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神が与えしグラウンディング

ゴンドラに入った瞬間、止まっていた観覧車は、軋むような音を立てて再びゆっくりと回り始めた。


 窓硝子の向こうで、赤黒い錆が月明かりを鈍く反射している。


「戻ってきたのですね」


 不意に声が落ちてきた。


 それまで耳の奥に貼りついていた風の音も、鉄骨の震えも、どこか遠くへ退いていた。

 気づけば、空間には彼女の声だけが残されている。


 それは鼓膜から聞こえるというより、脳の柔らかい部分を直接撫でられているような感覚だった。


「なぁ、さっきの死体はお前なのか」


 少女は少しだけ首を傾げた。


「さっきの死体とはなんの事ですか?」


「顔に詩が張り付いてた首吊り死体だよ」


「あぁ……」


 彼女はそこで、小さく笑った。


「たぶん、演出じゃないですかね」


「演出?」


「そう。この観覧車って、貴方が乗らないと回れないんですよ。

 だから、あれはそのための飾りです」


 窓の外で、観覧車の骨組みが低く唸った。


 まるで巨大な生き物の呼吸みたいだった。


「そんなもののために人が死ぬのか」


「世の中なんて、そんなものじゃないかな」


 彼女は指先で曇った窓をなぞりながら言った。


「交換不可能なものですら、最後は何かに絡め取られる。

 そういう表現だったりしてね」


「随分と悪趣味な解釈だな」


「ははは」


 乾いた笑い声。


 だが、その声には妙に湿度があった。


 腐った花束を押し潰した時みたいな、生ぬるい匂いを連想させる声だった。


「でもね、どうしてか私はここが好きなんだ」


 少女は観覧車の回転に合わせるみたいに視線を揺らした。


「ここにいると、人がちゃんと壊れていく音が聞こえるから」


 鉄の軋みが、遠くで誰かの呻き声みたいに響いていた。


「さっき、お前が言ってた、この場所を変えるって話

 あれは誰から見た世界の話なんだ」


「それはおそらく、貴方と私ではないかな」


「それで、何かが変わると言うのか」


「貴方は変わった事を否定しているのに気づかないの?」


「何の話だ」


「言ってたじゃない。

 世界から少しだけ輝きが失われたって」


「……そんな事、言ったか?」


「どうだったかな?

 私もあんまり覚えてないや」


 彼女は笑う。


 彼女の言葉はどれも地面を持っていなかった。


 触れた瞬間に沈み込んでいく泥みたいに、輪郭を掴ませない。


 まるで、私が何かを求めて言葉を発すること自体を拒絶しているみたいだった。


 しばらくしてから、彼女は不意にこちらを見た。


「ねぇ、小説ってなんだか分かる?」


「またその聞き方か」


「嫌だった?」


「お前は最初から答えを知ってるだろ」


「それはお互い様だと思うけどな……」


「どういう意味だ」


「貴方の本に、こう書いてあるから」


 そう言うと彼女は、まるで熱にうなされた子供へ子守唄を聞かせるみたいに、ゆっくりと語り始めた。


「小説とは、物語を語るための形式ではない。

 それは、物語がもはや自然に成立しえなくなった世界において、なお言葉が連なってしまうという事実そのものの痕跡である。

 叙事も神話も、共同体の時間も、因果が倫理と一致していた世界もすでに失われたあとで、にもかかわらず文章が始まってしまう、その始まりの不純さを引き受ける装置。

 それが小説である。


 近代とは、意味が崩壊した時代ではない。意味が不要になった時代である。

 世界はもはや解釈されるべき対象ではなく、操作され、管理され、接続され、最適化される対象へと変質した。

 価値は物語から生まれるのではなく、流通と配置と速度によって測定される。

 因果は倫理ではなく効率に従い、主体は内面ではなく機能として把握される。

 資本主義とは、世界を語り直す体系ではなく、世界を語らせなくする体系である。


 この移行のなかで、小説は奇妙な位置に置かれた。

 小説は資本主義に反対する形式ではない。

 むしろ小説は、資本主義と同時に生まれ、同じ論理を内部に抱え込みながら、それに耐えきれず軋み続ける形式である。

 意味がコードとして組織される世界において、小説はコードを物語として誤作動させる。

 世界が公理によって動くとき、小説は公理のあいだに残された摩擦やノイズを、あたかも人生であるかのように並べてみせる。


 だから小説は完成を拒む。

 教訓を嫌い、調和を疑い、結末を信じない。そこにあるのは創造ではなく、創造的破壊である。

 古い物語を否定するために新しい神話を差し出すのではなく、物語が不要になったはずの世界で、なお語られてしまう断片を放置すること。

 意味の連鎖ではなく、機能と規則に還元された世界の内部で、なお意味のように見えるものが立ち上がってしまう、その事故の記録。


 このテクストもまた、その事故のひとつである。

 ここから始まるのは物語ではない。

 物語が不可能になった条件のなかで、それでも続いてしまう記述である。」


 読み終えたあとも、少女はしばらく俯いたままだった。


「……確かに、これは俺の文章だ」


 彼女は顔を上げる。


 だがその瞬間、一瞬だけ彼女の首が不自然に傾いて見えた。


「忘れていたんですか?」


「いや……違う。

 お前は、俺が何かを忘れている事を知ってる。

 だからその文章を読んだ。

 さっきから、お前の言葉には全部、何かしらの意図がある」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「そうなんですかね」


 その声はまるで耳元ではなく、頭蓋骨の内側から聞こえているみたいだった。


「ただ、私の言葉に意図があるとしても、それは私の意図しているものではないですよ。

 それは貴方の心が欲しているから、ただそう見えているだけかも知れませんし」


「それは俺はまだ過去の自分と同じ衝動を抱えていると言いたいのか」


「そう読み取ることも出来ますね」


 少女が言葉を止めると、世界から音が消える。

 ここが外側だと錯覚させるほどに。

 すると彼女は口を開いた。


「ただ、そう答えるには、いささか早すぎる気もします。

 貴方が何を目的として、私を読んでいるのか。

 何を目的として映し出された自己を見つけるか。

 何を目的としてこの世界に来たのかを。

 それ次第で、この世界に縛られる事もなくなると思うので」


「俺は......変わりたいのだろうか」


「漠然としたどうしようもなさに対し、貴方は痛みを覚悟あるものだけが拾えるもので共有したと信じた。

 私はそれを優しさだと言いたいのかもしれない。

 決して誰かが理想の声を返すことはなく、ただ世界は貴方に呪いを授ける。

 世界は変わらないと知りながら。


 そして、それは我々のような物からの言葉も同様に。


 貴方を滑稽だと言うでしょう。

 貴方を矛盾してると言うでしょう。

 貴方を無知だと言うでしょう。


 けれど、本とは元来、賢くなるための道具ではなかった。


 それは、まだ名前を与えられていない痛みを、他人の脳の奥底へ運ぶための、不器用な媒介に過ぎなかった。


 頁を捲るという行為は、知識を増やすことではなく、自分の内部で静かに完成していた世界を、わざわざ壊しにいくことに近い。


 人は皆、世界を理解したふりをして生きています。

 朝が来る理由も、愛する理由も、働く理由も、幸福の定義すらも。

 けれど本は、その整頓された棚に、異物のように紛れ込む。


 そしてある夜、読んだはずの文章が、何年も遅れて体内で腐敗を始める。


 昔は理解できなかった一文が、別の喪失や、別の孤独と結びつき、突然、自分の中で血を持ち始める。

 その瞬間、人はもう以前と同じ場所には戻れない。


 だから、本の価値は値段でも、どれだけ知識を与えたかでもない。


 その本が、どれだけ長く人間の内部で未解決のまま残り続けるか。

 どれだけ静かに、その人の世界の輪郭を歪ませ続けるか。


 きっと世界は、そういうものを嫌う。

 役に立たず、数値化できず、効率も悪く、人を迷わせるから。


 だから誰かは笑うのです。


 けれど、それでも尚、誰かの言葉を拾ってしまった人間だけがいる。


 意味になりきれなかった呻きや、説明不能な痛みや、救済になり損ねた断片を、自分の内部でずっと抱え続けてしまう人間だけがいる。


 そのような誰かの物語を見た時、数年後の自分は今とは違う誰かになっているかもしれない。

 あくまで可能性だけど。


 ただ、人間というものは案外、その可能性に壊されながら生きているのかもしれないね」


 彼女の言葉はどこか儚げで、この場から去れば一人で抱え込むのを覚悟させる物だった。


 そして自分の本の内容によって、自分の本が切り裂かれるの目の当たりにした。


 俺は、自分の傷から逃げるためではなく、せめて同じ形に見えないように書いていたはずだった。

 誰かが既に名前を与えた悲しみの列へ、自分の痛みまで整列させたくなくて、言葉になりきれない場所だけを拾い集めるようにして書いていたのに、気づけばそれらは、どこかで見た孤独として読まれ、どこかで聞いた絶望として分類され、俺の知らない誰かの記憶の棚へ静かに片付けられていく。

 まるで最初から、苦しみには入るべき形式が決まっていたみたいに。


 きっと人間は、自分では経験できないものを、そのままの形では受け取れない。

 だから遠い痛みを、自分の知っている輪郭へと削り直す。

 知らないはずの地獄に、見慣れた照明を当てる。

 そうしなければ近づけないから。

 そして、その優しさにも似た翻訳の中で、誰かにしか起こりえなかったはずの破滅は、いつでも交換可能な感情へ変わっていく。


 人は物語なしでは他人に触れられない。

 その触れ方があまりにも滑らかで、あまりにも慣れすぎている。

 痛みが痛みとしてではなく、既に理解された形式として読まれる時、人は自分の人生を読むのではなく、自分が知っている悲劇らしさを確認しているだけになる。

 そしてその確認の連鎖の中で、本当ならそこまで落ちなくてよかった人間まで、自分を物語へ近づけ始める。


 孤独だったはずの感情が、いつの間にかそういうものとして共有されていく。

 誰にも理解されなかった夜が、理解可能な演出へ変わっていく。

 人は自分の苦しみを生きる前に、まず苦しみ方を学ぶようになる。

 傷ついた人間として、正しく震える方法を。

 世界に見捨てられた者として、どんな顔をして俯けばいいのかを。


 だから俺は、いつからか、自分が書いているのか、既に書かれてしまったものの続きをなぞっているのか分からなくなった。


 世界を否定するための言葉を書いたはずなのに、その否定ですら、誰かにとっては救いの形式になってしまう。

 救われなかった人間の言葉を読んで、安心する人間がいる。

 壊れていく過程を美しいと言い始める人間がいる。

 行き場のない絶望を、自分の感性の深さを確認するための鏡として覗き込む人間がいる。


 皆ただ、自分が崩れ落ちないために、誰かの傷を意味へ変えているだけにすぎないというのに。

 理解しなければ耐えられないから。

 名前を与えなければ、自分の輪郭まで曖昧になってしまうから。


 けれど、その繰り返しの中で、世界は少しずつおかしくなっていく。


 一人の人間の奥底で静かに腐っていくだけだったはずの絶望が、綺麗に磨かれた言葉になり、共有可能な感情になり、繰り返し引用され、いつしか誰かの人生の手本になってしまう。

 まるで破滅にすら様式が存在するみたいに。


 そして人は、その様式に自分を合わせ始める。


 まだ引き返せたかもしれない場所で。

 本当は名前をつけないまま忘れてよかった痛みまで抱え込みながら。

 誰かの悲劇に、自分の呼吸を似せ始める。


 だから俺は、この観覧車は恐ろしく映るのだろう。


 上へ行っているのか、落ちているのかも分からないまま、誰かの絶望と誰かの憧れが同じ速度で回り続けている。

 泣き声も、思想も、愛情も、拒絶も、全てがガラス越しに均されて、同じ夜景の一部になっていく。

 そして人々は、その光景を見ながら、自分だけは違う場所にいると信じたがる。


 けれど本当は違わない。


 誰もが、自分ではない誰かの人生を参照しながら、自分の傷の深さを測っている。

 誰もが、自分だけの苦しみを守ろうとして、その瞬間に既に、誰かが用意した孤独の形式へ近づいている。


 誰かが壊れたところで、その壊れ方に名前が与えられた瞬間、それはもう次の誰かの居場所になってしまうから。

 救われなかった人間の言葉ですら、新しい落下地点として機能してしまうから。


 まるで誰の絶望も、本当は必要な部品だったとでも言いたげに。


「どうかしましたか」


「いいや、なんでもない」


「そうですか……」


「俺はここから出て行く答えを見つけたのかもしれない」


  彼女の顔には、もうここに残っているものだけが浮かんでいた。


 外に目をやると、あと少しで一周を回り終えるところまで来ていた。


 すると彼女は口を開き 何かを言い残すかのように言葉を落とした。


「貴方はこの場所が怖いですか」


「どうだろうか。

 ただ俺もこの場所は嫌いじゃない」


「今の外の世界の景色はどう見えます」


「さっきより暗くなった気がする。

 日が傾いたからか」


「きっとそうでしょうね」


「もう少しで一周回り終わるな」


「ねぇ、もしこれが最後になるのなら、私から一つだけいいですか」


 観覧車はゆっくりと回り続けていた。


 窓の外では、滲んだ街の灯りが水底みたいに揺れている。


「なんだ」


 少女はすぐには答えなかった。


 ただ、どこか遠くを見るみたいに視線を漂わせていた。


 やがて、小さく息を吸う音がした。


「私は──」


 その瞬間だった。


 ゴンドラが突然、何か巨大なものに掴まれたみたいに激しく揺れた。


 鉄骨が悲鳴みたいな音を立てる。


 窓硝子が震え、天井の電灯が数回明滅した。


 反射的に手すりへ掴まる。


 数秒にも満たない揺れだったはずなのに、妙に長く感じられた。


 やがて静寂が戻る。


 だが、そこで俺は気づいた。


 少女がいない。


 向かい側の席には、さっきまで確かに誰かが座っていたはずなのに、そこだけが不自然に空白になっている。


 代わりに。


 天井から、観覧車の回転に合わせるみたいに、首吊り死体が揺れていた。


 死体は、ゆっくりと揺れていた。


 まるでまだ呼吸しているみたいに。


 先ほど乗ったゴンドラと同じく、顔には一枚の紙が貼り付けられ、詩が書かれれていた。


 そこには、こう書かれていた。


『ここは巨大な硝子の臓器みたいに地球の底で脈動し、光の届かない場所ほど、むしろ静かな明るさを帯びていた。

 深度という概念はそこで壊れていて、沈めば沈むほど暗くなるのではなく、長い時間をかけて沈殿した微かな発光が、水の中に薄い乳白色の層を作り、まるで海そのものが忘れられた夢の断面図みたいに何層にも重なっていた。


 今は、その光の澱の中に埋まっている。


 観覧車は海底へ落ちたのではなく、最初から海の内側で育った骨格みたいに、珊瑚と石灰に包まれながら静かに回転していた。

 輪の表面には無数の白い貝が密集し、遠くから見ると、それは鉄ではなく巨大な眼球の断面にも見える。

 回転するたび、付着した貝殻が微かに擦れ合い、雪が降る前の空気みたいな乾いた音を海中へ散らしていく。


 ゴンドラの窓には、透明な魚が群れていた。


 内臓だけが淡く光り、骨は水晶みたいに透き通っていて、泳いでいるというより、ゆっくり漂う硝子片が偶然魚の形を保っているように見える。

 それらは決して外へ出ない。

 ゴンドラの中を旋回し続け、ときどき窓に身体を擦りつけるたび、鱗の表面から細かな燐光が剥がれ落ち、暗い海の中へ花粉みたいに漂っていく。


 広場には噴水があった。


 だが水は噴き上がらない。

 かわりに、海底の裂け目から白い泡だけが絶え間なく湧き上がっている。

 その泡は水面へ向かわず、途中で止まり、空中に吊られたままゆっくり脈打っていた。

 泡の内部には小さな景色が映っている。

 砂浜、曇った空、遠くで回る風車、誰もいない通学路。

 けれど次の瞬間には全部崩れ、ただ白い濁りだけが残る。


 回転木馬は半分ほど砂に埋まっていた。


 馬の顔は失われ、首から先には海藻が束になって垂れ下がっている。

 その海藻には無数の小さな甲殻類が住みつき、木馬が回転するたび、葉脈みたいな脚を一斉に震わせる。

 すると周囲の砂がゆっくり巻き上がり、海底に巨大な渦模様を描き始める。


 その模様は、どこか文字に似ていた。


 だが読むことはできない。

 潮流が線を引き裂いてしまう。

 それでも遊園地は何百年も同じ模様を描き続けていた。

 まるで海そのものが、誰にも届かない手紙を書き続けているみたいに。


 通路の天井には、クラゲが吊り下がっていた。


 ただ漂っているのではない。

 細い触手を梁へ巻きつけ、果実みたいに静止している。

 傘の内側には淡い青色の光が満ち、その拍動に合わせて周囲の海水がゆっくり明滅していた。

 遠くから見ると、それはまだ営業していた頃の照明に似ている。

 けれど近づくほど、生き物なのか機械なのか分からなくなる。


 劇場へ続く階段には、白い砂が積もっていた。


 砂というより、それは砕けた骨にも見える。

 魚の骨、貝殻、何かの歯、細かく磨耗した珊瑚、硝子片。

 海は長い時間をかけて全てを同じ粒度へ削り、区別できない白へ変えてしまう。


 劇場の幕は、巨大な膜へ変わっていた。


 赤かったはずの布地には無数の穴が空き、その穴の内部で小さな魚たちが巣を作っている。

 魚たちは時折、一斉に向きを変える。

 すると幕全体に波紋みたいな模様が走り、まるで劇場そのものが呼吸しているように見えた。


 舞台には深海魚が横たわっていた。


 身体の半分が透明で、内側には青白い器官が幾重にも折り重なっている。

 それは海底の圧力の形を借りながら押し潰され、ゆっくり形を変え続けていた。

 肉は流体みたいに波打ち、眼球だけが異様に硬質な光を放っている。


 その眼球の中には、観覧車が映っていた。


 だが映っている観覧車は、現実のものより少し古い。

 錆び方が違う。

 割れている窓の位置が違う。

 ゴンドラの数も違う。


 まるで、海底は時間が一つではないみたいに。


 水流ごとに別々の時間が沈殿していて、通路を一本曲がるだけで、数十年分の腐食が消える場所もあれば、一歩進むだけで急速に崩壊が進む場所もある。

 だからここの内部では、過去と未来が均等に腐っている。


 観覧車の中心には、小さな駅があった。


 改札には切符が散乱している。

 だがその紙は繊維ではなく、薄い魚の皮みたいに半透明になっていた。

 数字も文字も滲み、触れるたび静かに崩れていく。


 駅のホームには列車が停まっている。


 窓の内側には海水が満ちているのに、吊り革だけが風に揺れていた。

 風など存在しない深度なのに、吊り革は規則的に揺れ続ける。


 その揺れに合わせて、車内アナウンスが流れる。


 声ではない。

 錆びたスピーカーの奥で、貝類が殻を閉じる音が繰り返されているだけだった。

 けれど長く聞いていると、それは何かの案内みたいに思えてくる。


 遊園地の最深部には、水族館が沈んでいた。


 巨大な水槽の中に、さらに海がある。


 その海の底にもまた、小さな遊園地が沈んでいる。

 観覧車。

 劇場。

 回転木馬。

 白い泡。

 吊り下がるクラゲ。


 その水槽の前には、誰も座っていないベンチが並んでいる。


 ベンチの表面には無数のフジツボが付着し、遠くから見ると、何か白い花が咲いているようにも見える。


 そして水槽の奥では、小さな観覧車が静かに回っている。


 そのさらに奥にも、また海がある。


 沈むという行為そのものが、別の深さの入口になっている。


 だからこの場所には底が存在しない。


 深くなるほど、形は静かに美しくなっていく。


 まるで海が、世界を壊しているのではなく、長い時間をかけて、世界を沈んだものの形へ彫刻し直しているみたいに』


 おそらくこの詩は、この場所を指しているのだろう。

 ただ、どうしてか……

 この場所について考えると、俺の頭の中には先ほどの海を簡単に飲み込んでしまっていた。


 気づけば、死体には、無数の魚や蟹が群がっていた。

 白い腹を震わせながら肉を削り、細い脚で骨の隙間を往復し、深海魚たちは眼球だけを残して静かに内側を食べ続けている。

 腐敗というより、それは海そのものが、身体をゆっくり別の生き物へ編み直しているような光景だった。


 骨は淡く光っていた。


 長い年月をかけて海水が染み込み、骨の表面には硝子みたいな膜が形成されている。

 そこへクラゲの光が反射するたび、白骨は舞台照明の残響みたいに青白く瞬いた。


 それでも、顔に貼られた紙だけは綺麗だった。


 皺一つなく、濡れた様子もない。

 そこだけ時間から切り離されたみたいに白いまま残っていた。


 周囲に水は存在しない。

 舞台の中央だけ、海が途切れている。

 泡も漂わず、海藻も揺れず、魚も近づかない。


 それなのに紙だけは、呼吸みたいに微かに脈打っている。


 紙の端がわずかに浮き上がるたび、遠くで観覧車が軋む。


 巨大な輪が回転する。


 貝殻が擦れ合う音。

 鉄骨を流れる泡の列。

 割れたゴンドラの窓を横切る透明な魚。

 遠くで鳴り続ける旋律とも雑音ともつかない音。


 ゆっくりとゴンドラが停止する。


 扉が開く。


 だが、外には何もなかった。


 通路が消えている。


 売店も、改札も、白い泡を浮かべる噴水も、半分砂に埋まった回転木馬も、全て海の暗がりへ沈み、ただ深い青だけが無限に広がっている。


 帰り道は、どこにも存在しなかった。


 空白になったホームの横を、次のゴンドラがゆっくり流れてくる。


 海の底で、古びたアナウンスが鳴る。


 けれど言葉は聞き取れない。

 貝が閉じる音と、遠くで砕ける波の残響だけが重なり合い、何かを案内しているような輪郭だけを残して消えていく。


 帰るのに、道が必要なのだろうか。


 その瞬間、観覧車の中心で、また小さく何かが回り始める。


 まるで海そのものが、次の深度へ降りるための円環だけを静かに残していたみたいに。

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