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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第三十九話:三つの条件(捏造)と、蜂蜜行商の旅

義と商売と胃痛で動く、許昌企業戦記。

今回は劉備失踪案件です。

【許昌】


鼻腔を突く甘い香りが、思考の邪魔をする。


 劉備が軍資金と兵力を奪って姿を消したという一報が届いて以来、私の思考は怒りと諦観、そして損失計算に支配されていた。そこへ加わる、この花の香り。明らかにこの場にはそぐわない。


 視線の先には、劉備へ貸し付けた未回収金のリスト。寿春から消失した物資の推計、さらには手元に残された甘夫人と糜夫人の生活維持費の試算表。並んだ数字は、どこまでも残酷に真実を突きつけてくる。


 味方に引き入れれば国庫を食いつぶし、敵に回せば兵力が削られ、野放しにすれば市場の秩序が崩壊する。あの男の生存力は、どれだけ対策を講じても根絶できない類のものだ。


 視界の隅で、関羽殿と張飛殿が言葉を交わす気配がした。声量を抑えているつもりなのだろうが、鍛え抜かれた武人の発声は、室内の空気をびりびりと震わせている。


「……翼徳。先ほど李司殿が提示した、極上艶出し髭オイル、魅惑のローズの香り。あれは、実に魅力的だ」


「兄者、声を落とせ。今の発言だけで、武神ブランドが三割くらい毀損する」


「しかしだな、兄者は金を持って逃げた。拙者たちは置いていかれた。曹公は待遇を約束している。李司殿は髭オイルを毎月現物支給すると言う。これを転職市場における優良案件と見なさずして何とする」


「髭オイルを判断基準にするな! 武人の再就職理由が髭の艶って、どう考えても歴史書に残せねえだろ!」


 彼は、自陣営が抱える広報リスクの深刻さを正確に測り切っている。英雄であるはずの兄の奇行が後世にどう語り継がれるか。敵味方の士気にどう波及するか。


 状況を把握する能力が高すぎるゆえに、この男が背負う苦労は計り知れない。


「だが翼徳、現実問題として、拙者の髭は長い。維持費もかかる。安物の油では毛先が割れる。冬場は乾燥も厳しい」


「だからって『兄者は髭の維持費に負けて曹操へ降りました』なんて言えるか!」


「言い方を変えればよいのではないか」


「どう変えるんだよ」


「髭の尊厳を守るための戦略的撤退」


「余計に駄目だ!」


「兄者、ここは俺に任せろ。俺が全部整える。対外的には、兄者はあくまで漢室への忠義を貫く。そのうえで一時的に曹操のもとに身を寄せる。兄者が自分から条件を突きつけた、という体にする」


「条件?」


「そうだ。格好いい条件だ」


「髭オイルは入るか?」


「入れねえよ!」


「しかし実利が」


「実利は裏で受け取れ! 表に出すな! 世の中には表向きの美談と裏側の生活費ってもんがあるんだよ!」


正しい認識だ。あの無軌道な男の背後で、財政の均衡と世間への体裁を必死に繕ってきたのは、すべて彼の献身によるものなのだろう。


 筆を置く音が響くと、張飛殿が衣擦れの音を立てて姿勢を正した。その背後で、関羽殿も堂々たる出で立ちでこちらを見据える。状況の深刻さをまったく理解していない眼差しだが、顎に蓄えられた毛並みの角度だけは完璧に保たれている。


「李司殿。我々は曹公の客将として迎えられる用意がある」


「聞きましょう。手短にお願いします。今日中に処理すべき決裁書類がまだ三百七十二件ありますので」


「三百……いや、今はそれはいい。ご存知の通り、関羽兄者は天下に名高き義の人だ。劉備兄者に置き去りにされたからといって、安易に降るような男ではない」


関羽殿の視線が、不自然に宙を泳いだ。香りの元である壺の方へ意識が向いているのが手に取るようにわかる。


「そこで、曹公に身を寄せるにあたり、三つの条件を厳守していただきたい」


「条件提示ですね。どうぞ」


「第一。我々はあくまで漢王室、すなわち天子に降るのであって、曹操個人に臣従するのではない」


私は新しい木簡を引き寄せ、余白にただ一言、建前と記す。


「第二。保護している劉備兄者の家族、甘夫人と糜夫人の安全と生活水準を完全に保障し、一切の手出しをさせないこと」


人質というものは、適切に管理しなければ交渉の切り札としての価値を失う。当然の要求だ。


「第三。劉備兄者の所在が分かり次第、我々は合流のため曹公のもとを離れる。それを無条件で許可していただきたい」


要求の図々しさに、わずかに目尻が下がる。

 これほど破綻した条件が尤もらしく響くのは、彼が持つ交渉の筋道の立て方が絶妙だからだ。実に優秀な秘書官の素質がある。


「第一は、ただの言葉遊びです。漢王室に降ると言っても、実務上の給与と食費は我が社が負担します。第二は当然のコンプライアンスです。担保価値のある保護対象に手を出すほど、我が陣営は非効率ではありません。第三は、本来なら雇用契約として破綻していますが……孟徳が関羽殿を欲しがっているので、特例として許可します」


「助かる」


張飛殿の靴音が一つ、距離を詰める。

 声帯の震えを抑えた声には、必死の懇願が混じっていた。


「それで、ここからが一番重要な四つ目の条件だ」


「三つでは?」


「表向きは三つだ。四つ目は裏条件だ」


この男は、実社会の構造を本当によく理解している。


「今の立派な条件三つは全部、関羽兄者が自ら曹公に突きつけたものということにして、公式記録へ残してほしい」


「捏造ですね」


「そうだ。捏造だ。だが必要な捏造だ。頼む」


私を見つめる目には、保身の影は微塵もない。すべては、背後で泰然と毛並みを整え続ける義兄のためだ。


「あのままだと、兄者は『高級髭オイルに釣られて曹操の客将になった男』になっちまう。武人としての尊厳が危うい。兄者は強いし、義理堅いし、基本的には立派なんだ。ただ、髭のことになると判断力が壊れる」


「自覚があるのですね」


「痛いほどある」


「苦労していますね」


「ずっとだ」


背後の関羽殿から、朗々とした声が降ってくる。


「うむ。翼徳の申す通りだ。そういうことにしてくれ」


事態の核心など欠片も理解していない声色。だが、その揺るぎない態度が彼を武神たらしめているのも事実だ。


 私は二人を順に眺める。

 偶像として祭壇に立つ者。その足元で懸命に泥をかき出す者。現実の歴史を動かしているのは、間違いなく後者の絶え間ない労働だ。


「分かりました。その条件でディール成立です。公式記録には、関羽殿が忠義を貫くために三条件を提示した、と記載します」


「助かる……!」


「加えて、張飛殿」


「何だ」


「貴方には秘書官としての給与とは別に、特別メンタルケア手当を支給します」


「手当?」


「高級胃薬です。毎月」


「姐さん……!」


張飛殿の目が、かすかに潤むのが見えた。

 過酷な労働環境に置かれた人間は、ささやかな救済に弱い。


「一生ついていきます……!」


「その台詞は軽率に言わない方がいいですよ。この職場で一生は長いです」


「すでに後悔しかけてる」


「早いですね」


関羽殿が深く頷く気配がした。


「では拙者は、曹公の客将として義を尽くそう。ところで李司殿、髭オイルはいつから支給されるのだ」


「本日から試供品を三種出します」


「三種!」


「ローズ、白檀、無香料」


「白檀……!」


「兄者、顔に出すな! 今お前は忠義の武人だ!」


墨を含ませた筆先が、木簡の上を滑っていく。

 天下に響く武神の美談は、一人の男の凄まじい胃痛とともに、こうして産声を上げた。










◇◇










【曹操の執務室】


暮れ泥む陽射しが室内に差し込む中、孟徳の顔には隠しきれない高揚感が満ちていた。

 欲してやまなかった関羽という存在が、ついに手中に収まったのだ。


「いやあ、素晴らしい。関羽が客将だぞ。関羽だ。あの髭、あの武勇、あの忠義。ずっと欲しかった」


「蜂蜜と兵力を失った怒りはどこへ行ったのですか」


「それはそれ。これはこれ」


「便利な感情管理ですね」


「人間は複雑なんだ」


契約書の写しに目を落とした孟徳が、感嘆の声を漏らす。


「この三条件、関羽が言ったのか?」


「公式には」


「公式には?」


「公式にはです」


「……なるほど。張飛か」


「察しが良いですね」


「あいつ、見た目より遥かに頭が回るな」


「ええ。非常に使えます」


「お前の隣で潰れないといいが」


「胃薬は支給します」


「待遇が良いんだか悪いんだか分からんな」


足音が近づき、大量の木簡を抱えた張飛殿が姿を現した。


「姐さん、保護対象の甘夫人と糜夫人の居室手配、生活費、侍女の配置案をまとめた。あと劉備兄者の借金リストも整理したが、途中で気分が悪くなった」


「早いですね」


「慣れてるんだよ。兄者の尻拭いは」


「この利息計算は?」


「兄者にまともに請求しても踏み倒す。だから将来捕捉した時、土地や兵の権利と相殺しやすい形に変えた」


「完璧です」


「褒められても嬉しくねえ」


孟徳の喉が、楽しげに鳴る。


「張飛、お前、うちに来て正解だったんじゃないか?」


「俺は戦場に出たいんだよ! 何で筆を握って兄者の借金を整えてるんだ!」


「適性だな」


「適性って言葉で人を机に縛るな!」


新しい未決裁の木簡を、無言で彼の前に滑らせる。


「では、次に劉備の逃亡ルートを推定してください」


「出たよ……」


「貴方なら分かるでしょう。彼の癖」


「嫌なくらい分かる」


「なら、働きなさい」


「はいはい」


木簡を見つめる張飛殿の顔から、微かに険が抜ける。思考が完全に実務モードへ切り替わった証拠だ。


「兄者は中原には戻らねえ」


「理由は」


「曹操のシェアが強すぎる。姐さんの目もある。商売をするにも兵を増やすにも目立つ。だから遠くへ行く」


「候補は」


「南か西。蜂蜜を売るなら、まだ甘味の流通が薄い地域を狙う。交州あたりで珍品として売れば高値がつく」


「良い推定です」


「ただの嫌な経験則だ」


孟徳が眉をひそめる。


「交州? 遠すぎるだろ」


「兄者は遠さを気にしねえ。むしろ追っ手が面倒がる場所ほど喜んで行く」


「面倒な男だな」


「だから兄者なんだよ」


地図の端、交州の位置に朱を入れる。

 距離はあるが、あの男の行動原理と商品の希少価値を掛け合わせれば、十分に辻褄が合う。


「関羽殿と張飛殿を追跡に出します」


「張飛は秘書官じゃなかったのか」


「現地確認も秘書官の仕事です」


「定義が広いな」


「便利でしょう」


「俺、就任初日から出張かよ」


「赤兎馬を貸します」


「呂布が怒らねえか?」


「怒ったら私が処理します」


「その処理って言葉が怖いんだよな……」










◇◇











【交州の市場】


肌にまとわりつくような湿り気と、肌を焼く熱気。

 中原の喧騒とは違う、南国特有の濃密な空気が市場を覆っていた。


「さあさあ、見てらっしゃい! 中原の皇帝を名乗った大物が死ぬほど愛した蜂蜜だよ! ひと舐めすれば疲れが吹っ飛ぶ。肌に塗ればつやつや。料理に使えば客が泣く。今なら中原最新鋭の鉄剣も抱き合わせでお得だ!」


露店に並ぶのは、本来なら許昌の蔵に納められるべき蜂蜜の壺と、曹操軍の支給品である鉄剣。

 声を張り上げる劉備の表情には、商売の活気だけが満ちている。


「いらっしゃいませー! 中原の鉄剣はいかがですかー!」


「蜂蜜三壺お買い上げなら、剣一本を割引しますよー!」


監視の任を帯びていたはずの朱霊と路招の姿は、完全に熟練の売り子と化していた。歩合制という概念を植え付けられた瞬間から、彼らの立場は不可逆の変容を遂げていたのだ。


「劉備殿……いや、店長」


「何だ朱霊」


「我々、袁術討伐に出たはずですが、ここはどこですか」


「交州だ」


「遠すぎませんか」


「市場開拓に距離は関係ない」


「曹操様への報告は」


「あとでまとめてする」


「李司様が怒りますよ」


「怒られても、儲けが出ていれば多少は何とかなる」


「何とかなるんですか」


「俺はいつもそれで生きている」


路招が、不安そうに売上帳に目を落とす。


「でも店長、売上はすごいです。蜂蜜は中原の三倍で売れています。剣も珍しがられて全部はけそうです」


「だろう? 中原は競合が多すぎる。ここは未開拓市場だ。人が少ないところに行くんじゃない。まだ誰も値段を決めていない場所へ行くんだ」


「何か商人としては説得力がありますね」


「将軍としても説得力が欲しいところですが」


「細かいな、朱霊」


劉備の口元に浮かぶ笑み。そこに罪の意識は微塵も存在しない。

 あるのはただ、新たな富の流れを見極める嗅覚だけだ。


「さて、在庫が減ってきた。売上もまとまった。次は西だな」


「西?」


「益州だ。山が多くて閉じている。だが土地は豊か。人は保守的。外から来た面白い男に弱い」


「それ、根拠あります?」


「俺の勘だ」


「その勘が当たるから怖いんですよね……」


朱霊たちの口から帰還を促す言葉が出ることは、もう二度となかった。










◇◇












【許昌】


赤兎馬の鼻息が、不満げに空気を叩く。

 追跡という名目とはいえ、他人の愛馬を借り受けるのは骨が折れる。だが、絶対的な速度が必要だった。


「本当に赤兎を使ってよいのか」


「許可は取っています」


「呂布殿は何と」


「『壊すなよ』と」


「馬って壊れるのか?」


「呂布の基準では壊れます」


張飛殿が手早く鞍の具合を確かめながら、整理された木簡の束を私に差し出した。


「姐さん、出張中の処理予定だ。戻るまでに優先すべき決裁を色別に分けてある」


「優秀ですね」


「自分の首を絞めてる気がする」


「秘書官の成長です」


「嫌な成長だな」


関羽殿の懐に、新しい小瓶が収められるのが見えた。


「関羽殿」


「何か」


「出張先で髭の手入れに時間をかけすぎないように」


「努力しよう」


「努力ではなく遵守です」


「……承知した」


張飛殿の口元が微かに動く。


「たぶん無理だぞ」


「分かっています」


「分かってるなら言うなよ」


「言わないよりはましです」


追跡の要項を記した木簡を手渡す。


「目的は劉備の捕縛ではありません。現状確認と、持ち逃げ資産の行方の把握です」


「捕まえなくていいのか?」


「捕まえられるなら捕まえても構いませんが、彼は逃げ足と口先の二点で非常に高性能です。無理に捕まえようとすると、こちらの損失が増えます」


「兄者への評価がひどい」

「事実です」

「否定はできねえ」


関羽殿の表情が、一瞬だけ鋭く引き締まる。


「兄者は義の人ではあるが、金を見ると判断が乱れる」


「その認識で済ませている限り、また騙されますよ」


「……金銭感覚に難がある義の人だ」


「かなり譲歩しましたね」


「拙者も努力している」


「はい」


手綱を握る張飛殿の手に、力がこもる。


「じゃあ行ってくる。交州で見つかればいいが」


「見つからない場合は」


「たぶん益州だ」


「同感です」


「嫌だなあ。俺、兄者の動きだけは本当に読めるんだよ」


「才能ですね」


「呪いだよ」


蹄の音が遠ざかっていく。

 あの男の逃亡劇は、単なる移動では終わらないはずだ。












【交州】


二人が到着した時、そこに熱狂の主の姿はなかった。

 残されていたのは、空の壺と、雑に放置された幟。そして、商人たちの間に渦巻く奇妙な熱気だけだ。


「ああ、中原から来た蜂蜜売りの旦那?」


「劉備という男を知っているか」


「知ってるも何も、あの人すごいよ。蜂蜜と剣を売りながら、若者を雇って、あっという間に一団を作って西へ行ったよ」


「西?」


「益州だってさ。『次は山の向こうにビジネスチャンスがある』って」


張飛はその場に膝をついた。


「遅かった……」


「翼徳、気を確かに」


「いや、予想はしてた。予想はしてたんだよ。でも実際に聞くと腹が立つ」


「兄者は風のように早いな」


「感心するな! 盗んだ兵と金で逃げてるんだぞ!」


露店の主が、さらに言葉を続ける。


「あと、朱霊さんと路招さんだっけ? あの二人もすっかり劉備さんの部下みたいになってたよ。接客が上手かったなあ」


「監視役だぞ、あいつら」


「え、そうなの? 完全に店員だったけど」


「兄者ァ……」


張飛の視線が地を這う。

 関羽の指先が、無意識に顎の毛並みを探り当てていた。


「監視役すら取り込むとは、兄者の人徳はやはり底知れぬ」


「人徳じゃねえ! 感染力だ! あれは人たらしウイルスだ!」


「ういるす?」


「分かんなくていい!」


張飛はすぐに立ち上がり、市場の隅々から情報をかき集め始めた。

 その手際は、絶望と怒りを動力源にしているとは思えないほど正確だった。


「兄者はここでかなり儲けてる。現地人も雇ってる。兵数は増えてるな」


「どれくらいだ」


「最初の五万に、現地採用と袁術残党と流れ者が乗って、下手すると七万近い」


「増えているではないか」


「増やしてんだよ! 曹操の兵を元手に! 完全に他人の財布で起業してやがる!」


関羽が腕を組み、真剣な面持ちを作る。


「つまり兄者は、独自勢力として再起しつつあるのか」


「言い方を綺麗にするとそうだ」


「汚く言うと」


「借りパクした兵と蜂蜜で軍閥を作ってる」


「……兄者らしいな」


「兄者らしいで済ますな!」


張飛の筆が、許昌へ宛てた木簡の上を猛烈な速度で滑っていく。


『劉備玄徳、交州にて蜂蜜および武器の売却に成功。曹操軍監視役の朱霊、路招は実質的に劉備の指揮下へ移行。兵力は増加傾向。次の移動先は益州方面と推定』


乱れのない文字。簡潔な要約。


「翼徳、最後に一文を足してはどうだ」


「何を」


「兄者は無事である、と」


「……まあ、それは書く」


「うむ」


『なお、劉備本人は極めて元気に商売を行っていた模様』


その一文だけ、木簡が削れるほど筆圧が強くなっていた。




















【益州へ向かう山道】


軍勢の足音が、山間に重く響き渡る。

 かつて曹操の紋を掲げていた部隊は、すでに劉備の旗の下で完全に統率されていた。


「殿、前方の村でも若者が十数名加わりたいと」


「いいねえ。面接だ。足腰、腕力、あと金勘定ができるかを見る」


「金勘定?」


「できる兵は逃がすな。戦場より後方で稼げる」


「承知しました」


路招の手には、もはや武器ではなく分厚い帳簿が握られている。


「殿、現在の兵数は七万を超えています。蜂蜜の売上で現地の武器も買えました。食糧も、途中の商人からまとめ買いしています」


「よしよし。良い会社になってきたな」


「会社?」


「軍でも国でも会社でも、回すものは同じだ。人と金と飯があれば動く」


劉備の足取りは、どこまでも軽い。


「ところで、本来の雇い主への報告は」


「道中で聞かれた場合は、『我々は帝から勅命を受けた漢の皇叔・劉備の正規軍である』と答えるよう徹底しています」


「曹操軍の痕跡は」


「旗は焼却済みです。装備の刻印は削っています」


「優秀だなあ、お前ら」


「ありがとうございます」


「完全に証拠隠滅できてるじゃないか」


「殿のご指導の賜物です」


人は、属する器によっていかようにも姿を変える。

 劉備という異常な環境は、真面目な監視役すら優秀な共犯者へと造り替えていた。


「益州には劉璋がいる。同族だ。まずは親戚づきあいから入る」


「目的は」


「土地を少し借りる」


「最終的には」


「全部もらう」


「承知しました」


異常な方針転換にも、もはや誰も疑問を挟まない。
















【許昌】


流麗な文字で綴られた報告書から目を離す。

 筆跡の見事さと、そこに記された絶望的な内容の落差が酷い。


「孟徳」


「何だ」


「朱霊と路招は、もう戻らない可能性が高いですね」


「あいつらまで!?」


「はい。劉備に完全に取り込まれています」


「あの詐欺師め……人の兵と将を何だと思ってるんだ」


「資本です」


「即答するな」


「事実です」


孟徳が額を押さえ、深く息を吐き出す。


「関羽と張飛は?」


「交州到着時点で劉備は離脱済み。現在、益州方面へ向かっていると推定」


「追わせるか?」


「追っても費用対効果が悪いです」


「放置か」


「監視です。直接追い回すより、通過先で何を吸収するか記録した方が有益です」


地図に書き込まれた軌跡を辿る。

 逃亡しながら資産を増幅させ、次々と勢力を拡大していく。もはや個人の逃走劇ではない。


「面倒な男だな」


「ええ。ですが、学ぶ点もあります」


「どこに!?」


「低コストでの人心掌握、現地市場への即応、他人の資本を自己資本化する速度」


「褒めてるのかけなしてるのか分からん」


「両方です」


木簡の末尾に、小さな文字で追伸が記されていた。


『追記。兄者は相変わらず息をするように嘘をつき、金を吸い上げ、人を巻き込んでおります。ですが、生きています。たぶん、しぶとく。こちらは引き続き胃が痛いです』


私は筆を執った。


「張飛殿の胃薬、量を倍にしましょう」


「そこか」


「重要です。優秀な秘書官を潰すのは損失です」


「優しいんだか冷たいんだか」


「合理的です」


別の木簡には、関羽殿からの要望が綴られていた。

 髭オイルの追加発注。白檀の香りが殊の外気に入ったらしい。


「関羽殿は白檀をご希望です」


「出してやれ」


「経費で?」


「俺が出す」


「珍しい」


「関羽には気持ちよく働いてもらいたい」


「分かりやすいですね」


「欲しかったからな」


孟徳の口角が上がる。

 損失の怒りよりも、武神を手に入れた充足感が勝っている。


「結局、黒字なのか赤字なのか」


「短期では大赤字です」


「だよな」


「長期では不明です。関羽殿と張飛殿を運用できるなら、回収可能性はあります」


「劉備の逃亡まで含めてか」


「含めます。あの男はいずれ大きな騒動を起こします。その時、こちらに関羽殿と張飛殿がいることは交渉材料になる」


「なるほど」


「ただし張飛殿のストレス管理は必須です」


「胃薬か」


「ええ。あと酒の支給も少量なら認めます」


「甘いな」


「働かせるためです」


「やっぱり冷たいな」


新しい木簡を広げ、筆を下ろす。


『劉備玄徳は、敵としては不快。商材としては有望』


横から覗き込んだ孟徳が、呆れたように呟く。


「お前、あいつを商品扱いする気か」


「人材も信用も噂も、流通すれば商品です」


「恐ろしい女だ」


「今さらですね」


「今さらだな」


張飛殿への返書をしたためる。


『胃薬増量。任務継続。兄の美談維持については、必要に応じてこちらで公式文書を整える』


この言葉を読んだ時、彼がどんな顔をするか。

 容易に想像がつくが、あの災害のような男の動きを正確にトレースできるのは、彼しかいないのだ。

『劉備それはもう起業家では?』と思った方はぜひコメントを。

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