8-3 太陽の下へ
明朗快活なルジュから笑顔が消えると、まるで灯火が小さな煙を残し、静かに消えるようだった。彼女のその反応は、リリーの情報が確かなものだということを如実に物語る。タケルは眉根を寄せ、彫刻のように固まったルジュを見上げた。
「タケル君が、巷で”伝承の勇者”だって言われてるのは知ってるだろ? 彼は、地図には存在しない”アカツキ”という国から突然このノヴァに現れた。それで今、僕らは協力して帰す方法を探ってるんだ」
事情を説明するハロディに向けて、ルジュの瞳がそろりと動く。だが相槌を打つ様子はない。
「タケル君がノヴァに出現したことと、異変の訪れはほとんど同時に起こってる。異変との関連性は高いと考えていい。だから異変の謎も探っていく必要がある──それこそ伝承の勇者のようにね。そのためには、歴史の生き字引であるヴェルダ族と接触するのが手っ取り早い。……だがここで問題なのが、ヴェルダ族と人間との確執だ」
タケルはアンスール王国での出来事を思い出す。あの、妙に静かで威圧感のあるベルサルディア城。試すように見下ろすオルヴェイン王の瞳と、周囲を守る彫像のような翠誓法衣騎士団たち。オルヴェイン王はヴェルダ族を”傲り昂った種族”と言った。声音は一定だったが、それは両者の間に刻まれた溝の深さを思わせるものだった。
同時に思い起こされたのは、オルヴェイン王の「今はお主を如何様にも評価はしない」という言葉だった。あの時は「現段階では無害」と評されていたが、森の大穴の件を経てそれは”災厄の招来者”に下げられた。一方アルマでは街を救った人物だ。こうも認識が変わるものかと、タケルは今になって理不尽さを覚える。他人の評価は計り知れない。故に、真実は当事者間のみに存在するのだと実感する。
「アンスールのオルヴェイン王から聞いたんだけど、友好関係を築こうとしていたファーブラー自治区が、穏健派だった森の民ドレンダーとの確執を生んでいたらしいね。……僕らはドレンダーを介してヴェルダ族と接触したい。そのために、まずドレンダーとの和解を試みたいんだ。つまり、何があったか──事情を知る必要がある」
タケルが思考に囚われているうちに、ハロディの交渉は続いた。ゆっくりと様子を窺いながら言葉が紡がれていく。それでもルジュは視線を逸らしただけだった。
「事情を知った上で和解の可能性を探りたい。もし出来るなら、君にも同行してもらいたいんだ──当事者として。もちろん、交渉の場には僕たちも同席する」
タケルが固唾を飲んでルジュの瞳に焦点を合わせる。すると不意に目が合った。ルジュは息苦しそうに目を伏せる。そして息を整えようとするように彼女の胸が上下した。
「──……どうかな? ペール爺さんの意見も聞かなきゃだけど、まずは君の意思を知りたい」
言葉が止まると、再び沈黙が下りる。タケルには、ルジュが青ざめているようにも見えた。それだけファーブラー自治区での出来事は過酷なものだったのかもしれない。だがこうも思う。──もしレオとアリアベルのように、互いの想いがすれ違っているだけだったとしたら? アリアベルと彼女の父親のように、互いの思いを打ち明けられずにいるだけだとしたら? ……カレンがしたように、誰かの介入によって解決への道が開けるかもしれない。
「…………あのさ、俺たち、絶対にあんたに協力するから。あんたが優しいのはもう知ってるし……何を知っても疑ったりしない。だから、助けて欲しいんだ」
タケルは意を決して口を開いた。カレンやヴァルター、ハロディが目を瞠る。タケルの真摯な瞳に見上げられたルジュは苦悶の表情を深めた。彼女の笑顔しか見たことが無かったタケルは、そんな様子に心苦しさを覚えながらも瞳を逸らさない。──ルジュの瞳が揺れる。
「──ガキ共に手ぇ貸してやるぐらいいいんじゃねぇのか、ルジュ?」
沈黙を破ったのはその場にいる誰でもない、カウンターの奥から現れたペールだった。彼は掠れた掛け声とともにカウンタースツールへ腰かけると、パイプに熱を加えて煙を燻らせる。そして、そっとルジュの背中に視線を流した。
「……いつまで居てもいいとは言ったが、こういう機会があるんなら俺ァ、清算しちまった方が──お前の為になると思うがな」
ルジュはどこか慈しむようなペールの瞳を背中で受けた。トレーを持つ指が白む。タケルはそれを一瞥し、ペールを見やってから再びルジュを見上げた。
恐らくペールは事情を知っているのだろう。だが、自分から話すことではないと考えている。”清算”とは何なのか──きっとそれは、タケルの想像にも及ばない重みを持っているのだろう。
眉根をきつく寄せ、瞳を揺らしたままルジュは唇を硬く結ぶ。ペールはそんな彼女の背中を横目に、パイプを吸う。
「──……向こうに行ったら、何か知ってる人がいたりするか? それだったら、その人の事教えてくれればいいし……」
タケルがおずおずと尋ねると、頑なな瞳が彼を見下ろした。力の入っていた口元がわずかに緩み、何か言おうとして止めるように隙間から吐息だけが漏れる。尚もタケルがルジュを見つめると、ようやく震える声で応えが返った。
「…………そんな奴は、いない」
低い声が、静かな室内を微かに振動させる。タケルはわずかにルジュに詰め寄る。
「じゃあ、何があったか聞かせてくれるだけでもいいよ。後のことは俺らで何とかする。何を聞いても、誰にも言いふらしたりしないよ。──なあ、カレン?」
そう言ってタケルがカレンを振り向く。それまでただ様子を見守っていたカレンは、タケルに丸くした目を向ける。そして真剣な眼差しを受け、目を細め、ゆっくりと頷いた。
「──タケル様のおっしゃる通りですわ。身勝手なことではございますが、わたくしたちはただ、先へ進むための緒を求めているだけなのです。顛末を知ったとて、わたくしたちがそれを口外することはございません。……それに」
柔らかに微笑み、カレンが慈しむような瞳をルジュに向ける。それからタケルに一度笑いかけ、さらに続けた。
「わたくしもタケル様と一緒です。まだ短い間のお付き合いですが、それでもあなたがとても優しく、明るいお方だと存じ上げております。どうか、わたくしたちを──信じていただけはしませんか?」
眉間を寄せた真剣な顔を向けるタケルと、眉尻を下げ、慈愛の表情で語りかけるカレン。ヴァルターは黙してそれを見守り、ハロディがそっと吐息のような笑いを漏らす。
「──子供たちに懐かれてるようだね、ルジュ?」
ハロディの悪戯な視線がルジュを見上げる。ルジュは張り詰めた細い息を吐くと、どこか苦しげな困惑の表情を浮かべた。
「連れて行っちまいな、ガキ共」
和らぎかけた空気を、笑い混じりの嗄れた声がかき消した。タケルたちが一斉にカウンターへと目を向ける。今度はルジュも弾かれるように振り返り、小さく声を漏らした。
「黙るだけってこたァ、迷ってるってことだ。そういう場合は誰かが背中叩き蹴って連れ出しちまった方がいい」
「……いいのかい、ペール爺さん? 三つ星亭の評判、元に戻っちゃうんじゃない?」
ぶっきらぼうな言葉を言い放つペールにハロディが苦笑する。するとペールは喉の奥で笑い、パイプを吸う。彼の目はしっかりとルジュを見据えていた。感情は読めないが、邪険に扱っていないのは確かだ。厳しくもあり、慈しむようでもある瞳が、皺の刻まれた瞼の下からルジュの身を案じている。
「──フン、元々それでやってきたんだ。若造に心配されることなんざ何も無ぇな」
「ペールさん……」
ルジュが重苦しい声でペールの名を呼ぶ。タケルからは彼女の背中しか見えないが、ペールの表情を見れば、彼女がどんな様子でいるのかが何となく分かる。こちらからの説得は終わった。後は二人を見守るしかない。タケルがカレンを見やると、カレンは黙って頷いた。
「お前は、迷いをずっと誤魔化してたんだよ、ルジュ。過去を切り捨ててぇなら端から断りゃいい。ところが自分の中に迷いがあるからそれが出来ねぇわけだ。──お前がはっきり断れば、アイツらだって無理強いはしないだろうよ」
「──……」
「腹括れ。それが出来ねぇってこたァ、清算してきちまった方が良いんだよ」
再び沈黙が下りた。ルジュはトレーを両手できつく抱え、俯く。パイプの灰を小皿に落としながら、ペールは彼女を黙って見つめる。しばしそうした時間が続き、ふと路地裏に吹き込んだ風が窓を揺らして音を立てる。
「…………わかった、よ」
吐息とともに落とされた呟き。それは、諦めというより観念したような声だった。ルジュは大きく息を吸い、口をすぼめ、肺に溜まった空気をゆっくりと細く吐き出していく。そうして肩をひとつ上下させると、腰に巻いたサロンの裾を靡かせながらタケルたちを振り返る。
「ウチが、あんたたちの助けになるなら……手を貸そう」
タケルたち四人は顔を見合わせた。だが、手を叩いて喜んでいい状況ではない。それぞれ複雑そうに表情を多少歪めながら、ただ交渉の成立を分かち合う。
「い、いいのか……?」
窺うようにタケルが問いかけると、ルジュは眉尻を下げて苦笑した。
「いいのかって……坊やたちが頼んできたんだろ?」
「そうだけど……」
「──すぐ返事してやれなくて困らせちまったみたいだね。でも、大丈夫。心配はいらないよ」
いつものような笑顔を見せるルジュを、タケルの気遣わしげな瞳が射抜く。ルジュは両手を腰に当てると、豪快に笑った。
「いいんだよ! 旅の途中、あんたらの食事の世話するのも面白そうだ。アンスールへ行った時は困ったんじゃないかい?」
「まあね。作れるのはスープやシチューばっかりだったよ」
ハロディが真っ先にルジュに倣い、冗談を言って苦笑する。そしてテーブルに頬杖をつくと、唐突にヴァルターを流し見た。
「こちらの従者君も、所詮は良いところの出だからね。卒なくやってくれてはいたけど、決まったメニューしか無かったからさ」
「──フン、貴様も同類だっただろう」
突然矛先を向けられたヴァルターは鼻を鳴らしてハロディをあしらう。それを見たルジュが肩を揺らす。タケルとカレンは再び視線を交わし、今度こそ互いに口角を持ち上げた。
「まあ、ファーブラー自治区へ行って帰ってくるだけだから。僕らはそこからイルダリアを目指すけど、ルジュはその間自治区で待っててくれても良いし、先にこっちに戻るでもいい。その分の費用は──」
「こちらで工面いたしますわ。……そのためにも、また旅の途中でお金を稼がなくてはなりませんわね」
ハロディに視線を投げられ、カレンが意気揚々と答える。アンスールへの道中では「モルに襲われた人を依頼で助ける」ということに疑問を抱いていた彼女だが、どうやら下層に関わりすぎて染まりつつあるらしい。和やかな笑いに包まれたテーブル席を眺めていたペールは、笑いを溢して細く煙を吐き出した。
「──じゃ、話が決まったところで……出立の日どりを決めようか。そしたら僕は、ひとつ用事を済ませてくるよ。──気が乗らないけど」
「用事って何だ?」
ルジュがテーブルの食器を片付けるなか、ハロディが大きく体を伸ばしながら言う。タケルは残った紅茶を啜りながら首を傾げた。
「忘れたのかい? 次にアルマを出る時は声かけろ、って言ってきた厄介な奴がいただろう」
タケルが喉を詰まらせる。忘れもしない異様な姿が容易に思い起こされたのだ。紅茶が気管に入り、思わず激しく咳き込む。タケルの様子を見て笑い声を上げたハロディだったが、すぐにその声は萎み、溜息へと変わっていく。同じ人物を頭に思い浮かべたのか、ぎこちない笑顔のカレンと眉間に皺を寄せたヴァルターが互いに顔を見合わせた。
「そ、そういえば……そうだったな……」
途端に神妙な空気を漂わせた四人に首を傾げるルジュ。テーブルが片付くと、彼女を交えて旅程を詰め、ハロディはペールに挨拶を残して三つ星亭を後にした。
──数日後。旅の仲間は三つ星亭に集合した。二つの弓を抱え、旅支度を済ませたタケルが先に二階から降りると、既にガウリーとアルトがカウンターの両端に着席していた。大杖と、短く分解した鎖鉄球、それに荷物を携えたガウリー。アルトは刀一本を腰に差し、荷物は身軽だ。カウンターの中で二人に飲み物を提供しているルジュも、いつものサロン姿ではない。白いシャツの腕を捲り、ゆったりとした、裾の絞られた膝丈のホーズを纏っている。靴は硬いベルトのサンダルだ。腰のベルトには大小ののポーチが並んで装着されており、カウンター脇には行商人が背負うような大荷物が鎮座していた。
「おはよう、坊や」
「おはよう。──ハロディは?」
「某は見ておらぬぞ」
「……アイツん家のテラスに居たんじゃねぇのかよ?」
「寝床を片付けてそのまま来たのでな。部屋は通ってきておらぬ」
どうやらハロディのパーティは、日時と場所を指定されただけらしい。各々この場所に来たからか、不在の事情を二人とも知らないようだった。
「おはようございます、皆様。お待たせいたしました」
すると、階段から旅支度のカレンがヴァルターを伴って下りてきた。カレンの背後でどこか納得行かなそうな表情を浮かべているヴァルター。どうやらタケルが先に部屋を出た後、一悶着あったようだ。その証拠に、カレンは前回よりも大きな鞄を背負っている。タケルは、恐らく荷物持ちを買って出たヴァルターをカレンが断ったのだろうと察した。
「おはようお嬢ちゃんたち。それがねえ、ハロディがまだ来てないらしいんだ」
ルジュはタケルたちをテーブル席へ促し、朝の一杯を用意する。カレンたちは荷物を脇に下ろすと、素直に着席した。
「そのよう……ですわね」
「というか、集合していないのは彼奴だけではないのではないか?」
カレンが食堂を見渡しながら首を傾げる横で、ヴァルターが溜息とともに眉間を抑える。その時、奥から扉の音が響いた。
ガチャガチャと硝子がぶつかり合うような音や話し声が届き始める。その声に、テーブル席の面々は固唾を呑んだ。
「まったく何じゃこの道は! 荷物を抱えた年寄りには堪えるわい」
「はいはい、年寄りじゃなくて二十越えたばかりだろ?」
「そうじゃそうじゃ、ワシはピッチピチの若者じゃぞ! ヒヒヒ」
「……何なんだ、この奇妙な輩は」
抑揚ある高らかな声に、ハロディの軽くあしらう声が続く。ガタガタと物音が響く中、呆気に取られたようなペールの声も混じる。やがて足音が安定すると、廊下の奥から白い影が浮かび上がった。
「待たせたようじゃな、諸君! ヒヒ、太陽の下を歩いたのは実に数年振りじゃ! 溶けてしまうかと思ったぞい」
膝下まで隠れる白衣、ゴム手袋にゴムの長靴、ルジュの大荷物よりも更に膨らんだ鞄を背負い、そこから妖しい香りを漂わせた人物。ガウリーほどではないが、長身のルジュに匹敵する背丈でありながら痩せ細った身体、極端な猫背、長い白髪、青白い肌に酷い隈──ロワーサイドで”路地裏のファントム”と称される人物、ルーメン・ナーダその人だ。
湿ったロワーサイドの最奥、暗がりの中でしか顔を合わせたことがないタケルは、暖かな三つ星亭の食堂に浮かぶその姿を見て背筋に冷たいものが走った気がした。ルーメン・ナーダ──通称ルナは見開かれた目の中で、銀色の瞳が動き回って室内を見渡している。口角はこれでもかと言うほど持ち上がり、実に楽しそうだ。彼は何が詰め込まれているのか皆目見当もつかない荷物を下ろすと、飲み物が用意されたタケルたちのテーブルを見やってからルジュを振り返った。
「ワシも一杯いただいてよいかのう?」
「あ、ああ、いいけど……あんた大丈夫かい? 顔色悪いし、出発前に何か腹に入れて行った方がいいんじゃないかい?」
呆気に取られていたルジュが、笑顔を引きつらせながら提案する。するとルナはピタリと動きを止めて逡巡した後、肩を揺らして独特な笑い声を上げた。
「それもいいかもしれんのう! じゃが、ワシは草しか食わんからな!」
その場にいる全員が、異質な登場人物を目の前にして呆気に取られていた。見知った仲であるガウリーやアルトも、朝の日差しが窓から差し込む室内で見る彼が別人のように見えるのか、同じような表情で目を見開いている。ハロディですら、ルナの背後で物珍しげな視線を向けつつ苦笑を浮かべていた。
「じ、じゃあ……準備万端のところ悪いけど……いったん軽食にする?」
頬を掻きながら、笑い混じりにハロディが問いかける。呆然とした視線がルナに集まるだけで、即答できる者は誰もいない。
カレンですら、貼り付けたような笑みを浮かべていた。




