第三十六話:宛城の戦い(前編)~遺伝するスケベ心~
宛城。
戦わずして城は落ちた。
だが、それは勝利ではない。
計算された崩壊の、ほんの入り口に過ぎなかった。
【宛城 大広間】
上座の斜め後方。そこが私の定位置です。
視界の下方で平伏する張繍の背中には、隠しきれない屈辱の熱が燻っています。若い。輪郭に張り付いた未熟な自尊心は、敗北の二文字だけで容易に折れるものではありません。圧倒的な軍力差という現実を前に降伏を選んだ点だけは評価に値しますが、私の興味はすでに彼から離れていました。
惹きつけられるのは、張繍の背後。
大広間の空気の底に沈殿するように、ひっそりと息を潜める一人の男。
賈詡。
目を引く造作ではありません。発する音の波長は低く、存在感すら風景に溶け込んでいる。
しかし、その瞳の奥だけは違います。
他者の感情、矜持、そして命すらも冷徹な計算式の変数として放り込み、ただ静かに最適解を弾き出そうとする目。
郭嘉の放つ劇薬のような華やかさはなく、荀彧の抱く正義への陶酔もない。不要と判断すれば、自らの血肉すら無感情に切り捨てる。そんな絶対的な冷温がそこにあります。
ええ。
極めて好ましい。
こちらの盤面に置けるのならば、の話ですが。
上座に座る孟徳は、口元に浮かぶ機嫌の良さを隠そうともしません。降伏者へ降り注ぐ声の響きは、甘く、そして柔らかい。
この人は己の寛大さという名の「器」を見せびらかす瞬間を、心の底から愛しているのです。
「うむ。張繍よ、無駄な血を流さず降伏するとは殊勝な心がけだ。貴殿の降伏を受け入れよう。これからはともに天子を盛り立てていくぞ」
「ははっ! 曹公の寛大なお取り計らい、一族を代表して深く感謝いたします!」
戦わずして堅牢な城が手に入ったのです。将も兵も、一刻も早く勝利の美酒で喉の渇きを潤したいのでしょう。理解はできます。生物としての自然な欲求です。
しかし、周囲が熱に浮かされる中、賈詡だけは違いました。
主君が膝を屈しているこの瞬間にあっても、彼の呼吸の乱れは一切ない。己の敗北すら事前に計算へ組み込んでいたかのような、極度に乾いた顔。
ますます手に入れたくなりました。
降伏の調印が終わり、張繍たちが退出へ向かいます。
その背中が視界から完全に消え去る前に、私は前方へ声を落とします。
「孟徳」
あくまで些末な報告の延長であるかのように。正面から否定の刃を突きつければ、この男は不要な意地を張りますから。
「張繍を無条件で許すのですか?」
「何だ、また細かい計算か」
「細かくはありません。圧倒的優位な状況下で、一度の交戦も経ずに降伏した者が、状況変化に応じて再び反旗を翻す確率は六〇パーセントを超えます」
「六〇か」
「ええ。加えて本人が若い。血気に溢れている。周囲に都合の良い薪をくべる者がいれば、いとも容易く燃え上がります」
無防備で、無邪気な笑顔。
私が最も扱いを持て余す表情です。彼は理屈を理解していないわけではない。ただ、「信じてやる側」の余裕に酔いしれている。大きな器を持つ英雄という配役を、心地よく演じているだけなのです。
「悪いか? 戦わずして城も兵も手に入った。こちらのコストはゼロだぞ。わざわざ波風を立てることもあるまい。それに張繍は若い。恩を売って育てれば、いずれ立派な戦力になる」
この人は、若さという不確かな幻想へ先行投資したがる悪癖がある。そこにかつての自分の影を重ねているのでしょうか。
「……そうですか」
ここで張繍の処遇に固執しても、生産性はありません。本命は別のところにあります。
「私は張繍より、その後ろにいた参謀を引き抜きたいのですが」
「参謀?」
「賈詡です。あの男、良い目をしています。私の計算の裏をかいてきそうで、非常に興味深い」
孟徳の目が細く鋭くなります。
私がここまで露骨に他者への執着を見せるのは珍しいのでしょう。郭嘉や荀彧といった一級品を抱えるこの人は、私の「欲しがり方」の熱量で対象の価値を測るという、奇妙な癖を持ち合わせています。
「そこまで言うか。なら呼んでみよう。おい、賈詡! まだそこにいるか!」
衣擦れの音すら立てず、静かに賈詡が戻ってきます。
足音のない人間は生存率が高い。私の理想とする仕様です。
「何用でしょうか、曹公」
「どうだ、張繍の下を離れて俺の軍師にならんか。郭嘉や荀彧とも、きっと話が合う。厚遇を約束しよう」
「ありがたいお話ですが、お断りいたします」
条件を吟味する素振りすら見せない。礼儀としての辞退ではなく、根底からの拒絶。だからこそ価値が跳ね上がります。
「条件に不満が?」
「条件、ですか」
「ええ。給金は現在の三倍を保証します」
「三倍」
「もしくは我が丞相府独自の評価制度である『イイネ』で月給を支払います。集めれば社内での発言権が飛躍的に上がりますよ」
「……イイネ」
「はい。極めて便利なシステムです。ほかには許昌の優良不動産でも構いません。家屋、土地、倉庫、収穫見込み込みの農地まで、すべて揃えられます」
表情筋の動きは最小限。しかし、脳内では間違いなく私の正体を怪しむアラートが鳴り響いているはずです。
それで構いません。平凡な提示条件で首を縦に振る程度の底の浅さなら、最初から私の計算式には入れません。
「……いえ」
冷気を帯びた眼差しが私を射抜きます。
「条件の問題ではございません。私は長安で李傕らに仕え、国を戦火に巻き込んだ大罪人です。そんな私を拾っていただいた張繍様には恩がある。合理的ではありませんが、私は彼を裏切れません」
非合理と自覚した上で、あえてその道を選択する。
自らの感情の波に無自覚に溺れる人間より、はるかに好感が持てます。
「頭は切れるが義理堅い堅物だな。ならば良い。その忠義を全うされよ」
「ありがとうございます」
手元に置きたかったですね。
ああいう手合いは、放っておけば確実にこちらの喉元へ致命の刃を差し向けてきます。本人にその意思がなくても、環境が彼を凶器へと組み上げる。張繍の背後にあの男の影がある限り、平穏な夜は訪れません。
◆
【城外 曹操軍本陣】
初陣の血と泥を洗い流した後の兵士は、疲労と達成感の入り混じった特有の匂いを放ちます。
若き男たちの持つ、あの無防備な熱気は厄介です。甘やかしては増長し、突き放せば拗ねる。最適解は、具体的な事象を取り上げて称賛し、数字という冷たい事実で全体を引き締めること。
目の前で、子脩が重い鎧を解いています。
二十歳。
顔の造作は見事に私を写し取っていますが、視線の緩み方、無意識に女性の急所を舐め回すような目の動線は、呪わしいほど父親と同一です。
遺伝子の偏りというものは、なぜこうも残酷なのでしょうか。
「汗を拭きなさい」
「ありがとうございます、母上」
渡した布を受け取り、首筋を丁寧に拭う仕草。
己の身だしなみを几帳面に整える習慣は評価できます。戦場において、自己管理の欠如は死への最短距離ですから。
「それにしても」
「父上、無駄にカッコつけていますね。さっきの賈詡という男、母上がもう少し金とポストで押せば絶対に落ちそうでしたけど」
「その観察は半分正解です」
「半分?」
「賈詡は金で動きます。ですが、今日ではありません。あの男は今日、義理を選ぶという仮面を被っていました。ああいう日は、どれほど利益を積んでも反発を生むだけです」
「なるほど」
「ただし、将来的な買収の可能性は残されています」
「やっぱりあるんじゃないですか」
子脩の返しに、私は口角を微かに引き上げます。
思考回路の接続は非常にスムーズです。下半身の制御機構さえまともに機能していれば、完璧な芸術品だったのですが。
「それより子脩」
「はい」
「初陣、ご苦労様でした。敵将を討った際の剣筋、そして体重移動のベクトルに無駄がありませんでした。踏み込みの深さ、引き際の角度。すべてが理想値に達しています。私が施した教育プログラムは完璧に機能しました。我が陣営の最高級アセットに育ちましたね」
子脩の表情が、春の陽光を浴びたように輝きます。
二十歳になっても、この種の絶対的な肯定が最も効果的だというのだから、底が知れます。
「へへっ……照れますね。父上に褒められるより、母上に『完璧なアセットだ』って言われる方がずっと嬉しいですよ」
「貴方ももう二〇歳。立派な武将であり、次期CEO候補です。これからは幼名ではなく、字で呼ばないといけませんね。『子脩』と」
「はい。父上、最後はだいたい『男らしかったぞ!』とかで雑なんですよ」
「雑で悪かったな」
天幕の奥から、酒の匂いを纏った男が顔を出します。
手に酒杯を持っている時点で、彼の中の戦はすでに過去のものです。勝利に酔う姿があまりにも無防備で、眩暈がします。
「俺はいまだに『孟徳』と呼び捨てだがな。敬称がない」
孟徳が、幼子のように唇を尖らせます。
「では明日から『丞相様』と役職名で呼びましょうか。極めて事務的に、冷たく」
「それは嫌だ」
「でしょうね」
「夫婦の距離感がおかしくなるだろう。俺が完全に下っ端みたいになる」
「現状でも家庭内のヒエラルキーではだいぶ下層です」
「言うな!」
「父上、母上は見た目が相変わらず二十代前半にしか見えませんし、呼び捨てでも周囲は違和感を覚えませんよ。むしろ僕が母上を連れて許昌の市を歩いていると、かなりの頻度で『恋人同士』と間違われて声をかけられます」
孟徳の額に、青々とした血管が浮かび上がります。
見事な反応速度です。
「おい子脩! 実の母親をそんな目で見るな! お前のその下半身の軽さと女たらしの気質、一体誰に似た!」
「貴方です」
「早い」
「強烈なスケベ遺伝子の完全なコピー。DNA検査をするコストすら無駄です」
「俺のせいにするな!」
「動かしようのない客観的事実です」
「せめて半分は否定してくれ!」
「半分どころか八割以上が貴方の成分です」
「いやでも、父上の言うことも分かりますよ。だって母上、見た目だけなら本当に綺麗すぎるんですもん」
「おい」
「言っておきますが、そういう意味ではなくて――」
「弁明を始める時点で、すでに黒です」
「母上! 理不尽です!」
私は新しい布を、子脩の顔面へ放り投げます。
「口を拭きなさい。下半身だけでなく口元もだらしない」
「はい」
「素直なのは美徳ですね」
「そこ、俺には言わないよな」
「貴方はもう、根本から手遅れですから」
よろしい。
家族としてのコミュニケーション機能は、まだ正常に稼働しています。
あくまで、この時点では、ですが。
◆
【宛城 大広間】
降伏した張繍が、勝者への恭順を証明するためにかき集めた贅の限り。濃密な酒の匂い。琴の弦が弾く媚びた音色。肺を満たす甘い香。
敗者が勝者の機嫌を取るための、古典的かつ効果的な舞台装置。
そこへ。鄒氏が姿を現しました。
なるほど。
張繍の計算がそこまで及んでいないのか。あるいは、身内を止めるだけの権力基盤をすでに喪失しているのか。
どちらにせよ、致命的なエラーです。
鄒氏は琴の前に座り、薄い絹布越しに柔らかな曲線を曖昧に浮かび上がらせています。
肌の露出面積そのものは少ない。むしろ、意図的に隠されている。
見せたい部分を巧妙に隠蔽し、見えそうで見えないギリギリの角度を計算し尽くした女の所作。それは、男の脳内に張り巡らされた理性の防壁を、最短距離で焼き尽くす高熱のレーザーです。
おまけに、未亡人。
付随するバックグラウンドまで最悪の条件が揃っている。
これで発火しない男がいるとすれば、仙人か、さもなくば物理的に機能を取り除かれた者だけでしょう。
そして極めて遺憾なことに、我が家の男たちはそのどちらにも該当しません。
私は少し離れた席から、孟徳と子脩の横顔を観察します。
完全なる同一規格品。
網膜に焼き付けたいとばかりに細められた目。緊張感を失い、間抜けに伸びきった鼻の下。酒杯を握る指先の無駄な力み。
私というフィルターを二十年も通し、論理と美意識で磨き上げてきたというのに。こういう特定のトリガーが引かれた瞬間、父親の劣悪なアルゴリズムが子脩のシステムを完全にジャックしてしまう。
「おい、子脩……見たか?」
「見ました」
「とんでもなく美しいな」
「完全に同意します」
嫌な予感しかしない通信プロトコルが開始されました。
「あのうなじから肩の線……」
「熟れきった果実の香りがする」
「分かります」
「あの薄衣の揺れ方、反則でしょう。計算され尽くしたチラリズムです」
視界の端で、郭嘉がこの地獄絵図を肴に楽しそうに酒を飲んでいます。後で物理的な制裁を与えましょう。
「とにかく胸がいい」
「建安文学の雄大さと深い哀愁を表現している」
「父上」
「何だ」
「それはただ胸を見たいだけの男が、詩人らしく言い換えているだけです」
「うるさい、でもそうだ」
「僕は尻の方が気になりますね」
「ほう」
「安産型というか、男の理性を狂わせる幾何学カーブです」
「分かるぞ」
「ですよね」
「お前、やっぱり俺の息子だな」
肩を叩き合う鈍い音が響きます。
視覚的にも聴覚的にも、公害の域に達しています。
誰かこの二人の杯に遅効性の毒を盛ってくれないでしょうか。いえ、盛られては困ります。今夜の警備スケジュールが根本から崩壊しますから。
「よし、子脩」
「今夜、あの女を俺の寝所へ」
「やはりそう来ますか」
「勝者の特権だ」
「父上、そのセリフ、最低ですが説得力はあります」
「げへへ」
「ぐふふ」
「事前の身辺調査は済んでいます。鄒氏。張繍の亡き叔父、張済の未亡人だそうです」
「未亡人」
「背徳感が最高ですね」
「最高だな」
「僕も若いですから、もう我慢の限界です」
「じゃあまずは親父である俺が先に味見をして」
「ずるいですよ」
「何がだ」
「そこは公平にじゃんけんでしょう」
――この二人、まとめて焼却炉へ放り込みましょうか。
発信される音声データが最低なのは言うまでもありませんが、何より「父子で同じ獲物を品定めし、共有の交渉をしている」という構図が、倫理的に完全に腐敗しています。
門を潜った瞬間、彼らの脳内から道徳という概念がログアウトしたとしか思えません。
勝者の優越感に浸る男は珍しくありませんが、ここまで下品な連携を淀みなく行えるのは、ある種のグロテスクな芸術です。
今すぐ彼らの襟首を掴み、中庭の冷水へ顔面から沈めれば、少なくとも今夜の最悪のシナリオは回避できる。
しかし。
周囲には、張繍の配下たちの目があります。
正室である私がここでヒステリックに暴れれば、それは新たな火種として城内に拡散し、不用意な情報を敵へ与える結果となる。
理性という名の極細のワイヤーで、衝動を縛り付けているだけです。
決して、彼らの蛮行を許容したわけではありません。
◆
【宛城 城門前警備詰め所】
こちらのトップが敵方の親族へ手を出す。
完璧なまでの悪手です。
危機管理の教本があれば、第一章の冒頭に太字で記載されるレベルの愚行。
「典韋」
「へい、姐さん」
私の呼称を訂正する労力は、すでに数年前に放棄しています。
「本陣の警備体制を、今夜はレベル三へ引き上げます」
「かなり高いですね」
「当然の措置です。張繍は膝を折りましたが、ここは依然として敵地。加えて今夜の大広間からは、知能指数の著しく低いオスどもの笑い声が漏れ聞こえてきます」
「聞こえますね」
「孟徳と子脩です」
「そりゃまた最悪だ」
「ええ。さらに状況を悪化させる要素として、あの二人は現在、張繍の叔母である未亡人へ同時に劣情を向けています」
「……本当に最悪ですね」
「はい」
「姐さん、そこだけは俺の鉄戟でもどうにもならねえです」
「完全に平和ボケの症状です。張繍陣営がこの事実を認知すれば、屈辱による暴発のリスクが跳ね上がる。親族の名誉を汚されるという事象は、論理的な計算を吹き飛ばし、人間を熱で動かしますから。今夜は一兵たりとも独断で動かしてはいけません。出入口、見張り、伝令の動線。すべてを固定しなさい。蟻一匹、無許可で通すことは許しません」
「了解です。姐さんの命令とありゃ、俺が目を光らせてる限りこの城門は岩より硬い」
典韋が、分厚い装甲のような胸板を叩きます。
「ただし、広間の中で起きている下半身の暴走までは、貴方にも防げませんよ」
「違いない」
「今から広間へ戻り、あの愚かな親子の頭部を井戸水へ沈めるべきでしょうか」
「それは見てみたい気もしますが、姐さんが本気でやるとそのまま窒息しかねない」
「加減はします」
「姐さん基準の加減は信用できねえです」
その時。
路地の深い暗がりの奥で、微細な気配が変容しました。
私は反射的に視線を射出します。典韋の筋肉も同時に収縮しますが、私は手で制止します。
殺気ではありません。
極めて低温で、無機質な計算の稼働音。
賈詡。
距離があっても分かります。
あの男は今、宴の空気に酔うことなく、自らの脳内で新たな数式を組み上げている。その視線が捉えているのは、孟徳の寝所へと静かに引き入れられていく、鄒氏の細い影。
ああ。
終わりましたね。
完全に、導火線に火がつきました。
「遅かった」
「何がです?」
「賈詡が、こちらを全滅させるための計算を完了しました」
「は?」
「張繍のプライドを踏みにじった。しかも、組織のトップとして最も避けるべき形で。あの賈詡という男が、この極上のトリガーを利用しないはずがありません」
典韋の太い眉が、険しい角度に折れ曲がります。
「なら姐さん、今すぐ切り込んで賈詡を」
「まだです」
「まだ?」
「この段階で物理的な排除を行えば、こちらが『降伏直後の非武装の相手を処刑した』という事実だけが残る。張繍の兵の憎悪が、完全に正当化されてしまいます」
「じゃあどうするんです」
「防衛ラインをさらに内側へ収縮させます。典韋、今夜は貴方自身が孟徳の寝所の扉の前に立ちなさい。誰がどのような理由をつけても、一歩も動いてはいけません」
「了解」
「武器は私が預かっておきます」
「へ?」
「孟徳のです」
「そっちか」
同じ時刻。
路地の暗闇と同化しながら、賈詡の唇がかすかに動いていました。
――曹操の甘さは計算済みだった。だが、ここまで底が抜けているとは。
城を明け渡した相手の面子を、わざわざ自らの手で踏みにじり、対象が鄒氏。張繍の肺腑に溜まった怒りに着火するには、十分すぎる燃料だ。
英雄の器などではない。ただの、欲に忠実な凡夫。
賈詡の瞳は、夜の闇の奥にある構造を正確にトレースしていた。
怨恨、屈辱、兵の動揺。地理的条件、警備の死角。城門の耐久度、火矢の軌道、奇襲のタイミング、退路の確保。
すべての変数が、冷たい数式の中へ組み込まれていく。
怒りではない。純粋な、収支の計算。
「……計算が変わったな」
感情の起伏を一切伴わない、乾いた音声。
だからこそ、致命的。
「今夜、曹操を燃やしてしまおう」
ここから先は、ただの敗戦ではありません。
「なぜ負けたのか」ではなく、
「なぜ壊れたのか」を楽しんでいただけたら幸いです。
感想、お待ちしています。




