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その陸

そうして翌日。何とか早朝に目を覚ました花里は顔を洗い、髪を梳かし、服を着替える。今日も袴で良いだろうか。あまり派手ではない柄と抑えめな色のものを選び、きっちり着付けを済ませると鏡台に仕舞っていた薬を取り出す。それを頬に塗れば、スっとした香りとひんやりしたクリームが気持ち良い。上から簡単に手当てをして、花里は朝食を取るために食卓へついた。父親も母親もいたが、特に気にした様子も見せずに彼女は朝食をたいらげると歯磨きを済ませて。一度部屋に戻ると、誕生日に貰った万年筆やペンを鞄にまとめる。

そんなことをしていれば、母親が自身を呼ぶ声が聞こえてきた。のんびりと階段を降りれば、そこには血相を変えた母親と、玄関先で何やら話している父親と、それから面白そうな顔でそれを眺める義弟の姿がある。花里は近くにいた義弟を少し小突き、母親へ向けて白々しく首を傾げて見せた。


「どうしたんですか」

「なんか姉さん宛てだって。官僚から」


花里の演技に乗っかるように義弟もそう言う。母親は顔色を赤くしたり青くしたりで大忙しだ。その時、父親の低い声が響く。


「花里」


名を呼ばれた彼女は、ゆったりと顔を上げた。玄関先に立っていたのは、成家で。彼の顔に少しの安堵を覚え、花里は小さく深呼吸をする。


「あぁ、お嬢様ですか。私、内務省特務局から参りました、成家と申します。貴女にお願いがあり、こうして参じた次第です」


恭しく頭を下げた成家に、思わず苦笑する。少しわざとらしすぎやしないか。


「お嬢様に、こちらを」


そんな花里の雰囲気を察してか、成家も唇の端に笑みを浮かべて手紙を差し出す。彼女は一歩踏み出し、それを受け取ると、何の躊躇いもなく封を切った。父親からの鋭い視線も、母親の動揺した気配も、気にならなかった。

中に綴られていたのは簡潔で、それでいて絶対的な圧を感じる文書。


――藍島花里殿を当局にて預かること。

――その知識をもって当局に貢献すること。

――ついては、当人の出入りについて一切の制限を設けぬこと。


淡々とした文面の中には、昨日安心しろと言ってくれた梧の姿が浮かぶようで。花里は息を吐き出すと、顔を上げて父親へ視線を向けた。彼も勿論、文面は目に入っているだろう。数秒の沈黙の後、父親はゆっくりと口を開いた。


「……好きにしろ」


それはとても短い言葉だった。けれどそれは、これまでの彼からは考えられないほど、あっさりとした許可だった。

花里が驚いて目を瞬く隣で、義弟が小さく口笛を吹く。


「おぉ、姉さんの勝ち」

「うるさい弟だなぁ」


思わずそう返しながらも、胸が高まらずにはいられない。そんな彼女にウインクをひとつ寄越しながら、成家は微笑んで。


「準備が整い次第、ご案内いたします」

「直ぐに」


花里は感謝の気持ちも込めて頭を軽く下げると、踵を返した。急ぎ足で部屋へ戻り、先程荷物を詰めた鞄を手に玄関へ舞い戻る。

しっかりと背筋を伸ばす成家は、パタパタと駆け寄ってくる花里を見て小さく笑う。


「できた?」

「はい、ばっちりです」


こくりと大きく頷くと、じゃあ行こうかと成家は外を指さして。花里は一度だけ家の中を振り返り、それから小さく息を吐いて外へ踏み出した。



「で、どうなの?お父さん、怒ってた?」


開口一番にそう疑問を投げてきた成家に、花里は首を横に振る。


「そんなに、ですかね。何だか肩透かしを食らった感じで。普段なら女が外で働くなんて!とか言う人ですから」

「そうなんだ?人のお父さんに失礼だけど、結構時代錯誤な人だね」


直球で言葉を放つ成家に、花里は明るく笑い声を上げた。


「ふふ、やっぱりそう思いますよねぇ」


彼の言葉を肯定するように頷けば、成家はそういえばと自分の頬を指さす。


「頬、もう痛まない?」

「はい。昨日の帰りに、茨さんから塗り薬をいただいたんです。そうしたら今朝、痛みが引いていて」


痣が残っているから手当てはしているんですと彼女は笑みを浮かべた。そんな花里に良かったねと返しながらも、成家は内心で酷く驚く。茨の行動があまりに珍しかったからた。


「到着したらまず室長に挨拶ね。で、あとは室長の指示に従えばいいから」


それでもそう告げた彼は、乗ろうかと市内電車を指さした。





到着した特務局の玄関扉を成家が恭しく開けてみせると、そんな彼の姿をすっかり気に入ってしまった花里は楽しげに笑う。異象対策室の部屋に入れば、そこには既に巳波と梧が出勤していて。花里は巳波に軽く会釈をし、梧の前に立つと頭を下げた。


「おはようございます、室長。手紙と成家さんのお迎えの件、ありがとうございます」

「おはよう。いえいえ、何も問題はなかったかな」

「はい。すんなりと許可を貰えました」

「それは良かった」


梧は満足そうに頷くと、ちらりと成家へ視線を向ける。


「ありがとう、成家。ちゃんと紳士は出来た?」

「どうでしょうねぇ。花里ちゃん的にはどう?」


急に話を振られ、花里は一瞬だけ目を瞬かせる。それからくすりと笑って。


「とても丁寧で、紳士的でしたよ」

「ほら、満点評価」

「調子に乗るな」


どこからともなく飛んできた低い声に、花里はそちらへ視線を向けた。いつの間にか、壁際の机に寄りかかるようにして茨が立っている。


「おはようございます、茨さん」

「……おはよう」


短く返しながらも、その視線はどこか花里の頬を確認するように流れた。きちんと手当てをしていたからか、それ以上は何も言わなかったけれど。


「じゃあ早速なんだけど」


ぱん、と軽く手を打って、梧が空気を切り替える。


「花里ちゃんには、簡単な手伝いをしてもらおうと思ってるんだ。と言っても、いきなり難しいことはさせないよ」


そう言って差し出されたのは、数冊の資料と、束になった報告書だった。


「この資料の必要そうなところをまとめ直して欲しいのがひとつ。あと、報告書を冊子にするから、読みづらいところがあれば遠慮なく直してほしいのがもうひとつかな」

「分かりました」


迷いなく頷いた花里は、資料を受け取って巳波に案内された机へと向かう。椅子を引き、静かに腰を下ろすと、直ぐに一冊目を開いた。その様子を少し離れたところから眺めていた成家が小声で呟く。


「順応早くない?」

「まぁ、向いてるんだろ」


茨は淡々と返すが、その視線は花里の手元から外れていない。ページを捲る音が、室内に静かに響いた。



茨たちもそれぞれ作業を進めているようで、室内には紙を捲る音とペン先の走る音だけが静かに満ちる。花里は古い本の頁を破らないよう、注意しながら読み進めていた。資料から言葉を拾い、整え、誰が読んでも分かりやすく文章を書き連ねていく。その手に迷いは殆どなかった。

そうして花里が資料をまとめ終わる頃には昼時で。そういえば昼食を用意していなかったと彼女は考え込む。そんな彼女の様子に気付いているのかいないのか、梧は明るく声を上げた。


「今日は珍しく皆いるし、花里ちゃんの初日だし、折角だから出前でも取ろうか。勿論、僕の奢りだよ」


彼がそう言うと、書類仕事でぐったりしていた様子の成家がぱっと顔を上げて満面の笑みを浮かべる。


「やった、いいんですか」

「まぁまぁ、特別だよ」


そう言いながらも得意げな表情を浮かべた梧は、寿司でいい?なんて尋ねながらさっさと連絡を取っている。その姿に花里がそわそわしていると、隣に座る巳波がこっそり彼女へと耳打ちをした。


「室長、新しい子が入ったって随分嬉しそうなので。沢山頼むでしょうから、沢山食べてくださいね」


その言葉に花里は大きく頷くと、出前が届くまで頑張ろうと再び紙に向き合った。



そうしてやってきたお寿司は確かに沢山だった。その量に対して茨の顔が少々引きつっているように見えるのは、気の所為ではないだろう。


「茨さんってお寿司得意じゃないんですか?」


隣に立つ彼へそう尋ねると、茨は微かに首を傾げる。


「いや。……大量の料理を見るだけで腹一杯だと思ったんだ」

「案外少食なんですか」

「普通の成人男性くらいは食べる。お前は?」

「……普通の成人男性以上に食べるかもしれません」


花里の普段の食事量は、父親よりも義弟よりも多い。父親はともかく、育ち盛りの義弟よりも食べる女というのはどうなのだろう。そういえば、父親は食に関しては何も言ってこない。そんなことを思い出していれば、梧たちが早く食べようと彼女らを呼び立てる。それに返事をすると、花里は軽い足取りで机へ駆け寄った。机の上に並べられた寿司の箱を前に、花里は思わず目を輝かせる。


「凄い……」

「遠慮しなくていいからね。足りなかったら追加するし」

「これ以上増えるんですか?」


思わず素で返してしまい、巳波がくすりと笑みを零した。


「取り敢えず、早く食べましょうよ」


成家の声に促され、それぞれが席につく。箸を手に取った花里は少しだけ周囲を窺い、そっと一貫口に運んだ。


「……美味しい」


小さく零れた声に、梧がにやりと笑う。


「でしょ?ここ結構良い店なんだよ」

「本当に……」


頷きながらも、花里の手は止まらない。丁寧な所作のまま着実に減っていく寿司に、梧たちはどこか満足そうだ。


「……確かに、よく食べるな」


ぼそりと落ちた声に、花里は顔を上げた。向かいに座る茨が、頬杖をついたままこちらを見ている。


「す、すみません」

「別に責めてない。感心してるんだ」


そんなあっけらかんとした返事に、花里は本当かと疑いの視線を向けた。そんな彼女たちの会話に笑いながら、梧が口を挟む。


「花里ちゃん、沢山食べてて偉いねぇ」

「いや、偉いの基準おかしくないですか?」

「うちでは遠慮せずご飯を美味しそうに食べる子が偉いって基準なの」

「分かるような分からないような……」


軽口を交わす声が飛び交う中で、花里はふと、肩の力が抜けていることに気付く。家での食事とは、どこか違う空気。それが少しだけ心地よくて、僅かに口元が緩んだ。

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