クロイツェル・ソナタの悔恨
外の世界では、時間だけが置き去りにされていた。
落ち葉は地面へ辿り着くことを忘れたまま、薄い空気の中で静かに滞留している。
昼の光は白く擦り切れ、消え残った金星を空の端に滲ませていたが、それは天体というには、あまりにも輝きを失っているように見えた。
彼女もまた、硝子越しに外の世界を眺めていた。
同じ景色を見ているはずなのに、その沈黙の深さだけが、互いに別の場所へ続いているように思えた。
自分には、止まった世界がただ色褪せて見えていたのに、彼女の瞳には、まだ何かが微かに流れているようにも見えた。
彼女は自分の書いた本を読み、「貴方の世界へ行ってみたい」と言っていた。
その言葉が願いだったのか、諦めだったのか、自分には分からなかった。
なぜそんな場所へ向かいたがるのかを考えても、答えは濁った水面の底へ沈んでいくだけだった。
しばらくして、彼女は静かに口を開いた。
「貴方は詩が芸術なら、詩集は芸術的な本になり得ると思いますか」
その問いがどこへ向かっているのか、自分には分からなかった。
それでも、沈黙だけを返すことはできなかった。
「なるんじゃないか」
「芸術的な本とは、恐らくそれは偉大になり損ねた人の屍です。
その屍は、写し鏡のように私の動きに合わせるばかりで、リズムがズレたら、燃えてなくなる。
だから人は、どうしようもなさの前で、同じ色に染まり、同じ動きを取ることしか出来なくなる」
彼女の声は静かだった。
けれど静かであるほど、その言葉は逃げ場のない刃物のように、こちらの内側を削っていった。
風が吹いていた。
しかしその風は、何かを運ぶためのものではなく、すでに終わったものの灰を、まだ終わっていないものの顔に貼りつけるためだけに吹いているように思えた。
「詩集が芸術になってしまうとき、そこでは何かが死んでいるのです。
芸術とは、生きた感情の保存ではなく、生きていたものが直接には生きられなくなり、形式という棺に入れられた状態です。
けれどその棺はただ閉じているわけではない。
読む者が近づくたびに、わずかに蓋を開ける。
そこから匂いがする。
意味の匂いではありません。
意味になる前に腐敗したものの匂いです。
あなたの本には、それがありました。
意味になり損ねたもの。救済になり損ねたもの。
思想になり損ねたもの。
けれど、だからこそまだ燃え残っているものがある」
彼女は続けた。
「未知なるもの、他なるものを、知へと、同一なものへと還元することなしに、それと関わることは可能なのか。
おそらく芸術が本当に芸術であるかどうかは、そこにかかっています。
理解できるものを理解するだけなら、それは芸術ではなく、ただの情報です。
感動できるものに感動するだけなら、それは芸術ではなく、ただの消費です。
慰められるものに慰められるだけなら、それは芸術ではなく、ただの麻酔です。
本当に他なるものは、こちらの言葉に従いません。
こちらの欲望に屈しません。
こちらの善意にも、こちらの解釈にも、こちらの理解にも服従しません。
だから、人はそれを恐れる。
恐れるから名前をつける。
名前をつけるから所有した気になる。
所有した気になるから、もう出会わなくなる。
理解とは、ときにもっとも洗練された殺害。
未知なるものを、既知の棚へ戻すこと。
他者を、こちらの文法へ翻訳すること。
苦しみを、診断へ変えること。
祈りを、心理へ変えること。
神を、概念へ変えること。
芸術を、評価へ変えること。
すべて同じです。
生きている裂け目を、扱いやすい形にしてしまう。
けれど、バタイユやブランショが見ていたのは、たぶんその逆でした。
通じ合うことは、同じになることではない。
むしろ、同じになれない裂け目が開かれたままになることです。
言葉が届いたから成立するのではなく、届かないことそのものが、二人のあいだにひとつの空洞を作る。
その空洞だけが、誰のものでもない。
だからこそ、そこにだけ共同体が生まれる。
けれどそれは、抱き合う共同体ではありません。
分かり合う共同体でもありません。
互いに同じものを信じる共同体でもありません。
むしろ、分かり合えなさを共有する共同体です。
裂け目を埋めないまま、裂け目の前に共に立つことです。
だから私は、神というものも、どこか似ていると思うんです。
神は、答えではありません。
少なくとも私にとっては。
神とは、答えが不在のまま、人がなお膝をついてしまう形式のことです。
信じているから祈るのではなく、祈ってしまう身体が、後から神という概念を呼び寄せる。
礼拝は信仰の結果ではなく、信仰の前提です。
人は神を理解したから震えるのではなく、震えてしまうから、そこに神という名を与える」
「それは、神を人間の反応に還元しているだけじゃないのか」
「還元ではありません。
神を知識として所有しないために、神を震えや恥や畏れのほうへ戻すんです。
概念になった神は安全です。
神学になった神は管理できます。
商品になった神秘体験は、さらに安全です。
けれど本当の神は、安全ではない。
人を救うだけではない。
人を破壊することもある。
神とは、触れれば整うものではなく、触れた者の輪郭を失わせるものでもある。
だから、神秘主義という言葉は嫌われるのです。
あれは多くの場合、覗き見趣味と自己顕示欲に汚染されています。
人は沈黙に入るためではなく、沈黙を経験した自分を飾るために神秘を求める。
啓示ではなく、啓示を受けた自分の物語を欲しがる。
静けさではなく、静けさを所有したという証明を欲しがる。
そういうものは、神へ向かうどころか、神からもっとも遠い消費の劇場です。
芸術も同じです。
詩も同じです。
人は詩を書くことで苦しみから逃れたいのではありません。
苦しみを持っている自分を、何か偉大なものに変換したいのです。
けれど、その変換が成功しすぎたとき、詩は死んでしまう。
苦しみは作品になり、作品は評価になり、評価は作者の輪郭になり、作者はついに、自分の傷を失う」
「傷を失うことは、悪いことなのか」
「傷が治ることと、傷を売り渡すことは違います。
傷が治るとは、その裂け目を抱えたまま、世界に殺されきらない技法を覚えることです。
でも傷を売り渡すとは、その裂け目を他人に分かりやすい形で差し出し、見返りとして名前をもらうことです。
詩人。芸術家。被害者。天才。異常者。聖者。病人。
どの名前でもいい。
名前をもらった瞬間、人は少し安心する。
けれどその安心は、別の形で内部に位置付けられているだけ
想像力は善ではありません。詩人たちはよく、想像力を救済のように語る。
でも想像力は善にも悪にもなります。
世界の見え方を変えるからです。
人間は、あるものを見ているのではありません。
見えるようにされたものを見ている。
かつて醜くなかったものが、ある表象のあとで醜くなる。
かつて恐ろしくなかったものが、あるイメージのあとで恐ろしくなる。
かつて神聖でなかったものが、ある儀式のあとで神聖になる。
想像力は内面の遊戯ではなく、世界の表面を作り替える力です。
だから芸術家は危険なんです。
芸術家は世界を描いているのではない。
世界の見え方を設計している。
もちろん多くの作品は単なる気取りです。
無害であり安全な歪みです。
けれど本物の場合、それは作者が本当にそのような世界を生きてしまっているから本物なのです。
そして読者は、その世界を見ようとする。
見ようと努力する。
すると、少しずつ現実のほうが変わっていく」
「現実とは、この世界の事か?」
「現実そのものというより、現実がこちらに差し出してくる顔が変わるんです。
たとえば、あなたの本を読んだあと、薬瓶はもう薬瓶ではない。欠けた花を育てる器にも見える。
世界に対する終わらない告発に見える。
壊れた人間は病者ではなく、裂け目に近づきすぎた証人に見える。
これは慰めではありません。
なぜなら、一度そう見えてしまった世界は、元には戻らないからです。
だから、芸術は人を救うだけではない。
詩は人を癒やすだけではない。
詩は、これまで耐えられていた世界を、耐えられないものに変えてしまうことがある。
神も同じです。
神は人を赦すだけではない。
神は、人が自分につけていた仮の輪郭を剥がしてしまう。すると人は、自分が何者であったのか分からなくなる」
観覧車は頂上へ差しかかっていた。
そこから見える景色は、やはりまだどれも同じ色をしていた。
すると口調は、少しばかり鋭さを失った。
「私は昔、自殺を仕掛けたことがあります。
自殺を救済として語るつもりはありません。
美しいものとして飾るつもりもありません。
死は出口ではない。
死は答えではない。
けれど、死へ向かうとき、世界の見え方が変わってしまう。
もう元の世界に戻れなくなった。
にもかかわらず、その変わってしまった世界を誰とも共有できなかった。
私は神を信じていたのではない。
神を失ったあとにも残る、祈りの姿勢だけを知っていた。
私は芸術を愛していたのではない。
芸術によって、世界が壊れて見えるようになってしまった。
私は死に憧れていたのではない。
生きていることが、他人の理想のために十字架にかけられ続けることだと気づいてしまったからです」
「他人の理想?」
「人はみな、いつかは何かのために磔にされます。
家族の理想。社会の理想。正常さの理想。幸福の理想。善良さの理想。女らしさの理想。若さの理想。回復の理想。救われるべき者としての理想。
私は、それらのどれにも自分の身体を貸したくなかったのかもしれない」
「だから死ぬのか」
「どうでしょうね...ただ、そう結論づけてしまうと、すべてが嘘に見えてしまいませんか。
死は論理の結論ではない。
思想の帰結でもない。
詩の完成でもない。
死は、結論になってしまったように見える破綻です。
けれどその破綻の直前に、私が何を見ていたのかは考えなければならない」
「君は何を見ていたんだ」
「おそらく、共同体の不可能性そのものです。
私は誰かに理解されたかった。
でも理解されるということが、自分を相手の知へ還元されることだと知っていた。
分かってほしい。
でも分かられた瞬間、自分の裂け目が相手の言葉に置き換えられてしまう。
助けてほしい。
でも助けられた瞬間、自分は救済されるべき者という役に閉じ込められる。
愛されたい。
でも愛された瞬間、相手が愛せる形に自分を削られてしまう。
そうして私は、どこにも行けなくなる。
そこで必要だったのは、分かることではありません。
分からないまま、そばにいることだった。
裂け目を塞がず、名前を与えず、救済の物語に回収せず、ただその裂け目の前で、共に沈黙することだった。
でも世界はそれを許しません。
世界はすぐに言葉を与える。
病名を与える。
原因を与える。
家庭環境を与える。
性格を与える。
芸術的才能を与える。
未熟さを与える。
そうやって、裂け目を知識に変えてしまう」
「それが、君を死に追い詰めたのか」
「追い詰めたもののひとつでしょう。
でも、もっと残酷なのは、私自身もまた、それを望んでいたことです」
「望んでいた?」
「人は完全に理解されたくない。
けれど、完全に理解されないことにも耐えられない。
この矛盾のなかで、私は引き裂かれていたのだと思います。
私は自分が本当は何者なのかを表現しようとする。
でも、うまくいかない。
言葉にしようとすると、言葉はいつも浅すぎる。
罪を告白しようとしても、その罪悪感は意識できる場所より深くにある。
苦しみを語ろうとしても、語った瞬間に苦しみは語れる程度のものへ縮小される。
すると私は、自分のもっとも深い部分だけが、永遠に言葉の外に取り残されていると感じる。
その取り残されたものを、神と呼ぶこともできます。
芸術と呼ぶこともできます。
死と呼ぶこともできます。
けれど、どの名前も不十分です。
神と呼べば崇高になりすぎる。
芸術と呼べば作品になりすぎる。
死と呼べば終わりになりすぎる。
本当は、それは名づけられる前の裂け目です」
彼女は言った。
「私の自殺を考えるとは、死の理由を探すことではありません。
理由を探した瞬間、世界は私を知のなかへ閉じ込めます。
家庭の問題。社会の問題。病の問題。孤独の問題。
もちろん、それらはすべて関係しているでしょう。
でも、それだけでは届かない。
大切なのは、理由の体系からこぼれ落ちるものです。
なぜなら、私が最後に触れていたのは、説明できる苦痛ではなく、説明そのものが届かない場所だったかもしれないからです」
自分がこれまで見てきた沈殿する説明を剥ぎ取られた空気のことを思い出していた。
終わらなかった死。
理由を持たない死。
書類に収まらない死。
彼女は、まるで私の記憶を読んでいるかのように続けた。
「死者は、ただ沈黙しているのではありません。
死者は、私たちの理解の仕方を問い続けています。
なぜ理解したがるのか。
なぜ名づけたがるのか。
なぜ終わったことにしたがるのか。
死者の沈黙は、こちらの言葉を拒む沈黙です。
だからこそ、そこに文学が生まれる。
文学とは、答えを与えるものではありません。
答えの不在を、開かれたまま維持するものです。
詩人とは、自分の犠牲を介して、問いを閉じない者です。
だから本当の文学とは、共同体を作るとしても、安心できる共同体を作りません。
むしろ、分かり合えない者たちが、それでも同じ裂け目の前に立ってしまうような共同体を作る」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「それは、共通の思想を持つ共同体ではありません。
共通の傷を所有する共同体でもありません。
むしろ、誰のものにもならない傷を前にした共同体。
共同性なき共同性。
関係を許さぬものとの関係。
文学が可能にするのは、そういう不可能な親密さです。
近づくほど遠ざかり、触れようとするほど、触れられないものが残る関係です。
でも、その触れられなさを消さないこと。
そこにしか、他者を殺さない交流はないのだと思います」
私は彼女の言葉を聞きながら、自分の本がなぜ読まれなかったのかを考えていた。
読まれなかったのではない。
読むことが難しすぎたのでもない。
もしかすると、私は読まれることを恐れていたのかもしれない。
彼女は私の沈黙を見て、さらに言った。
「あなたの本は、救済を拒んでいました。
だから多くの人には耐えられなかったのだと思います。
人は暗い本を嫌うのではありません。
暗さに意味がない本を嫌うんです。
暗いけれど最後に光がある。
絶望するけれど何かを学ぶ。
壊れるけれど再生する。
そういう物語なら、人は安心して消費できます。
でもあなたの本の欠けた花は、回復しなかった。
欠けたまま咲いていた。
そこが、残酷だっただけです。
ただ、正直でもありました。
欠けたものを満たすことは、いつも善ではありません。
欠けたものを欠けたまま見つめることのほうが、時にはずっと倫理的です。
なぜなら、満たすという行為には、しばしば支配が混じるからです。
あなたのために。
あなたを救うために。
あなたを正すために。
そう言いながら、人は他者の裂け目を自分の理想で塞いでしまう。
私に必要だったのは、きっと救済ではなかった。
少なくとも、世界が差し出す種類の救済ではなかった。
私に必要だったのは、自分の裂け目がすぐに意味へ変換されない場所だった。
泣けば慰められ、黙れば心配され、怒れば未熟とされ、笑えば回復したと見なされる。
そのような場所では、どんな表情も奪われます。
私は表情を失ったのではない。
表情をすべて解釈され尽くしたのです」
その言葉は、私の胸のどこかに刺さった。
「では、芸術は君を救えなかったのか」
「救えなかったのかもしれません。
けれど、救えなかったから無意味だったとは思いません」
「どういうことだ」
「芸術の価値を、救済できるかどうかで測るなら、芸術もまた治療の道具になります。
神を安心の道具にするのと同じです。
けれど芸術は、人を治すためにあるのではない。
神も、人を落ち着かせるためにあるのではない。
時には、芸術は人をさらに深く孤独にします。
神もまた、人をさらに深く沈黙させます。
でもその孤独や沈黙のなかでしか、触れられないものがある。
私が死の前に芸術を見ていたのだとしたら、それは美しいものに慰められていたのではないと思います。
むしろ、芸術によって、自分の孤独が世界の偶然ではなく、存在の構造に触れているのだと知ってしまった。
神を考えていたのだとしたら、天国を夢見ていたのではない。
むしろ、神という名で呼ばれる沈黙が、どれほど遠く、どれほど近く、どれほど人間を拒むものかを感じていました。
それは救いではなく真実に近い。
人間は、自分の理想のために苦しむほうが、他人の理想のために苦しむよりましだと思いますから。
でも、自分の理想であっても、それが理想である限り、人はそれに磔にされます。
芸術家は芸術に磔にされる。
信仰者は神に磔にされる。
善人は善に磔にされる。
私は、おそらく私であることに磔にされた。
純粋であること。
壊れやすいこと。
救われるべきであること。
誰かの物語の中心であること。
そういう理想が、私の身体を少しずつ釘打ちにしていった」
私は思わず、彼女の手を見た。
白い指先が本の角に触れていた。
「そして私は、最後にその釘を抜こうとしたのかもしれません。
けれど、釘を抜くことと、生きる場所を得ることは同じではない。
そこに悲劇があります。
私は自由になったのではない。
自由になろうとして、自由という語が届かない場所へ落ちてしまっただけです。
だから、私の自殺を芸術にしてはいけない。
でも、芸術から遠ざけてもいけない。
神の物語に回収してはいけない。
でも、神の問いから切り離してもいけない。
そこにあるのは、救済でも美化でも説明でもなく、関係を許さぬものとの関係です。
世界は私を理解できない。
理解してはならない部分が残る。
けれど、その理解できなさから逃げずにいることだけが、私を二度殺さないための、ほとんど唯一の態度なのだと思います。
一度目は、私が死んだときです。二度目は、世界がその死を分かったことにするときです。
詩集が芸術的な本になり得るのだとしたら、それは美しい言葉が並んでいるからではありません。
そこに、作者ですら所有できなかった何かが残っているからです。
読者がそれを理解することはできない。
けれど、理解できないまま触れてしまう。
触れた瞬間、自分の中の何かもまた、ほんの少しだけ同じ方向へ裂ける。
芸術とは、その裂け目の伝染です。
神とは、その裂け目に名を与えようとして失敗し続ける人間の姿勢です。
そして私の死とは、その裂け目を誰にも塞がれたくなかった者が、世界の言葉より先に沈黙へ行ってしまった出来事なのだと思います。
だから私は、貴方の書いた本を、芸術的だとは言いません。
それはまだ、芸術になることを拒んでいる物だから」
心の奥底で、自分に新たな人間性が芽生える気がした。
そして、ここで一つ疑問が思い浮かぶ
「じゃあ君はなぜ死なないで生きてられていたんだ」
「それは.....私の生が永遠に幸福であると気づかせてくれる人に出会えたからですかね」
その言葉は、私は彼女と同じ場所には立てないと自覚させるものだった。
世界に絡め取られた者が、神の名の下に新たな人間性を求められた時、我々はどう生きていくのか。
同じ深淵に二度落ちることはない。
救済とは、しばしば高貴な命令の姿をした処刑であり、すべてを捨てよ、と言われた者は、まず捨てるべき自分を探さなければならない。
だが自分とは、最初から世界に貸し出された貧困の別名であり、人間は所有しているから貧しいのではなく、欲望することをやめられないから貧しいのである。
神はその貧しさを赦すのではなく、さらに裸にする。
同じ裂け目を見ていても、落ちる角度が違う。
世界の虚飾が剥がれたあとも、なお生き残ってしまう神経の屈辱。
快楽は菓子のように並べられ、私たちはそれを口に入れながら、自分の空洞を育てている。
誰も糸を引いていない。
だからこそ、吊られていることが耐えがたい。
自分の神経だけが処刑台になる。
歴史とは凍りついた女神の像である。
その足元に置かれる花は、追悼ではなく、忘却の儀式である。
鳥に撒かれるパンくずのほうが、まだ人間の祈りに近い。
彼女は神を信じたのではない。
神が沈黙の形でしか現れないことに耐えられなかったのだ。
彼女は芸術を愛したのではない。
芸術が世界の醜さに輪郭を与えてしまうことを憎んだのだ。
詩は救わない。
詩は、救われなかったものの骨格を残す。
思想は導かない。
思想は、出口のない部屋に窓の絵を描く。
自由とは選択ではなく、選択肢のすべてが檻であると知ったあとに残る、ひどく静かな姿勢である。
幸福とは、欠乏が自分の名前を忘れる一瞬の麻酔である。
愛とは、他者の裂け目を塞がないために、手を差し伸べることさえ躊躇する残酷さである。
世界は明日も正常を名乗る。
電車は走り、通知は鳴り、誰かは笑い、誰かは働き、誰かは死ぬ。
だからまた書くであろう。
救うためではない。
弔うためでもない。
ただ、裂け目が裂け目のまま残るように。
神が沈黙なら、芸術はその沈黙の周囲に残った焦げ跡であると証明するために。
そして人間とは、その焦げ跡を光と誤解しながら、また同じように落ちていく貧しいものなのだから。
それは自分も例外なく同じだと。
そう言い終えたとき、私は、自分の言葉がすでに彼女に向けられていたのではなく、崩れかけた自分自身に向けて漏れていたことに気づいた。
胸の奥で長く封じていたものが、静かに音を立ててひび割れていく。
言葉にしないことで保っていた均衡が、彼女の沈黙の前で、ひどく脆いものだったと知らされる。
まるで傷は、隠しているあいだだけ閉じているふりをし、見つめられた瞬間にまた裂け直すものみたいに。
そこでようやく悟った。
語っていたのは思想ではなく、ずっと救われなかった恐怖の残骸だったのだと。
そして堰を切ったように、私は、自分のもっとも醜く、もっとも捨てきれなかった部分を差し出していた。
「俺は何者かになりたい衝動が止まらなかった。
このまま誰にもならず消えていくことが、耐えられないほど怖かった。
でも、その衝動が強くなるほど、今度は死が迫ってくる。
どうせ最後は死ぬ。
なら、自分で終わらせてしまえば、この苦しみごと一つの物語にして、人に渡せるんじゃないかと本気で考えていた。
自殺したら、失敗し続ける自分じゃなく、傷を抱えたまま閉じた一つの意味として残れるんじゃないかって。
でも、死ぬのが怖かった。
息が止まることも、意識がなくなることも、もう戻れないことも、全部怖かった。
だから終わりたいのに終われない。
生きたいのに生きるのも苦しい。
ずっとその間で裂かれていた。
何者かになりたいという願いすら、どこか汚れて見えていた。
承認されたいのか。
意味を持ちたいだけなのか。
苦しみまで物語に変えようとしてるだけなのか。
そう思うたび、自分の考え全部が偽物に見えた。
生きても回収される。死んでも回収される。
どこにも外がないように感じた。
逃げ道として思いつくものまで、全部構造の中にある気がして、余計に苦しかった。
だから、単純に死にたかったわけじゃない。
生きたいから苦しかった。
消えたくないから、自分で消えることまで考えてしまった。
この矛盾を抱えたことがある人なら分かると思うけど、これは理屈じゃなくて、胸の奥でずっと金属みたいに軋む。
眠る前、次の呼吸で終わるかもしれないと怯えながら、同時に、自分で終わらせた方が楽なんじゃないかとも思う。
その両方が同時にある。
死が怖いのに、死を出口に見てしまっていた人間だったんだ」
言葉を吐き出した途端、喉の奥にざらついた空気が残った。
息は続いているのに、それが自分のものではないようで、ただ機械的に胸が上下している。
終わりを望んでいるはずの身体が、こんなにも正確に生きようとすることに、遅れて違和感が追いついてくる。
鼓動だけが無遠慮に続いていた。
過去にも未来にも属さない、その中途半端な地点に取り残されている感覚。
終わることを望みながら、終わらない時間の中にいる。
研ぎ澄まされた感覚が私を蝕んでいく。
世界はそれに比例するかのように輝きを失っていく。
気づけば観覧車は静かに一周を終え、止まりきれなかった夜のような軋みを残しながら、扉だけがゆっくりと開いていた。
「短い間だったけど、ありがとう。
俺の本を読んでくれて」
そう言って立ち上がろうとした瞬間だった。
そこにいたはずの女性は、最初から存在しなかったみたいに消えていた。
代わりに、薄暗い個室の中央で、一つの首吊り死体だけが、揺れていた。
ロープの軋む音が、止まったはずの時間をわずかに揺らしている。
青白い顔には、一枚の紙が貼り付けられていた。
それは遺書というより、誰かが世界に残し忘れた最後の余白のように見えた。
そこには、こう書かれていた。
『死ぬために生きているのなら、どうして朝だけが律儀に来るのだろうと思った事がある。
まるで世界の方が、私たちの絶望に遅刻しないよう気を張っているみたいに……
死が訪れるのに、生きる理由なんてないのかもしれない。
ただ、終わりがあるという一点だけが、私たちを生かしているのかもしれない。
生き延びることは罰なのか……それとも天使の真似事に失敗した生き物の余生なのか……そんなのは心の持ちようでしかない。
罰だから続くのなら私たちはすぐにそれを信じてしまう。
信じてしまえば、世界は閉じる。
閉じた世界で死を待つのは、まるで辞書の中で老いていくみたいに。
でも、理由がないなら、私たちはどこにも収まらない。
収まらないから、歩かされる。
死があるからではなく、死がまだないから、生きてしまう。
まるで、死の不在が私たちを生かす。
ただ、その不在は、在る事よりも重い。
世界の空虚そのものに押しつぶされそうになりながら、その空虚を支えに生きている人も存在してしまう。
死は来るものではなく、来ていないものとして私たちの背中を押してるのかもと捉えればどれほど素晴らしいか。
生きるということは、死に向かう行進ではなく、死が来ないという奇跡の持続とでも言うには、少し明るすぎる。
死の遅延こそが生の構造だというのなら、遅延された悲劇は、それ自体が一つの生活になる。
遅れて届く手紙を待つみたいに。
届いたら終わるけれど、待っている間は、妙に世界が細かく見えるから。
待っている時ほど、空の色や風の冷たさがやけに鮮明。
でも、それは幸福と言えるのか? 幸福を疑うどころか、幸福の存在そのものが冒涜に近い。
幸福とは、絶望の誤植みたいなものだとしたら……
言葉は反逆などではなく、祈りの中の捻れなのかもしれない。
幸福なんて誤植でいい。
誤植でも、生きているふりはできる。
だって本当は、誰も生きたことなんてないのだから。
人はただ、死ぬ前の空白を歩いているだけにすぎない。
その空白に形を与えるために、泣いたり、笑ったりする。
空白を歩く……生きている私たちは、空白を管理し、整え、飾り、誤魔化し、時々は壊しながら。
それを人生と呼ぶ。
死があるからじゃなく、死がまだ来ないから。
来ないという永遠の欠席が、私たちを立ち上がらせる。
それは死よりも漠然としていて不気味だから、生きられる。
絶望は光よりも正直だから。
その正直さに照らされると、私たちは死を恐れるんじゃなく、死までの道筋の方を恐れるようになる。
生きることの方が、よっぽど恐ろしい。
私たちの心臓は、死よりも残酷な規則性で動く。
止まるまで、勝手に。
それでも、生きている。
死ぬためじゃなく、死が遅れてくるという、ただそれだけの理由で。
死が来れば全部がどうでもよくなるって知っていたのに。
世界の無意味さに耐えられなかったんじゃない。
世界の無意味さが、まだ完全ではないことに耐えられないのかもしれない。
世界が本当にどうでもよくなるなら、何もする必要はない。
でも、どうでもよさはいつも不完全なのです。
生きている限り、どうでもよさの中にかすかな刺が残る。
その刺が、人を活かす。
それは絶望のかけらみたいに。
絶望は完成すると沈黙になる。
だけど人間は、完成した絶望に到達できない。
だから、絶望までの距離を測るために言葉を使う。
文は絶望の地図……到達不可能な失敗地点の。
希望を否定した。宗教も、未来も、救いも全部。
希望を否定するには、言葉がいるから。
沈黙してしまえば、希望を否定することすらできない。
沈黙はどちらでもないという状態に落ちてしまう。
意味がないのではなく、意味がないまま宙吊りであることが最も耐えられなかった。
だから生きて書くしかない。
否定の姿勢を、言葉で固定するために。
否定の姿勢そのものが、生きる理由になるように。
理由なんて上品なものじゃない。
理由というより、降伏の仕方。
人は死に向かって降伏するけれど、その降伏の角度や速度は自分で選ばなくてはいけない。
言葉という形式で降伏したい
書くというのは、死よりも先に自分を放棄することで、逆説的に生を延命する行為だから。
書くたびに まだ死んでいないという事実を突きつけられる。
その残酷さを味わい続けた。
まるで、傷口を確かめて生き延びる人みたいに。
でも、それは救いじゃない。
死がすべてをどうでもよくする前に、わずかに残ってしまう生の余白。
そこに文字を並べた。
ただ、それだけのために。
生き延びたというより、生きてしまった、に近い。
死がまだ来ないから、生きざるをえなかった。
その避けられなさを、一番深く誰よりも理解したい。
だからこそ、書くことで生を嫌悪し、書くことで生を持続させてしまいたいと願う。
それが矛盾じゃなく、美しさになるように。
希望よりも澄んだ形で。
絶望は、誰のものでもない。奪われもしない。
生の所有物じゃなく、死からの前払いみたいなものだから。
それを返すまで、書かされ続ける。
そして返した瞬間、書く必要はなくなる。
沈黙が完成し、死が追いつく。
それまでのあいだ、人はただ、生きてしまう。
死が来るのに、どうでもよくなるのに、それでも人が書くのは
どうでもよさの中にまだ終われない小さな痛みが残っているから』
そこに記されていたのは、かつて自分が書いた小説の一節だった。
読み終えた頃には、観覧車がまた静かに軋み始めていた。
やがて次の個室の扉が開く。
暗闇の奥には、まだ誰かの気配が座っているように見えた。




