9-5 秘密の夜会
9-5 秘密の夜会
夜も深まったパースの街には、霧が立ち込め始めた。星空はまばらな白い雲に隠れ、雲越しの月明かりが不気味に降り注ぐ。初日の夜も静寂に包まれていたが、今日は一段と静けさを増している。
聖域付近の路地裏にあるジューの店も、旅人を迎える暖かな灯火のような雰囲気から一変していた。カーテンの隙間から漏れる店内の明かりは、暗闇で旅人を惑わす罠のようだ。
そんな店に、黒い外套を纏った人物がポツポツと入店し始めた。皆一様に口元までフードを下げ、その容貌は窺えない。カウンターで待ち受けていたジューに声もなく合図を送ると、ジューが奥への扉を開く。まるで煙が吸い込まれるように、黒い影はその中へと滑り込んだ。
店の二階では、息を潜める影が三つ。狭い部屋の中で扉に片耳を預け、口を結んでじっと音が去るのを待っている。階下が静かになるたび、三人はそっと細い息を吐いた。
「……何人来た?」
「分かんねぇ。……三人ぐらい?」
「夜遅い時間だと、繁盛しているお店ということなのでしょうか……?」
部屋にいるのは、タケルとカレン、ヴァルターの三人だ。囁き声で尋ねるヴァルターにタケルが聞き耳を立てた結果を伝える。夜更けに突然来客が続く店の状況に目を瞠り、カレンも同じように声を潜めて首を傾げる。三人とも同じような、黒いフード付きの外套を着用し、ランタンひとつの薄暗い部屋の中で蠢く影のようになっている。
──あの後、ジューはカレンとその同行者を二階の自室に待機するよう言いつけた。では誰が同行者になるかという話になった時、ハロディから意外な意見が上がる。
「ただついていくだけならタケル君行ってきなよ。僕は、ガウリーたちと外から様子を見てるから」
「え、俺が行くのか⁈」
タケルは思わず素っ頓狂な声を上げた。てっきりハロディが同行するものだと踏んでいたのだ。ヴァルターも驚きに目を丸くしていた。
「俺、従者なんて……出来る気がしねぇんだけど……」
「その辺は本業のヴァルター君に任せてさ、君はとにかく黙って立ってればいいんじゃない?」
「そ、そんな……」
故郷から放り出されてからというもの、ここまでの旅路でヴァルターの振る舞いは散々見てきた。だからこそ分かる。彼の真似事をしろと言われても、それは到底無理な話だと。
だがハロディは楽観的にタケルを推すだけで、意見を変える気はなさそうだった。というより、同行する役目を担う気がない、といった様子だ。タケルが不安げに肩を落とし、ヴァルターが眉間を抑えて首を振るなか、カレンだけが「頑張りましょう」とタケルの手を取った。
参加者が決まると、ジューはハロディたちに外に出るよう指示し、タケルたちに黒い外套を差し出した。それを纏い、自分が呼びに来るまで二階で待機しているよう申し付ける。──そういった経緯で、今に至るのだ。
「どう繁盛しているのか……わかったものではありませんがね」
「ジュー様は、とにかく”楽しむこと”とおっしゃっていましたが……」
「そもそもあの男、どこでカレン様のお名前を知り得たのか──私としては、全く信用に値しないのですが……。カレン様、本当にあのような約束をしてしまって良かったのですか?」
「あの方が、わたくしたちを欺くようなことはない……と、思いたいものですわ」
カレンとヴァルターがコソコソと話し合っている。タケルはそんな声を聞きながら、これから先のことを考え、早まる鼓動に胸を押さえていた。
「俺、本当に大丈夫か? 何でハロディは俺に行けって言ったんだろう……」
「あの男のことだ。おおかた、面倒を避けるためだろう。いいかタケル、立ち居振る舞いは全て俺の真似をしろ。そして、口は絶対に開くなよ」
「はあ、わかったよ……」
タケルの鼻先に指を突きつけ、ヴァルターが厳しい口調で言いつける。それがまたタケルの緊張に拍車をかけ、弱々しい返事が漏れる。この場において、落ち着いた様子で待機しているのはカレンのみだ。
立ち方や姿勢の講義が始まって間もなく、部屋の扉が小さく叩かれる。そっと隙間を開き、ジューが顔を出す。
「ではお三方、顔を隠して。俺に着いて来てください」
言われ、三人がフードを目深に被る。足音を潜めて先に階段を下りたジューに倣い、三人は階下へと進む。
「そうそう、あなた方のことは、”グレゴール様の紹介”ということにいたします。調子を合わせてくださいね」
階段の先にあるのは、例の扉の先だ。そこは一見、本当に控室のようだった。クローゼットと、一人用の小さなテーブルセットがひとつ。あとは細々した家具やランタンがあるだけだ。タケルたちは初めてこの部屋を通り過ぎた時、拍子抜けしたものだった。
ジューは店内への扉を開けて覗き込み、再び閉じると施錠した。そして声を潜めたまま、タケルたち三人に最後の忠告を送る。
「いいですか、これから案内する場所では、決して過度に驚かないこと。そして、”楽しむ”こと。それが、中へお招きする条件です。あなた方の情報収集に役立つかは知りませんが、決して俺の仕事の邪魔はしないでいただきたい」
「──そう言うのならば、何があるのか事前に説明してもらいたいものだがな」
ヴァルターが刺のある口調で苦言を呈する。ジューは笑って肩を竦めた。
「それじゃ面白くないでしょう。人生は、驚きと衝撃が付き物なんですよ」
そう言って踵を返し、ジューはクローゼットを開いた。中にはいくつかの衣服が掛けられていたが、その隙間を縫うようにして奥に手を伸ばし、何か操作する。カチリと硬質な音が鳴ったかと思うと、クローゼットに手を掛ける。
ジューの引く力に合わせ、クローゼットが横に移動する。その奥の壁に現れたのは、一枚の木製扉だった。店の扉と違い、金の金具で模様が施され、高級さが窺える。真鍮の取っ手にさえ螺旋状の凹凸が刻まれており、ジューはそれを引いてゆっくりと扉を開く。
「さあ、どうぞ。足下にお気をつけて」
天井から吊るされたランタンが続く細い石造りの階段。それは地下へと続いていた。危なげなく下りていくジューに続き、カレンたちは周囲を見渡しながら一歩一歩下りていく。
空気は湿気を帯び、煉瓦造りの壁はしっとりと濡れている。奥からは何やら、人の話し声のような籠もった音が漏れて反響し、それが不気味な遠吠えのように聞こえる。
「──どうぞ」
階段を下り切ると、ジューはその先にある扉を開く。そして壁際に寄って一礼し、カレンたちをその先へと促した。
ステンドグラスが施されたランタンの明かりが、室内を七色に灯す。重厚な煉瓦の壁と、天井の中央から垂れ下がる小ぶりなシャンデリア。それらにはルミナイトが使われているのか、ルビライトよりも白い光が室内を照らす。
さほど広くはない空間でまず目に入ったのは、目の前にある妙な形をしたテーブルだ。長方形だが、緩いカーブを描いている。そこには、タケルたちと同じように黒い外套に身を包んだ面々が横に並んで着席していた。扉のすぐ近くには、小さなカウンター。奥の壁を埋める棚にはぎっしりと様々な瓶が並べられている。タケルはそれに見覚えがあった。──酒瓶だ。
カレンを先頭に入室した三人に注目が集まる。かろうじて口元しか見えない黒い外套の人物たちが、ひとり、ひとりと振り返ったのだ。会話が止むと、籠もった沈黙で室内が満たされる。タケルは外套の下で固く拳を握りしめ、唾を飲み込んだ。
「……おや、新顔ですかな。随分お若いように見えるが」
「ええ。グレゴール様のご紹介で、お招きいたしました」
タケルたちが逡巡しているうちに、背後で扉を閉めたジューが返答する。黒い客人たちからは「ほう」と溜め息のような声が漏れるが、タケルたちにその意味は分からない。
しかしカレンは堂々としたもので、黙って会釈をしてみせた。促すジューに続き、客人たちが待つテーブルへと向かう。一番端、空いた席の椅子をジューが引くと、カレンは恭しく腰掛けた。
ヴァルターがその背後に立って控える。タケルも内心慌てながら、彼に続いて隣に並んだ。
「お忍びでの行動は初めてのようでして、従者の方もご同席されていますが、お許しはいただいております」
「……思慮深い従者なのでしょうな?」
「ええ、それはもう。でないと私が罰を受けてしまいます」
ほんのひととき、空気が張り詰める。しかしジューが戯けてみせると、周囲からは小さな笑いが起こる。タケルはこれでもかというほど強く口を結び、何度も鼻で息を吸い込んだ。
「では──本日お揃いいただいた皆々様に、まずは祝福を祈って」
ジューはそう言ってカウンターへと向かい、銀のトレーにいくつかのグラスと、一本の瓶を乗せて戻ってくる。ひとつひとつの所作は鮮やかで、食堂として食事を提供していた時よりも洗練されたものだった。
着席した面々の前に、星のような凹凸が刻まれたグラスが配られる。室内の光を受け、テーブルに反射した影すら美しい。そこに、順番に瓶の中身が注がれた。
琥珀色の液体がグラスの中で音もなく揺れる。カレン以外の客人は、それを見下ろして口元に笑みを浮かべる。タケルは隣に佇むヴァルターが、僅かに息を詰める音を聞いた。だが彼は、黙して動かない。タケルは焦燥を覚えながら、黙ってそれに倣う。
「こちらは、かの闇路の森の神樹から授かった蜜が使われた、神聖なる甘い美酒でございます。今宵も素晴らしいひとときになりますように」
客人たちがグラスを持ち上げ、小さく掲げる。カレンも少し遅れて動作を真似、彼らと同じようにグラスの中身を口にした。
タケルは微動だにせず、フードの下から瞳だけを動かしてその姿を覗く。酒を口にした面々は喉の奥で笑い、口々に賛辞を述べる。
「さすがは神聖とされる森の恵み。かの森に”闇路の森”などと悪評が蔓延るなど、歴史とは罪深きものですな」
「体の奥から活力が湧き出すようだ。甘い酒は好まぬが、これだけは別格と言える」
「本来ならば値のつかぬ代物ですからな。あらゆる美食、あらゆる美酒を口にしてなお、未知の領域があろうとは……探究心は捨てきれぬものです」
グラスを傾け、琥珀のきらめきを眺めながら香りを吸い、感嘆の声とともに客人たちが談笑する。ジューは一礼すると、恭しく瓶をテーブルの上に乗せた。
「新顔のお方、どうですかな? お味の程は」
一人がカレンに向かってグラスを掲げた。一口含んでテーブルにグラスを戻しているカレンは、わずかに顔を上げる。ジューの視線が彼女に向かって密かに下される。
「──おっしゃる通りでございます。希少価値のあるものには、それだけで味に付加価値が生まれるものですね」
普段より少し低い、落ち着いた声でカレンは答えた。客人たちは深く頷き合う。タケルは限界まで瞳を左右に振って様子を窺ったが、怪訝な反応をする者はいなかった。ジューは微かに口角を持ち上げ、再び客人たちを見回した。
「では、今宵の遊戯とまいりましょうか?」
ジューはそう言うと、テーブルの下からカードの束を取り出した。客人たちの視線をなぞるように、手元のカードを端から端まで滑らせる。客人たちは彼の手元を目で追うと、互いに視線を交わし合い、笑みを深めた。
「異変の影響が著しい昨今、何かと入り用の方が多いのでは?」
「同じ穴の狢でしょう。こうして遊戯に興じ、懐を潤そうとする者同士」
「今宵の勝負の行方は、どうなることか」
ジューが手にしたのは、つい先刻使っていたものとは別のカードだった。裏に描かれた柄は白地に金の紋様が描かれ、ジューの手に操られて角度を変えるたび、それが一瞬のきらめきを見せる。使い古されたような形跡は一切見えない、真新しささえ感じるものだ。
タケルはこれから行われることが、あの運試しなのではないかと閃く。ジューの手つきは、始める前の動きとよく似ていた。
まるで魔法のような手捌きでカードを切り、あの時と同じように一直線に並べられる。すると、客人たちは懐を探り始めた。
「どなたから?」
ジューが客人たちを見回す。そしてそれぞれの前に、色とりどりのガラスを使った重厚な作りの小皿を置いた。すると中央の人物が、懐から取り出した巾着の紐を解く。タケルが訳もわからず眺めていると、その人物は中から紙幣の束を取り出した。
「今宵は私が一番手でしょうか?」
束が皿の上に乗せられる。すると、ひとり、またひとりと、自分に当てがわれた皿の上に金品を乗せていく。彼らは自ら出した品に一言添えながら、儀式でもするかのように卓上へと差し出していく。
美しい琥珀色の塊、豪奢な意匠の装飾品や小物──紙幣や硬貨だけにとどまらない煌びやかな物たちが、次々に皿に盛り付けられた。
ジューがちらりとカレンを一瞥する。カレンは客人たちから顔を背けるようにしてヴァルターを振り返ると、何やら小声で言いつけた。少し屈んだヴァルターは頷き、外套の下から同じように小袋を取り出して手渡す。一瞬見えたそれの中身を、タケルは知っている。──レオからの報酬だ。
透明度の高いルミナイトの原石が、ガラス皿にそっと乗せられていく。客人たちの反応は控えめだった。
「新しいお客人は五番手ですな」
「仕方のないことです。次回からはより貴重な品をお持ちいただければ、真っ先に運命のカードを掴み取れますよ」
「ですが、カードを引く手番が早ければ有利というものでもない。全ては運命の導きによって決まるのですから」
客人たちは瞬時に皿の上の価値を見定め、静かに笑い合った。ジューはカレンから視線を外すと、客人の一人に手を差し伸べた。
「では、お客様からどうぞ。──私は最後で構いません。従来通り、私の勝利はグレゴール様の勝利です」
ジューの指示によって、客人たちは順番に一枚ずつカードが引かれていく。タケルの目の前で始まったのは、やはりあの運試しだ。だが、引くカードはそれぞれ五枚。客人たちは静かに笑いを交えながら手元に自分の手札を重ねた。
カレンが手にしたカードが見える。風や火の数字が三枚と、地のソルジャー、地のクイーンだ。他の客人の手札は見えないが、口元だけでは表情を読み取ることはできない。ジューは相変わらず余裕の笑みを浮かべている。
開示の手番はカードを引いた順とは逆だった。まずジューが水の一をテーブルに置き、客人たちが低く笑う。カレンは火の九を選び、テーブルに置いた。すると、次々に客人たちがそれぞれの手札を開示する。出されたのは地の九、風の七、火のソルジャー。途中までは勝てると踏んで見ていたタケルだったが、最後の手札で思わず溜息が出そうになって口元に力を入れる。
敗者のカードは破棄され、次のラウンドが開始される。ジューのカードは水のクイーン。カレンは火の十。とにかく低い数字を出してしまう戦法を取るようだ。次の客、そしてその次の客も数字を出した。彼らもどうやら同じ目論見らしい。タケルは勝負を眺めながら、人数が多ければ多いほど先行が不利なのではと歯噛みした。強いカードを持っていれば手番など関係ないが、少なくとも相手の手札を見て作戦を立てる余裕がある。ジューとの一対一の時には、そんなことなど思いもしなかった。
「……では私は、このカードを」
最後の手番の客人が出したのは、禍々しい黒い煙を纏った異形のカードだ。ジューはそれを引き寄せて破棄すると、客人に新しいカードを勧めた。
「ではお客人、もう一枚どうぞ」
客人がカードの列から一枚選んで手元に寄せる。そしてそのままそのカードを開示した。
「惜しい、火のクイーンか」
「火のクイーンを捨てるとは、残りのカードはさぞお強いのでしょうな」
勝負の間も客人たちは酒を飲み、グラスが空になればジューが次の酒を注いだ。彼らは時間が経つにつれて饒舌になり、笑い声も増えていく。カレンのグラスは最初に口をつけたきり量を減らしていなかったが、それを気にする者などいなかった。
「──では、今回はグレゴール様の勝利です」
ジューはそう言って水のクイーンを手元に寄せる。敗者のカードは再び破棄の束に重ねられた。
次のラウンドで勝利したのもまた、最後の手番の客人だった。水のソルジャーに対して風のナイトが出されたのだ。数字のカードは破棄され、勝負はその客人とジューで現状、二対一となる。カレンは勝利することなく数字のカードを出し切り、残りの二枚で勝負することとなった。
ここまでで出た階級カードは火と水のソルジャーに風のナイト、火と水のクイーンだ。カレンが持つ最も強いカードは地のクイーンだが、残りのクイーンとの勝負なら勝利できる。だが未だにキングが出ていない。運良く残り二勝を手にしたとしても、カレンは引き分けに終わることとなる。
ソルジャーとクイーン、どちらを先に出すか。これまで数字のカードを捨ててきた客人たちだ。ここから階級カードの勝負になる可能性は大いにある。だとしたらソルジャーは心許ない手札だ。カレンは手札をじっと見つめているようだったが、タケルからその表情は見えない。
しかし、迷いはジューによって断ち切られる。彼が出したのは──救世主。このラウンドの勝負は、客人たちがカードを出す前に決してしまう。
「なんと、ここで救世主が」
「最後の勝負を残して出してしまってもよいのかな?」
客人たちは戯けた様子でカードを開示していく。数字の十や、風のソルジャー、火のナイト、地のナイトが破棄されていき、カレンは地のソルジャーを手放した。
そして最後のラウンド。ジューが出したのは水のキングだ。カレンは手札を選ぶことができず、最後の地のクイーンを差し出す。客人たちは火のキング、地のキングと次々に出していく。タケルは内心で気落ちした。もうこの時点で、カレンは勝負の場に立てていない。
「火は地に強いが水に弱い。このままいけば、弱点のない水のキングを持つ私の勝ちです。──皿の品を増やされる方は?」
「……いや、今宵は負けだ」
「私も同じく。だが、グレゴール殿の勝利ならば我らにも利がありますからな」
ジューが妙な話を持ちかける。客人たちは肩を竦め、背もたれに寄りかかって観念した。カレンも黙って首を横に振る。
「いや、待たれよ。私のカードは──これだ」
最後の客人が出したのは、残った風のキング。なんと、卓上にキングが出揃った。
「なんと、貴方もキングをお持ちだったとは。──水の弱点が来たことで我らのキングは四すくみ。これで勝負は相殺です。最後の勝者は、相殺されない地のクイーンを持つ……新しいお客人だ」
四枚のキングが破棄され、カレンの地のクイーンだけが残される。タケルは思わず声をあげそうになってなんとか踏みとどまった。
「久々にこんな光景を見ましたな」
「すると、二勝の者たちで女神に運命を決めてもらうわけですな」
客人たちが話していると、ジューがテーブルの下から恭しく小箱を取り出し、蓋を開く。光沢のある布に乗せられているのは、女性の顔が刻まれた金貨だ。ヴァルク硬貨とは違う、濁りひとつない特別なものに見える。
「お客様は、どちらを選ばれますか?」
「では、女神のご尊顔を」
「でしたら私は、プレカリオで」
金貨のもう一面は、教会で何度も見たプレカリオの印だ。光が放射するような、星に似た形が刻まれている。ジューは金貨を卓上で回転させると、それに小箱の蓋を被せた。金貨が木目を滑る音が次第に弱まり、転がる音がして静まると、そっと蓋を持ち上げる。客人たちが揃ってそれを覗き込む。
「──プレカリオです」
「これは参った。此度はグレゴール様に軍配が上がったようだ」
女神を選んだ客人はグラスを傾け、肩を揺らして笑った。他の客人からは控えめな拍手が起こり、勝負は終わりを告げた。
ジューは金貨を箱に戻し、皿を回収してテーブルの下へ移動させた。残されたのは、レガルドと酒瓶、そして各人のグラスのみ。負けた面々は不満を述べるでもなく、勝負のことなど無かったかのように以降は酒を楽しんだ。自分たちの身の上は伏せつつ、苦労話などが話題に挙げられる。
会話には、これまでの勝負についての話題もあった。過去の勝者が何を手にしたのか、客人たちはそれぞれが思い出話を語る。たまにジューが勝ったとしても、それはグレゴールという人物の勝利となり、客人たちには何かしら恩恵があるらしい。勝負は毎回、誰の異存もなく終わるのだという。タケルには話の内容が全く掴めなかったが、会話の雰囲気や仕草には覚えがあるような気がした。それぞれが、身分の高い者なのだろうと思う。
「──それでは、今宵はお開きといたしましょう」
酒瓶が空になると、この秘密の地下で行われた夜会は散会した。最後まで互いの素性を明かすことなく、一人ずつ、互いに顔を合わせないよう間隔を空けて部屋を退出していく。すべての客人が居なくなると、ジューは大きく息を吐いた。そして空になったグラスや酒瓶をトレーに乗せ、カウンターに戻す。その時には、彼は仕草を一変させていた。
「──どうでした? 楽しい夜会だったでしょう」
そう言ってカレンたちに向き直った時、ジューは笑みを湛えていた。だが声はどこか投げやりで、タケルはその釣り合いの取れていない彼の様子に怪訝な目を向ける。
特に瞳だ。勝負の間、ずっと余裕ある笑みを浮かべていた青い瞳。それが今、何もかもを捨て去ったように色を失っている。
あの客人たちが原因なのか、それともこの会合自体が原因なのか──タケルは、ジューがどうしてそんな目をするのか掴めず、ただ、被っていたフードを肩に下ろした。




