7-10 目醒め
部屋の外にレオを連れ出す教会の人間を視界の隅で見送りながら、タケルは必死にセドリックを押さえ込んだ。特別鍛えてきたわけではないが、山育ちで自然に培った力はある。加えて射手としての基礎的な体力も持ち得ているタケルであっても、セドリックの力に翻弄されながら押さえ込むのが精一杯であった。
確かに体格はセドリックに軍配が上がる。しかし彼の剣の腕は、アルトや他の兵士たちに比べれば平凡に見えた。型だけをなぞったような規則的な動きであった。
だが黒い靄を纏ってからのセドリックは違う。感情がそのまま剣技に乗り移ったような動きを見せていたのだ。踏み出す速さ、躊躇ない薙ぎ払い──そして、獣じみた力。今もタケルが押さえ込む右手は剣を手放してはいない。我武者羅に逃れようともがく身体は力の分散を誤ったかのように震え、覆いかぶさる障害を振り払おうと唸りながら暴れている。
「早く、誰か来てくれねぇと……」
弓で応戦しようにも、どこかひとつでも力を抜けば即座に反撃されるだろう。タケルは歯を食いしばって対抗し、助太刀を待った。
暴れて振り回されたセドリックの懐からこぼれ落ちたものが、彼の手によって弾かれ床を滑る。何事かとタケルが振り返ると、ドア付近まで飛ばされて室内灯を鈍く反射させる小さな光を捉える。それが見覚えあるタリスマンだと分かると、再び視線を戻す。
「おい、オッサン! 頼むから正気に戻ってくれ!」
セドリックの肩にはタケルの放った矢が突き刺さったままだ。タケルは記憶を辿る。同じような状態となったアーデンに矢を放った時は、すぐに正気を取り戻した。だがセドリックは傷の痛みなど感じていない。庇うような仕草が見られない。
「──っと、何かあったんじゃと思ったけど、これは一体どういうことだ……?」
「ハロディ!」
攻防が続く室内に新たな声が侵入する。窓から入って来たのはハロディだ。彼は部屋の隅でユージー家の当主を押さえ込むタケルを一瞥し、次に室内の荒れた様子と、床に散った血痕に目を走らせて顔を顰める。困惑しながらもタケルの元へ手助けに走ろうとするが、タケルがそれを制止する。
「あのさ、レオがこのオッサンに斬られて、外のどっかに出してもらってんだ! あんたあの魔法使って治してやってくれ!」
「──ああ……わかった。すぐガウリーも、」
ハロディが頷いて窓を振り返ると、強烈な風に開け放たれた窓枠が翻弄された。人目を気にせずバルコニーに降り立ったのはガウリーだ。彼は長身を屈ませて窓を跨ぐと、タケルの下でもがくセドリックを睨んだ。
「……来たね」
ハロディが肩を竦めて小さく笑う。頼もしい助っ人の登場で、タケルの気がわずかに緩んだ。その隙をセドリックが弾く。壁に背を打ちつけられ一瞬息が止まるも、タケルは弓を離さず耐える。すかさず距離をとって身構えると、ドア付近に立ちはだかった。
その後ろをハロディが駆け出していく。外では未だ、アリアベルの悲痛な声が途切れることなく響いている。あれだけ静かだった教会内が、瞬く間に喧騒に包まれていた。
「……っどうなってる」
剣を振るうセドリックは、まさに”野性”だった。型や所作など微塵も残さない動き。目に入るものを威嚇し、予想もつかない鋭い軌道を対峙する二人に容赦無く向けるのだ。杖しか持っていないガウリーは、その素早い人間離れした攻撃に対し、杖で防戦しながら舌打ちした。今この場にいるのは近接に向かない二人だ。しかも不利なことに室内戦である。
「分かんねーけど、っ、急に、具合悪そうにしたと思ったら……」
セドリックはどちらか片方を標的にするのではなく、目についたものに突進した。ガウリーに向けられた刃は次の瞬間タケルに向かう。タケルがそれを躱すと何度か追い詰めようとするが、不意にまたガウリーを襲う。切迫した状況の中でタケルは絞り出すようにして経緯を伝えた。ガウリーは再度、舌打ちをする。
「──オイ、てめぇが何秒か注意を引け!」
「お、俺⁈ ど、どうやって!」
「自分で考えろ!」
ガウリーはそう言い捨てると杖を構えた。先端の透明な魔石が徐々に青みを帯びていく。タケルは思わず情けない声を上げるが、どうしようもない状況に覚悟を決める。
「──おい、こっちだ!」
弓を振って声をかけ、セドリックの注意を引く。心臓は破裂しそうに緊張していたが、逆に手足は妙に軽かった。必要以上に動く自らの足についていけず、何かに躓いて尻餅をつく。それまで間一髪で躱せていた剣がタケルを襲う。タケルは思わず目を閉じそうになったが、手に触れたものを掴んで咄嗟に眼前に掲げた。
激しい金属音が響く。タケルが弓の代わりに掲げたのは床に転がっていた鞘だ。弾かれたセドリックが唸り声を上げて後ずさる。人のようであり、獣のような動きだ。その目は紫色の光を帯びているように見え、もはや理性は感じられなかった。
慌てて起き上がり、タケルは鞘を剣のように構えて追撃に備える。だがそのわずかな時間で、ガウリーの魔力は構築された。
「大人しくしやがれ!」
杖の先から氷が生え、瞬く間に伸びていく。亀裂の音が高い音色を奏でながら、蛇が塒を巻くようにセドリックの四肢に絡みつく。辺りには白い冷気が漂い、下がった温度にタケルは身震いした。
氷は氷柱のように天井へ突き刺さり、セドリックは部屋の中央に縫い止められた。氷から飛び出した手足を暴れさせるが、氷は軋む音を立てるだけだ。タケルがほっと安堵の白い息を吐いた。
「よ、良かった……のか? ひとまずは……」
「──俺の魔力が保つまではな」
室内には未だに唸り声が響いている。ガウリーは杖をセドリックに向けて構えたまま、肩の力を抜いたタケルに忠告した。
タケルは慌てて弓を拾い直すと、鞘を床に置いた。そこで近くに落ちていたタリスマンが目に入り、無意識にそれを拾う。
「神父の野郎じゃコイツ、どうにもならねぇか? ──確か、ちょっと前にもセントラルにこんな奴出てきてたよな」
ガウリーの言葉で、タケルの記憶が呼び起こされる。確か、アルマからアンスールに向かう直前だった。急に建物から飛び出してきた──黒い靄を纏った、獣のように唸る男。確か、怪我人として運ばれてきた人間だったはずだ。
あの時は、神父の唱える言葉に一切怯みもせず襲いかかっていた。アルトが峰打ちで済ませたが、その後どうなったのかは分からない。ただハロディは、「闇魔法なら神父の言葉で助かるはずだ」と言っていた。
タケルには記憶を辿ることしか出来ないが、目の前で尚も氷から逃れようとするセドリックを助けるのは難しいことだけは察した。すると、アルトのしたような強行突破しか無いのだろうか? という考えに辿り着く。
「殴って気絶させるとか……?」
「おう、やれるもんならさっさとやれ」
「いや、ううん……」
まるで挑発するようなガウリーの口ぶりに眉根を寄せ、タケルは唸り声を上げた。
「なぜ……わからんのだ…………わたしは、正しい……」
呻き声を上げもがきながら、セドリックは時折発作のように言葉を漏らす。体は今にも獣になりそうなほど力が増しているのに、残った理性がそれに争っているようにも見える。だが何にせよ、手立てがなければ最悪の事態になるのは時間の問題だ。
「──タケル様!」
「カ、カレン──⁈」
「カレン様! まだ中は危険なのでは……」
考えあぐねいていると、室内に予想外の人物が入って来た。カレンとヴァルターだ。タケルを呼んだ後室内の様子を窺い、ひとまず落ち着いていることを確認してから足を踏み入れる。引き止めようとしたヴァルターも彼女に続いて室内に入り、ざっと様子を窺った。
しかし、カレンとヴァルターは宿で待機だったはずだ。始めはレオたちの仲介人を買って出ようとしていたが、「立場のある人間が間に入っても話が平行線になるだけだ」と言ってハロディがそれを制したのだ。恐らく様子が気になって眠れなかったのだろうが、何故通用門を抜けてハイフォールドに入れたのかと疑問が浮かぶ。混乱に乗じるような真似は、ヴァルターがさせないだろう。
「今は押さえられてるけど、あのオッサンが急に暴れ出してさっきまで大変だったんだ。レオも斬られちまって……俺、そういうの止める役目だったのに……」
「レオ様の容態は聞いております。今は廊下でハロディ様が応急処置をしています。意識は戻っておりませんが、呼吸はしているそうです。……あなたのせいではありませんわ、タケル様」
タケルの右手を取って微笑むカレン。その背後でヴァルターが呆れたような溜息を吐いた。
「……あの様子はどう見ても普通ではない。ただの喧嘩の仲裁とは訳が違うのは今見ただけでも分かることだ」
氷に四肢の自由を奪われてなお唸り声と譫言を繰り返しながら、セドリックは逃れようと踠いている。それを横目にヴァルターは静かに告げた。カレンがそれを後押しするようにタケルを見上げて深く頷く。タケルは視線をわずかに逸らしながらも小さく頷き返した。
「……ところで、あんたら二人は何でここに……?」
「──実は、セントラルの方で不穏な影を見たのです。それで、門番の方に様子を見ていただこうとお願いするためにこちらに参ったのですが」
「……カレン様が、どうしても教会の様子が気になるとおっしゃったので、避難という名目でここに来る許可を得たのだ。オレとしては心ならずも、本当に致し方なく、苦渋の決断に至ったわけだが」
ヴァルターが眉間を押さえて首を横に振る。つまりは正攻法で混乱に乗じたわけだ。カレンは誤魔化すように苦笑すると、掴んだタケルの手が何か握っていることに気付く。
「タケル様、これは……」
「ああ、オッサンの服から落ちて来たんだ。レオの……えっと、”たりすまん”だっけ?」
タケルが指を開き、握っていたタリスマンをカレンに見せる。二人で覗き込んでいると、不意にカレンが視線を上げる。タケルの黒曜とカレンのマリーゴールドの瞳が至近距離で合わせられ、ピタリと止まる。時間も音も止まったように見つめ合う二人とは裏腹に、ぴしりという軋み音が大きさを増していく。次いで、ガウリーの焦燥を帯びた声が放たれた。
「おい! てめぇら呑気にくっちゃべってねぇでさっさと──っ!」
亀裂音が連続し、とうとう悲鳴のような砕氷音が響いた。セドリックの腕や足を覆っていた氷が砕け、胴を押さえていた氷も割れる。細かい欠片が室内に煌めき、黒い靄の噴出とともにセドリックが放たれる。
タケルたちに駆け出した身体を阻むようにうねりながら、ガウリーの氷の追撃が連続する。しかし眼前を阻まれるたびにそれは剣や体によって砕かれ、勢いは止まらない。
ヴァルターがカレンを庇いながらドアを抜けようとし、そんな二人の前にタケルが立ちはだかる。だが弓を構える前に素早い剣撃がタケルを襲い、弓で防ぐことを余儀なくされる。その力はこれまでよりも増しており、三人はもんどり打つように廊下へと弾き出された。
「──っ」
「カレン様!」
ヴァルターが廊下への直撃を防いだものの、カレンからは短い悲鳴が上がる。倒れた衝撃でタリスマンが廊下を転がる。タケルは体を捩ってカレンたちの上に倒れ込むのを防ぎ、間髪入れずに起き上がって弓矢を構える。廊下で治療を行なっていた面々が突然の出来事に驚きの悲鳴を上げる。そこでタケルは、うつ伏せに横たえられたレオを魔法で治療するハロディの姿を垣間見た。傍ではアリアベルがプレカリオを胸元に掲げ、必死に祈りを捧げている。
そこへ、修道士に連れられた兵士が数名駆けつける。血を流して倒れ込む青年と、それを囲む人々、応戦する姿勢を見せる少年、それに庇われた少女と青年──そして何より、尋常ではない様子で、まるで獣のように唸り声を上げて剣を持つユージー家の当主。殺伐とした廊下の状況を飲み込めない兵士たちは困惑し、即座に動けない。
セドリックは黒い靄を撒き散らしながら、とうとうその姿を変貌させる。剣を持つ腕が盛り上がってコートやシャツを裂き、鞘を掴む手が握り潰すほどになり、血管が浮かび上がる。肩に刺さっていた矢は弾き出され、虚しく床に跳ね落ちた。
目の焦点はもはや分からない。眼球は黒く染まり、かろうじて虹彩と分かる円が紫色に鈍く光って右往左往している。相変わらず譫言を発しているようだが、それはもう言葉という体裁を保っていなかった。
「ユ、ユージー卿……⁈」
「お父様⁈ 一体、これは──?」
兵士や教会の人間、そしてアリアベルが、セドリックの奇怪な様子を目の当たりにして瞠目する。ハロディは治療を続けながら横目でそれを見て、小さく舌打ちした。
「……ア、ィア……ル……」
セドリックはそう呟くと、首をぐるりとアリアベルに傾けた。恐ろしい形相にアリアベルが息を呑む。だがセドリックは娘から視線を流して倒れ伏すレオを見下ろすと、咆哮を上げた。
「──これ以上は……っ!」
タケルは矢筒から矢を抜いて番えた。セドリックが再び剣を振り上げる。尋常ではない速さに、その場にいた数名の修道士や修道女が悲鳴を上げて後ずさる。ハロディは片手をレオの傷から離して剣を抜き、背後の気配に身構える。タケルが弓を引き、狙いを定める。再び全身の血が湧く感覚が襲い、息を止めると音が止まる。色を失った瞳がセドリックの背を捉える。その中心が光ったように見え、焦点は瞬時にそこへと定まった。
「やめて、お父様!!」
アリアベルの叫びが廊下に響き渡った。すると突如として誰もが想像し得なかった強烈な光が放たれ、全員の視界を焼く。タケルは収縮した瞳孔の中心で、セドリックが怯むのをかろうじて捉えた。狙いは修正されないまま矢が放たれ、光の余韻の中で風のように標的へと吸い込まれる。奇しくも一本目と同じ位置に矢が刺さり、それを見たタケルの瞳に黒が戻る。
「ぐっ……うう……」
全く効いていなかった一撃目と違い、セドリックは苦しげな声を上げて膝をつき、剣を取り落とした。廊下の床板を美しい装飾の鋼が音を立てて跳ね、動きを止める。呼吸を戻して肩で息をしたタケルは、だんだんと戻っていく視界の中で、うつ伏せに倒れ込むセドリックの姿を見た。目を閉じているのでその中の瞳は確認できないが、異常に盛り上がっていた腕は元に戻っている。何よりそれまで纏わりついていた黒い靄が嘘のように矢傷から霧散していき、辺りには月夜の闇だけが残された。
「……お父様!」
「い、今のは……」
タケルは、レオの足下の床に転がっていたタリスマンの中に光が収束するのを見た。光の残滓が銀と真鍮の分かれ目に滲み消えていき、光の出所がそれだと直感する。──では、発端は?
「お父様、お父様しっかりしてください! ああ……神よ、これは私の罪なのでしょうか? 私が……勝手な真似をして、お父様もレオも傷つけたから……」
涙を流し、父親の元へと駆け寄って肩を揺さぶるアリアベル。その首に下げられたプレカリオが振動で揺れ、廊下の窓から入り込んだ月の光を反射する。
不意に、その光が次第に強まった。小さな光の粒が泡のように空中へと漂い始める。その幻想的な光景は、タケルに故郷の山を思い起こさせた。澄んだ池の上をゆらゆらと点滅する、蛍の光を彷彿とさせる光だった。
「──……ヴァルター、ユージー卿の矢を抜いてやってくれ。アリアベルさん、君はその傷に手を当てて祈るんだ。特別な言葉はいらない。──今はね」
ヴァルターとアリアベルがハロディを見遣る。
「いいから、僕を信じて言う通りにして」
ハロディはそれだけ言ってレオの治療に戻った。背中に走った裂傷に手を当て、ぼそぼそと呪文を再開する。すると、手のひらから漏れているじんわりとした光が強まった。
アリアベルはヴァルターを見上げてひとつうなずいた。意志を持った瞳に促され、セドリックの傍に屈んだヴァルターは肩に刺さった矢に手を掛ける。そして視線でアリアベルに合図を送ると、ひと思いに引き抜いた。
すかさずアリアベルが、ハロディの見様見真似で傷に手をかざす。すると不思議なことに、手のひらから光が滲み出た。矢傷から溢れた血は一瞬で止まる。アリアベルが肩口の服を剥いで傷口を調べると、多少歪ではあるが、空いているはずの穴は塞がれていた。
「な、なんと……アリアベル」
「素晴らしい、光の力だ……」
教会の人間が口々に感嘆の声を上げる。しかし、感動は束の間だった。
「ほら、君らはボーッと突っ立ってないで、医師を手配するなりしてくれないかな。魔法で傷を塞いでも最終チェックは必要なんだから。アリアベルさんは、そっちが終わったらこっち手伝ってくれるかい?」
呪文を唱えながらハロディが苦言を呈する。すると、指摘された面々は顔を見合わせた。
「わ、我々はユージー卿を医務室へお運びしよう。あとは城への医師の手配と、念のため薬草を」
「では、この場が問題無いなら私が城へ手配に向かおう」
「事の顛末を話せる者は、こちらへ」
修道士たちがセドリックを担いで暁光院へと連れて行く。あれだけ暴れていたセドリックだが、眠るように目を閉じたままだった。呼吸も正常で、獣のような様相が嘘のようだ。修道女たちは庭園へと下って行き、兵士は一人を残してその場を去って行く。
アリアベルは父親を仲間に任せ、ハロディの言う通りレオの治療を手伝った。二人分の魔法によって傷口が照らされ、光を受けたレオの顔が心なしか穏やかになったように見える。タケルは不安材料が消えたからか、大きな溜息を吐きながらその場に屈み込んだ。
室内からは、自分が発現させた氷を鬱陶しそうに消しながらガウリーが姿を現す。状況を察すると、開け放たれたままになった部屋のドア付近に寄りかかり、杖を持っていない方の手で首を解しながら溜息を吐く。骨の音がパキリと鳴った。
「レオ様は大丈夫なのでしょうか?」
「──ああ。僕だけだったらせいぜい止血が精一杯だからあとは医者に見せるしかないって感じだったけど、……君がいてくれて助かった。確認が必要なのは変わりないけど、命に別状が無いのは確実って言ってもいいかな」
ハロディはそう言って傷口から手を離し、アリアベルに視線を流して戯けた微笑みを見せた。意識を集中していたアリアベルが顔を上げ、呆けたように自らの両の掌をまじまじと見つめる。光が蝋燭の最後の灯火のように消えると、アリアベルは思い出したように荒い息を吐いた。
「疲れたかい?」
「え、ええ……何故だか、とても」
「それは、魔法を使った副作用ってやつだね。僕も驚いたけど、突然魔力が覚醒したんだと思う。そういう時は感情のままに魔力を操れるけど、次からは呪文と制御が必要になってくるだろう。……新たな修行の始まりって感じかな」
治療を終えると、ハロディはヴァルターと視線を交わした。レオをひとまずアリアベルの部屋のベッドに移すことにする。男子禁制の宵月院だが、そんな戒律など無意味だというように部屋の中は荒れていた。セドリックから吹き出した靄のような力によって、家具や細かな調度品が飛ばされて散乱していたのだ。
血のついたシャツやコートは脱がせ、真っ新なシーツの上に横たえる。多少汚れるだろうが、アリアベルはそんなことを気にはしなかった。
「良かった……お父様もレオも、助かったのですね……」
眠るレオにシーツをかけると、アリアベルはベッドの側で膝を崩した。枕元に腕を乗せ、その上に頭を預けてレオの横顔を見つめる。安心し切ったまろやかな声が、彼の耳にも届いたかどうかは分からない。
「あの、これ……」
タケルは、廊下に落ちていたタリスマンを拾ってそんな彼女に差し出した。カレンの時には拒んだそれを、アリアベルは確かに掌の上に受け取る。鎖を摘んで持ち上げ、揺れるトップの円形を愛おしげに見つめる瞳に悲しみは浮かんでいない。
「……どうやらそのタリスマン、中にオーカーンが入ってたみたいだ。オーカーンがあれだけの光を放って反応するのは光属性の魔力。その後君のプレカリオが光ってたから、君のナチュラが光だってことを確信したんだ。ルーメリア教会のプレカリオには、微量だけどルミナイト鉱石が使われてるはずだから、それが反応したんだろう」
肩を押さえて回しながらハロディが説明する。アリアベルは不思議そうにハロディを見上げた。
「で、オーカーンがあれだけの反応を見せる光の魔力は治癒特化ってわけ。──君には治癒の才能がある」
「私に、治癒の才能が……?」
「アリアベル様、素晴らしいお力ですわ。あなたの想いが魔力となって、あなたを助けたのですね」
アリアベルはタリスマンを握り締めた。そのままレオを見つめて微笑み、目を閉じる。初めて消費した魔力による疲労からか、微睡むような仕草だった。
「じゃ、ひとまず一件落着で良さそう?」
「だが、セドリック卿については調べが必要なんじゃないか? あの様子は尋常ではなかった。オレたちが今まで見てきた異変と似通っていたようにも見えたし、見張りを立てておいて、後に話を聞くべきだと思うが」
「……あと、多分話し合いが途中だったと思う。言い合いみたいになってたから……」
手を叩いてその場にいる人間をぐるりと見渡すハロディ。だがヴァルターは腕を組んで慎重な姿勢を見せた。タケルもこうなる前の三人の様子を告げ、視線を落とす。
「……俺、やっぱ仲裁役向いてなかったんじゃないか?」
タケルの問いかけにハロディは苦笑した。
「いやいや、適役だったよ。だってアルトやガウリーは論外だし、僕はロワーサイドの人間だし、カレン様やヴァルターは貴族側だろう? 本当に中間の立場に立って見守れるのは、何者でもない君しかいなかったよ」
「……でも、こんなことになっちまったし……」
「そういうのは経験値だからね! それで言うとこれは、指示を出した大人である僕の責任でもあるわけだから。お互い次に活かして行こう!」
俯いてぼそぼそと話すタケルの背を何度も叩き、ハロディが殊更に励ますような声をかける。殺伐としていた先ほどまでの空気は一掃され、室内には和やかな空気が漂った。
「──で、君たちって何でここにいるんだっけ?」
タケルが苦い顔をしてハロディの手を避ける。するとハロディは今更な質問をカレンとヴァルターに向けた。二人は思い出したように目を瞠り、顔を見合わせる。
「……そうでした! タケル様には申し上げましたが……、街で妙な影を見たのです」
「──妙な影?」
「ああ。宿の窓から見えたんだが、向かいの屋根の上を歩く黒い影があった」
今度はハロディとタケルが目を見合わせる。
「……アルトじゃなくて?」
「いや、まるで踊るようにゆっくりと歩いていたんだ。──それが、妙でな」
「そりゃあ、……確かに妙だね」
会話が止まり、タケルたちは無意識に開け放たれた窓の外を見た。星空の下、教会を囲む木々の影が風に揺れ、葉音をざわめかせている。
──それに混じって耳に届いたのは、微かに空気を揺らすような不穏な響きだった。




