第三十七話:宛城の戦い(後編)~炎上! 浮気の代償と、修羅の母~
今回は、宛城炎上後の逃走と後始末の回です。
大失態の代償は高くつきましたが、とりあえず生きている者から順に処理していきます。
【宛城・寝所】
我が家の男たちは、勝利の直後にとにかく下半身のコンプライアンスが緩む。
今夜の寝所の有様は、最悪の形でその証明となっていました。
室内を満たす甘く濃密な香りは、精神を鎮めるためのものではありません。理性を溶解させ、判断力を奪い、事象の輪郭を曖昧にするための劇薬です。思考を溶かす熱気が満ちる中、そこにアルコールと勝利の陶酔が加われば、英雄であろうと若武者であろうと、等しくただの愚者へと成り下がります。
薄衣が床に散乱する寝台の上で、曹操と曹昂は衝動を抑えることなく、快楽に溺れていました。
「おお……鄒氏よ!最高だ!この肉体の包容力、そしてこの、我が建安文学の精神を締め付けるようないい締まりだ!頭の中の詩心が、今にもマグマのように爆発しそうだ!!」
溢れ出る情動が言葉となって滑り出ます。
孟徳の呼気には濃い酒の匂いが混じっていました。いかにも建安文学の粋を極めたような表情を浮かべていますが、そこから生み出されるのは名句ではなく、たいてい致命的な不祥事です。
そして、その悦楽を貪っているのは彼一人ではありません。
「父上!ずるいですよ!年功序列とはいえ、そろそろ僕とポジションを交代してください!次は私が前を担当します!バックの処理は父上に任せますから!」
傍らで曹昂が身を乗り出しています。
彼もまた、己の欲望を持て余していました。親子の倫理など、この場では何の抑止力にもなりません。城は落ちた、勝負も終わった、ならば利益配分を見直すべきだと言わんばかりの欲望の露呈。
冗談ではありません。何を利益配分しているのですか。
「ああん……曹公も、若君も、お二人ともお強くて激しい……。私の体が、燃えてしまいそうですわ……」
あの女が本心からこの状況を歓迎しているのか、それとも生存戦略として最適な表情を演算しているのか、判別はつきません。ただ一つ確かなのは、このような構図が形成された時点で、降伏した張繍の尊厳は完全に粉砕されるということです。
そして、その最悪の答え合わせは、障子を隔てたすぐ向こう側で、すでに進行していました。
◆
【宛城・廊下】
障子越しに漏れ聞こえる嬌声は、張繍の神経に注がれる猛毒だった。
叔母の名が甘く囁かれるたび、彼の視界は朱に染まっていく。曹操の笑い声が空気を震わせるたび、きつく握り込んだ掌から血が滴る。そこへ曹昂の若々しい声までが交じり合い、彼の脳内から理性という名のブレーキが完全に消え失せた。
傍らの賈詡だけが、一切の熱を持たずに佇んでいる。
彼は怒りを抱いていない。怒りは行動の推進力にはなるが、精密な計算のノイズにもなる。故に彼は、隣で業火のごとく燃え盛る主君の熱量を推し量りながら、淡々と処理すべきタスクを構築していた。
「張繍様」
「聞いたか、賈詡」
「ええ」
「おのれ曹操……!曹操だけでなく、あの小僧まで……!亡き叔父の妻であり、私の大切な叔母上を、よりにもよって親子サンドイッチで弄びやがって……!!男の、いや、人間としての尊厳を踏みにじりおって!!」
血が沸騰する。張繍の喉から漏れる音は、悲鳴へ変わる寸前の、限界まで張り詰めた摩擦音だった。
対する賈詡の返答は、どこまでも平坦だ。
「城門の兵は押さえました。火の手も指示通りに回ります。あとは張繍様が合図を出せば、今夜のうちに曹操軍の中枢を焼き切れます」
「焼き切る……」
「はい。今なら寝所に主君と嫡子が揃っています。親衛隊の警戒も宴で鈍っています。勝率は高いです」
張繍の双眸が障子を射抜く。どれほど殺意を突き刺したところで、内部の下劣な空気は止まらない。
「許さん」
「では」
「許さん!!曹操、絶対に許さんぞ!!全軍突入!!あのエロ親子を、物理的に八つ裂きのミンチにして、豚の餌にしてやれェェーーッ!!」
理性の糸が切れた。
次の瞬間、夜の静寂を切り裂いて、城の各所から凄まじい轟音と共に炎が立ち昇る。
賈詡のプロトコルに無駄はない。警鐘が鳴るよりも早く、城門は濃密な殺意に飲み込まれていった。宛城は今、地獄の釜と化したのだ。
◆
私はその時、天幕の奥で帳簿の数字を追っていました。
戦後処理の帳簿は人間の顔より正直です。略奪の量、兵糧の流れ、降伏兵の再編、張繍配下の再配置。そこに少しでも不自然なズレがあれば、たいてい裏切りか横流しか無能のどれかに分類されます。
そして今夜の数字は、あまりにも美しく整いすぎていました。
綺麗すぎるものは信用しません。
血の匂いが染み付いた城なのに、静かすぎる夜も信用しません。
「典韋」
「へい、姐さん」
天幕の外から即座に声が返ってきます。レスポンスの速さ、そこだけは孟徳よりも圧倒的に優秀です。
「城門の警備、二重にしましたか」
「してます」
「張繍の旧兵は」
「持ち場を分散。まとまって動けないようにしてます」
「よろしい」
それでも、皮膚を撫でる不快な感覚が消えません。こういう時は、だいたい嫌な予感の方が的を射ているものです。
遠くで、何かが爆ぜました。
火薬の乾いた音ではない。木と油が燃え、人間が右往左往する気配が混ざり合った、生々しい破滅の音です。
間髪入れず、外の空気が騒然としました。
「姐さん!西から火の手です!」
「やっぱりですか」
リスク予測が的中しても、何の利益にもなりません。
「典韋、城門を死守しなさい。孟徳のところへ行く」
「へい!……あ、姐さん。旦那、今たしか寝所で」
「知っています」
知っていますとも。だからこそ余計に腹立たしいのです。
双頭戟の冷たい柄を握り込みます。今日は戦闘ではなく警戒業務のつもりでしたから、気分としては完全に時間外労働です。ですが、うちの不良債権どもは私の労務管理など一切考慮してくれません。
火が回る。
怒りのボルテージも上がる。
だいたい、勝った夜に敵将の親族へ手を出すという行為が、経営的視点からどれほどの致命傷になるか理解しているのでしょうか。理解していないからこの惨状なのですが。
障子を吹き飛ばし、廊下を駆け抜け、曲がり角に現れた敵兵の急所を的確に切断する。首が床に落ちて音を立てるよりも早く、次の部屋へと踏み込みました。
今夜の主目的はあくまで救出(アセットの回収)です。
ただし、その対象が救いようのない馬鹿だという事実に変わりはありません。
◆
「殺せェェ!」「曹操の首を獲れェェ!!」
「な、なんだ!?敵襲か!?なぜ火の手が!?まさか張繍め、降伏したその日に裏切ったというのか!!」
「父上!服!早く服を!!僕のパンツが見当たりません!どこに脱ぎ捨てましたっけ!?」
思考がまとまらず視線を彷徨わせる二人。
直後、私は足元の扉を木っ端微塵に蹴り飛ばしました。土煙と火の粉の向こうから室内に踏み込みます。
「……孟徳。子脩」
声を低くしただけで、二人の動きが完全に停止しました。圧倒的な死の予感に首筋を掴まれたような顔です。刃を向けてくる敵兵よりも、身内に怯えるのはやめなさい。少しだけ自尊心が削られます。
「ひぃっ……李司!」
「母上!?」
鄒氏は寝台の端で青ざめていました。彼女のコンプライアンス意識を問いただすのは後回しです。今はまず、この二人を最低限の人間の形に戻さなければなりません。
「いつまで全裸で戦略会議をしているのですか!!とっとと最低限の装甲を履きなさい!今すぐ!ここから強行突破で逃げますよ!」
慌てて布を掴み、腰へと引き上げる二人。
孟徳の口から、無価値な音声データが流れ始めます。
「り、李司!助かった!いや、その、これはだな……軍事演習というか、敵情視察の一環というか、深い政治的意図があって……」
「その見苦しいコンプライアンス違反の報告は、後でゆっくり聞きます」
「はい」
「物理的に」
「聞かれたくないです」
子脩は床の散乱物を漁っていました。
「僕の下衣どこですか」
「自分で探しなさい」
「見つかりません」
「その布です」
「これ、父上のです」
「知りません。履けるなら履きなさい」
火の粉が室内に舞い込み、熱風が頬を撫でます。鄒氏が身を縮めました。私は彼女へ視線を向けます。
「貴女はここに残りなさい」
「え……」
「今、連れて動く方がリスクが高い。死にたくないなら物陰に伏せて息を殺すのです。張繍の兵が貴女をどう扱うかは知りませんが、少なくとも孟徳と一緒にいるよりは生存確率が上がります」
「李司殿……」
「クレームがあるなら後で聞きます。今は生き延びなさい」
鄒氏は言葉を飲み込み、小さく頷きました。
「行きますよ」
「は、はい!」
「はい!」
返事の良さだけは立派です。
今夜のタスク量は、想定を遥かに超えています。
◆
中庭の空気は、熱を帯びて淀んでいました。
馬は散り、火の粉が舞い、兵士の統制は完全に失われている。こういう極限状態においてこそ、人間の本質が露呈します。
「母上、馬が一頭しかありません!」
絶影だけがその場に留まっていました。さすがは名馬です。所有者の知能はともかく、アセットとしての価値は一級品です。
「僕の分を父上に――いや、母上に――」
わずかに迷いを見せた点だけは、評価の対象になります。一方の孟徳は、即座に視界を潤ませていました。
「おお、子脩!なんという孝行息子よ!すまん、恩に着る!」
そのまま鞍へ足を掛けようとしたその後ろ襟を、私は万力のような力で握り込みました。
「え?」
「降りなさい」
「えっ」
「馬は子脩に」
「俺は!?」
視界を反転させ、地面に叩きつけられた孟徳を見下ろします。
「貴方が乗る価値は、今夜この場においては低すぎます」
「低い!?俺、総大将だぞ!?」
「未亡人に手を出して自陣を炎上させたバグは、自分の足で走るのが当然の報いです!全て自己責任です!自分の犯した罪の重さを噛み締めながら、カロリーを消費して走り、徹底的に反省しなさい!」
「ひどい!!あんまりだ!!息子に優しくて俺に厳しすぎない!?」
「ええ。貴方より息子の方がまだ投資に対するリターンが見込めますから」
子脩は絶影の手綱を握ったまま、硬直しています。
「母上、本当に僕が?」
「乗りなさい。これは褒美ではなく、業務命令です」
「はい!」
良い返事です。
「ただし、まだ逃げません。典韋が城門で踏ん張っている。彼を置いて脱出するのは、組織としての損失が大きすぎます」
「でも李司、今から戻るのか!?」
「戻ります」
「俺も!?」
「当然です」
「何で!?」
「典韋を見捨てたら、来月の人材評価に響きます」
「そういう問題か!?」
「そういう問題です」
孟徳は引きつった顔で震える手から剣を抜きました。そこへ敵兵が三人飛び込んできます。私は首と喉をまとめて幾何学的に切断し、子脩に指示を出します。
「子脩、絶影で後方を回って味方へ位置を知らせなさい」
「単独でですか?」
「いえ。途中で父上が足を引っ張ったら、躊躇なく蹴り落として構いません」
「分かりました」
「待て、息子にそんな教育をするな!」
すでに教育済みです。
◆
典韋は、文字通り一歩も引いていませんでした。
武器をロストしたと聞いた時点で嫌な予感はしていましたが、まさか敵兵を左右の腕で一本ずつ掴み上げ、質量兵器として振り回しているとは想像もつきません。人間を鈍器として扱う設計思想には疑問が残りますが、物理的な破壊力は絶大であるため否定しづらい。
「ここは通さん!!」
血と泥で顔面の判別がつきませんが、その咆哮の波長だけで典韋だと認識できます。
敵兵の密度は高い。典韋の出血量も危険域に達している。介入が数分遅れていれば、完全にロストしていたでしょう。
「典韋!」
「姐さん!?」
私は道中で調達しておいた巨大な戦斧を、正確な放物線を描いて投げ渡します。
「代わりのデバイスです!文句は後で!」
「おおっ、重さがいい!」
空中で柄を掴み取った瞬間、彼の顔に生気が戻りました。やはり筋肉で構成された人間には、相応の質量を持ったツールを提供すべきです。
「姐さん、何で戻って――」
「私の所有物に勝手に傷をつけられて黙っていられるほど、私の感情制御システムは優秀ではありませんので」
言葉での説明はここで打ち切りです。
「ヒャッハーーーッ!!私の夫と息子と部下に勝手に触るなァァァ!!」
目前の壁が崩壊します。首が飛ぶ。腕が宙を舞う。火の粉の向こうで、圧倒的な暴力を前にした兵士たちが一斉に後退しました。
「すげぇ……」
「感心していないで左です!」
「へい!」
戦斧が空間を薙ぎ払い、三人まとめて吹き飛びました。武器という名のインターフェースを与えれば、彼の仕事効率は跳ね上がります。
「おい典韋!見とれてないで戦え!今の李司は敵味方識別機能が壊れてる!」
「旦那、それ姐さんの前で言っていいんですか!?」
「よくない!でも本当だろ!?」
「本当ですけど!」
「そこ、うるさいですよ」
私は振り返らずに一人の喉を裂きます。断末魔が短い。良い切れ味です。
敵兵は一瞬怯みますが、賈詡の計画は甘くない。前が崩れても後ろが押してくる。だからここで必要なのは派手な勝利ではなく、退路の確保です。
「典韋、三十歩下がって門の外へ道を開けます」
「へい!」
「孟徳、子脩は?」
「今のところ生きてる!たぶん!」
「たぶん禁止」
「じゃあ生きてる!」
「よろしい」
典韋が斧で道を作り、私が横から塞ぎ、孟徳がその隙間を必死についてきます。総大将が一番無様なのはどうにかならないものでしょうか。
ですが、生きていれば後でいくらでも殴れます。
今はまず、全員で抜ける。その一点だけです。
◆
【宛城郊外の森】
木々の隙間から夜明けの光が差す頃には、全員が泥と血で別人になっていました。
典韋は木にもたれて座り込み、孟徳は地面に仰向け、子脩は絶影の首を撫でながら呼吸を整えています。私だけが平常運転です。運動不足の解消にはちょうどよかったですね。
やりすぎて肩が軽く熱いですが。
双頭戟についた血を拭きながら、私は三人を順に見ます。
まず典韋。生存。傷は多いが致命傷なし。よろしい。
次に子脩。生存。馬も無事。よろしい。
最後に孟徳。生存。元凶。問題あり。
「浮気して本当にすいませんでした!!」
孟徳は土下座が速い。そこだけは毎回感心します。危機察知能力がゼロではない証拠です。
「戦勝に完全に調子に乗りました!もう二度としません!」
「前にも聞きました」
「今回は特に反省してます!」
「前回もそう言いました」
「言いました」
「学習してください」
「はい……」
子脩も肩を落としています。
「母上……僕も、本当に申し訳ありませんでした」
「貴方もです」
「はい」
「二十歳にもなって、父親と並んで鼻の下を伸ばすとは何事ですか」
「はい……」
「しかも敵地です」
「はい……」
「しかも相手の親族です」
「はい……」
「しかも親子でです」
「はい……」
最後だけ声が小さくなりました。そこは恥じなさい。
「次、同じことをしたら」
「はい」
「貴方の馬を永久没収します」
「それは困ります!」
「困ることをしたのです」
「はい……」
「一生徒歩で行軍してもらいます」
「それはもっと困ります」
「では二度とやらないことです」
「やりません!本当に!」
典韋が後ろで苦笑しています。
「へへっ……でもまあ、皆生きててよかったですよ。やっぱ姐さんは最高だなあ。俺、一生ついていきますよ」
「給金分は働きなさい」
典韋は嬉しそうです。褒められた犬ですね。かなり大きくて、かなり血まみれですが。
そして私は、最後に孟徳の前へしゃがみ込みました。
この人は目に見えて震えました。戦場よりこっちの方が怖いという顔です。
ふっと静寂が下りました。呆れ果てたような沈黙が間を置きます。
「……まったく。燃費が悪くて、手のかかる不良債権ですね」
孟徳は顔を上げます。怯えと安堵が半分ずつ混ざった顔でした。今なら少し甘い言葉を混ぜた方が効きます。こういう時の教育は、硬軟織り交ぜるのが基本です。
私は耳元へ顔を寄せました。帯に手が掛かる微かな衣擦れの音が、静かな森に響きます。
「反省しているなら、口先だけでは足りません」
「は、はい」
「体(労働)で示してもらいます」
「久しぶりの実戦で、私の方もまだ興奮が抜けません。今夜は朝まで一睡も寝かせませんよ」
「えっ」
「私が一番だと、骨の髄まで物理的に刻み込んであげます」
「えっ」
「鄒氏よりも」
「はい」
「長安の誰よりも」
「はい」
「筆頭株主の私の体が最高だと」
「はい」
「大声で」
「大声で!?」
「叫――いえ、発声しなさい」
「そこ言い直すんだ!?」
私は少しだけ帯を緩めます。孟徳の顔色が一瞬で変わりました。全身の血の気が引き、次の瞬間には顔面が沸騰したように熱くなる。忙しい人ですね。
「は、はいぃぃぃ!!喜んで!!李司が宇宙で一番です!!」
「宇宙は大きすぎます。もっと具体的に」
「天下で一番!」
「よろしい」
「長安でも宛城でも一番!」
「当たり前です」
「もう未亡人には手を出しません!」
「既婚者にもです」
「はい!誰にもです!」
「それは少し寂しいので、そこは相談です」
「えっ」
「冗談です」
「本当に冗談ですか!?」
「どうでしょう」
読んでいただきありがとうございました。
生き延びた後の説教と精算まで含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
印象に残った場面など、ぜひ感想をいただけると励みになります。




