8-10 白と黒
耳心地のいい鐘の音が頭上から降り注ぐ。タケルは思わず足を止め、上空を見上げる。高かった太陽はいつの間にかわずかに傾き、空の青は鮮やかさを欠き始めている。風に流された雲が視界の端に見え、日が落ちればまた寒くなりそうだと、想像しただけで身震いする。
「教会の鐘の音だな」
隣を歩くアルトが、足を止めたタケルを振り返った。ここに来るまでに宿を予約して荷物を整理したため、彼女の腰に刀は無い。丈の短い外套の首元をいつものように口元まで持ち上げ、両手は隠れている。黒い外套から細身の黒いホーズと靴が伸びていて一見すると怪しいが、彼女のプラチナブロンドだけは、街の雰囲気に不思議と調和していた。
「えっと、俺らが行くのは……森側にある、”えるでぃあ教会”……だったっけ?」
「左様。だが、この鐘はどうやら中央の教会から響いているようだ。音に惑わされるでないぞ」
アルトは踵を返してさっさと先へ進む。タケルは外套の首元を持ち上げると、小走りにその後を追った。
タケルもアルト同様、武器の類は宿に預けている。加えて、着慣れているからと選びがちな自らの一張羅を着替え、外套の下はシャツやベスト、ホーズという装いだ。ブーツは履き慣れたものだが、彼にとって体を締め付けるような服装は未だにむず痒い。服はカレンが選んだもので、彼女は嬉々としてタケルを着せ替え人形のように扱った。おかげで、作戦決行の時間は予定より少し遅れてしまっていた。
道を進んでいくとやがて外壁が見え始め、その向こう側に森の木々が頭を覗かせた。アルビオン付近の森はエオローの森とは異なるようだが、それでもタケルの目にはアルマやアンスール付近で通り抜けてきた森と植生が違って見える。ベスカでひと際大きかった木と同じで、とにかく背が高いのだ。
鐘の音が何かの合図なのか、街中に白いローブを纏った住民が姿を現し始めた。手には金のプレカリオを持ち、その鎖が跳ねぬよう、静かな足取りで教会を目指している。タケルとアルトが目的のエルディア教会に辿り着くと、二人はそんな教徒に混じって内部に入り込んだ。
「うわぁ……すっげぇ……」
前室を抜け、礼拝堂に入るとタケルは大口を開けて高い天井を見上げた。吹き抜けの天井には、誰がどう描いたのか美麗な絵画が描かれている。女神らしき女性の背後の太陽は琥珀色のステンドグラスで、そこから透けた日差しが床を照らしている。整然と並べられた長椅子の先には女神ルーメリアの像が飾られ、その背後に控えるようにして五つの像が並べられている。アルマのルーメリア教会でも見た景色だが、エルディア教会はそれよりも豪奢だった。
「フン、目に煩い場所だ」
白い壁や柱に施された金の細工を睨むように見つめ、アルトが小さく呟く。言われてみればランタンの装飾ひとつとっても金細工が使われており、礼拝堂は光の粉を塗したかのように煌めいていた。
「……懺悔室ってのは、どっちなんだ?」
「知らぬ。──修道士、とやらに尋ねてみればよいのではないか?」
堂々と答えるアルトに、タケルは肩を落とす。何故この地に来て間もない自分と共に行動するのが、教会に足を踏み入れたこともないアルトなのか──不安が一気に押し寄せる。
「あ、多分、あっちに立ってるのそうじゃないか? 聞いてみよう」
二人は連れ立って、近くの扉前に佇む修道士らしき人物に声を掛ける。すると扉の先が懺悔室だと返事を貰い、今は第七室なら空いていると指定された。
「第七室、第七室……」
「奥から三つ目の部屋だと申していたな」
扉を開けると、その先は細長い部屋が左右に広がっていた。奥の壁に向かって、天井の無い小さな空間がいくつも並んでおり、木製の仕切りと扉によって隔たれている。そこかしこから告白の声が響き、それは風のように混ざり合っていた。
二人が奥を目指して歩き始めたとき、途中の個室から突然出てきた人物があった。その人物はタケルとぶつかると、反動でその場に崩れ落ちる。タケルは慌てて膝をつき、その人物に手を差し伸べた。顔を上げたのは、老婆だった。
「ご、ごめん。大丈夫?」
タケルが尋ねるも、老婆は目の前のタケルとその傍に佇むアルトを交互に見やり、青ざめてすぐには応えない。そのまま蹲ると、何度も震えた声で「お許しください」と繰り返した。
「……あの、大丈夫か?」
「ああ神よ、私の罪をお赦しください。私は奥様の罪を分かっていて、ただ座視してしまったのです。旦那様が亡くなり、一家が行方不明となった罪はこの老体にございます。どうか、どうかお赦しを──!」
「ええと、婆さん? 一体どうしたんだよ?」
突如として罪の告白を始めた老婆に困惑し、タケルはアルトに視線を投げる。だがアルトにとっても同じことだ。彼女も眉根を寄せ、同じように戸惑いの色を見せている。その間も老婆は言葉を繰り返し、ひたすらに額を地面に押し付けた。
タケルたちが困り果てていると、扉前でタケルたちを案内した修道士がやって来て、老婆の肩を掴んで身を起こさせた。老婆は修道士の顔を茫然と見上げ、呪文のようだった言葉が止まる。
「ゾルさん、貴女の罪を、神はお赦しになりました。──今日はもう部屋に戻り、お休みになってください」
「ええ、ええ……感謝いたします」
老婆は何度も修道士に頭を下げると、おぼつかない足取りで懺悔室を退出する。その背を見送るタケルたちに、修道士は告げる。
「──お騒がせして申し訳ございません。……あの方は教会では有名でしてね。毎日懺悔室を訪れて罪を告白なさるのです。哀れなことに、前日の懺悔を翌日には忘れてしまい、ああして常に罪の意識に苛まれている。──もし次にお会いすることがあればどうか、”あなたの罪は赦されました”と告げてあげてください」
そう言って頭を下げ、修道士は戻って行く。タケルたちは顔を見合わせた。
「なんか……あのジューって人の言う通りの場所なんだな」
「人は生きていれば罪を背負うものというが……あの姿を見るとどうしても、哀れに見えてしまうものだな」
二人は心なしか気落ちした心を持ち直し、第七室へ向かう。ここからが本番だ。タケルは木製扉の前で深呼吸すると、意を決して取手を握った。
「──迷える者よ。心を安らかに。ここでは何も偽る必要はありません。女神ルーメリアはあなたの言葉に耳を傾け、あなたの罪を洗うでしょう。……さあ、罪の告白を」
恐る恐る開いた扉の先には、椅子が一脚置かれているだけの空間だった。その先には小さなカウンターと、細かい穴の開いた壁がある。その穴から、落ち着いた声が二人を迎えた。
タケルは固唾を呑み、ゆっくりと椅子に掛ける。アルトはその隙に体を滑り込ませ、扉を閉めるとそこに佇んだ。
「えっと……その……お、俺は、遠い国からここに来たんだけど、知らないうちに大きなものを……背負いそうになってて……ええと」
タケルは必死に記憶を辿りながら、目の前の壁に向かって告白を始める。辿々しい言葉でも、壁の向こうの聞き手は何も言わない。それが妙に緊張を誘い、眉間に深い皺が寄る。
耳の片隅には、両隣の告白が聞こえていた。だがそれよりも自らに課せられた役割を果たすのに必死で、内容までは分からない。タケルは盗み聞きをアルトに任せることにして、膝の上に乗せた両の拳を握った。
「──でも……俺は、自分には関係ないって、思うんです。それが何だか悪い気がしてて……こっちで知り合った人たちには良くしてもらってるから、何か出来るなら助けたいとも思うけど……でもそうすると、故郷に置いてきた人にも悪いというか……心配事を残してきてるから、こっちで居心地良いなって思うたびに罪悪感があって……」
ハロディからは、「お悩み相談でもしてもらう感覚でいいんじゃない?」と言われた。その助言を元に、タケルはずっと胸の内でわだかまっているしこりのようなものを吐き出してみようと思ったのだ。だがいざ口にしようと思うと感情が曖昧で、上手く言葉にできない。話すうちに、「これは罪なのだろうか」という疑問まで湧いてくる始末だ。
「…………あの、こういう風に思うのって、罪ですか?」
タケルは思わず、見えない聞き手に問いかけた。きっとここでは先ほどの老婆のように、ただ罪を告白すれば赦しの言葉が貰えるのだろう。もしかしたら問いに対する答えは返ってこないかもしれない。しんとした空気が流れ、他人の告白の音量が上がる。この沈黙を利用して聞き耳を立てられると思いつつ、タケルは動悸を抑えるのに必死だった。
「──……ご安心ください。女神ルーメリアは、あなたの想いを罪とは仰せにならないでしょう。あなたがお心のままに過ごす姿を、天から見守ってくださるはずです」
「……え」
思っても見なかった返答に、タケルの口から力ない声が漏れる。何も応えられずに呆けていると、聞き手から再び言葉がもたらされる。
「お優しいお方。あなたには聖なる光芒が降り注ぐことでしょう」
「あ、……えっと」
返答に困ってアルトを振り返ると、彼女は顎をしゃくって退出の合図を示す。タケルは再び振り返り、壁の向こう側に向けて礼を言うと、席を立つ。個室を出ると、脱力感のままに大きく息を吐き出した。
「──出口まではゆっくり進むぞ」
アルトが小声で囁く。その意図は、帰り際にも告白に聞き耳を立てよということだ。二人はわざとらしく室内を見渡しながら、ゆっくりとした足取りで出口まで進む。その間にも、懺悔室には何名かの出入りがあった。
「……私は過去、友人を陥れて財を得ました。卑しき私を……」
「……母のためとはいえ、隣人の薬草を勝手に拝借したのです。ですがそれは隣人の……」
「この月は満足なルメルクを捧げることが出来ず……」
心が鎮まれば、タケルにも懺悔の声が理解できた。しかしその内容は、どれもデルカに繋がるようなものには聞こえない。アルトと視線を交わし、このままその場で聞き耳を立て続けようかと逡巡するが、それにはいささか人の出入りが多すぎる。
「……ひとまず出ないか?」
「──同意」
二人は頷き合うと、何食わぬ顔で教徒たちに紛れながら教会を後にした。
「──……何か、すっきりしちまった」
「何を言っておる。……お主、一体何を話したというのだ?」
「え、聞いてなかったのか?」
「某は外の声しか聞いておらぬぞ」
日はさらに落ち、空は赤みを帯び始めている。二人の間を、冷たい風が吹き抜ける。
「──……もしかして、だから俺たち組まされたのか?」
「……解せぬ」
タケルは内心で、あの告白をアルトに聞かれていなかったことに安堵していた。これもハロディの采配によるものかと思うと、若干の悔しさが募る。
「……戻るか」
「うむ」
二人は同時に溜め息を吐くと、宿への道を歩き始めた。
「さて、有益な情報は聞けたかな?」
宿の部屋に戻り、椅子やベッドに腰掛ける。部屋割りはいつもの通り、カレンとその他の二部屋だ。大部屋の方に集まり、タケルたちは互いの情報を提示する。
「中央のアルセリア教会では、デルカや……ファーブラー自治区に関係していそうなお話は聞けなかったと思いますわ。わたくしとヴァルターで手分けして別の個室に入ったのですが……」
「日常的な悩みを”罪”として告白しているような例ばかりだったように思う。──この街の人間は、罪の意識に駆られやすい性質らしい」
中央のアルセリア教会へ向かったのはカレンとヴァルターだ。ヴァルターがカレンと分かれるのを渋ると踏んで、この二人は始めに組むことが決まっていた。──しかし結局、教会の懺悔室では単独行動をしたようだった。
「……よく、君が別行動を許したね」
「……その方が効率が良いとカレン様が仰ったのでな……さすがに教会内で危険に遭うことはないか、と」
ハロディが目を瞠る。ヴァルターは眉間を押さえながら複雑な表情だが、当のカレンはにこにこと満足げだ。
「でもひとつ、気になるお話がありましたわ。──”黒い悪魔”を見てしまった、という内容だったのですが……それだけが少し、耳に残りました。お心の状態によるものなのでしょうか?」
カレンが顎に指を添え、軽く首を傾げる。ヴァルターの言う通り、この街の人間が罪悪感に苛まれやすい性質を持っているのだとしたら、それも一理ある。
「”黒い悪魔”ね……僕らの方にも、そんなようなことを言ってる人がいたな。──な、ガウリー?」
足を組み、椅子の背もたれに寄りかかったハロディが、隅のベッドに腰掛けているガウリーに問いかける。するとガウリーは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「お二人の方では、何か気になるお話は聞けましたか?」
「僕らが行ったマリネア教会も、カレン様たちと同じような感じだったね。大体日常から派生するような話。……でも、黒い影に怯えてる人はいた。”夜に窓を覗いたら、道の角に黒い影が見えた。きっとあれはいつか、自分を裁きにやって来る”……ってね」
そう言って肩を竦めるハロディは、全くの他人事だ。信心深い街の人が信じる神を、心底信じていない。
「お二人も手分けをなさったのですか?」
「いや? 僕らは同じ個室に入ったよ。……ガウリーは懺悔室に一人で入っても、与太話ひとつ出来ないだろうしね」
「…………俺はてめぇの与太話に邪魔されまくったがな。よくもまぁペラペラと……」
舌打ちをして、独り言のようにガウリーが反論する。二人が向かったのは海側にあるマリネア教会だ。渋い顔をしていたガウリーを言いくるめ、ハロディは強引に彼を従わせていた。悪態はつくものの、ガウリーは最終的にはパーティの方針に寄り添うことがほとんどだ。タケルはこれまでに、何度もそんな姿を目にしていた。黙して何も言わないが内容は理解していて、行動すべき時には行動する──そんな男だ。
「ハロディ様は、どんな告白をなさったのですか?」
「それは罪深い行為だよカレン様。他人の告白を聞き出そうだなんて」
「与太話ならば問題ないだろうが」
”与太話”に興味を持ったのか、カレンが期待に満ちた眼差しをハロディに向ける。ところがハロディは適当に受け流してまともに答えず、カレンに罪を擦りつけるような発言にヴァルターが口を挟む。
「……ではわたくしも後ほど、罪の告白をせねばなりませんわね」
カレンは眉尻を下げて苦笑した。ハロディが目を丸くして、気まずそうな笑いを漏らす。そもそもこの作戦自体が罪深い行為なのではないか?
恐らく天然なのだろうが、カレンの発言には刺さるものがあった。ヴァルターがそんな彼女に「あれは作戦なのですから」と慰める。ハロディは咳払いをひとつ挟むと、タケルに視線を移した。
「そっちの二人は? 何か良い情報は聞けたかな?」
椅子に座っていたタケルは、ベッドの上で座禅を組むアルトを振り返る。目を閉じていたアルトは目蓋を開くと、そんな彼にひとつ頷いた。
「……えっと、俺らも別にこれっていう話は聞けなかったと思う。──そうだよな、アルト?」
「うむ。お主らの聞いた話とさほど変わらぬな。……このような街に、あれほど罪の告白とやらをする者がいるのは驚いたが」
これにはタケルも思わず頷く。皆一様に純白の装いをした住民たちは、そういったものとは無縁に見える。だが実際は、懺悔室が埋まるほどに罪の告白が行われているのだ。
「あ、でも……ちょっと気になる人はいたな。毎日罪の告白をしに来るっていう婆さん」
「ああ、確か……修道士はその者を”ゾル”と呼んでおったな」
タケルは何か情報を出さなければと頭を捻り、出会い頭にぶつかった老婆のことを思い出した。自治区に関係しているとは思えなかったが、妙に気になったからだ。名前までは覚えていなかったが、どうやらアルトはそうではなかったらしい。あの時の情景を反芻すれば、他にも思い出すことがいつくつかあった。
「毎日罪の告白しに来るお婆さん? 何それ?」
「なんか、罪の告白しても次の日には忘れちゃうんだってさ。教会では有名だって言ってたぞ」
ふむ、と鼻を鳴らし、ハロディが顎に手を当てる。
「その人の告白って、聞いたりしたかい?」
「ええっと……確か、旦那さんがどうとか奥さんがどうとか……?」
「一家が行方不明となったのは自らの責だ、と言っていた気がするが」
「うーん??」
タケルが眉を寄せ、硬く目を閉じて記憶を捻り出す。アルトも自身が覚えていることを補填したが、ハロディは大きく首を傾げて唸り声を上げた。
「行方不明、ということは……何か事件が起きたということなのでしょうか?」
「自治区に関することなのかどうかは、これだけでは判断しかねますね」
カレンとヴァルターも首を捻っている。確かにこれだけでは、あの告白が自治区に繋がる話だったかどうかは分からない。タケルはアルトと目を見合わせた。
「……まあ、教会では有名で、名前まで分かってるなら追うことは出来るけど……話を聞いてみたくはあるね。──それ以外には?」
ハロディは腕を組み、そんな二人に問いかける。タケルとアルトは一様に首を横に振った。
「じゃあ、いったんここまでって感じかな? 気になるのは”黒い悪魔”とか、その”ゾル”っていうお婆さんくらいか」
情報としては心許ない結果となった。だが、気になる点が残っているだけ希望はある。八方塞がりとなったわけではない。
「──街の人にデルカ出身者かどうか聞いて回るのもアリだけど……それで怪しまれても厄介だしなぁ。明日はひとまずそのおばあさんとやらに会いに行ってみる」
ハロディの提案にガウリー以外が頷く。ガウリーは疲労の混じる溜め息を吐き、肩を落とす。どうやらこの街の雰囲気が性に合わないらしい。彼は街に入ってからずっと居心地が悪そうだった。
「じゃ、夕食にしようか。街に出るのも面倒だし、味気ないって話だけど下の食堂にしようか」
「わたくしは構いませんわ。実はどんなお料理なのか、楽しみなのです」
窓の外には夜の帳が下りている。これまで訪れた街のように、外からの喧騒は一切聞こえない。外灯もほとんどないのか、星明かりがやけに輝いて見えるほどだ。
一行は部屋を出て静まり返った廊下を進み、階段を下りようとする。だが妙だった。階下が暗すぎるのだ。先頭のハロディが先んじてそっと下りていくと、彼は素っ頓狂な声を上げた。
「あれ? やってない?」
「……何だと? まだ遅い時間でもないだろう」
ヴァルターもそれに続く。タケルとカレンも着いていくと、確かに食堂は片付けられ、明かりが最小限に抑えられていた。
宿のカウンターも、小さなランタンが灯されているだけで誰もいない。ベルが置かれていたのでハロディがそれを鳴らすと、奥の扉から店主が姿を現した。
「おや、お客様。このような時間に一体どうされたのです?」
「このような時間って……あの、食堂ってやってないんですか?」
驚きの表情と声音でハロディが尋ねると、店主も目を瞠る。まるでハロディの発言が意外でしかないという反応だ。
「……お客様、この街は夜が訪れれば眠りに就くのです。また明日にご利用いただけますので」
「ええ……? そうならそうと言ってくれれば……」
店主は事もなげにそう言って会釈する。ハロディは溜め息混じりに肩を落とした。
「……もしかして、街全体の店が夜は閉じるのか?」
「ええ、そうでございます。──夜は闇に紛れ、淀みが漂う時間とされています。街の人間は外出などいたしませんので」
信心深い返答に、ヴァルターまでもが溜め息を吐く。食事にありつけなさそうだと分かると、タケルの腹が小さく音を立てた。慌てて腹を押さえるも、カレンには聞こえていたようだ。彼女はクスリと笑いを漏らす。
「──あ、でも……”あそこ”ならやってそうな感じしない?」
ハロディは背後のタケルたちを振り返って囁いた。彼が言う”あそこ”とは、昼間に訪れたジューという青年の店だろう。合点がいくと、タケルは大きく頷いた。
「あの、僕らちょっと外に出たいんだけどいいですか?」
ほとんど視線を交わしただけのような相談を終え、ハロディは店主に窺いを立てた。咎められるかとも思ったが、店主は意外にも静かに頷くだけだった。
「──旅人の方に強制することはいたしません。ですが……どうか、お気をつけて」
そう意味深な言葉を残し、カウンターの奥へと戻っていく。薄暗い室内に取り残された一行は、ぼんやりとした明かりの下で視線を交わした。
宿の扉をそっと開き、夜の街に足を踏み入れる。道には点々と小さなランタンが置かれていて、それがかろうじて足元を照らしている。店主の言う”淀み”の正体は不明だが、こうも暗いと確かに危険がありそうな錯覚に陥る。
「カレン様、足下と周囲にはお気をつけください」
「ええ、ですが……静寂に包まれているというだけで、危険があるようには思えませんわ」
カレンの言う通り、道ゆく人は誰もいない。ランタンの他に街を照らす純白の星明かりは美しく、妙な気配も無い。殊更に壁に反射する足音を抑えつつ、一行は声を潜めながら目的の店へと向かう。
「夜も賑やかなのに慣れちゃってるから、静かすぎるとどうも落ち着かないなぁ。街の人が夜を恐れる理由が分かるかも」
ハロディが記憶を辿りながら先頭を歩き、そんな風に独りごちる。確かに街中であるのに、野営の夜の静けさに似た空気が漂っている。時折響く音が、小さなものであっても妙に耳が拾ってしまう。そして音の正体がわからぬ限り、恐れは続くのだ。
「本来夜とはこういうものだろう」
「お前は修行とか言って山に籠ったりしてるから慣れてるかもしれないけどね」
「……野生の獣かよ」
「何だと?」
「はいはい、喧嘩するのは良いけど声を抑えてくれよ、まったく……」
先頭のハロディ、最後尾のアルトとガウリーの三人がいつものやり取りを開始する。その間に挟まれて歩くタケルは、ふと星空を見上げた。夜の山には慣れている。虫の声や草の音が響いてもさほど気にすることはなかった。だが、それは山が安全だと分かっていたからだと実感する。恐怖を誘うのは、”未知”なのだ。
やがて、大聖堂のある区域に近い路地裏へと辿り着く。暗い路地の一角──昼間に訪れた小さな店の窓からは、ぼんやりとした明かりが漏れていた。
「お、やってそうやってそう」
それを見てハロディが手招きをする。一行は彼の後に続き、ひときわ暗い路地裏へと入り込む。明かりの漏れた店は、まるで暗闇に浮かんでいるように見えた。




