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ステュディオの外套

 長いあいだ、死に触れたあとの人間たちを見てきた。

 現場に横たわる肉体そのものよりも、その周囲に沈殿している、説明を剥ぎ取られた空気のほうが、ずっと恐ろしく感じられた。

 声にならなかった理由、途中で折れた時間、誰にも回収されなかった最後の視線。

 そういうものが部屋の隅や、廊下の暗がりや、遺された者のまばたきの裏側に、薄い膜のように貼りついている。

 それを一件ごとに吸い込んできたのだと思う。

 ある時から、死を扱っているのではなく、死のほうが自分を扱い始めていた。


 眠る前になると、自分の呼吸が次の瞬間には途絶えるのではないかと感じることがある。

 朝目が覚めても、生きていることに安堵するより、まだ終わっていないという、猶予にも似た罰の感覚だけが残る。

 心臓の鼓動さえ、生命の証ではなく、期限を刻む乾いた音のように聞こえる。

 人はそれを恐怖と呼ぶのだろう。

 だが自分には、もっと深く、もっと冷たいものに思える。


 死がいつの間にか世界の内部構造として組み込まれ、何事もなかったように日常を動かし続けていることへの恐れ。

 こんなにも傷があり、説明のつかない喪失があり、壊れていった人間がいるのに、朝は同じように来る。

 電車は同じ時刻に走り、人々は同じ顔で仕事へ向かい、世界は平然と、自分を正常だと言い張っている。

 その正常さが、私には時に、漠然としてどうしようもなさをなぞるだけの自由無き演劇に見えた。


 それでも自分は鍛えなければならないと言われた気がした。

 慣れろとも言われた気がした。

 職務とはそういうものだと言われた気がした。

 慣れるとはどういうことなのか。

 感覚を失うことなのか。

 それとも、壊れかけた感覚を無理に持ちこたえさせながら、なお壊れていないふりをすることなのか。


 自分が毎日しているのは、崩れそうな神経を、そのつど元の位置に押し戻しているだけなのだろうか。

 世界はそれを平静と呼ぶだろう。

 だがそれは、裂け目の上に薄い布をかけているようにしか見えない。

 布の下では、何も治っていない。

 何も終わっていない。


 壊れたと呼ばれた人々とも長く接してきた。

 意味を失った言葉を話す者。

 見えないものに怯える者。

 誰にも届かない訴えを、壊れた時計のように繰り返す者。

 そういう人々と時間を過ごすなかで、自分はむしろ彼らのなかに、この世界が隠しているものが露出しているのではないかと感じるようになった。


 彼らは現実から逸脱しているのではない。

 現実の下にある裂け目に、あまりに近く触れてしまっただけではないか。

 人々が正気と呼ぶものは、多くの場合、その裂け目を見ないようにうまく演技する能力にすぎないのではないか。

 傷つきながら働き、空虚を抱えながら笑い、意味があるふりをして日々をやり過ごすことが正常と呼ばれ、その演技を続けられなくなった者だけが病んでいるとされるのなら、私はその区別を信じることができない。


 むしろ、耐えきれなくなった者たちのほうが、何かの真理に触れていたのではないかと思う。

 死を見すぎて恐怖に蝕まれた私自身も、おそらくその側に半分だけ足を踏み入れている。

 死を恐れているというより、この世界があまりにも多くの説明不能な傷を抱えながら、なお自分を秩序と呼び続けていることに怯えている。


 そしてそれでも私は、その秩序のために働いている。

 解決を期待され、正常であることを期待され、壊れないことを期待され、その期待に押されるようにして現場へ戻る。

 告発の前に毎日立たされる者として。

 私はその前に立ち続けている。

 ただいつか、自分自身がその告発の一部になってしまうのではないかという予感を、胸のどこかに抱えながら。



 いつしか窓の縁には、セロトニンやノルアドレナリンの均衡を整えるための薬瓶が積まれていた。

 私はその瓶にアルコールを注いだ。

 するといつしか、そこには目には見えない花が咲いているように見えた。

 それを虚無の花と名付けた。

 花は静かに咲き乱れたが、どれも花びら一つ欠いていた。

 その欠けたところから、世界が覗いていた。


 完全な花はひとつもなかった。

 どの花弁も、閉じようとしては閉じきれず、輪になろうとしてはどこかでほどけていた。

 私はその不揃いを見ているうちに、美しさとは整っていることではなく、崩れきらずに裂け目を抱え込んでいることではないかと思うようになった。


 欠けた花びらは損なわれた部分ではなく、息の通り道のようにも見えた。

 もしすべてが揃っていたなら、その花は完成し、完成したものはそこで閉じてしまう。

 閉じたものは、やがて自分の内部だけを反復する。

 だがこの花は閉じない。

 どれもどこかで外へ漏れ、傷口のような空白を残し、その空白から時間や記憶や、言葉になる前の苦しみが滲み出していた。


 私はその欠けた花ばかりを見ていた。

 そこだけが、奇妙に生きていたからだ。

 満ちている花弁よりも、失われた場所のほうが、かえって多くを映していた。

 あるときはそこで過去の後悔が揺れ、あるときはまだ来ていない崩壊の気配が翳り、またあるときは、疲弊しながらなお回り続けるこの世界の息苦しさが、その小さな不在のなかに宿っていた。


 世界はいつも完全を装う。

 だが本当は、あの欠けと同じものをどこかに抱えているのだと思った。

 ただ人は、それを見ないようにして生きている。

 見ないことを成熟と呼び、忘れることを回復と呼び、耐えることを強さと呼ぶ。

 そうやって世界は、自分の傷を他人の性格の問題にすり替えていく。


 けれど花は隠さない。

 欠けたまま咲く。

 欠けたままこちらを映す。

 しかも、その欠損こそが、どの花にも固有の輪郭を与えていた。もし欠けがなければ、どれも同じ模様になり、同じ夢のなかで眠っていただろう。

 だが一枚失われているからこそ、そこに逸脱が生まれ、わずかな逃走の気配が生まれる。

 私は時々、その欠けは破滅ではなく、閉じた運命からこぼれ落ちるための出口なのではないかと感じた。


 アルコールの水面が揺れるたび、花はこの世界を映し続けた。

 だが映っていたのは秩序ではなかった。

 どこかで無理に繋ぎ止められ、どこかで裂け、なお形を保っている不自然な静けさだった。

 私はその静けさを見ているうちに、病とは均衡を失うことではなく、こうした裂け目を見すぎてしまうことではないかと思い始めた。


 そしてもしそうなら、治るとは元に戻ることではない。

 この欠けを抱えたまま、なお世界に殺されきらないための技法なのかもしれない。


 だから私は、花が欠けていることを、美しいと思った。

 完全ではないからではない。

 完全にならないことでしか、この世界の外を夢見られないからだ。


 窓の縁に積まれた薬瓶のなかで、虚無の花は相変わらず一枚欠けたまま咲いていた。

 私はその欠けを、この世界の裂け目だと思い、それを言葉にすれば、せめて誰かが同じ傷を見てくれるのではないかと信じていた。

 だから本を読んだ。

 古い詩人たちの絶望をなぞり、哲学者たちが残した深い井戸のような言葉を覗き込み、その底に沈んでいるものを拾い集め、自分の花の情景と結びつけようとした。


 壊れた輪郭に形を与えるために、私は書いた。

 欠けた花のために、崩れかけた世界のために、眠れない夜の神経のために。

 誰にも届かないとしても、書かなければ、裂け目そのものに飲み込まれてしまう気がした。


 だが原稿を差し出すたび、返ってきたのは理解ではなかった。

 過剰だと言われ、暗すぎると言われ、病んでいると評され、難解というより混濁だと片づけられた。

 そこにある苦しみではなく、苦しんでいる者として私が先に値踏みされた。

 文学の世界でも社会でも、作品ではなく症状として読まれ、言葉ではなく徴候として扱われた。


 お前は傷ついている。だから判断が歪んでいる。

 お前は繊細すぎる。だから世界を語る資格はない。

 お前は壊れている。だからその言葉も壊れている。


 ある者は憐れみ、ある者は冷笑し、ある者は、そんな人間に何かを任せられるはずがないと一蹴した。

 測られ、名づけられ、整然と棚に戻される。

 そのたびに私は、自分が書こうとした欠けた花まで、分類の札をぶら下げられていくのを見た。

 世界は傷を読むのではない。

 傷ついた者を管理するだけなのだ。


 だが世界の輪郭が壊れていることだけは、私には疑えなかった。ひび割れているからこそ苦しいのではない。

 壊れているのに、誰も壊れていないふりをやめないことが苦しかった。私が見ていた欠損は、誰にとってもあるはずなのに、なぜそれを口にすると、こちらだけが異常とされるのか。

 なぜ裂け目を見てしまった者が、裂け目そのものより危険なものとして扱われるのか。


 そのたびに、逃げたいと思った。

 しかし輪郭の壊れた世界からは、壊れたまま逃げることすらできなかった。

 出口はどこにもなく、逃走の想像すら、この世界の内部でしか起こらない。

 逃げようとするほど、余計に世界の内側へ戻される。

 欠けた花は出口ではなく、出口の不在を示しているだけではないかとさえ思うようになった。


 そのとき、なぜ人は死にたがるのかという問いを、初めて自分の内側で理解した気がした。

 壊れていると知ってしまった世界から、どうしても離脱できないからだ。

 どこへ行っても同じ仕組みに包まれ、同じ尺度で測られ、同じ言葉で矯正されるなら、死だけが唯一、世界の外を想像させるからだ。


 それは救済ではない。

 ただ出口に似た影にすぎない。

 扉ではなく、扉の絵だ。

 外部ではなく、外部の幻影だ。

 それでも人は、その影に手を伸ばしてしまう。

 届かないと知りながら、届かないものにしか、自分を許してもらえない夜があるからだ。


 それでもなお、本当に耐えられなかったのは、死の誘惑より、理解されないことだった。

 なぜ世界は、自分の苦しみを分かってくれないのか。

 なぜこちらが差し出した傷を、誰も傷として受け取らず、診断か比喩としてしか扱わないのか。


 絶望の底で何度も考えた。

 もしかすると苦しみとは、共有されるものではなく、最初から孤立するようにできているのではないか。

 人は他人の痛みを理解するふりしかできず、そのふりで社会は出来ているのではないか。

 そう思うと、これまで読んだ本も、信じた思想も、虚無の花を詩にしようとした衝動も、すべて誰にも届かない独白に思えてきた。


 窓辺の花は、それでも欠けたまま咲いていた。

 だがもう、美しいとは思えなかった。

 あの欠けは希望ではなく、世界が最初から完結していない証であり、だからこそ永遠に埋まらない喪失の形だったのだと知ってしまったからだ。

 私はその花を見ながら、人が絶望するのは、世界が残酷だからではなく、残酷であることを分かち合えないからなのではないかと思った。


 そしてその瞬間、自分の内側で、何か静かなものが完全に折れる音を聞いた。

 大きな音ではなかった。

 誰かに気づかれるような破壊ではなかった。

 ただ、これまで私をかろうじて世界に繋ぎ止めていた細い糸が、音もなく切れた。

 私はその音だけを抱えて、また次の朝を迎えるしかなかった。


 世界に意味があると仮定するなら。

 その世界において自由とは、すでに配分された選択肢の総和でしかないのではないか。


 主体は象徴秩序に従属することなしには成立せず、象徴秩序は主体の欲望によってのみ維持される。


 この言葉を聞いてから、選ぶという行為そのものが、誰かに書かれた脚本の追認にしか思えなくなった。

 私が自分の意志だと思っていたものは、すでに与えられた語彙のなかで許された、最も私らしく見える服従だったのではないか。選択とは、檻の中で檻の模様を選ぶことにすぎなかったのではないか。


 世界に価値があると仮定するなら

 その世界において幸福とは

 交換可能性の最も滑らかな形態にすぎないのではないか。


 欲望は欠如を前提とすることなしには運動せず、欠如は欲望によってのみ再生産される。


 この構造に気づいてから、満たされるという感覚は、次の欠乏を準備するための静かな前奏に変わっていた。

 幸福とは到達ではなく、次の不足をより自然に受け入れるための麻酔なのではないか。

 人は救われるために欲望するのではなく、欲望し続けるために、時々救われたふりをしているだけなのではないか。


 世界に形があると仮定するなら

 その世界において哲学とは

 永遠に実践できないことを意味するのではないか。


 哲学はプロレタリアートを揚棄することなしには実現せず、プロレタリアートは哲学を実現することなしには揚棄されえない。


 この事実を知ってから、世界は一律の輝きしか放てなくなっていた。あらゆる光は同じ表面で反射し、あらゆる思想は実践の手前で凍りつき、あらゆる救済は条件を必要とし、その条件は救済なしには満たされない。

 世界は閉じているのではない。

 閉じきれないまま、永遠に同じ場所で光っている。

 その光は希望ではなく、出口のない場所で壁だけが照らされているときの白さだった。


 もし向こう側がなかったらどうだろう。

 もし、永劫の永劫の中で、これが私が生きている唯一の時間だとしたらどうだろう。

 もし、死の先にも、思想の先にも、詩の先にも、世界の外など存在しないのだとしたら。


 もしそうだとしたら、私はどんな人生を送ればいいのだろう。

 本当はもう問いの形さえ残っていないのかもしれない。

 人生とは選び取るものではなく、裂け目を抱えたまま引き延ばされる時間のことなのかもしれない。

 そして私は、その時間の中で、欠けた花がなお咲いていることを、美しいとも、救いとも呼べなくなったまま、ただ見続けるしかないのかもしれない。


 遠くで何かが軋む音がした。

 空間そのものが歯ぎしりするような、乾いた震え。


 暗闇の表面に、細い針が触れた気がした。

 それだけで、内側に満ちていた黒いものが、理由もなく崩れていく。

 輪郭だけを残して、中心が静かにほどけていく。


 肺が、遅れて空気を思い出す。

 喉の奥にざらついた痛みが戻り、指先に重さが戻る。

 その重さの中に、ひとつだけ説明のつかない感触が混じっている。

 だがそれを辿ろうとすると、そこだけがきれいに抜け落ちる。


 顔を起こすと、そこは廃墟の遊園地の観覧車の個室に横たわっていた。

 窓の外では、夕暮れが錆びた骨組みに絡まり、赤黒い光を薄く引き伸ばしていた。

 ガラスには細かな傷が無数に走っており、その向こうの景色は、古い写真のようにひび割れて見えた。


 その景色は、どこか昔読んだ名前を忘れた本を思い出させた。けれど、どうしても思い出せなかった。

 すると、どこからか失った余白に、言葉が舞い降りてきた。


「美しいものを見るたび、人は現実への忠誠を少しだけ失う。

 ユートピアが場所ではなく傷なら、美はその傷口に差す光。

 語りえぬ美は、ユートピアが言葉になることを拒んだ姿。

 美を語ることは、失われた楽園を語ることではなく、まだ失われてもいない楽園を、あらかじめ悼むこと。

 ユートピアを語る言葉は嘘になる。

 だから人は、美という沈黙でそれを指し示す。

 ありえたかもしれない世界に短く迷い込み、ただ、救われるべき世界があったことだけを知らせる」


 それは自分の書いた小説の一文だった。

 そこには、夕焼けに照らされた一人の女性が座っていた。

 さっきまで何もなかったはずの場所に、最初からそうであったかのように。


 頭の中に疑問が浮かぶ。

 だがどれも、形になる前に崩れる。

 まるで考えるたびに、記憶のどこかが静かに削れていくみたいだった。


 女性は静かに、一冊の本を差し出した。


「これ、落ちてましたよ」


 夕焼けの赤に照らされた表紙を見た瞬間、喉の奥がわずかに軋んだ。


 それは、自分の書いた本だった。


 前までは、自分の身体の一部みたいに愛していたはずなのに、今は違った。

 まるで、長いあいだ会っていなかった死者の顔を見るみたいに、どこか輪郭だけが冷えている。


 どうしてか、受け取れなかった。


「どうしたのですか? もしかして貴方にではないのですか?」


「……いや、俺の書いた本だ」


 女性は小さく頷いた。


「やはり、そうでしたか」


「どうして分かったんだ」


 そう聞くと、その女性はただ静かに笑った。


 その笑みは、何かを見透かした人間のものではなかった。

 もっと遠い場所から、こちらの形だけを眺めているような笑い方だった。


「なぁ、俺の書いた本はどうだった」

 自分はまだ理解されたい衝動を捨て切れてはい。

 考えるより先に、発する音は決まっていたかにように喋った。


「そうですね……私には少し、居心地が良すぎたのかもしれません。

 ただ、貴方の見据えている世界に、いつか行ってみたいとは思いますね」


「だいぶ言葉を選んでるな」


 そう言うと、女は少しだけ目を細めた。


「詩を説明する事ほど、愚かな行いもありませんからね」


 その言葉は静かだった。

 だが静かすぎるせいで、逆に逃げ場がなかった。


「俺は別に気にしないけどな」


「態度の問題ですよ」


 女はそう言って、窓の外へ目を向けた。


 錆びた骨組みの向こうで、夕暮れがゆっくりと沈みかけている。

 空は赤というより、古傷の色に近かった。


「ただ、その態度ですら、世界が形として定めた瞬間に終わってしまうんです」


 女の声は穏やかなままだった。


「名前を与えられ、理解されたものは、そこで回転を止める。

 本来はどこへも行かないはずだったものまで、意味を与えられた途端、欠けた円を上を同じように回るしかなくなる。

 だから、その態度は個人にしか宿れない。

 誰にも共有されず、誰にも証明されず、ただ一人で荒野を歩いていくしかないんです。

 自分がどこへ向かっているのかも分からないまま」


「……俺も同じだと言いたいのか」


 女は少し考えるように視線を伏せ、それから微かに笑った。


「どうでしょうね」


 拒絶にも肯定にも聞こえなかった。

 ただ、こちらの輪郭を指先で静かになぞるような響きだけが残った。


「ただ、この場所が貴方にとって何を意味するのかを、世界は、貴方の本と同じ道を辿らせるように、必ず矢印を置いてしまう。

 だから、変わるしかないのです。

 タイトルも背表紙も、読み始める箇所も、すべて失う、そんな有様に……」


 女性はそう言って、窓の外へ目を向ける。


 その瞬間だった。


 動くはずのない観覧車が、ゆっくりと軋みながら回り始めた。

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