その伍
「新しく仲間も増えた事だし、親睦会でもする?」
成家がそう言い出せば、茨が大きな溜息をついて。
「お前は先に渡した本を確認しろ」
「えぇ、これ読むの大変なんだよ。古文混じりだし、若干異国語もあるし」
情けない声を上げる成家が手にした本へ視線を向けた花里は、小さく声を発する。
「ん?どうした?」
先程までの情けない也を潜めた成家がそう問いかければ、彼女は本を指さした。
「それ、少し借りても良いですか?あと何か、書くものを……」
彼女の言葉を聞いた巳波が、自分のものですがとペンと紙を差し出す。それを机に置き、花里は借り受けた成家の本をぺらりと捲った。
紙は古く、ところどころ文字が掠れている。綴られているのは古い言い回しに加え、見慣れない異国の文字。ほんの一瞬だけ目を細めたかと思えば、彼女は迷いなくペンを走らせた。さらさらと、躊躇いのない音が静かな室内に落ちる。一行、また一行と、原文をなぞるでもなく、かといって写すでもなく。花里の手元には、別の文章が形を成していく。頁を捲る手は早く、読むというより流し込んでいるような速さだった。
「……凄い」
ぽつりと、成家が声を漏らす。
その声にも構わず、花里はペン先を止めない。時折、僅かに言葉を置き換え、順序を整え、その言葉の意味を拾い上げていく。やがて一枚を書き終えると、彼女は何事もなかったかのように顔を上げた。
「こんな感じで、どうでしょうか」
差し出された紙には、先程まで成家が頭を抱えていた文章が驚くほど簡潔に、そして読みやすく書き直されていた。
「い、今の、全部読んだんですか?」
巳波の驚いたような声に、花里はまさかと首を横に振る。
「一度、家の書庫で読んだことがあって。ただ、当時の私は読めなかったので、祖父に分かりやすく説明してもらったんです。その後も、魔に関する書物は何度か繰り返し読んだので覚えていて」
そう言いながらも彼女は紙を成家へ差し出した。それを彼が受け取るよりも先に、茨がひょいと彼女の手から紙を奪う。
「読みやすいな。字は習っていたのか?」
「い、いえ。独学です」
「……成程。綺麗な字だ」
成家へ「見習えよ」なんて言いながら茨は紙を渡す。その様子を見ていた梧は、ふむとひとつ頷いた。
「花里ちゃん、さっきは体質がどうだとか色々言ったけどさ。基本的には裏方の業務を手伝って欲しいんだ。今みたいに資料の収集とか、書類の整理とか。その間に君の体質を調べさせて貰えると助かるんだけど」
魔や妖調査の最前線には出さないよと彼は言う。花里としても、昨夜のような恐怖体験は遠慮したいところである。ほっと胸を撫で下ろした彼女は、梧の提案に一も二もなく頷いた。
「あぁそうだ。お父上には僕の方からしっかり言っておくから。しばらくは迎えに巳波ちゃんを行かせるから、その辺も安心してね」
梧はそう言ってどこか圧のある笑みを浮かべる。
「相変わらずおっかないですねぇ、室長は」
そんな言葉が成家から漏れ、花里と巳波は思わず苦笑し、茨は呆れたように息をついた。
「軽口を叩く前に仕事しろよ」
「茨は終わってんの?」
「終わってるに決まってるだろ」
そんな会話をする二人に、梧は笑いながら口を開く。
「昨日も聞いただろうけど、こっちが継宮茨。えーっと、年齢は二十五だったかな。こっちの成家梓も年齢は同じだっけ。ちなみにこう見えて怒らせたら怖いのは成家だよ」
他己紹介を受けた花里は、目をぱちくりと瞬いた。優しそうな雰囲気の成家が怒るところが想像つかなかったのだ。
「あ、やめてくださいよ。僕の印象悪くするの」
「事実だろ、ねぇ?巳波ちゃん」
「そうですね。……まぁ否定はしないですが」
すっと視線を逸らす巳波に、成家は詰め寄る。そんな様子を見ながら、花里は残りのひとりの感想も聞くべく、視線を向けた。
「……何?俺も否定はしないから」
どうやら成家が本気で怒ると一番怖いのは事実らしい。どうしたら怒るのかも分からないが、とにかく彼を怒らせないようにはしよう。花里は確とそう心に誓った。
そんな緩やかな雰囲気が漂う中、ゆったりとした曲調の音楽が流れ出す。それを聞き、梧がちらりと茨へ視線を向けて。
「継宮、仕事終わってるなら花里ちゃん送ってあげて。その後直帰でいいよ。巳波ちゃんは明日の予定の調整、成家は今日の報告書終わらせたら帰宅していいから。んで、花里ちゃんは取り敢えず明日から出社してくれる?お迎えは明日だけ成家に頼むよ。その時に僕の手紙を持たせるし、ご家族の方は何の心配もしなくていいからね」
そう言ってにっこり微笑んだ梧は、さすが室長と言うべき貫禄だった。花里がありがとうございますと頭を下げれば、彼は酷く優しい声で彼女の名を呼ぶ。
「僕からしたら君はまだまだ子供だからね。知ってしまったからには無視できないっていうのは、僕の本心だよ。明日も元気に来てね」
彼はそう言うと何度か花里の頭を撫で、それから手を振った。それにどう返事をしようと迷った彼女は、結局、大きく頷くに留めたのだった。
梧に促され、花里は一度だけ室内を見渡す。まだ出会って間もないはずなのに、不思議と居心地の悪さは感じない。寧ろ、少しだけ名残惜しさすらあった。
「……では、失礼します」
そう言って頭を下げると、茨が無言で扉の方へと歩き出す。花里は慌ててその背を追った。
廊下に出れば、先程までの賑やかさが嘘のように静かで。二人分の靴音だけが規則正しく響く。
「……すみません」
ぽつりと、花里が口を開いた。
「何が」
振り返りもせずに返された言葉に、彼女は少しだけ言い淀んでから続けた。
「その……送っていただくことになってしまって」
「命令だからな。気にするな」
あっさりとした返答。けれど突き放すような冷たさはなく、ただ事実を述べただけの声色だった。
玄関を出ると、外の空気は少しだけ冷えていた。夕暮れに差し掛かり、街は柔らかな橙色に染まり始めている。電車を乗り降りし、並んで歩き出してからもしばらく会話はなかった。けれど不思議と気まずさはなく、花里はただ隣を歩く彼の横顔を、ちらりと盗み見る。整った顔立ちに紫苑色の瞳。どこか余裕を感じさせる佇まい。
――綺麗な人だ、と。
ふとそんなことを思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
「見過ぎだ」
不意にそう言われ、花里はびくりと肩を震わせる。
「み、見てません」
「嘘が下手だな」
くすり、と小さく笑う気配がした。揶揄われているのだと気づき、花里は少し頬を膨らませる。けれど、その頬の痛みにすぐ顔を顰めた。それを見逃さなかったのか、茨が足を止める。
「……まだ痛むか」
「いえ、平気です」
反射的にそう答えたものの、じんわりとした痛みは確かに残っている。数秒の沈黙の後、茨は小さく息を吐いた。
「座れ」
「え」
彼に指し示されたのは、通りの端にある木製の長椅子だった。戸惑いながらも腰を下ろせば、茨は懐から小さな瓶を取り出す。
「顔、貸せ」
「え、あの」
「いいから」
有無を言わせぬ声色に、花里は大人しく顔を向けた。彼は巳波があてがってくれたガーゼを丁寧に外す。指先に掬われた薬が、そっと頬へと触れた。
ひやりとした感触が広がり、じんと熱を持っていた部分がゆっくりと落ち着いていく。
「……冷たい」
「これはよく効くから」
短い言葉だったが、不思議と安心する響きだった。
「……ありがとうございます」
そう呟けば、茨は「別に」とだけ返して手を離す。瓶を差し出され、花里はそれを反射的に両手で受け取った。
「持っておけ。で、しばらく使え」
「でも……」
「返さなくていい」
言い切るような口調に、花里はそれ以上何も言えなくなる。代わりに、ぎゅっと瓶を握りしめた。
「……大事にします」
その言葉に、茨はほんの僅かに目を細める。
「壊すなよ」
「そんなに雑じゃないです」
「まぁ、確かに」
さらりと返され、花里は思わず言葉に詰まる。けれどそのやり取りが、どこか心地よくて。
「……なんて呼べばいいですか?」
咄嗟に口を突いて出た、何かを誤魔化すような言葉に、茨は一瞬だけ目を瞬かせてからふっと笑った。
「茨でいい。お前も異対の一員だからな」
◇
昨夜と同じく、茨と裏口で別れた花里は細心の注意を払って自室へと戻る。義弟が上手く誤魔化してくれたのか、父親とは夕食時に顔を合わせたものの特に何も言われることはなかった。
だが、気まずいものは気まずい。昨夜とは違い、さっさと風呂に入った花里は部屋へ戻ると暫くの間、薬の入った小瓶を眺めていた。渡された時のことを思い出していたわけではない。ただ、何となく目が離せなかったのだ。
それに、異象対策室は思っていたよりもずっと、現実的な場所だった。敷いた布団の上でごろりと寝返りを打つと、扉を叩く音がする。慌てて起き上がった彼女は小瓶を鏡台に仕舞うと、扉を少し開けた。
「どうしたの、壱馬」
そこに立っていたのは、悪戯っ子のような表情を浮かべた義弟で。
「いや、今日のやつ何だったのかなーって。どこ行ってきたのさ」
好奇心が抑えきれないような義弟へ、花里は溜息をつくと彼を部屋に入れてやった。
「内務省の特務局ってところに行ってきたの。ほら、私古い本も読めるし異国語も多少翻訳できるから。そういう仕事を手伝って欲しいって言われて」
身内とは言え、本当のことを全部話すわけにもいかないだろう。花里は多少の誤魔化しを入れながらもそう説明した。
「へー、向いてそう。けどさ、それ父さん許してくれんの?ただでさえ婚約がどうとかで姉さん怒られてんのに」
「それも大丈夫、だと思う。局長さんが結構お偉いさんみたいだから……。というか、婚約の方ってどうなってるの?」
一応、自分に関係のあることだ。聞いておいても損はないだろう。花里がそんなことを思いながら義弟へ視線を向けると、彼は存外渋い顔をしていた。
「なんか一応保留らしい。一部始終を聞いて、父さんも流石に……とは思ったらしいんだけど。あっちの家が引き止めてくるんだって」
へぇ、と言葉を漏らしながら花里は若干の困惑と動揺で頭の中がいっぱいになる。父親の思惑も、婚約者家族の言いようのない気持ち悪さも、何も分からない。
「まぁ俺はあの人が義兄になるの嫌だし。あの人以外なら誰でもいいからさ、その特務局とかでまともな人見つけてきなよ」
義弟はそんなことを言い残すと、さっさと自室へと帰って行った。嵐のような義弟に色々と言いたいことはあったが、結局飲み込んで。花里は再び布団へと倒れ込み、無意識に鏡台の方へ視線を向けた。




