と呼び、あらゆる生存を真理と呼び、自らの郷愁を永遠の秩序と取り違えているのをお忘れなのですか?」
そう言い放つと、その者は私に石を投げてきた。
額から血が流れると、その者は自らが勝者であるかのように遥か彼方に聳え立つ時計台を見上げながら、排水溝に沈殿した古い概念や語彙を啜り続けていた。
私はただ、既に存在しないものに鎖をつけられ、振り回される姿が可哀想だと思い、鎖を外そうとしただけなのに何故なのだろうか。
200年前なら、過去を信じることは全く愚かなことではなかった。
しかし今日、私たちが崇拝している過去そのものが、幾世代にも渡る忘却と脚色と願望によって作られた偶像に過ぎないのだから、誰が今さらその沈黙を真理として信じられるだろうか。
そもそも不思議ではないか。
未来を信じる者は、まだ存在しないものを崇拝する。
過去を信じる者は、もはや存在しないものを崇拝する。
片方は明日の亡霊に跪き、片方は昨日の亡霊に跪く。
そして両者とも、自らが現実主義者であると信じて疑わない。
遠く離れたものは、それだけで美しく見えるのだから。
未来を信じている者も、過去を信じている者も、結局は同じ時計を見上げているに過ぎなかった。
片方は針の進む先を愛し、片方は既に通り過ぎた数字を愛している。
しかし、どちらも時計そのものからは逃げられない。
その都市に流れる水はどれも流れているはずなのに、酷く汚れて見えた。
大衆が生きてるうちに、微かに落とし溜まっていった物を、自分たちの手でゴミへと変えていたのだから。
ただ、私はなにも言えなかった。
もう、石を投げられるのは嫌だから。
ただ、私は何も言葉を発さなくても石を投げられ、家を燃やされ、空気が毒を持ち、私を苦しめ続けた。
だから、私はその都市から逃げ出した。
人間の荒野で神の足跡を探し続け歩き続けた。
歴史の束縛から逃れるためだけに。
季節は何度も変わった。
靴底は擦り減り、持ち物も少しずつ失われていった。
それでも不思議と、旅そのものを失うことはなかった。
ただ、その都市だけは、私が何処へ行こうと必ず視界のどこかに存在していた。
そこでは、宇宙そのものが人間の営みに協力し、歴史は人間の成功のために流れ、世界は人間の完成のために存在し、時間は人間の自己実現のために刻まれているように見えた。
そして、それらすべてが手を取り合いながら、一つの黄金郷を築き上げていた。
私はその景色を前に、ただ打ちのめされるしかないと知っていた。
いや、私だけではない。
本当は誰だって打ちのめされるはずなのだ。
ただ、多くの人はそれを認めようとしないだけなのだろう。
私たちは山々の向こうから吹き付ける突風を呼吸しながら生きている。
従順で、死すべき肉体を抱え、やがて虚無へ向かって歩いていく存在に過ぎないというのに。
私は歩き続けた。
それは何かの理屈に導かれた旅ではなかった。
むしろ、人間と、人間を超えた何かとのあいだで続いている時間の冒険だった。
ただ、次第に私は分からなくなっていった。
いつまで逃げ続ければいいのだろう、と。
なぜなら、どれだけ遠くへ歩いても、あの都市から完全に距離を置くことなど私には出来なかったからだ。
そして、ある日。
私の足は歩くことをやめていた。
次第に体も動かなくなっていった。
体はもう、私の言うことを聞かなかった。
それでも不思議なことに、私は夜明けがもたらすであろうものを称賛することもなければ、夜の最後の影に怯えることもなくなっていた。
微かに滲む世界の中で、私たちの震える肉体の上を束の間の光が滑っていく。
その光と共に、宇宙の静かな動きが、私の魂の地平線へと昇ってくるのを感じていた。
私の精神は、本質だけが生き続ける場所へと、ゆっくり昇っていった。
そして私はようやく理解した。
そして私はようやく理解した。
辿り着くためではなく、見失わないためだけに歩き続ける旅があることを。
私はずっと、それを探していたのだ。
私は失われた過去を夢見る者ではない。
私は……
永遠の丘の上で、ただ聖なる影を探し続ける者なのだから』




