表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

深淵はアテムヴェンデ

ゴンドラの中へ入ると、そこには変わらず彼女が座っていた。


 窓の外は水そのものが世界になっていた。


 上下の感覚は曖昧で、観覧車は夜の底を回っている。

 水中のはずなのに、服も濡れていなければ、息苦しさもない。


 ただ時々、硝子の向こうを巨大な影が横切るたび、ここが人間の場所ではないことだけを思い出させられた。


「なんで周りが水なのに、息ができるんだよ」


 彼女は少し考えるふりをしたあと、小さく笑った。


「なんででしょうね?」


 また、はぐらかされた。


 けれど不思議と腹は立たなかった。

 この場所では、答えを拒絶されることさえ、どこか眠気に似ていた。


「強いて言えば……」


 彼女は窓に指先を触れた。


 その瞬間、硝子の向こうに淡い波紋が広がる。

 まるで世界そのものが薄い水膜で出来ているみたいだった。


「この水が、私たちだからという可能性はあります」


「また小難しいことを言うな」


「難しくないですよ。

 ただの夢の話です」


 彼女はくすりと笑う。


「イメージじゃなくて、夢なのか」


 その言葉と同時に、遠くで何か巨大なものが鳴いた。


 低く濁った音だった。

 まるで海の底で、沈んだ建物そのものが軋んでいるみたいな声だった。


「海は表面だけじゃありません。

 上から下まで、全部が深淵なんです。

 海を渡りたければ、沈めばいい。

 貴方の探している帰る道というのは、多分そこにあります」


 彼女はそう言って、自分の胸元に手を当てた。


 窓の外には、どこまでも暗い水が続いていた。

 底は見えない。


 だが不思議と、その闇には落下感ではなく、引力だけがあった。


 まるで、その底が自分の内側に続いているみたいに。


「それは、そのイメージに支配されろってことか?」


「どうでしょうね。

 けれど今、外を見れば、何処かに道が見えるかもしれません。

 夜から湧き上がる想像が、何者かを創造してしまうことも、人間には出来るのですから」


「じゃあ、お前から見て俺はどう映ってるんだ」


 彼女は少しだけ考え込んだ。


 それから、また曖昧に笑う。


「うーん……壁に描かれた人物像、ですかね」


「それは俺が宙吊りで、呼吸も話すことも、誰の声にも耳を傾けられないってことか?」


 彼女の目が、一瞬だけ丸くなった。


「……皮肉だと通じるんですね」


「なんだと?」


 思わず声を荒げる。


 すると彼女は肩を震わせながら笑った。


 その笑い声は、水の中へ溶けるみたいに柔らかかった。


 この世界では、会話が妙に軽くなる。


 言葉に付随する棘や重さを、何かが優しく包み込んでしまうのだ。


 怒りも。

 恐怖も。

 過去さえも。


 まるで、この海そのものが、人間の感情をゆっくり希釈しているみたいだった。


 だからこそ逆に、俺は少し怖かった。


「さっき言っていた、この水が私たちってどういうことなんだ?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 ただ静かに窓の外を見つめる。


 その視線の先で、暗い海の底から、無数の光がゆっくり浮かび上がっていた。


 まるで沈んだ星座が、海の中で呼吸しているみたいだった。


「時間は、私を構成する物質だからですよ」


「それで、本当に伝わると思ってるのか?」


 彼女は、窓の外に広がる海を見つめながら言った。


「時間は私を押し流す川です。でも、私はその川でもある。流されているものと、流しているものが、同じ名前で呼ばれているんです」


 黒い水面が、観覧車の硝子に反射していた。

 月は海の中にも浮かんでいて、空と水の境目がどこにもなかった。


「なら、その川が行き着いた場所──その海を、私は私だと言えるのでしょうか」


 彼女はまた、質問をしてきた。


「この海が、俺やお前だとでも言いたいのか」


「どうなんでしょうね?」


「またそれか」


「ふふ……」


 その笑い声は、さっきよりもずっと綺麗に響いた。


 いや、綺麗というより、もう音ではなかった。

 薄い硝子の向こうで、誰かが光を砕いたような、そんな響きだった。


 周囲があまりにも幻想的だからだろうか。

 それとも、俺の方が少しずつ壊れてきているのだろうか。


 錆びた観覧車は、いつの間にか海の上を回っていた。

 鉄骨の隙間から夜が流れ込み、ゴンドラの床には、波の反射がゆらゆらと這っている。


「ここは現実ではないんだろ」


「そうでしょうね」


「随分と簡単に認めるんだな」


「現実かどうかなんて、この場所ではあまり重要ではありませんから」


「じゃあ何が重要なんだよ」


「貴方が、何を現実として捨てられないかとかでいいんじゃないですか」


「随分と適当だな」


 俺は呆れながらも窓の外を見た。

 海は黒いのに、底の方だけが淡く光っている。

 まるで沈んだ星が、まだ死にきれずに呼吸しているみたいだった。


「なんだか、さっきより随分と幻想的だな」


「そうですね」


 彼女は少し嬉しそうに笑った。


「ほら、耳を澄ましてみてください」


「何に」


「魚たちです」


 彼女が指差した先で、青白い魚の群れが、海面の下をゆっくり横切っていった。

 その鱗は一枚一枚が小さな文字のように光り、尾びれが揺れるたび、海の中に読めない文章がほどけていく。


「魚たちが、詩を声に出して歌っているかのようですよ」


 俺は黙って耳を澄ませた。


 最初は波の音だと思った。

 次に風の音だと思った。

 けれど違った。


 それは確かに声だった。


 水の底から、無数の声が浮かび上がってくる。

 遠く、幼く、擦り切れていて、誰かが昔捨てた言葉だけが、死に損なって歌っているような声だった。


「きっと、素晴らしい詩を餌にしたからでしょうか」


 彼女は楽しそうに言った。


「それとも、この場所がそうさせるんですかね。ここでは、忘れられた言葉ほどよく泳ぐんです」


 一匹のリュウグウノツカイはこんな詩を歌っていた。

『小さな光を見た。

 それは虹色だった。

 けれど虹というにはあまりにも冷たく、まるで誰かの記憶だけを削って作られた鉱石のように静かに輝いていた。

 最初、それは回転しているのだと思った。

 だが違った。

 回っていたのは世界の方だった。

 その小さな光の周囲で、あらゆる景色が、時間が、記憶が、互いを押し潰しながら流れ込んでいた。

 海を見た。

 夜明けが生まれる瞬間と、夕暮れが死んでいく瞬間を同時に見た。

 無数の街を見た。

 誰にも知られず消えていく窓の灯りを見た。

 鏡を見た。

 数えきれないほどの鏡だった。

 だが、そのどれにも私は映っていなかった。

 私は雪を見た。

 燃える砂を見た。

 遠い国で誰かが流した涙を見た。

 忘れられなかった女の髪を見た。

 その身体の奥で静かに腐っていく病を見た。

 誰かが愛してしまったものを見た。

 そして、その愛が時間によって壊れていく音を見た。

 古い本を見た。

 閉じられているはずなのに、その文字たちは眠ることなく、暗闇の中で互いを食い潰しながら蠢いていた。

 私は戦争を見た。

 虫たちの列を見た。

 馬のたてがみを見た。

 海を渡る風を見た。

 それらはすべて別々のものではなかった。

 あらゆるものが、互いの傷口として存在していた。

 私は墓を見た。

 かつて愛した誰かの骨を見た。

 その骨が土へ還り、土が草になり、草をまた誰かが踏みつけていくのを見た。

 私は自分の血を見た。

 暗い身体の奥で、出口もなく循環し続ける孤独を見た。

 私は自分の顔を見た。

 そして、その顔の奥に、まだ誰にも言葉にされたことのない深い穴を見た。

 その瞬間、私は理解してしまった。

 世界とは、無数の幸福によって出来ているのではない。

 無数の失われなかった痛みが、互いを支え合って出来ているのだと。

 私は泣いた。

 あまりにも、すべてが存在してしまっていたから。

 私はそこで、無限の驚きと、無限の憐れみを知った』


 一匹のデメニギスはこんな詩を歌っていた。

『正直なところ、私は未だに、自分というものが本当に存在しているのかよくわからない。

 私の中には、あまりにも多くの声が残りすぎていた。

 昔読んだ小説の一文。

 通り雨の匂い。

 誰かが別れ際に見せた、あの曖昧な笑顔。

 愛した女たちの沈黙。

 知らない街で見上げた夕焼け。

 夜更けの駅で擦れ違った他人の疲れた目。

 それらが幾重にも沈殿し、いつしか私の輪郭になっていた。

 だから時々思うのだ。

 本当に私と呼ばれるものがあるのではなく、ただ、消えなかった記憶たちが互いを支え合っているだけなのではないかと。

 人はきっと、自分の人生を生きているわけではない。

 通り過ぎていった無数のものに、静かに生かされ続けている。

 そして書く者とは、その残骸の管理人なのだと思う。

 屈辱も、後悔も、惨めさも、忘れたはずの傷も、時間は決して完全には奪っていかない。

 それらは身体の奥で乾ききらず、黒い泥のように残り続ける。

 けれど、だからこそ、人は言葉を書く。

 幸福だけで出来た人間の言葉は軽すぎる。

 痛みを通り抜けていない言葉は、どこにも沈まない。

 だから私たちは、壊れながら記憶する。

 あの時、救われなかったことを。

 理解されなかったことを。

 誰にも届かなかった夜を。

 芸術とは、結局、それらが完全に腐り落ちる前に掬い上げようとする行為なのかもしれない。

 そして、ある夜ふと思う。

 もしかすると、私はまだ目覚めていないのではないかと。

 朝が来たと思っていた場所も、別の夢の底なのではないかと。

 夢の中で眠り、また別の夢の中で目を覚ます。

 その繰り返しの中で、人は自分を現実だと思い込みながら歩いている。

 遠い昔に見た景色を過去と呼び、まだ来ていない不安を未来と呼びながら。

 だが本当は、そのどちらも境界を持っていない。

 世界は、名前を与えられる前の曖昧な水のように、絶えず混ざり合っている。

 だから、人は最後まで辿り着けない。

 本当の朝を見る前に、たいていは途中で死んでしまう。

 それでも私たちは、目を閉じるたびに、また次の夢へ落ちていくのだ』


 一匹のハナヒゲウツボはこんな詩を歌っていた。

『音楽を聴いていると、ごく稀に、世界の方がこちらを見返してくる瞬間がある。

 夕暮れでもいい。

 知らない駅へ向かう電車の窓でもいい。

 雨上がりの匂いでも、古い神話の一節でもいい。

 それらは何かを説明してくれるわけではない。

 説明できないまま胸の奥に沈み込み、言葉になる直前の感情だけを残していく。

 人はそれを美しいと呼ぶ。

 けれど本当は、美しさとは完成されたものではないのだと思う。

 まだ届いていないもの。

 まだ名前を持たないもの。

 何かがこちらへ来ようとしている、その気配だけが、人を震わせる。

 だから夕暮れはあんなにも寂しい。

 終わるからではない。

 何かが始まりかけているのに、それが永遠に何なのかわからないまま消えていくからだ。

 私は時々、本棚を眺める。

 積み上がった本たちは、静かな墓標のようにも見える。

 この人生では到底読みきれない。

 その事実はずっと前から知っている。

 それでも、新しい本を見つけると手を伸ばしてしまう。

 古い言葉で書かれた詩集。

 遠い国の神話。

 誰にも読まれなくなった思想家の本。

 それらを開くたびに、自分の知らない時間がまだ世界に残っていることを知る。

 人は、理解したいから本を読むのではない。

 理解しきれないものが、この世界にはまだ残っていると確認するために読むのだ。

 だから私は安心する。

 世界が完全に説明されてしまったら、人間はきっと耐えられない。

 私は神を信じているわけではない。

 だが、存在しないとも言い切れない。

 この世界はあまりにも奇妙すぎる。

 偶然にしては、美しい夕暮れが多すぎる。

 無意味にしては、人の孤独は深すぎる。

 だから私は、決めつけないまま生きている。

 神がいるかもしれない。

 いないかもしれない。

 死後に何かがあるかもしれない。

 何もないのかもしれない。

 けれど、その「わからなさ」が残されている限り、世界は閉じない。

 閉じ切らない世界だけが、人を優しくできるのだと思う』


 一匹のガラスイカはこんな詩を歌っていた。

『霧の日だった。

 山は途中から消えていた。

 いや、消えていたのではない。

 最初から、全部を見せる気などなかったのだ。

 風が吹く。

 木々が揺れる。

 そのたび、葉の裏側だけが白くひるがえり、まるで森の奥で無数の魚が腹を見せているようだった。

 私は立ち止まる。

 それだけで十分だった。

 何かを理解したわけではない。

 救われたわけでもない。

 ただ、世界にはまだ人間の手が届いていない場所が残っている、と身体が思い出していた。

 夜になる。

 遠くで雷が鳴っていた。

 古い建物も、磨かれた黄金も、名前を与えられた歴史も、その音の前では妙に静かだった。

 稲妻が走る。

 一瞬だけ、海が白く浮かび上がる。

 その光景は、誰かに見せるためのものではなかった。

 だから、美しかった』


 一匹のハナガサクラゲはこんな詩を歌っていた。

『彼はまるで流れに身を任せる氷の塊になったような気分だった。

 頭を岸辺へ向けたまま、夜明け前の荒野を眺めている。

 霧は低く漂い、草は濡れ、遠くの木々は水に溶けた影のように揺れていた。

 星はもう一つも残っていない。

 けれど夜だけが、まだ消え去ろうとしなかった。

 空の奥には、黒い水のような静けさが沈んでいる。

 彼は息をする。

 白い息は形を持たず、そのまま薄れていく。

 どこかで鳥が鳴いた。

 それは朝を告げる声というより、世界が完全には壊れきっていないことを確かめるための、小さな傷のように聞こえた。

 流れはゆるやかだった。

 身体が少しずつ冷えていく。

 まるで自分という輪郭が、水の方へ剥がれ落ちていくみたいだった。

 岸辺には誰もいない。

 ただ、湿った風だけが、名もない草の上を撫でていく。

 彼は目を閉じる。

 すると暗闇の奥で、都市が崩れていく気配がした。

 石で出来た塔も、誰かが誇りとして掲げた旗も、愛された顔も、長い時間をかけて積み上げられた記憶も、静かな雪みたいに沈んでいく。

 それでも夜は残る。

 何もなかった頃の海のように。

 人がまだ言葉を持たなかった頃の暗さのように。

 彼は苦しそうに息をした。

 その呼吸だけが、まだ世界に繋がっていた』


 この幻想的で美しいもの達が歌う詩は、どれも美しく聞こえた。

 ただ、これらの詩は、どうしてかただ美しい宝石のような輝きを放つだけだった。


 俺は本当に海の中の声に耳を傾けていたのだろうか。


 そんな疑問が生まれたと同時に、彼女は話しかけてきた。


「貴方はどの詩が好き?」


「俺はどの詩も好きにはなれない」


「そうですか……

 この世界だと宝石の裏で輝く光は、太陽以外は偽物になるのでしょうかね」


 彼女に言葉は俺を見透かしているかのようにいつも聞こえる。


 先程まで白色に見えていた砂は、いつしか色を失っていた。


 海の底が突然暗くなり、夜そのものに影ができたみたいだった。


 するとそこに一匹の鯨がいた。


 そこに溜まっていた無数の魚を一飲みして、何処かへ行ってしまった。


「あの鯨が、先程の揺れの原因なんでしょうかね」


「いや、さっきまでそんな世界ではなかったはずだが」


「不思議な世界ですね。

 あの魚達だって、あんな詩は歌いたくなかったはずですよ」


 彼女は悲しい顔で無理矢理にでも笑顔を作ろうとする。

 ただ、周りが水の世界でも、彼女の目からは涙が流れているのだけはわかった。


「何が、そんなに悲しいんだ」


「私も、あの魚達と変わらないんだなって思うと。

 どうしてか、あの鯨に飲み込まれてしまう想像をしてしまいます」


「この中に居れば大丈夫だろ」


「私は、この世界が好きなんです。

 それでも、ずっとは居られない。

 だから……少しだけで良いから、夢を見させて欲しいんです。

 けれど、世界はそんな願いですら聞いてはくれはしない。

 私のこんな渇いた涙の痕ですら、知らないうちに削り取られてしまうんです」


 彼女は気付けば敬語に戻っていた。

 彼女の記憶が情景と結びつき、その思考に怯えているにすぎないのだろう。

 ただ、その思考は、避けられないもののように語る。

 それは必ずしも訪れる何かを見ない者たちから、笑顔で綺麗に正しく渡される。

 その何かを俺は知っている気がした。


「君は優しすぎるんじゃないか」


「自己犠牲で世界は変わらないなんてことは知ってます。

 けれど……それでも不確実性に挟まれた人間とは、時にこのような選択をする生き物なのです。

 あの苦しみをまた味わないためなら、別の苦痛を受け入れて、石に吠えるかのように、怒りを露わにして、誰にも読まれないように死んでいくのが一番だと思いながら」


「それがお前だと言いたいのか。

 なら、お前とあの魚達は何が同じなんだ。

 俺には、お前があんな有様には全く見えないぞ」


「それは貴方が私を特別に見ているから」


 すると、先ほどの鯨がゴンドラへ突進をしてきた。


 彼女は声も荒げず、胎児に戻るかのように蹲り酷く怯えていた。


「ここに居れば安全だ。

 きっと大丈夫だ」


 俺はそう言って彼女を安心させようとするが、俺の声は彼女に届いて居ないみたいだった


 すると彼女の声が、鼓膜から直接聞こえるかのようにハッキリと音として聞き取れた


「ねぇ……一生一緒にこの世界に居てよ」


 言葉の真意が分からず、俺はただ立ち尽くすことしか出来なかった


 どうしてか、もう二度と彼女とは話せない。

 そんな気がしてならなかった。


 すると彼女は、目の前から姿を消して居た


 世界は、最初の夕焼けに照らされる世界に戻って居た


 そして先ほどと同じように、ゴンドラの真ん中には首吊り死体が存在した。


 その顔には同じく詩が貼り付けられて居た。


 そこにはこう書いてある。


『貴方に渡した鍵から、沈黙した雪が降り始める。


 燃え尽きた灰が、白さを覚えて帰ってきたのだ。


 世界と呼ばれるものへ触れた者たちは、目から血を流し、耳から夜を見て、口から海を吐き出した。


 そして鍵は変わり言葉も変わる。


 昨日まで扉だったものに、私そのものが沈み込んでいく。


 昨日まで救いだったものは、夜の底で魚の鱗のように沈んでいく。


 それらは雪片になるかもしれない。


 拒絶する風のように、雪は静かにその言葉を包み込み、誰にも読めない白い文字へ変えていく。


 月は血を流していた。


 赤く濡れた光を海へ落としながら、深淵だけを照らしていた。


 海は眠っている。


 まだ思い出されていない夢として。


 私たちは窓辺に立ち、互いの身体の輪郭を抱き合った。


 通りの人々は見上げる。


 彼らが知る時が来たのだ。


 石が花を咲かせようとして、自らの硬さにひびを入れる時が。


 鼓動のなかった時間の内部で、不安だけが心臓を持ち始める時が。


 名前を持たなかった震えが、初めて時間になる時が。


 深淵が深淵を見つめることをやめ、自分の歩き方を忘れる瞬間。


 奇妙なものが、異質なものの仮面を脱ぎ捨てる瞬間。


 世界が一瞬だけ、自分自身を誤解する瞬間。


 そしてその裂け目から、疎外されていた私だけではなく、何か別のものまで解放されてしまう。


 あらゆる喪失の渦中で、ただ一つだけ近くにあったものがある。


 手の届く場所にあり、しかし決して所有できなかったもの。


 そのものは、恐ろしい沈黙を通り抜けなければならなかった。


 死を運ぶ言葉たちの群れを。

 無数の暗闇を。

 名前を奪われた名前たちを。

 言葉は何も答えなかった。

 何も説明しなかった。

 ただ通り抜けた。


 血の中を。

 雪の中を。

 深淵の中を。


 そして、その全てによって傷つきながら、再び浮かび上がってきた。


 瓶に詰めた詩を海に投げる。


 壊れやすい古びたヒビの入った瓶に。


 その方が遠くへ流れると思ったから。


 それが何処へ流れ着くのか、私は知らない。


 心の故郷など、最初から存在しなかったのかもしれない。


 けれど、それでも。


 いつか、誰かの暗闇が海になる夜に。


 誰かがその瓶を拾い上げ、耳を当ててくれると信じて』


 詩を読み終えた途端、窓ガラスが一斉に割れた。


 その破片は、まるで意思を持っているかのように、全て私へ向かって飛んできた。


 反射的に身体を丸め、自分を守ろうとする。


 だが、この世界は幻想だと思っていた自分には、どの破片も身体へ触れていないように見えた。


 鋭い音だけが辺りに散らばっていく。


 狂った雪のように舞う無数の破片の中で、私はゆっくりと立ち上がった。


 その時、遅れて痛みがやって来た。


 私は自分の手を見た。


 手から血が流れていた。


 赤い線は皮膚の上を静かに伝い、まるで誰かが丁寧に描いたみたいに、ただ一つの円だけを残していた。


 外の世界は灰色がかった荒野に糸の太陽が輝いていた。

 木々の上の思考が軽やかな音色を捉える。

 人類を超えた場所に、歌い継ぐべき歌が聞こえた。


 何処かで聞いた事のある言葉だった。


 俺は自分が、幻想的だと思った世界からは、なんの匂いもしなかった。

 けれど、この荒野からは、種子、精液、腐植土の匂いがする。

 それは、川や沼地、そして腐敗へと根を伸ばす宇宙樹のようだった。

 配置であり、技巧であり、根無し草のように破壊するそれは、荒野の果てにそれは存在した。


 今の俺ではそこへ歩む事は不可能なのだと言われた気がした。


 ただ、それでも上から眺めるくらいはどうか……


 その願いを聞き入れたかのように、次のゴンドラの扉がゆっくりと開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ