Intermission 51 「作戦とレクスの憂鬱Ⅱ」
最初に入ったのは、高級布地を扱う店だった。
店の奥には、絹のようになめらかな生地、金糸を織り込んだ薄布、魔力で淡く光る染布が並んでいる。ロピカルハ産のものだけでなく、北アルカ大陸やレオリア経由の輸入品も多い。
店主は、リーリアを見るなり、満面の笑みで頭を下げた。
「いらっしゃいませ、お嬢様。お探しのものはございますか?」
「きれいな布が欲しいの。見ているだけでも楽しいわ」
リーリアは両手を胸の前で合わせ、目を輝かせた。
演技なのか、素なのか、レクスには判断がつかなかった。
「それでしたら、こちらなどいかがでしょう。ソラリス共和国から入った月光織でございます。夜の光を受けると、淡く銀色に輝きます」
店主が広げた布は、確かに美しかった。
薄い青銀の生地が、朝日の下でも静かに光を返している。リーリアは思わず身を乗り出した。
「わあ……!」
素が出た。
レクスは小さく咳払いした。
「……お嬢様」
「あっ。こ、これは……とても趣味のよい品ですわね」
リーリアは少しだけ声を高くした。
店主は満足そうに笑った。
「お目が高い。外国のお嬢様は、やはり目利きでいらっしゃる」
レクスは、布地の端に指を添えた。
表向きは、質感を確かめているだけに見える。だが、指先にはごく薄く魔力が流れていた。
繊維、染料、保存状態、混ぜ物の有無。
鑑定魔法の結果が、レクスの意識に静かに浮かぶ。
本物。保存状態もよい。価格は少し安い。おそらく店主は販売値段を見誤っている。
レクスは、リーリアの耳元に顔を寄せた。
「これは買いです」
「買い? わかった」
リーリアはぱっと笑った。
「では、こちらを全部いただきますわ」
「……全部、でございますか?」
店主の笑顔が固まった。
月光織は、店の奥に置かれていた高級品だ。貴族や大商人が、宴席用の衣装に少しだけ使うような布だった。
それを、全部。
リーリアは上品に笑おうとして、少しだけ口元がゆるんだ。
「ええ。全部ですわ」
「ぜ、全部……。あの、お嬢様。こちらは一巻だけでも相当なお値段に……」
「構いませんわ。ねえ、レクス?」
リーリアは振り返った。
レクスは淡々と頷いた。
「お嬢様がお気に召されたのであれば」
店主の目が丸くなる。
店主は一瞬で計算に入った。布地の残量。販売価格。利益。次の仕入れ時期。頭の中で数字が跳ねているのが顔に出ていた。
「で、では……こちらの月光織、全五巻で、43万になります。お支払いは、ディムでよろしいでしょうか?」
「いいえ、リルでお願いしますわ」
リーリアはにっこり笑う。
店主の手が止まった。
「……リル、でございますか?」
「ええ。リルですわ」
「失礼ですが、お嬢様は外国のお方では……?」
「そうですわ。なにか問題でも?」
「いえ……問題というほどではございません。ただ、リルは導入されたばかりの通貨でございますので、外国のお客様がお使いになるのは珍しく……」
「そうなの?」
リーリアは不思議そうに首を傾げた。
その仕草は、どう見ても世間知らずの令嬢だった。少なくとも、店主にはそう見えた。
レクスは無言で、銀細工のケースからルミナプレートを取り出した。
レクスが指先で操作すると、淡い光が盤面に浮かび上がる。
「43万リル。お支払いします」
澄んだ決済音が、店内に響いた。
店主は目を瞬かせた。
「た、確かに……いただきました」
店主の顔には、喜びと困惑が同時に浮かんでいた。
導入されたばかりの新通貨。この国の中では、ディムと同じ価値で使える。店でも受け取ることになっている。だが、店主の仕入れ先はレオリアの商会で、支払いはほとんどディム建てだった。
喜ぶべきなのか。
困るべきなのか。
店主の表情が、その二つの間で揺れていた。
そこへ、リーリアが首を傾げて言った。
「このリル?っていうの……よくわからないお金ですけど、いっぱい手に入っちゃったから早く使いたいの」
店主の笑顔が、少しだけ引きつった。
「……いっぱい、でございますか」
「ええ。持っていてもよくわからないでしょう? だから、きれいなものに替えた方がいいかなって」
リーリアは、本当に何も考えていない令嬢のように笑った。
レクスは背後で静かに目を伏せた。
完璧だった。
無邪気で、悪意がなく、だからこそたちが悪い。
店主は乾いた笑みを浮かべた。
「さ、さようでございますか……」
「また来ますわね」
「は、はい。ぜひ……ぜひお越しくださいませ」
店主は深々と頭を下げた。
リーリアが店を出たあと、店主はしばらく動かなかった。
棚から消えた月光織。
手元に増えた大量のリル。
次の仕入れは、ディム払い。
両替の算段をしなければならない。
店主の喉が、ごくりと鳴った。
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
次に向かったのは、宝飾店だった。
リーリアは、入った瞬間に目を輝かせた。
「まあ……!」
今度は、演技半分、本気半分だった。
店主はすぐに姿勢を正した。白髪交じりの細身の男で、いかにも上客の扱いに慣れている。
「いらっしゃいませ、お嬢様。贈り物でございますか? それとも、ご自身用に?」
「どちらもですわ」
リーリアは優雅に言い切った。
レクスは背後で無言のまま、軽く目を伏せた。
「でしたら、こちらなどいかがでしょう。アトラス産の桜真珠でございます。色味がやわらかく、若いお嬢様にはたいへん人気が――」
「可愛い!」
リーリアは思わず声を上げた。
レクスが、また小さく咳払いする。
「……お嬢様」
「あっ。とても……愛らしい品ですわね」
店主は笑みを深くした。
「お目が高い。こちらは入荷したばかりでして、粒も揃っております」
レクスは、商品棚の前に立つ。
指先は、値札に触れるか触れないかの位置で止まった。見た目には、値札を確認しているだけにしか見えない。
だが、レクスの視界には別の情報が浮かんでいた。
真珠の厚み。表面の照り。内部に混じる不純物。染色の有無。
本物。
ただし、中央の首飾りは過大評価。隣の耳飾りと腕輪は割安。奥にある青石の指輪は、店主も価値に気づいていない。
レクスは声を落とした。
「首飾りは不要です。右の耳飾り、腕輪、それから奥の青い指輪。あれはかなり良い品です。それにあちらの棚にある桜真珠はすべて高い品質かと」
「なるほど」
リーリアはうなずくと、満面の笑みで店主へ向き直った。
「では、こちらの真珠の耳飾りと腕輪をいただきますわ。それと、奥の青い指輪も」
「青い指輪……でございますか?」
店主が一瞬だけ目を瞬かせた。
「あちらは、少々地味な品でして……」
「でも、きれいですわ」
リーリアは迷いなく言った。
そのあまりに自然な言い方に、店主は感心したような顔になる。
「……なるほど。お嬢様は、派手さだけでなく石の奥行きをご覧になるのですね」
見ているのはレクスである。
しかし、店主にはリーリアが天然の目利きに見えているらしい。
「それから、あの棚の桜真珠。丸くて照りのよいものは全部くださいな」
「……全部?」
「ええ。全部ですわ」
店主の手が震えた。
「あ、あの、お支払いはディムで?」
「リルでお願いしますわ」
また、店主が固まった。
「リル……でございますか」
「ええ。このリル? よくわからないお金ですけど、いっぱい手に入っちゃったから早く使いたいの。宝石なら、持っていても困らないでしょう?」
店主の目が、わずかに細くなった。
決済が終わる。
大量のリルが店主の手元に入る。
だが、店主は喜びきれなかった。
隣の店員が小声で言う。
「旦那様……次の仕入れ、レオリアの商会への支払いですよね」
「……わかっている」
店主は声を低くした。
「いますぐ、両替に行く」
◆◇◆━◆◇◆━◆◇◆
三軒目は、魔力石商だった。
「お支払いは……ディムで?」
「リルで」
その一言で、店内の空気がまた変わる。
「リルで……ございますか」
「ええ。このリル? よくわからないお金ですけど、いっぱい手に入っちゃったから早く使いたいの。魔力石なら、きれいだし、あとで誰かに贈っても喜ばれるでしょう?」
周囲の客が、ちらりと振り返った。
外国の令嬢、大量のリル、高級品への換金。
噂が、静かに形を作り始めていた。
「外国の方なのに、どうしてあんなにリルを……」
「しかも目利きだぞ。店主が勧めた派手な品じゃなく、本当にいいものだけ買っている」
「何か知っているのでは……」
レクスはそれを聞きながら、静かに眼鏡を押し上げた。
その後も、リーリアたちの勢いは止まらなかった。
高級レースの店では、サヴェナリアの職人が半年かけて編んだ薄布をまとめて購入した。
宝飾小物の店では、金細工と銀細工を棚ごと買った。
香油の店では、王侯向けのバーシフト産の小瓶を「全部かわいいですわね」の一言で買い切った。
そのたびに、店主は驚き、支払いをディムかと確認し、リーリアは笑顔で答えた。
「リルでお願いしますわ」
そして、必ず同じように付け加えた。
「このリル? よくわからないお金ですけど、いっぱい手に入っちゃったから早く使いたいの」
最初は笑顔だった商人たちも、受け取ったリルの量が大きくなるほど顔色を変えていく。
商品は売れた。
利益も出たはずだ。
だが、手元に残ったのは導入されたばかりのリルだった。
次の仕入れはディム。
外の商会への支払いもディム。
ならば、早めに替えなければならない。
そう考える店主が、一人、また一人と増えていく。
通りの空気は、少しずつざわつき始めていた。
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商業区の通りから少し離れた角に、アルヴィオの姿があった。
アルヴィオは目立たない場所に立ち、買い物を続けるリーリアと、その後ろに控えるレクスの姿を見ていた。
ただ、通りの商人たちが互いに囁き合い、何人かが店の奥へ引っ込み、使いの者を両替へ走らせていく様子を静かに見ていた。
カルハ島の明るい陽射しの下で、リーリアの白い帽子が揺れる。
その近くで、リルという新しい通貨への小さな疑念が、音もなく広がり始めていた。




