Intermission 52 「些事」
カルハ島の商業区、香料と染料を扱う中堅商人カポノは、店の奥でルミナプレートの盤面を見つめていた。
そこに浮かんでいる数字は、悪くないどころではない。
「……やったぞ」
思わず、声が漏れる。
大口の約定だった。
金持ち向けの高級香油がまとめて捌けた。盤面に積み上がったリルは、つい先月までの自分では考えられないほどの額だ。
店番をしていた若い奉公人も、目を丸くした。
「親方、やりましたね!」
「ああ……ああ、やったさ」
そう答えながらも、カポノの視線は盤面から離れなかった。
入ったのは、リルだ。
儲けたことには違いない。
だが、それをそのまま喜びきれない自分がいる。
「親方?」
「……両替に行くぞ」
「え、いまですか?」
「いまだ」
即答だった。
大口が入った。その直後に動く。商人として、当然の動きだ。
リルが増えたなら、必要な分を残してディムに換える。仕入れでも、船便でも、遠方との取引でも、やはり最後にものを言うのはディムだ。少なくとも、今のところは。
カポノはカバンを持つと、両替商へ向かった。
相手は古くから付き合いのある店だ。表向きは小さな店構えだが、実際には王国貴族の後ろ盾がある。特区の両替を任されている以上、ただの町の両替屋であるはずもなかった。
「よう、カポノの旦那」
帳場の男は、いつも通りの笑みで迎えた。
「今日はまた景気がよさそうですな」
「まとまった約定が入った。ディムに換えたい」
そう言って、カポノはルミナプレートを卓に置いた。
男の目が、一瞬だけ細くなる。
「どれほどで?」
「140万だ」
その数字を聞いた男は、すぐに営業用の笑みに戻った。
「……ありがたい話ではありますが、いまは少々立て込んでおりまして」
「立て込む?」
「ええ。ディムの引き合いが強いのです」
「なら、なおさらだろう。こっちは手数料を払う」
「もちろん、公定の手数料は頂戴します」
そこまで言って、男は少し声を落とした。
「ですが、最近は皆さま、お急ぎでしてね」
嫌な言い方だった。
カポノは眉をひそめる。
「何が言いたい」
「色をつけてくださる方から、優先しているということです」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
だが、少し考えれば意味が分かってくる。
「……リルの相場は固定だろうが」
「ええ、公定の交換比率は固定です」
男はあくまで穏やかに答えた。
「ですので、そこは変えておりません。私どもは、ただ、一部のお客様に便宜を図っているだけです」
「それを世間では、同じと言うんだ」
カポノの声音は低くなる。
男は肩をすくめた。
「旦那も商人でしょう。こちらにも事情があるのです」
事情。
その一言で済ませていい話ではない。
公定では、リルとディムは等価のはずだ。そこに決められた手数料が乗るだけ。それが、この特区の建前だった。
だが現実には違う。
ディムに換えたい客が増えた。
なら、ディムを渡す側は選ぶ。
少しでも上を出す客を先に通す。
比率は変えていない。だが、実際に払う総額は増えていく。
それはつまり――。
「……リルが、安くなってるのと同じじゃないか」
誰に聞かせるでもない呟きだった。
男は否定しなかった。
「どうされます?」
静かな問い。
カポノは奥歯を噛みしめた。
ここで換えないという選択肢はない。リルのまま抱えていても、次に何が起きるかわからない。そう思ってしまった時点で、もう負けだ。
「……いい。上乗せする」
「ありがとうございます」
帳場の男は、笑顔を浮かべて淡々と準備を進める。
受け渡しのため、二枚の板が卓に並ぶ。
ルミナプレートと、アルカナプレート。
新しい金と、古い金。
それぞれが放つ光は、これまでと同じだ。
だが、カポノの目にはもう同じには見えなかった。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
ロピカルハ王国、財務府。
財務相アヌエ・ポハクは、机に置かれた報告書を読み終える前に、顔を上げた。
「……もう一度言え」
呼び出された官僚は、緊張したまま言葉を繰り返した。
「市中でのディム需要が、明確に増えております。特区の指定商人用の交換所だけでなく、民間の両替商でも同様の動きが見られます」
「準備金はまだあるはずだ」
「あります。ですが、減る速度が……想定より早いのです」
別の官僚が、補足する。
「交換そのものも増えておりますが、それ以上に問題なのは、優先交換のために上積みを払う客が出始めたことです」
「……市中で、実質的な切り下がりが起きていると?」
「感覚としては近いかと」
アヌエは黙った。
最悪の形だ。
等価だと信じられているから、等価が維持される。
そこに一度でも「そうではないかもしれない」が混ざれば、あとは早い。
「至急、追加準備の試算を出せ」
「すでに計算しております」
官僚は待っていたように別紙を差し出した。
「現行ペースが続いた場合、特区の信用維持には王室財産からの拠出が必要になります」
アヌエは、その一文を見て小さく息を止めた。
ついにそこまで来たか。
制度の立ち上げに金がかかることは、最初からわかっていた。だが、これは立ち上げ費用ではない。信用維持のための燃料だ。
燃やし続けなければ、止まる。
「いそぎ陛下……ではなく、殿下に上げる」
アヌエは立ち上がった。
「緊急だ。すぐにだ」
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
王宮の一室。
ファルハンは、窓の外の夜を見ながら報告を聞いていた。
香料の甘い匂いが漂う室内に、アヌエの声だけが硬く響く。
「――以上が現状です。市中のディム需要は明確に増加しております。このままでは準備金の減少が看過できません」
アヌエは言葉を切り、深く頭を下げた。
「リルの維持には、王室財産の一部拠出が必要と判断いたしました。緊急のご決裁を」
しばしの沈黙。
ファルハンは振り返りもせず、淡々と答えた。
「そのような些事、好きにすればいい」
アヌエは、一瞬だけ言葉を失った。
「……殿下?」
「聞こえなかったか」
ファルハンはようやく振り返る。だが、その顔に焦りはない。苛立ちすら薄い。雑事を片づける時の感覚に近い。
「必要なら王室財産を切り崩せ。足りぬなら別の名目を立てればいい。財務府の仕事だろう」
「しかし、それでは王国の信用そのものに――」
「大事が完成すれば、そのようなことは些末なことだ」
短い一言だった。
その言葉が、室内の空気を凍らせる。
アヌエは息を呑んだ。
ファルハンの視線は、すでにアヌエではなく、その先を見ていた。王国の財政でもない。市中の混乱でもない。もっと別の、目には見えない完成図だけを見ている目だった。
「今は繋いでいればいい」
ファルハンは、静かに言う。
「必要なのは時間だけだ」
その言葉に、アヌエは背筋の奥が冷えるのを感じた。
自分が守ろうとしているのは、制度だ。信用だ。国家の帳簿だ。
だが、この男が見ているのは、そんなものではない。
ファルハンにとって、通貨も財産も、王国そのものですら、ただ完成までの部材でしかないのだ。
「……承知、いたしました」
そう答えるほかなかった。
アヌエが下がったあとも、ファルハンは窓辺から動かなかった。
市中では、商人たちが新しい金の価値に迷い始めている。
財務府では、古い金を守るために王室財産を燃やそうとしている。
それでもファルハンにとっては、すべて些事だった。
儀式さえ完成すれば、そんなものはどうでもいい。
夜の王宮は、ひどく静かだった。




