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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第三十八話:蜂蜜皇帝と、置き去りにされた義兄弟

今回は、袁術の蜂蜜皇帝ごっこと、寿春の市場接収、そしていつものように劉備が持ち逃げする回です。

笑っている場合ではないのですが、たぶん少し笑います。

【寿春 袁術の宮殿】


視界を埋め尽くすほどの金箔の乱反射が、網膜をちかちかと刺激する。

 金に物を言わせれば尊厳が買えると信じて疑わない人間の悪趣味が、柱の隅々にまでこびりついた空間だった。

 その歪な欲望の中心たる玉座で、己の体温よりも生温かい黄金色の液体を抱えている男がいる。


 袁術である。

 片手に伝国璽を、もう片方の手には巨大な蜂蜜壺を抱き込んでいた。


 壺の縁から垂れた蜂蜜が糸を引き、彼の口元から顎、そして指の股にまでべったりと絡みついていた。部屋全体にむせ返るような甘い匂いが充満している。


「ふふふ……分かるぞ。今の俺には追い風が吹いている。領地は広い。兵は多い。名門の血筋もある。そして何より、脳に十分な糖分が行き渡っている。これはもう、皇帝になるしかないだろう」


玉座の下に控える側近たちの脳髄は、完全に麻痺していた。

 糖分の摂取と帝位の簒奪。その間にいかなる因果関係があるのか、誰の思考回路を以てしても弾き出せない。

 だが、当の袁術は脳を蕩かすような甘味に溺れ、陶酔の極みにあった。


「そうだ、今日から俺が皇帝だ。漢は終わり。新しい国の名は『仲』だ。短くて強そうで、しかも真ん中っぽくて偉そうだろう? 素晴らしい。俺は名付けの才能まである」


指先の蜂蜜を舌で絡め取る。

 唾液と混ざり合う水音が響き、再び指先が玉璽を汚す。


 列の先頭に立つ孫策は、表情筋の微細な動きすら封じていた。だがその奥底では、急速に己の忠誠心が枯渇していくのを感じ取っている。


 親の代からの縁。確かな利用価値。それだけの理由で、この狂態に付き合ってきた。

 しかし、玉座の主が甘味と一時的な熱量だけで国家を興そうとしている現実を突きつけられ、彼の内にある損益分岐点はとうの昔に限界を突破していた。


「伯符、お前も嬉しかろう?」


袁術の無駄に陽気な声が、鼓膜を打つ。


「俺が皇帝になれば、お前も開国の功臣だ。歴史に名が残るぞ」


「光栄です」


「もっと喜べ。今夜は祝いだ。蔵の蜂蜜を全部開けろ。城の女官にも兵にも配れ。糖分は忠誠心を高める」


「……承知しました」


短い応酬の裏で、孫策の意識はすでに江東の大地へと飛んでいた。

 手元の玉璽はどうでもいい。


 この男はもう、破滅の縁から滑り落ちている。

 父が遺した者たちをまとめ上げ、あの甘ったるい汚泥に沈む前に自らの足場を築き直さなければならない。


「そうだ、堀を全部埋め立てろ」


「はい?」


「堀だ。水なんぞ不要だろう。全部養蜂場にするのだ。数百万の蜂がいれば、曹操が攻めてきても追い払える。名付けて……『A・T・フィールド』だ!」


広間を包み込むのは、完全な静寂。

 もはや誰の口からも言葉は出ない。

 孫策は、胃の腑に冷たい鉛が落ちるのを感じながら決断を下した。

 この男は、自らの吐き出した甘い毒に塗れて死ぬ。











◇◇













【許昌 作戦会議室】



 最前線から駆け込んできた伝令の顔面は、痛々しいほどに赤く腫れ上がっていた。

 片目は塞がり、呼吸のたびに顔の輪郭が歪む。


「報告を」


「はっ……! 寿春周辺は蜂だらけです! 袁術軍そのものは脅威ではありませんが、城の周囲に巣箱が並び、近づいた兵が軒並み刺されまして……」


「ふむ」


「羽音がうるさすぎて命令も通りません! 兵が兜を脱いで川に飛び込む始末で……!」


隣に座る孟徳の顔に、明確な嫌悪の皺が刻まれた。


 数万の兵が血肉を散らす戦場は好んで駆け回るくせに、羽虫の群れに顔面を覆われる不快感には耐えられないらしい。その感覚には私も同意する。


「袁術の分際で、地味に嫌なことをするな……」


「分かりやすく頭が悪いくせに、局所的に性格が悪いのですよ」


私たちの会話の隙間に、ふらりと一人の男が入り込んできた。


 劉備。

 彼が自発的に口を開く時は、決まって甘い蜜の匂い――あるいは、金の気配を嗅ぎ取った時だけだ。


「へぇ……蜂ですか。なら、この案件は俺たちに任せてもらえませんかね」


「理由を」


「昔、田舎で色々やってまして。筵も編めば、害虫駆除もやった。蜂の習性も煙の使い方も知ってるんです。兵と予算を預けてくれれば、うまく片付けますよ」


 煙による制圧。風向きの計算。養蜂の専門知識を持つ人員の獲得。

 論理的欠陥はない。


「条件があります」


「何でしょう」


「袁術の備蓄している蜂蜜は、一滴も無駄にしないこと。高級品は美容用途で高く売れます。ロイヤルゼリーはさらに利益率が高い。損壊は認めません」


「はいはい、蜂蜜ですね。任せてください」


「返事が軽いですね」


「信頼してるからです」


「嘘ですね」


「ばれました?」


孟徳が訝しげな視線を投げかけてくる。


「李司、本当にこいつに兵を預けるのか?」


「ええ。持ち逃げの可能性は高いですが、それも込みで計算します」


「怖いこと言うな」


「怖いのはあの男です。私ではありません」


劉備の顔に張り付いた笑みからは、誠意の欠片すら読み取れない。

 他人の資産を自らのものに変換する過程を、心底楽しんでいる目だ。


「では、前線指揮権と必要予算を承認します。ただし成果は必須です。失敗したら、かかった費用は倍額で請求します」


「成功したら?」


「蜂蜜の優先販売権を少し分けてあげます」


劉備の瞳の奥で、はっきりと欲望の炎が燃え上がった。


「よし、やりましょう!」


その即答ぶりに、私は脳内の警戒レベルをもう一段階引き上げた。












◇◇










【寿春】



 袁術の耳に届くのは、耳障りの良い肯定だけだった。反対意見を口にした者は、部署ごと物理的に消去される。それがこの宮殿の規則だ。


「陛下、まことに壮大なお考えにございます」


「うむ」


「蜂の守りとは、前代未聞にして空前絶後」


「うむうむ」


「伝国璽の輝きも、蜂蜜の照りと合わせて実に神々しく」


「分かるか? 分かるか!」


袁術は玉璽を握りしめたまま、壺の奥深くへ指を沈める。

 引き抜いた指を舌に這わせ、目を細める。彼にとってはその粘着質な口当たりこそが、皇帝の権力の味だった。


「この甘みだ。これだよ。天下を取る男に必要なのは。辛いものばかり食っていたら発想が尖る。甘いものを食えば心に余裕が出る。余裕のある者こそ皇帝にふさわしい」


理屈の体を成していない妄言。

 だが、当人は狂気的なまでに真剣だった。







【許昌】



 僭称という政治的瑕疵は面倒だが、経済的な視点に切り替えれば答えは単純だ。

 膨大な甘味資源。集積倉庫の確保。温度管理された高級品と、それを生産する技術者の抱え込み。城の陥落よりも、市場供給網の完全掌握が最優先事項となる。


「孟徳」


「何だ」


「今回の主目標は袁術討伐ではありません」


「違うのか?」


「蜂蜜です」


「袁術より重いのか」


「袁術は勝手に崩れます。ですが市場は嘘をつきません。蜂蜜は保存が利く。薬にもなる。美容にも使える。砂糖が安定しないこの時代において、甘味資源の独占はそのまま富の独占です」


「お前、敵の僭称より甘味料の方を重く見るのか」


「当然でしょう」


「当然なのか……」


横で会話を聞いていた郭嘉の肩が、微かに揺れている。


「李司様らしいですね。では、今回の遠征は『害虫駆除を兼ねた市場接収』という理解でよろしいですか」


「ええ。分かりやすくてよろしい」


「怖い夫婦ですねえ」


「夫婦というより会社です」


「そっちの方が怖いです」


劉備は沈黙を保ったまま、私たちのやり取りを値踏みしていた。

 こちらが甘味資源の確保を至上命題としていると察知し、その情報を自らの利益にどう変換するか、目まぐるしく思考を巡らせている。


「李司殿、もし俺が期待以上の成果を上げたらどうします?」


「内容によります」


「寿春を落とし、蜂蜜を守り、養蜂家を引き抜き、袁術を逃がしてでも市場だけ押さえた場合は?」


「有能ですね」


「でしょう?」


「ですがその場合、貴方はそのまま資産ごと逃げる確率が跳ね上がります」


「ひどい偏見だ」


「実績に基づく予測です」


「信頼がないなあ」


「ありませんから」


「そこは濁してほしい」


孟徳が硬い表情で机を叩いた。


「玄徳」


「何です?」


「もし持ち逃げしたら、次に会った時はただでは済まさんぞ」


「怖いなあ」


「怖がっていないだろ」


「最初からな」









◇◇









【寿春郊外 袁術軍の防衛線】


頭上を覆うのは、黒い羽虫の渦。

 不快な羽音が幾重にも重なり合い、鼓膜を直接削り取ってくる。


 人の熱と呼吸に反応し、顔面をめがけて執拗にまとわりつく防衛システム。城壁の上からは、袁術の得意げな高笑いが降り注いでいた。


「見たか! これぞ俺の絶対防壁だ! 蜂たちよ、敵を刺せ! その毒針で曹操を泣かせろ!」


その狂騒の足元で、劉備は肌を撫でる風の温度と向きを測っていた。


「益徳、あれを」


「分かってる」


張飛が、水を含ませた藁束に火種を落とす。

 湿った植物が焦げる燻り臭と共に、濃密な白い煙が地表を這うように広がり、風に乗って蜂の群れへと吸い込まれていく。


 殺意に満ちていた羽音が、ふつりと乱れた。

 煙に巻かれ、方向感覚を失った蜂たちが、ぽたぽたと無数に落ちていく。


「よし、次だ。養蜂場の連中に声をかけろ」


「声って何て?」


「そのままだ。今の三倍払う、休みもやる、残業代も出す、って」


劉備の言葉は、酷使され疲弊しきっていた養蜂家たちの心臓を的確に射抜いた。

 終わりの見えないノルマ。過酷な労働環境。狂った権力者の趣味への奉仕。

 その地獄からの脱出を促す悪魔の囁きは、彼らにとって蜘蛛の糸に等しかった。


「本当に三倍!?」


「週休二日!?」


「夜勤なし!?」


「社保は!?」


「そこまでは知らん! でも今よりは絶対にましだ!」


ためらいなど、一秒たりとも存在しなかった。

 城門の重い蝶番が内側から軋み、巣箱を抱えた技術者たちが次々と劉備の陣へと雪崩れ込んでくる。


「裏切り者ォ! 俺の蜂蜜工場が! 俺のA・T・フィールドが!」


「公路様、どうします!?」


「どうするも何も、もう無理だ! 蜂蜜水だけ持って逃げるぞ!」


決断の速さだけは、皮肉にも一流の商人並みだった。

 煙と雇用条件の改善。それだけで、寿春の絶対防衛線は呆気なく崩壊したのである。











 そこはまさに、欲望の終着点だった。

 足の踏み場もないほどに積まれた金銀財宝と、丁寧に温度管理された無数の蜂蜜壺。


 劉備の視界は、すでに未来の利益計算で埋め尽くされている。

 背後に立つ関羽と張飛も、目の前の物量に圧倒され言葉を失っていた。


「すげえな……」


「兄者、これ全部運ぶのか?」


「運ぶさ。だが雑に運ぶなよ。李司殿に『品質管理が甘い』と言われたら面倒だ」


関羽が真面目な顔で頷く。

 だが、次に劉備が紡いだ言葉は、極めて合理的な裏切りの前兆だった。


「雲長、翼徳。お前たちは先に許昌へ戻れ」


「え?」


「報告だよ報告。最前線で一番大事なのはホウレンソウだ。勝った、蜂蜜は無事、袁術は逃げた、そういう華々しい戦果を先に届けるんだ」


「兄者は?」


「俺は責任者として残る。品質検査、搬送手配、雇用した養蜂家どもの統制、色々あるだろ。ほら、こういう実務はトップが最後まで見ないと」


「それはそうだが……」


「お前ら二人がいれば十分だ。むしろ俺がいない方が、曹操殿も李司殿も話しやすいだろ?」


関羽の曇りのない瞳が、劉備の真っ直ぐな視線を受け止めた。


「確かに。李司殿は報告の遅れを最も嫌う。兄者の言う通りだ」


「だろ?」


「兄者、任せたぞ」


「ああ、任せろ」


張飛の胸の奥に燻る違和感は、兄への信頼という引力によって強引にねじ伏せられた。


「……分かった。だが絶対に、売り物の蜂蜜をつまみ食いするなよ」


「しないしない」


足音が遠ざかり、宝物庫に完全な静寂が戻る。

 劉備の唇が、ゆっくりと弧を描いた。


「いやあ、話の分かる弟ってありがたいなあ」


彼の目には、もう曹操の影も李司の帳簿も映っていない。


「よし。ここからは独立資金の計算だ」















「よし、君たちは今日から新会社の創業メンバーだ」


曹操から借り受けた兵と、離反した養蜂家たちを前に、劉備は堂々と宣言した。


「新会社?」


「そう、新しい大きな商いを始める。表向きは流通業、裏ではもう少し夢のあることもやる」


「給料は!?」


「出すとも。ただし最初は現物支給だ。蜂蜜と将来への希望だな」


「希望で腹は膨れないんですが」


「そこは頑張れ」


胡散臭い言葉の羅列に、兵たちの間に動揺が走る。

 しかし、背後に積まれた莫大な財産を前にしては、その不安すらも容易に押し流されていく。


「今から荷駄を編成する。重い金は分散。軽くて高く売れる蜂蜜は俺の近くに寄せろ。ロイヤルゼリーの壺は絶対に割るな。あれは李司殿が一番怒る」


「逃げるのに、そこは気にするんですか」


「気にするさ。あとで再会した時に値踏みされるだろ」


「再会する気はあるんですか」


「人生、縁は切りすぎない方がいい」


自らの行動が引き起こすであろう波紋を完璧に予測した上で、劉備は嗤う。


「だが今は逃げる。これは損切りではなく独立だ。覚えておけ」
















【許昌】


勝報をもたらした関羽と張飛の表情は、達成感に満ちていた。

 孟徳の顔にも、安堵の喜悦が浮かんでいる。


「でかした! よくやった! で、玄徳は?」


「兄者は現地で蜂蜜の品質管理と搬送の手配をしております」


「几帳面だなあ」


「はい」


その和やかな空気を、息を切らせて飛び込んできた郭嘉の言葉が切り裂いた。


「報告です! 劉備様が見当たりません!」


「は?」


「寿春の宝物庫、空です! 蜂蜜も金銀財宝も、貸与した兵力も、まとめてきれいに消えています!」


「は?」


「机の上に書き置きだけが」


「読ませろ!」


孟徳の手に渡った木簡には、流麗な筆致でこう記されていた。


『探さないでください。皆様からの出資を元手に、新規事業の立ち上げに向かいます。PS.蜂蜜はとても甘かったです。玄徳』


孟徳の顔から血の気が失せ、次いでどす黒い朱に染まり上がった。

 彼の口から放たれた咆哮が、執務室の空気をびりびりと震わせる。


「逃げたなァァァァッ!!」


「俺の兵力と予算と、李司の蜂蜜を全部持っていきやがった! あの詐欺師め!」


「だから言ったでしょう、持ち逃げの可能性は高いと」


「分かってたなら止めろ!」


「止まりませんよ、ああいう人間は」


視界の端で、関羽と張飛の思考が完全に停止している。


「……え?」


「また?」


「またです」


「兄者ァァァ!! いい加減にしろよ!! また俺たち置いていったのか!?」


 関羽もまた、糸の切れた人形のように膝を突いた。


「不覚……! 最近は髭の品質管理に気を取られ、兄者の手癖の悪さを失念していた……!」


「そこが原因ではありません」


「ですが髭は大事です」


「知っています」


「高級百花蜜が四十壺、薬用の濃色蜜が二十二壺、ロイヤルゼリーが……」


「そこ数えるな!! まずは劉備を追う話をしろ!!」


「追いますよ。ですが、失った資産を把握しないと回収もできません」


「お前ほんとにブレないな!」


「貴方こそ少しは学習しなさい」


張飛の苛立ちは頂点に達していた。


「兄者がまたやりやがった……。くそ、前にも後にも、あの人だけだぞ。『先に帰れ』がだいたい裏切りの前振りになる男は」


「何度目なのですか」


「数えたくねえよ!」


関羽の背中には、目に見えるほどの深い絶望がのしかかっている。


「拙者、兄者の徳を信じていた……」


「徳ではなく話術です」


「違いは」


「かなり大きいです」


ふと、孟徳の纏う空気が変質した。

 怒りの炎の奥底で、別の感情がじわじわと頭をもたげている。


「……だが待て」


「何ですか」


「玄徳は逃げた」


「ええ」


「ということは、関羽は残る」


「ええ」


「つまり俺はついに、ずっと欲しかった関羽を手に入れた」


「そうですね」


「……ふふ」


「隠しきれていませんよ」


孟徳の口角が、堪えきれない喜悦によって吊り上がる。


「いや、だって嬉しいだろ!? 関羽だぞ!?」


「その顔で怒りを語られても説得力がありません」


「仕方ないだろ!」


関羽が、気まずそうに身を固くした。


「曹公、拙者まだ正式には――」


「客将でいい! いや、最初はそれでいい! 焦るな! まずは髭油だ!」


「髭油」


「後で一番良いものを選ばせる!」


「曹公……」


「いい上司に見えてきただろ?」


「少しだけ」


孟徳が得意げな視線を私に向けてくる。


「おい李司、聞いたか」


「仕事をさせてから喜びなさい」


 失われた資産は膨大だ。

 だが、残されたこの二人は、使い方さえ間違えなければ確実に回収以上の利益をもたらす。


「はぁ……まあ、予想通りですね」


「予想してたなら教えてくれよ!」


「言ったところで、貴方たちは信じなかったでしょう」


「それは……」


「その通りです」


張飛が唇を噛む。

 関羽は精神の安寧を保つためか、しきりに立派な髭を撫でつけていた。その手つきが今は少しだけ癪に障る。


「で、李司殿……拙者たちは、どうなりますか」


「どうもしません。処刑しても蜂蜜は戻りませんから」


「……面目ございません」


「ですので再配置します」


私はまず、関羽へと視線を向けた。

 圧倒的な武力と忠義。そして孟徳の異常なまでの執着。


「関羽殿」


「はっ」


「今日から孟徳直属の客将です」


「……え?」


「給料は高めに設定します。加えて福利厚生として、西域産の高級髭オイルを毎月現物支給します」


「髭オイル!?」


「香りは花系です」


「承知いたしました!!」


 孟徳の顔に、隠しきれない笑みが広がる。


「ずっと欲しかったんだ、関羽」


「曹公のため、粉骨砕身尽くします」


「現金な髭だな……」


「現金ではありません。髭油です」


私は次に、張飛へ向き直った。


「張飛殿」


「……嫌な予感しかしない」


「正解です」


「そこは外してくれ」


「無理です。貴方は今日から私直属の筆頭秘書官です」


「見た目は脳筋ですが、字が綺麗で計算もできて教養もある。しかも夏侯家の娘婿で身内枠。最前線に置くより、私の隣で書類を回していた方が利益率が高い」


「いや待て! 俺は武将だぞ!?」


「文武両道の方が市場価値が高いです」


「酒は!?」


「勤務中は禁止」


「戦場は!?」


「必要があれば出します」


「つまり普段は机か!?」


「ええ」


「何で俺が兄者の借金と持ち逃げの尻拭いを、一生デスクでやるんだ……」


項垂れる張飛の姿に、孟徳が愉快そうに笑い声を上げる。


「良かったな、張飛。後で胃に効く薬をやる」


「笑うな!! お前んとこの社風が一番ブラックなんだよ!!」


「そこは否定できん」


「まずはこの決裁書類から」


「量がおかしい!!」


「今日中です」


「鬼か!!」


「違います。経営者です」


試しに、税収報告、兵站の補填申請、そして未回収金一覧の三種を彼に読ませてみる。

 張飛の目は最初こそ絶望に染まっていたが、文字列を追ううちに、急速に鋭利な光を宿し始めた。


「……これ、蜂蜜ごと持っていった兵の中に、元袁術軍の養蜂技術者がかなり混じってるな」


「ええ」


「つまり兄者は、蜂蜜そのものだけじゃなくて生産ラインごと持っていったってことか」


「正解です」


「くそ、腹立つくらい頭が回る」


「身に覚えがありそうな言い方ですね」


「あるよ。昔っからそうだよ。兄者は目の前の金だけじゃなく、次に金を生む手段ごと攫っていくんだ」


「良い分析です。続けなさい」


「ただ、全部が全部兄者の勝ちでもない。養蜂は場所を選ぶ。気候、水、花の種類、職人の管理。移した先で同じ品質が出るとは限らねえ」


「はい」


「つまり、今すぐ追うより、販路を探らせた方が早い。兄者は絶対に高く売ろうとするから、どこかで尻尾を出す」


「非常に良い」


「やはり貴方、秘書官向きですね」


「全然嬉しくねえ」


「そのうち慣れます」


「慣れたくもねえ」


不意に、執務室の扉がノックされた。

 現れた関羽の手には、早くも二つの小瓶が握られている。


「李司殿、確認したいことが」


「何ですか」


「この二種、花の香りはどちらも良いのだが、前線で使った際に敵へ気取られにくいのはどちらだろうか」


「戦場で髭の匂いを気にするのですか」


「大事です」


「でしょうね」


「張飛ならどちらを選ぶ?」


「俺に振るな!」


「左です」


「なぜ」


「兄者が好きそうな匂いだからです」


「嫌な基準だな!」


張り詰めていた空気が、微かに弛緩した。

 劉備の持ち逃げという巨額の損失は痛手だ。

 だが、残されたこの二つの駒は、私の想定以上の働きを見せてくれそうだった。

 今はそれでいい。

 未回収の資産も、逃げた詐欺師の首も、いずれ完璧な計算式の元に回収してみせる。


私は筆を取り、木簡の端に新たな案件を書き加えた。


『玄徳追跡案件』

『蜂蜜市場再建計画』

『張飛秘書官教育日程』


視界に広がる仕事の山。

 だが、利益を生む作業を処理することに、苦痛は感じない。

 そこから最大の利回りを見つけ出すだけのことだ。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

今回は寿春の蜂蜜騒動から、劉備の持ち逃げ、そしてその後の再配置までを書きました。

好きな場面や台詞など、よければ気軽に感想をいただけると嬉しいです。

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