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その壱

【今回の主な登場人物】

藍島あいじま 花里かざと:主人公。老舗書物商の長女。

赤元せきもと 怜矢れいや:花里の婚約者。政経部の新聞記者。

「これは違う、ほら、えぇと、魔が差したんだよ」


へぇ、と冷めた声がたじろぐ男の頭上から落ちた。魔が差した。なんて便利な言葉だろうか。


「……嘘吐き」


静かにそう言葉を吐き出したのは、長い黒髪をひとつに纏めた女。彼女はその美しい金の瞳を細めると、ふいと情けない男から視線を逸らして背を向けた。


「花里……!」

「名前を呼ばないでくださる。気持ちが悪いから」


花里と呼ばれた女は冷たい視線で男を一瞥する。こんな状況であっても、男の隣には彼と一夜を共にしたであろう女が眠っていた。ある意味、大物である。花里は素直に感心した。


「おじい様たちが交わした口約束の婚約なんて、貴方にとってはさぞかし鬱陶しいものだったのでしょう。隣の女性とお幸せに。……それと、魔が差した、だなんて。そんな言い方は魔に失礼だわ」


彼女はそう告げると小さく笑みを浮かべる。そうしてぴしゃりと扉を閉めると、今度こそ振り返ることはなかった。





「あぁ、清々した」


婚約者であった男の家を出た花里は、小さくぽつりとそう呟く。その白い顔には笑みが隠しきれていなかった。


「それにしたって、魔が差しただなんて。魔なんてどこにもいないのに、可笑しな話だわ」


藍島花里。彼女には、幼い頃からおかしなモノが見えていた。幽霊ではない。どちらかと言うと化け物や妖といった類のものである。人や獣、時には黒い煙のような姿の「魔」は人に憑き、正気を失わせる。判断力や理性を奪い、取り憑いた本人や周囲の人の悪感情を主食とするのだ。実際、花里が幼い頃見た通り魔には魔が取り憑いていた。黒い煙のようなそれは、確かに流れた血を見て嗤っていたのだ。

彼女は祖父譲りの力で、魔を見ることが出来た。祖父は魔について彼女に色々と教えてくれたが、彼女の母親は良い顔をしなかった。父に至っては、魔の話をしようものなら手が飛んでくる始末。

だからだろうか。父親は花里に早く結婚させたかったようで、祖父が酒の席で交わした口約束を実現させようとした。祖父が口約束を交わした相手は、彼の幼馴染。孫の相手に、花里はどうかと持ちかけたそうだ。その孫は新聞社で働く、花里よりも二つ三つ歳上の男で、名を赤元怜矢と言う。誠実で優しく、仕事熱心というのが周囲の評価らしい。婚約者がいる身ながら、他の女と一夜を共にする男のどこが誠実なのかは不明だが。

どうしたものかなと花里は小さく息を吐いた。婚約の解消を告げることができて清々したのは本音だ。けれども、彼女の両親からの評判はすこぶる良い。これは少し困ったなと花里は長い自身の髪に触れた。





帰宅して早々、花里は淡々とした調子で父親へ婚約を解消したいと告げた。扉が閉める音が、やけに大きく響く。


「――どういうつもりだ」


低い声だった。怒鳴り声ではない分、余計に重い。花里は靴を揃えたまま、振り返らずに答える。


「そのままの意味です。婚約は解消していただくよう、お願い申し上げました」


一拍の間を置き、頬に鋭い衝撃が走った。乾いた音が遅れて耳に届く。彼女の体は傾いて、けれど倒れはしなかった。


「誰がそんなことを許した」


それでも父親の声色は変わらず、静かなままで。花里はゆっくりと顔を戻した。口の中に鉄の味が広がる。


「話を聞いてはくださらないのですね」


ぽつりと返すと、今度は間髪入れずにもう一度打たれた。


「女が勝手をするな」


短く、吐き捨てるように。


「お前は家のものだ。お前一人の都合で物事を決めていい立場じゃない」


その言葉に、花里は一瞬だけ目を伏せた。


「……申し訳ありません」


反射的に口から出たのは、謝罪の言葉。本心ではない。けれど、これが一番早く終わる。そんな彼女の目論見通り、父親は小さく息を吐いた。


「明日、改めて先方に詫びを入れる。女のお前がこれ以上、勝手な真似はするな」

「……はい」


それで終わり。父親はそれ以上何も言わず、自室へと戻っていく。襖が閉まる音と共に、静寂が彼女を包み込んだ。花里はその場に立ったまま、そっと頬に触れる。じんと熱が残っていて、唇に触れた指が赤く染まった。

当然ながら、周囲には魔の気配など微塵もなくて。


「……人、か」


小さく呟いて、花里は手を下ろした。



父の気配が遠ざかってから、どれくらい経っただろうか。花里はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。頬に残る熱も、口の中に広がる鉄の味も、どこか他人事のように感じて仕方がない。

そうしてしばらくすれば、廊下の向こうから聞こえていた足音が止まる。


「……花里?」


遠慮がちな声へ、彼女はゆったりと視線を持ち上げた。現れたのは母親で。彼女が花里の顔を見た瞬間、息を呑む気配が伝わってくる。


「まあ……ひどい……」


小さく呟いて、今にも触れそうな距離まで歩み寄る。手当をしようとしているのだろう、手には白い布が握られていた。花里はその様子を、ただぼんやりと見ているだけ。


(あぁ、今日は来るのね)


そんな風に、どこか冷めた感想が浮かんでは消えた。


「少し待っていなさい。すぐに――」


その時だった。


「母さん?」


軽やかな声が向こうから割り込んでくる。母親の肩がぴくりと揺れた。


「どうしたの、こんな時間に」


振り返った母の声色が、わずかに柔らいで。

廊下の壁の向こう顔を覗かせたのは、義弟だった。どこか無邪気な様子で、しかし遠慮もなくこちらを見ている。


「あのさ、ちょっと来てほしいんだけど」

「今は――」


母親はそう言い淀み、花里を振り返る。その視線には、僅かな迷いが滲んでいた。

花里は一度だけ瞬きをして、それから静かに口を開く。


「……呼んでいますよ」


頬が赤く腫れた娘とは思えない、穏やかな声音だった。


「行ってあげてください」


母親が何か言おうとするより先に、言葉を重ねる。


「私は大丈夫ですから」


その一言で、母親の迷いは決まったらしい。


「……すぐ戻るわ」


彼女は小さくそう言い残し、足早に廊下へと出ていく。義弟の声が、少しずつ遠ざかる。

花里はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。頬に触れようとして、ふと手を止める。代わりに、そのまま力なく下ろした。


(本当に、大丈夫)


誰に言うでもなく、心の中でそう繰り返す。そうして、彼女は何事もなかったかのように踵を返した。





花里が厨房へ顔を出せば、そこにいた料理長と女中の視線が彼女の頬へ集まった。


「嬢ちゃん大丈夫か!?」

「直ぐに冷やしましょう」


そんなに酷いのかと内心驚きながらも、彼女は女中から手渡された冷たい手ぬぐいを頬に当てる。冷たい布の感触に、張り詰めていたものが解けて。ようやく、息ができる気がした。料理長が用意してくれた椅子に腰掛けながら、花里は瞳を閉じる。

厨房へは、料理を全くしない父親と義弟はまず来ない。料理人を雇っているから、母親も同じく厨房へ来ることは殆どない。だから彼女は良く人目を盗んで厨房へ入り浸っていた。料理長も女中も、花里と多く言葉を交わすことはないが、かと言って冷遇することもない。この二人は夫婦で、藍島邸の古くからの使用人だ。花里は、程よい距離感を保ってくれる二人が滞在する厨房が好きだった。


「嬢ちゃん、夕飯は?」

「今は何を食べても口が痛むから結構よ。ごめんなさい」

「謝ることじゃない。ぬるくなったら冷やしてやるから手ぬぐい渡しな」


こくりと小さく頷いて、花里は料理長が料理をする姿をぼんやりと眺める。包丁がまな板に当たる音が心地良い。結局、彼女は手ぬぐいを三回冷やし直してもらった後に自室へと戻った。

なるべく足音を消して歩いていけば、部屋の前には義弟が立っていて。上げかけた悲鳴を飲み込んで、花里は笑みを浮かべた。


「どうしたの」

「あ、また厨房?ていうか痛そ……」

「いいから、用事は」


詳細を知らない義弟の言葉は本心なのだろう。だがその同情めいた視線は、今の花里にとって鬱陶しい以外の何物でもなかった。


「そうそう、父さんがね。しばらく家から出るなって」

「それだけ?なら早く部屋に戻りなさい。待たせてしまったのは悪かったわ」


そう言いながら花里は襖に手をかける。もうこれ以上、家族と話していたくなかったから。



部屋に入れば、外からは人のざわめきが微かに聞こえた。花里の部屋は通りに面していて、景色も良い。夜景でも眺めようかと、彼女は少しだけ窓を開けた。

冷たい空気が頬に触れる。その奥に、微かに――見慣れたものとは違う気配が混じった気がした。

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