その弐
【今回の主な登場人物】
継宮 茨:官僚。口調は冷たいが面倒見が良い。
成家 梓:官僚。軽薄な話し方。空気を読む能力に長けている。
屋敷の皆が寝静まった頃を見計らい、花里は部屋をそっと出た。離れにある内風呂へ行けば人気はなく、彼女はほっと胸を撫で下ろす。
入浴中の札を立て、洗い場で適当に身体を洗った花里は、たっぷりと湯の張られた浴槽へと身を沈めた。こういう時ばかりは、家が裕福で良かったと言わざるを得ない。少々潔癖の気がある彼女は、銭湯よりもこういった内風呂の方が好きだった。
花里の生まれ育った紫檀帝国は、古くから家と血筋を重んじる国である。
――最も、それも少しずつ形を変えつつあった。
近頃では、女が表に出ることも珍しくなくなり、華族の間でも恋愛結婚の話を耳にするようになった。
帝もまた、それを咎めるどころか、むしろ後押ししている節さえある。それでも、全ての家が変わったわけではない。藍島家は九曜書林という屋号を持つ、古くから続く書物商で、お偉いさんにも顔が利く家だ。だからだろうか、父はそうした立場に相応しい古い在り方を手放そうとはしなかった。妹夫婦を亡くした後、その息子を養子に迎えて跡継ぎとし、華族との繋がりを強めるために花里を赤元子爵家の次男と婚約させた。家のためと言われれば、それまでの話だ。
間違ってはいないのだろう。そう理解出来てしまうことが、少しだけ厄介だった。花里はそんなことを考えながら、浴槽から立ち上がる。随分と長く浸かっていたからか、落ち着いていたはずの頬の痛みが、じわりとぶり返した。
◇
濡れた髪を拭い、浴衣を羽織る。腫れた頬はどうにでもなるだろう。花里はそんなことを思いながら内風呂を出る。じわじわと痛む頬の感覚に、今夜は眠れないだろうと彼女は離れの奥へと足を向けた。奥にあるのは、祖父の書物が集まる書庫だ。祖父から鍵の管理を任されたのは花里であり、鍵を持っているのは彼女だけ。父親には散々文句を言われたものの、当の本人は書物にそれほど強い興味があるわけでもない。最終的には、「姉さんが管理してくれるなら良いじゃん、父さんが本の手入れすんの?」という義弟の一言で話は落ち着いた。事なかれ主義の義弟も、その時ばかりは父親の言動が目に余ったのだろう。
当時のことを思い出して苦笑しながら、花里は少し埃臭い書庫へと足を踏み入れた。書庫にある書物は古いものばかりで、幼い頃から出入りしていた花里もまだ全ては読めていない。久しぶりの書庫に、気分転換にでもなればと彼女は本を一冊棚から引き出した。手に取った古い書物の頁はところどころ擦り切れ、また古本独特の香りが鼻を突く。興味をそそられた花里が頁を捲れば、それはどうやら魔についての書物のよう。どこかぼんやりとしたまま文字を目で追えば、開いたページは魔の生態について記された頁だった。
――人の感情に寄り、理を歪めるもの。
「……馬鹿みたいね」
小さく呟いた声とは裏腹に、彼女の指先は頁から離れなかった。
その時。少しだけ換気をしようと開けていた窓から強く風が吹き込んだ。外から微かにざわりとした気配を感じ、花里は本を閉じる。少し迷った挙句、彼女は窓を閉めて書庫を飛び出した。
離れの縁側に置いてある草履を引っ掛け、羽織の前を合わせる。急ぎ足で普段は滅多に使われない裏口へ回れば、鼻に突く煙の臭い。火事だろうか。段々と人の声もしてきた。どうやら周囲の家の人が集まってきているらしい。彼女は妙な胸騒ぎを感じながらも狭い小路を進み、そしてそこで黒い塊と出会してしまった。正しくは、黒い塊を纏った男と。
男は花里を視認すると、目を大きく見開く。そして一瞬の躊躇いもなく、この世のものとは思えない速さで腕を大きく振り上げた。
逃げようにも狭い小路だ。彼女は反射的に身を屈めて目を強く瞑る。悲鳴は、終ぞ出なかった。
来るはずの衝撃が、来ない。それに気が付いた瞬間、彼女の身体は宙へと浮いていた。
「っ――」
「生きてるな」
確認と言うよりも、ほぼ確定事項のように告げられた言葉に花里は小さく頷くだけに留めた。彼女は間一髪、どうにか命を落とさずに済んだようで。花里を抱き上げたまま、黒いスーツ姿の男は低い塀の上へと軽々と飛び移る。視界が一気に高くなり、花里は思わず息を呑んだ。
「成家、確保」
「ったく、人遣いの荒い同期だよ」
黒いスーツ姿の男の言葉にそう返しながらも、成家と呼ばれた男は素早い動きで魔に憑かれた男をの腕を捻りあげる。無駄のない動きに目を奪われていると、魔がぞわりと動き出した。黒い塊が、少しずつ形を変えていく。苦しんでいるようにも見えて、花里は目を大きく瞬いた。
「っ茨!」
次の瞬間、成家がそう鋭く叫ぶ。瞬く間に、藻掻いていた魔が花里の眼前まで迫った。けれど、魔は見えない壁にでも阻まれたように彼女の前で弾け飛ぶ。
「逃がすなよ」
「ごめんごめん、油断した」
弾け飛んだ塊を掴んだ成家は、そう軽く謝罪しながら瓶のようなものに魔を詰めた。一連の流れに花里が目を白黒させていれば、頭上から大きな溜息が落ちてくる。
「……成家」
「分かったよ。……怖い思いさせてごめんね。驚いたかな」
成家はそう言いながら花里を見た。そして大きく目を見開いて、焦ったような表情を浮かべる。一瞬、何事かと思った花里は直ぐに原因に思い当たった。
「あ、違います!これ、は……昼に家でぶつけて。あの、そんなに酷いですか」
そう、父親に殴られた頬の青痣だ。咄嗟に出た言い訳は稚拙だけれど、別に深堀なんてされやしないだろう。彼女はスーツ姿の男に地面へ下ろしてもらいながら頬に触れた。
「ぶつけたって……冷やした?大丈夫?」
「一応、手ぬぐいで。少し前にお風呂へ入ったから酷く見えるだけだと」
そんな応答をしていれば、彼女の隣に立っていたスーツ姿の男が唐突に口を開く。
「見えるんだろう」
その言葉が何を指しているのか、花里には直ぐ分かった。咄嗟に口を噤んだ彼女へ、男は成家の持っていた瓶を掲げて見せる。思わず一歩後ずさった花里を見て、彼は目を細めた。
「私は継宮茨と言う。内務省特務局異象対策室所属の監察官だ。こっちは」
「僕は成家梓です。肩書きは右に同じく」
内務省。事の大きさに花里は固まってしまう。華族とはよく顔を合わせるので慣れたものだが、官僚ではまた話が変わってくる。とは言え、ここで無視をするのも良くないだろう。彼女はそう考えると直ぐに口を開いた。
「藍島花里と申します。助けていただき、ありがとうございます」
頭を下げれば、成家があぁと手を打つ。
「書物商の九曜書林の子だ。家はこの辺?」
「この小路を真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がれば裏口が」
「裏口?」
茨が片眉を上げて顎に手をやった。その様がどうにも似合っていて、まるでどこかの役者のようだ。
「離れにいたんです。嫌な予感がしたから、縁側から降りて……それなら裏口が近いので」
話をすれば、少し口が痛む。どうやら話している最中に唇が再度切れてしまったようで、口内にもじわりと鉄の味が広がった。
――その時だった。茨の持っていた瓶の中で、魔がぞわりと動く。
「何、どうしたの」
成家の緊迫した声に、茨は僅かに目を細めた。
「……血だ」
短くそう言って、花里を見る。その視線を受け、彼女は無意識のうちに息を呑んだ。
「貴女の血を、少々借り受けても?」
「え?」
「確かめたいことがある」
突拍子のない台詞と、有無を言わせない声音だった。花里は僅かに迷いながらも、書庫の鍵と同じく祖父から譲り受けた和式ナイフを取り出す。指先に刃先を滑らせれば、小さな血の玉が浮かび上がった。そして素早く成家が差し出したガーゼへ、それを押し付けた瞬間。
瓶の中の魔が、激しく暴れ出した。内側から硝子を叩きつけるように、黒い塊が歪み、形を変える。
「うわ、露骨だな……」
成家が呆れたように呟いた。そんな彼の反応とは対照的に、花里は思わず一歩退く。
「何……」
魔が、自分の血を目掛けて明確な意思を持っている。勿論、彼女に理由など分かるはずもない。ただ、これ以上踏み込んではいけないと頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
「当たりだ」
花里の様子を一瞥した茨は静かに瓶を持ち上げると、興味深げにそれを眺める。そして、緩慢な動きで彼女へと視線を戻した。
「お前の血は、どうやら魔を引き寄せるらしい」




